【 鬼棲樹−やどりぎ− 2 】




「いや、それは違うだろ。事の起こりが三十年前って言うなら、先代か先々代の時の話だよね」
「まあ、そう言う事だろーぜ。自分の身内がやらかした、あまり他人には聞かせたくない話ってこった」
「道理で口が重たかった訳じゃな。なるべくその事には触れんよう触れんよう話そうとしてたんじゃ」

 我が身の保身にも程がある。
 人としての信義に欠ければ、畜生にも劣る。

「かごめ、話を聞けば聞くほど、このような連中を助ける事はないぞ。オラ達も早く、ここを出ようぞ」

 そう言って、しきりにかごめのセーラー服の袖を引く。
 かごめはその七宝の頭をそっと撫ぜ、呟くように、しかしはっきりと言い切った。

「でも、行かなくちゃ。ここで見捨てたら、誰も救われないもの。村の人達が犯した過ちを、繰り返す訳にはいかないわ」

 かごめの耳には、あの時自分を呼んだ何者かの声がはっきり残っている。
 助けを求めるあの声が。

 あの声は決して妖の声などではなかった。

「…確かにあまり気が進みませんが、祟りがこの村の外にも拡がるようでしたら事ですし。まあ、祟りの元は絶っておいた方が良いでしょうな」

 はぁー、とため息一つ。
 気重そうに曰因縁(いわくいんねん)のありそうな夜の銀杏林を見やる。

「妖怪相手じゃないんなら、あたしたちはあまり役に立ちそうにないね、犬夜叉」
「ああ、こんな奴らには何もしてやりたくない、ってのが本音だけどな」

 三人が気の乗らぬ様でまだ屋内に居るうちに、かごめは一人外に出て、これから行くであろう銀杏林を見つめていた。
 常人の瞳では見えぬであろうが、銀杏林全体を形容しがたい燐光が覆っている。微かに邪気のようなものも感じるが、妖気ではない。

 一体なんだろう?

「行くのか、かごめ」
「うん」
「ちぇっ、しょーがねーな!」

 心底嫌そうに犬夜叉が歩きだす。
 弥勒、珊瑚もそれに続く。今まで死んだように黙り込んでいた枯れ木が、これだけは言わねばと声を絞り出す。

「オラはちゃんと忠告しただからな! おめえらに何かあってもこれ以上祟るなよ!!」

 三人の、突き刺さすような冷たい視線。

「…だそうですよ」
「あたし達に声を掛けたのだって、親切からじゃないって事だね」
「ふん、心底腐ってやがる!」

 …本当の事を言えば悪辣な妖怪どもを相手にするよりも、このような人の心に日常的に潜む闇、利己主義や無関心、人の倫(みち)を踏み外しても恥とは思わぬ心根の方がよほどおぞましい。

 例え人を殺(あや)める事はなくとも、物を盗む事はなくとも。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 ─── その林までは、雲母や犬夜叉の移動能力を持ってすれば、何程の事はない。五人は瞬く間に、その因縁深げな林の入口に立っていた。

「ねえ、弥勒様。何か感じる?」

 林の入口でかごめがそう弥勒に声をかけた。
 夜の暗闇に白く浮かび上がる公孫樹(いちょう)の林。まだ他の木々はその枝に葉を残しているのに、この林だけはすでに葉を落とし、天を突き刺さんばかりに屹立(きつりつ)している。
 白い裸樹は巨大な何者かの白骨の様。その中央で禍々しい赫い色が揺れている。見通しが効く事が却って、異質な空間を作り出していた。

「…なんでしょうか? 邪気とも妖気とも違うようなのですが、なんだかすごく厭な気ですね」

 弥勒が全体を見渡し、そう答える。

「犬夜叉、あんたは? やっぱり妖しい臭いはないのかい?」

 犬夜叉は先程から押し黙って、林の奥を見据えている。珊瑚の問い掛けに頭(かぶり)を振り、かごめを見た。

「…分からねぇ。何か居る事は間違いねーんだがそれが何なのか。人でも妖怪でもねぇ、木の実が腐ったような妙に甘ったるい、雨に打たれた花の花腐れのような臭いがしやがる」

 出来る事なら、このような得体の知れぬ場所にかごめを踏み入れさせたくはないと、犬夜叉は思う。
 しかし、かごめの瞳は真っ直ぐに林の中央に向けられていた。

「…あそこに、私を呼んだ人がいるわ。そして、多分…」

 すっと、傍らの裸木に伸ばされた指先が何もない空間で、ぼうっと薄青紫に揺らめく。

「結界、ですか。ですが、かなり弱いような…」

 弥勒はかごめに倣い、自分の手を翳す。その手は、なんの抵抗を感じる事もなく、結界の中に侵入する。

「ええ、だってこの結界は入ってくる者を拒むためのものじゃないもの。中にあるモノを封じ込めるための結界だから…」

 かごめは自分でも何故そんな事を知っているのか、不思議だった。でもこの結界に触れた時、そう直感した。かごめの言葉に弥勒は、結界に差し込んだ自分の手を引き抜こうとした。
 その途端、激しい痛みが差し込まれた手から全身に伝わり、思わず声が漏れる。それでも無理やり引き抜くと、その手はまるで業火の中に突っ込んだように焼けただれていた。

「 ─── ひどい、大丈夫? 法師様」

 酷(むご)い傷は見慣れている筈でも、それが弥勒の手であったから、珊瑚の心配は一入(ひとしお)である。

「大丈夫ですよ、珊瑚。左手ですからね」

 弥勒の言葉が終わらぬうちに、珊瑚はその手に薬を塗り、布切れを巻き付ける。

「…面倒だな。ぶった切るか」

 チャリ、と鍔鳴(つばなり)をさせて鉄砕牙を抜き放そうとした犬夜叉を止めたのは、かごめだった。

「待って、犬夜叉。これ、切っちゃったらマズイような気がするの。入るのには問題はないんだから…」
「あっ、おい、待て。お前は入るなっっ!!」

 犬夜叉の止める間もあらばこそ、かごめは躊躇いもせずに結界の中に足を踏み入れる。

「 ─── 何考えてんだ? かごめの奴。おら、さっさっと行くぞ! 弥勒・珊瑚!!」

 慌ててかごめの後を追う、犬夜叉。それに続く、弥勒と珊瑚。雲母は主人の後を守るように付き従う。七宝も、恐る恐る皆の後を追った。

 中に入った途端、皆の足が止まる。

「なんじゃ、ここは!? こんなに気持ちの悪い場所は初めてじゃ!!」

 七宝がたまらず声を上げる。
 不自然に立ち枯れた木々が眼に付いても、そこに醜悪な光景が拡がっていた訳ではない。

 が、結界の中を満たしているこの『気』。

 かごめが感じ、弥勒も察知した、邪気とも瘴気とも異なる悪意に満ちた『気』。

「まったくだね。こんなに気が滅入るような、身体の芯が冷えてしまうような『気』なんて…」

 そう言いながら珊瑚はふと、かなり以前にこれと良く似た『気』を感じた事があった事を思い出した。

 これ程強烈ではなかったが、あれは確か…。

「どうしたの? 珊瑚ちゃん」

 口ごもる珊瑚を訝って、かごめが珊瑚の顔を覗き込む。
 かごめとてこの『気』を感じているのだろうが、かごめの持つ特性故か、かごめの周りだけは清浄で穏やかな『気』に包まれている。

「うん…、あたしが初めて里を出て、妖怪退治の仕事をした時の事さ。退治した妖怪を解体してる時に、これと良く似た『気』を感じた事があったんだ」

 ……そう、あれは蔑(さげす)み。

 畏(おそ)れと拒絶と脅え。
 禁忌なものを遠ざけるような、深くて暗い溝。
 背後から、じわりと迫るそれらの視線。
 あの時程、自分の心が凍えた事はない。

「珊瑚?」

 弥勒の声に、心配気な響きが含まれる。

「……結局、妖怪退治屋なんて普通に暮らしてる奴らにとっちゃ、忌まわしい付き合いたくない連中だって事なんだよね。まあ、その後はそんなもんだって、気にも止めないようにしたけどね」

 ……珊瑚がそう思えたのは帰るべき里があり、迎えてくれる家族があったから。今では、それはもう…。

 ─── 例え、同じ事をしたとしても、弥勒と珊瑚では向けられる視線は天と地ほど違うだろう。

 勿論、そんな眼で見る人間ばかりではないだろうが、弥勒が妖怪を退治れば霊験あらたかな法力をと尊ばれ、妖怪退治屋であれば仕事が済めば、長居は無用と追い立てられる。

 そう、弥勒の手に忌まわしい呪いが穿たがれていようとも。

 そして、同じ事が七宝にも言える。
 まだ幼く愛らしい七宝は、その属性が狐という事もあり、人里に下りても拒まれる事はなかったのだろう。
 狐は福徳を授けてくれる稲荷明神の御使いとして知られていた。村の翁や媼(おうな)は孫に構うように、七宝に構う。七宝の口調にそれが現れている。その証拠に人間と妖しとの違いは口にしても、人間を嫌う言葉を口にした事はない。

 ─── だが、帰るべき処を持たず、迎えてくれる者もいない、彼の者は…。

「けっ、なーに怖じ気づいてやがる。んな『気』にびびってたら生きてけねぇんだよ」
「犬夜叉…」
「取って喰いもしねぇし、切り付けて来る訳でもねぇ。自分を強く持ってりゃ済むこった。それより ─── 」



「 ─── 来ます!」

「 ─── 来るよっっ!!」



 三人同時に声を掛け合い、獲物を手にした。
 犬夜叉は鉄砕牙を、珊瑚は飛来骨を、弥勒は錫杖を。
 雲母は主人の楯になるかのように。
 かごめは自分の胸の中に、七宝を抱え込んだ。

 降り注ぐ鋭利な枝々。

 外から見た時はあれ程疎らに見えたのに、いまでは五人の頭上一杯に木々が覆い被さり、立錐(りっすい)の余地もない程に刃物のように鋭い枝を突きつけてくる。
 風音を立てて襲いかかるそれらの一本でも身に受ければ、間違いなく突き貫かれ、地に縫い止められてしまうだろう。犬夜叉達三人は、かごめを守るように襲いかかる枝々を打ち払い続けていた。

「どうするっ! 犬夜叉!! このままでは身動きが取れない!」
「ああ、分かってる! だが、ちょっとでも手を止めりゃ、かごめが殺られっちまう!!」
「こっちももう、そんなには持たないよっっ!!」

 体制を整えるほんの僅かな間でもあれば、まだ打つ手もあるが、そんな隙を見せる相手ではないようだ。攻撃を仕掛けてくる相手の本体の位置さえ掴めていない。

 それとも、この林全体がそうなのか?

 いくら手練の珊瑚とて、こうも矢継ぎ早の攻撃を躱し切れるものではない。致命傷ではないが、かなりの手傷を負っている。


「珊瑚!!」

 弥勒の声が飛ぶ。

 次の一瞬 ─────

 ピーンッッッッ ──────

 辺りの空気を切り裂き震わせる、細く硬く清らかな音。


( 鳴弦の法! )


 犬夜叉がそう思った瞬間、身体は動かなくなり呼吸が止まる。辛うじて視線を下に転じれば、かごめが自分の足元で地に膝を付き、上半身をすっくと構え、白骨樹林の天蓋(てんがい)に向けて梓弓を弾いている。
 かごめの指先が二度、三度と弦を弾く。その度ごとに、犬夜叉の身体を音の刃が切り刻んでゆく。

「か、かごめ…」

 かごめが梓弓を弾いていたのは、通常の時の流れに直せば、ほんの一刹那だろう。だが、犬夜叉や七宝にとっては気が遠くなるような時間だった。珊瑚の足元には、変化を解いた雲母がうずくまる。

 しかし、その効果は絶大だった。

 今にも五人の上に、鰐の顎(あぎと)のごとく襲いかかろうとしていた鋭利な木々は、鳴弦の音に弾かれ霧散している。
 空気の共鳴が結界の境界に触れたのか、林全体が妖しく薄紫の光を発す。やがて、全ての物音が途絶え元の静けさが戻って来た。

 何事もなかったかのように、あの悪意に満ちた『気』だけがたゆたう。

「…すごい、かごめちゃん」
「鳴弦の法、ですね。一体、いつの間に?」



 弥勒と珊瑚がかごめを振り返ると、かごめはペタンと尻餅をついたまま、腕の中の七宝を見つめている。腕の中の七宝は、息をしていない。

「七宝ちゃん! 七宝ちゃん!! お願い! 目を開けて!」

 必死な面持ちで、七宝のその小さな身体を揺すり続ける。かごめの瞳から、みるみる大粒の涙が溢れだした。

 と、その時 ────

「ふー、ああ、死ぬかと思ったぞ」

 息を吹き返した七宝が、硬直していた自分の身体を弛緩(しかん)させる。

「ごめんね、ごめんね。七宝ちゃん。苦しかったでしょう」

 かごめは息を吹き返したばかりの七宝の小さな身体を、力一杯抱きしめた。その後ろで、珊瑚の手の中でも、みぃ−と小さな鳴き声をあげて、雲母が身動いだ。

「どうしたんじゃ? かごめ。何で、泣いておる? かごめが助けてくれたんじゃろ?」

 かごめは涙を零しながら、首を横に振る。

「ごめんなさい。私が鳴弦の法を使ったから…。まさか、あんなに効くとは思わなかったの。他の方法なんて浮かばなかったし…」

 かごめとて、神社の娘。
 現代に帰った折りに、それなりに自分でも色々調べて見たのだ。巫女とはどういう者かを。

 本来、巫女が『魔』を祓うのに使うのは、『梓弓』

 矢を番えるのではなく、その弦を弾いてその音にて退魔せしめる。かごめは知っていて、今までそれを使おうとはしなかった。使えるとは思ってはいなかったし、使いたくもなかった。

 自分の大事な者を傷つけてしまうかも知れないから。
 鳴弦に敵・味方の区別はないのだから。

「…バーカ。お前の鳴弦ぐらいで祓われてたまるかよ。それに、七宝の言うとおりだぜ。見ろよ。お前がやらなきゃ、俺以外はああなってた」

 さっきまで溺れかけていた者のように息も継げず、身動きも適わなかった事などおくびにも見せずに、いつもの悪態をつく。そう言いながら犬夜叉の指し示した所には、神隠しにあった村人と思われる、針鼠のような無惨な死体が転がっていた。

「さあ、先を急ぎましょう。あの赫い樹の所まで。」

 言われるまでもなく、足早にその場を通りすぎる。この後、まだどんな攻撃があるか判らないのだ。

「おい、かごめ。お前、俺には言ってねーぞ」
「えっ、何?」
「だ〜か〜ら〜」

 強がって見せても、かごめの掛けた鳴弦は犬夜叉にもかなり堪えていた。

「…ごめんね、犬夜叉。でもね、どこかで信じていたよ。犬夜叉なら、大丈夫だって」
「なんだ、そりゃ?」
「お前が体力オバケだと言う事ですよ。」

 当たり前な事を何故聞く? という目をして弥勒が言い捨てた。

( ─── しかし、かごめ様の鳴弦でも祓えない、この『気』とは、一体何なんだ? )

 足元をうっすらと白い靄が漂いはじめていた。


*    * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 一足ごとに靄は濃くなってゆき、今では伸ばした手の先まで霞む程。
 勿論、五人はこれが自然現象であるとは最初(はな)から思ってはいなかった。

「 ─── お出でになったようで」
「ふん、今度の相手はさっきよりは遣りやすそうだね」
「かごめ、俺の側から離れるな。」
「う、うん」

 白い闇と化しつつある林の中に、ぽつりぽつりと浮かぶ影がある。木間より湧き出るように、その数は増してゆく。

 白闇に陰鬱に響く、声ならぬ声。

( ─── 我が姫に徒(あだ)成す者は、ここより先、一歩も通さぬ。朽ちて、魎(こだま)に喰われるがよい )

 その声を合図に、わんと闇の中の影が襲いかかる。影は人の形をしており、手に手に獲物を構えていた。

「どういう事じゃ。あの爺が言うたは、姫のお付きの者はそう多くはないと言うておったに」

 怯えて、七宝はかごめの足にすがりついている。

「こんな変な場所です。深山の亡者武者に触発されて、魍魎(もうりょう)共も紛れ込んでるのでしょう。行きますよ!」

 弥勒と珊瑚が同時に打って出る。
 いつもなら、先陣を切るのは犬夜叉なのだが、少しでも離れると見失ってしまいそうな恐れを感じてかごめの側に付いている。

 切り込んで行った弥勒達の周りで、激しい剣戟(けんげき)の音が鳴り響く。敵影は弥勒達だけを相手にしている訳ではない。当然の如く犬夜叉やかごめの周りにも撃ちかかる。

 犬夜叉は鉄砕牙を抜き放ち一閃(いっせん)、また一閃と敵をなぎ払う。かごめも弓を引き絞り、破魔の矢を射かけている。七宝も狐火で応戦している。が、五人はほぼ同時に気がついた。

( ─── 手応えが、無さ過ぎる )

 数は圧倒的に敵方の方が勝っている。だが、こちらの攻撃が、そう七宝の狐火でさえ驚異的な効果をあげる。
 その代わり、纏わり付く靄のように、倒しても倒してもきりがないのだが。

「…こう言うのも、厭な相手だね。まるで自分の影を相手にしてるみたいで、手応えがなくて」
「…珊瑚、これは罠かも知れません。犬夜叉達の所へ戻りましょう」
「ああ、そうだね」

 一方、犬夜叉達も ────

「なんだぁ、こいつら? 幻戯(めくらまし)じゃねーのか? 斬った気がしねぇ」
「阿呆、幻戯で傷が出来る訳がないじゃろ! こいつら、本当におるんじゃ。わーん、こんなに沢山、どうしたらいいんじゃ!!」

 身体の小さい分、どんなに手応えのない相手でも、七宝にとっては数で来られれば不利である。
 躱しきれなかった攻撃の傷が、無数に出来ている。

「大丈夫? 七宝ちゃん」

 かごめが声をかける。
 かごめも手や足や頬などに血が滲んでいる。
 そこへ弥勒達が合流してきた。

「かごめ様、ご無事ですか?」
「ええ、私は大丈夫。だけど、この相手って…」
「本当に厭な相手だよね。幻影みたいなのに、手傷だけはきっちり付くんだから」

 珊瑚も頬の傷の血を拭いながら、かごめの側に擦り寄った。

( …幻影みたいなのに? ダメージを受けたと思うから、それが傷になる? まさか、ね… )
 かごめは自分の胸に湧いた疑惑を誰に伝える間もなく、事態は急変する。五人の前方、おそらくこの凶事の元であろう赫い桜の樹を守ろうとするかのように、妖影が津波のように攻撃を仕掛けてくる。

 斬っても斬っても手応えのない相手。
 そのくせ手傷だけは増えてゆく。
 斬り伏せても、その倍になってまた攻撃を掛けてくる。
 こーゆー状態で、一番最初にキレたのは、犬夜叉であった。

「あーもー、うざってぇっっ! 風の傷で、一薙ぎにしてやるっっ!!」

 鉄砕牙を構えなおし、前面を覆う敵影を睨み据える。
 結界の中、鉄砕牙の赤い刃に、灼熱した鉄のような匂いを放つ、妖気をを含んだ風が纏わりつく。

 敵影の後方、白闇の向こうで何者かが北叟笑(ほくそえ)む ───

 その時だった!!



「きゃあぁぁぁっっ!!」

 かごめの足元の地面が、ぱっくりと口を開けかごめをそのまま飲み込む。側に居た珊瑚が駆け寄るよりも早く、その口を閉じてしまいかごめを飲み込んだ形跡など、毛ほども残していない。

「かごめちゃん! かごめちゃん!! ねえ、そこに居るの!? 聞こえているのなら、答えて!!」

 静まり返ってしまった地面に向かい、拳を叩きつけている。

「かごめ様!」
「かごめ〜っっ」
「かごめっっ、聞こえてねーのかっっ! おい!!」

 莫(ばく)として、応(いら)えはない。

 敵影を薙ぎ払う筈の鉄砕牙を、かごめが引きずり込まれた地面の上に突き立てる。どうしようもない焦りが、犬夜叉の胸の内を黒く塗り潰していた。

「おい、どうした事じゃ。あやつ等、退いて行きよるぞ」

 明らかに、敵影に動揺が見られる。
 辺りを包んでいた白闇もその濃度を下げ、見通しが効くようになってきた。

「…かごめ様が、地に呑まれたのは、敵に取っても予想外の事だったようですね」
「と、言う事は、かごめはあいつ等の手には落ちちゃいねぇって事だな」
「だけど、かごめちゃんを連れ去ったのが敵か味方かなんて、まだ判っちゃいないんだからね!」

 靄とともに、すっかり敵影は消え失せた。
 辺りは白い骨のような樹体と漆黒の夜闇。
 結界に阻まれたこの空間には、あの忌ま忌ましい『気』が揺らめくばかり。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 ──── かごめは、自分の身体が地面に引きずり込まれた瞬間、あの自分を呼ぶ声を再び聞いた。

( あの、妖しの剣を使ってはなりませぬ。あやつめはそれを待っておりまする )

 その声と共にかごめの視界は暗転し、深海に沈められた者のようにとてつもない圧力を全身に感じた。

 肺が潰され、呼吸が出来ない。
 気が遠くなり、ふと『死』を意識した時だった。
 ぽっかりと、まるで海底から水面に浮かび出たように、視界も呼吸も押し潰されそうだった圧力からも開放された。

「…ここ、は?」

 辺りは芒(ぼう)とした幽かな光で照らされていた。
 その光の中に寂(じゃく)として佇む尼僧の姿がある。

( …このような無明な所にお連れして、申し訳ございませぬ。力ある巫女殿よ )

「あなたが、私を呼んだのね。ここは一体どこなの?」

 辺りを見回すが、見当がつかない。何かの中のような気がした。

( ここは、鬼棲樹の内部(なか)でございます )
「き、きせい、じゅ? それって…」
( はい、あの忌ま忌ましい血肉の花を咲かせている、この林の主でございます。鬼の棲む樹と ─── )

「それじゃ、この樹って妖怪って事? 厭な気はもってるけど、妖気なんて感じないわ」

 そう、仲間達は誰も、犬夜叉でさえ妖怪の存在を察知してはいなかった。

( …巫女殿よ。、あなたはこの林を満たしているこの『気』をなんと見まする? )
「何、って…、そうね、妖気でもないし瘴気でもないわ。だけど、すごく厭な感じ…」
( …醜心〔おに〕、でございますよ。人の心に巣くう暗闇、己が心の卑しさ挟矮(きょうわい)さ故の謂(い)われのない恐れや不安や蔑み、そう嫉妬や怨み等もありましょうか。それらのものが、ここには吹き溜まっているのです )

 かごめは庵主の言葉に、どきりとした。

( 巫女殿、あなたはここに来る前に、深山の隠れ里の事を何か聞いてはおりませぬか? 何者かの裏切りによって里が襲われ、落ち延びた筈の姫君までも殺された、と )


「…ええ、聞いたわ。この林での変異はその姫君達の祟りだって、そう村の老人は言ったわ。でも、私はなんだか違うような気がする」

( さすがは、私がお力沿いをと願った方だけの事はありまする。どうぞ、巫女殿の周りを今一度、よくご覧ください )

 請(こ)われて、かごめは幽かな薄明の中で瞳を凝(こ)らす。
 うっすらと、自分の足元になにやら折り重なったものが見えてきた。
 さらに、瞳を凝らすと ─────

「なにっ、これ!? どうして、あの時のままのお姫様達の死体がここにあるの!?」

 その死体の山は、切り刻まれた侍達の身体の上に、未だ幼い姫君がその者達を庇うように、労るように覆い被さっている。
 姫君のあどけない幼い瞳を、一本の桜の枝が脳髄まで突き貫いていた。

( 隠れ里を落ち延びた姫君一行は、村に立ち寄りました。立ち寄りはしたのですが、すぐその場を離れ、この林の中で追手の野盗どもの手に落ちたのでございます )
「村の人達は自分達に火の粉がかかりそうだから、お姫様達を追い出したのよね…」
( 凶悪な野盗どもでございました。隠れ里を襲った落武者達も、漁夫の利を狙っていた野盗どもに鏖(みなごろし)にされてしまいました。噂に聞く里の宝と、落武者達の腰の物でも狙ったのでしょう。里の宝はあの美しい田畑と平穏な時の流れでしたのに )

 ふと、かごめの胸に疑惑の芽が兆す。
 どうしてこの人は、そんな事を知っているのだろう?

( 姫には村長の顔を見て、すぐに悟られたようでした。自分たちがここに居る事でどれ程この村に取って災いになるのかと。村長は何も申しはいたしませんでした。ただ、額衝(ぬかず)いて姫君達が立ち去るまで、顔を上げようとはしませんでした )

 ──── それが、この戦国の世での習いなら、あまりにも悲しすぎる。辛すぎる。深山の一族は、ただ命を尊び安寧を望んだだけなのに。

( 姫君達は村から離れ、この林を抜け、更に後方に連なる雪深い峰々に踏み入る決意をなさっておりました。季節は丁度晩秋の頃、なんの備えもなしの山入りは、殆ど死に往くようなもの。ただ、殿の言葉がありました。何人の命も奪ってはならぬ、と。己が命でさえも己のものではない。生かし、生かし切れ、と )
「それじゃ、お姫様達は村の人達に迷惑がかからないように、自分達の居所を隠しもせずにその野盗達に後を追わせたの?」
( ─── はい。野盗達が自分達の後を追い、命惜しさに山入りを諦めれば、また開ける道もあると )
「…でも、その前に捕まってしまったのね。ねえ庵主様。あなたはどうしてそんな事を知ってるの? 十年前にここへ来たのでしょう」



 なぜか影の薄いその姿を更に儚く揺らめかせ彼の人は、さらに言葉を紡いだ。


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