【 鬼棲樹−やどりぎ− 1 】




「ねえ、犬夜叉! いつまで寝てんの! もうみんなとっくに起きて、支度してるのにっっ!!」

 かごめの声が、妙に頭に突き刺さる。夕べ向こうから戻ってきたばかりだというのに、やけに元気だ。

「…うっせ─、耳元でぎゃんぎゃん騒ぐな。頭に響くだろーが!」

 言葉程には、元気がない。小屋の奥の板敷きの上に延びきって、上体を起こすのも辛い。

「何言ってんのよ! いつもは一番鶏より早く起きて、私を叩き起こすじゃない!」

 相変わらずの二人を横目で見て、やれやれと弥勒は首を振った。
 夕べかごめが帰ってくるなり大喧嘩をし、まあ、その後ちゃんと仲直りもした。
 仲直りをした後の、いつもより甘やかな雰囲気に、弥勒なりの心遣いは施したのだが…。

「…犬夜叉、お前もしかして宿酔(ふつかよ)い、ですか? 迎え酒をあげましょうか?」

 板の間の縁に腰を掛け、その様子を見ていた弥勒がそう声を掛けた。
 夕べあれ程飲んでいた弥勒は、そんな事は露程も感じさせぬ位、けろりとしている。

「宿酔い!? 弥勒様、犬夜叉にお酒なんて飲ませたの? もう、まだ未成年なのに!」

 信じられない、と言う表情で弥勒を見るかごめ。
 弥勒は、かごめの言った耳慣れない『未成年』という言葉の意味を考えていた。

( ─── 未だ、成年(おとな)ではない、と言う事ですな。まあ、確かに。本来なら、あの楓様よりも年嵩(としかさ)な筈ですし…。大人になった犬夜叉というのは、まだ想像もつきませんね )

 そんな事に思いを巡らせていた所へ、外から楓と七宝がなにやら抱えて戻ってきた。

「ほれ、犬夜叉、酔い醒ましの水じゃ。お前は鼻が利き過ぎるから、匂いだけで酔ってしまう。水を飲んだら、そこの柿を食え。柿が酒の毒を消してくれるからのう」

 そう言って楓は水の入った手桶を、七宝はもいだばかりの柿の実を犬夜叉の前に置く。
 弥勒は、顔をしかめつつ水を飲み、皮ごと柿の実にかぶりつく犬夜叉の様子を見ながら小屋の戸口に視線を移し、そこで呆れた表情をした珊瑚を見た。

 珊瑚の凜とした眼差しが、明らかに弥勒を咎めている。
 弥勒はバツの悪そうな笑みを浮かべて、珊瑚の側に寄った。

「…ったく、普段飲まない犬夜叉に無理に飲ませて、何を考えているの。法師様?」 「無理に…、じゃないんですけどねぇ。大酒かっ喰らいそうな顔してるんですが」

 ポリポリと頭を掻く。

「…男には、素面(しらふ)では口に出来ない言葉もありますからね。ま、犬夜叉めにはまだ早すぎたようです」
「法師様…」

 弟を見るような眼で犬夜叉を見やり、微かに笑う。
 何かと問題の多い弥勒だが、こ─ゆ─所は『大人』だと、珊瑚も思う。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 まあ、そんなこんなで一行が楓の小屋を後にしたのは、日も随分と高くなってからの事だった。

「…大丈夫? 犬夜叉。もう少し休む?」

 心配そうにかごめが後ろを振り返る。
 いつもなら、先頭を切って歩く犬夜叉だが、今日ばかりはまだ酒気が抜けきれないせいで、足取りがすこぶる重たい。

「本当、意外だねぇ。こんなに犬夜叉が酒に弱いなんて」

 珊瑚も珍しいものを見るように、犬夜叉を見ている。

「まったくです。普段のお前なら、妖怪どもの毒液に塗(まみ)れようと瘴気を浴びようとも、はたまた生皮を剥がれ、腹に大穴を開けられても、それなりに復活してくるのに、こんなにも美味いものに歯が立たないとは。不思議ですねぇ」

 ……随分な言われようである。

 そう言いながらも、懐から昨夜の酒を取り出し、飲みながら歩いている。
 その酒の香りが犬夜叉の鼻につき、また気分の悪さを呼び起こす。

「…弥勒、てめぇ〜そいつぁ俺への嫌がらせか! ぶん殴ってやる!!」

 青い顔をして、脂汗を流しながら握り拳を震わせている。

「まったく…。酒も飲みこなせねば、一人前の男とは言えませんからね。何事も修行です」

 仏門の修行に、酒や女遊びの修行は必要ないと思うのだが…。
 一行の誰もが、そう思っている。弥勒は選ぶべき道をはっきり間違えていると。

「犬夜叉、落ちついて。弥勒様、珊瑚ちゃん、悪いけど先に行ってもらっていいかしら? もう少し、犬夜叉を休ませたいの。犬夜叉の気分が良くなったら、後から追いかけるから」

 かごめにそう言われ、かごめの真意をくみ取った珊瑚が、ほろ酔い加減の弥勒を無理やり引っ張ってゆく。二人の姿が見えなくなる頃、ようやく周りの空気から酒の匂いが消えた。

「……みっともねーよな。たったあれだけの酒で、まともに歩けねーんだからよ」

 道の傍らに座り込み、肩で苦しそうに息を付いている。
 残っているのはかごめと七宝。七宝が心配そうに犬夜叉の顔を覗き込み、懐からごそごそと柿の実を取り出した。

「…楓おばばが持ってゆけと言うて、オラに渡した柿じゃ。食えるか? 毒消しだそうじゃから」

 何も口には入れたくない気分だったが、出掛けに食べた柿のお陰でどうにかここまで歩いては来られたし、早くこの状態から脱出したくて無理に口に押し込む。

「ね、犬夜叉。あの木の下まで歩ける? ここじゃ、体を伸ばす事も出来ないでしょ」

 かごめに促され、よろめくように足を進める。木の下まで来ると、そのまま倒れ込んだ。

「ったく、金輪際酒なんて飲まねーぞっっ。あんなものが美味いなんて言いやがる奴は、ぶっ飛ばしてやる!!」

 ─── この時代の酒は不純物の多い濁り酒である。かごめが持ち込んだのは純度の高い清酒であった為、普段酒を飲まない犬夜叉の体が猛烈な拒絶反応を示したようだ。

 ……要は、まだ『子供』という事かも知れない。

「のう、かごめ? オラ向こうに行かんでもいいんじゃろか? 二人きりじゃぞ」

 七宝にそう言われて、思い出した。いつもなら、素行の悪い弥勒を警戒して七宝を見張りにつけるのに、すっかり忘れていた。

「ごめんね、七宝ちゃん。今から急いで二人を追いかけてもらっていいかしら?」
「おう、任しておけ。オラがついておかねば、何を仕出かすか分からんからのう、あの法師は」

 大任を任された気分で、その小さなを胸を反らし、元気良く七宝は弥勒達の後を追う。
 その姿を見送り、それからかごめは木の根元に倒れ伏している犬夜叉の姿に眼を落とした。

「 ─── ねえ、本当に大丈夫? 出発、やっぱり一日遅らせた方が良かったかな」
「馬鹿野郎。そんな事したら、かごめの時間が無駄になるじゃねーか。せっかく治りかけてたのに、弥勒の野郎が酒の匂いをぷんぷんさせやがるから、また気分が悪くなっただけだ。こうして休んでりゃ、すぐ良くなる」

 と、犬夜叉は言ったが、ごつごつとした木の根っこを抱いて地面に突っ伏している姿は、どー見てもすぐ良くなるようには思えない。
 かごめは犬夜叉のすぐ側に来ると、足を揃えて伸ばしたまま、腰を下ろした。

「犬夜叉、その状態って辛くない? 木の根っこよりはマシだから、膝枕していいよ」

 そう言って、自分の足をポンポンと叩く。

「はあぁ?」
「 ─── 昨夜は、私が犬夜叉の肩を借りたんだもん。遠慮しなくていいから」

 あっけらかんとそう言うと、犬夜叉の頭を自分の膝の上に置く。
 その瞬間、犬夜叉は全身がかあっと熱くなり、全力疾走した時のように鼓動が早くなる。背中にびっしょり汗までかいている。

「…顔が赤いわ。汗までかいてるし、熱があるのかしら?」

 膝の上の犬夜叉の額を、その手で優しく触れる。
 柔らかく華奢なその手が触れた途端、犬夜叉は自分の体の中でとぐろを巻いていた酒毒がすうっと消えていくのを感じた。

 街道から少し離れた木立の下、空は高く澄み渡り秋の日差しは穏やかな光を振りまいている。
 木漏れ日が、二人の上にチラチラと光の斑模様を作っている。

「…もう少し、こうしてていいか?」

 宿酔いの気分の悪さは消え去ったが、まだ鎮まらない胸の鼓動を落ち着かせるため、そのままの姿勢を保つ。

「ええ、どうぞ。今日は気持ちの良い日ね」

 高い空を見上げ、のんびりとかごめが答えた。とても妖怪退治の旅とは思えぬ長閑さである。

( ……夢、の続きか。いい匂いだな、かごめ )

 清らかで、優しい香り。どこか懐かしい。
 その香りに包まれてほんの少し、犬夜叉は眠りに落ちた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「 ─── 遅いねぇ、かごめちゃん達。様子を見てこようかな」

 先行していた弥勒達は、七宝が合流した地点で足を止め、なかなか追いついて来ない二人を待っていた。

「…珊瑚、それは無粋と言うものですよ。心配はいりません。もう少し、待ちましょう」
「だけど、思ったより犬夜叉の具合が悪くて、かごめちゃん一人の手じゃ負えないのかもしれないし…」
「放っておきなさい。たかが宿酔いです。犬夜叉の体力なら、いくらなんでももう回復している頃でしょう」

 弥勒はしれっ、と言って最後のワンカップの口を切った。

「 ─── 法師様、あんたもいい加減飲み過ぎだよ。あんたまで宿酔いなんてんじゃ、話にならないからね。ほんっとうにそれが、最後なんだろうねっっ!!」
「はい、誠に残念な事なのですが、これで最後なんですね。いやー、ほんっとうに美味しい酒でした」

 ……呆れた事に、ほぼ一両日でかごめの母が持たせた二箱分の酒を飲み干した事になるのである。

「のう、弥勒。お前はなんで、犬夜叉のようにはならんのじゃ? 宿酔いは、そーとー辛そうじゃったが」
「 ─── 年季が違いますよ。私は大人ですからね。まあ、呑み初めは多かれ少なかれ、あんなものですがね」
「宿酔いしない飲み方というのも、あるんじゃろうか?」
「ああ、ありますよ。酒が体に残る前に、汗をかいて体から出してしまえばいいんです。そうすれば、宿酔いにはなりません」
「汗をかく? 酒を飲んだ後に、そこらを走り回るんじゃろか?」

 弥勒が口元に手をあてて、くくっと笑う。

「そんな事はしませんよ。折角きれーなおねえちゃん達と飲んでるんです。その後に、汗をかくと言えば ──── 」

 そこまでで、弥勒の言葉は途切れる。
 背後から珊瑚の飛来骨で思いっきり、ど突かれたのだ。

「子供相手になんて話をしてんだいっっ! この、生臭坊主!!」

 すっかり元気になった犬夜叉とかごめが、先行していた三人に追いついた時、弥勒は大きなコブを頭にこさえていた。

「どうしたの? 弥勒様。その頭のコブ」
「よくは分からんのじゃが、オラが宿酔いしない酒の飲み方を聞いていたら、いきなり珊瑚にぶっ叩かれたんじゃ」

 見るからに痛々しい。
 未だまだ眥(まなじり)をつり上げている珊瑚の様子と、弥勒のコブを見比べ、けけけっと笑いながら犬夜叉が、その長い指でピンピンとコブを弾く。

「いい気味だぜ、弥勒。俺をあんな目に逢わせやがって。どーせお前ぇの事だ、なんかいやらしー事でも言ったんだろ」

 犬夜叉の指で弾かれるたびに激痛が走るのか、弥勒は頭を抱えてのたうち回る。
 そんな二人をみて、深いふかーいため息をつく、かごめ・珊瑚・七宝の三人。

「う〜ん…、今日はもうあまり遠くまでは行けそうもないね。ねえ、かごめちゃん」 「そうね、珊瑚ちゃん。それにしても、どっちに行ったらいいのかしら?」

 かごめ達が追いつくまで、珊瑚達は街道の分岐点で待っていた。右に行けば本街道、左に行けば山辺に続く脇街道。弥勒をいたぶり、気の晴れた犬夜叉が横から口を挟む。
「かごめ、お前何も感じねーのか?」
「う〜ん、取り合えずこっち、かな。欠片の気配じゃないんだけど、何かあるような気がするの」

 かごめが左の脇街道の奥を指さす。

「……行くならば、早くした方が良いでしょう。状況が分からぬ所で夜を迎える事程、危険な事はありませんから」

 頭のコブを撫でつつ、弥勒も話に加わる。
 空にはまだ日はあるものの秋の日は釣瓶落とし。

 暮れはじめたらあっと言う間に闇に包まれる。本街道沿いなら野宿もそれほど危険はないが、脇街道となると、少し行けばすぐ藪になるような道ばかりだ。野宿するにも、周りの安全だけは確認しておいた方がよい。脇街道に足を踏み入れた一行の後を追うように、西日が長い影を落としかけていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 ―――― しかし、かごめの選んだ道は藪で途切れる事もなく、小さな村へと続いていた。

「どうだ? かごめ。欠片の気配はあるか?」
「ううん、ないみたい。それより、犬夜叉の方は?」

 猟犬が嗅索(きゅうさく)するように、風上に顔を向ける。

「 ─── いいや、怪しい匂いはねーようだ。本当にこの村に何かあるのかよ」
「 ─── 分かんない。何か、感じたよう気がするんだけど…」

 思案気な二人を制して、弥勒が声を掛ける。

「日も暮れた事ですし、宿を貸してくれるような所を探しましょう。何かあれば、その時に聞き出せるでしょう」

 五人の先頭を切って歩き出した弥勒は、村の中程で足を止めた。
 一人の男が走り寄って来たのだ。見ると、物腰の柔らかい初老の男である。人相も柔和な人望ありげな顔をしている。
 その男は弥勒に向かって深々と頭を垂れると、こう話しかけた。

「 ─── 旅の法師様と、お見受けいたします。私はこの村の長を務める者でございます。もし宜しかったら、この村に起きている怪異を解いて頂けませぬでしょうか?」 「怪異? やはり、この村には何か起こっているのですね?」
「はい、ここでの立ち話もなんでしょう。私の拙宅までご足労願います」

 再び頭を低く下げ、弥勒の前を案内するように歩き出す。
 五人は一瞬顔を見合わせたが、怪しかろうと怪しくなかろうと、乗らない訳にはゆかぬ話だった。

「ささっ、こちらでございます。このような鄙びた村ですので、なんのお持てなしもできませぬが…。」

 男はあくまで腰低く、慇懃な態度で五人を先導する。

 慇懃すぎるような気もしたが、取り合えずは様子を見ることにする。通された座敷は質素ではあるが丁寧に手入れ、居心地が良い。調度品や設(しつら)えなどを見ると、鄙びた村とは言え村長の屋敷らしい格式を持っている。一度部屋を出た村長が、数人の下働きの女達と一緒に夕餉の膳を運んできた。

「どうぞ、お口に合うか分かりませぬが、お召し上がり下さい」

 供(きょう)された膳は、この村の暮らしぶりを表すように質素だが、心を込められたものだという事がよく分かる。
 その様を見て、ふっと弥勒は緊張を解いた。

( 大丈夫でしょう。怪しい人達ではなさそうだ )

 なかなか箸を付けぬ皆の様子を心配気に窺っている村長に、にっこり笑みを返して弥勒が言った。

「お言葉に甘えて、有り難く頂戴いたします」

 その言葉に、ほっと村長の顔が綻ぶ。
 静かに食事は進み、その間村長は食事の邪魔にならぬよう側に控えたまま、口を挟まなかった。
 食事が終わり膳がひかれた後、村長は弥勒の前に出て両手を付くと、深々とまた頭を下げた。

「ああ、どうかそんなに畏(かしこ)まらないでください。こちらこそ、恐縮してしまいます。」

 弥勒の言葉に、村長は更に頭を擦り付けるよう床に付ける。

「いいえ、あなた様をお力のある法師様と見込んでのお願いでございます。どうか、この村をお助け下さい」

 と、ますます畏まって小さくなっている。

「それでは、その困っている事を話して頂けますか?」

 なかなか本題に入りそうにないので、弥勒が先を促す。
 村長はどう話したものかと表情を曇らせ、言葉を選び選びようやくの事で本題に触れてきた。

「……はい、実はこの半月ばかりの前の事なのです。この村の一里ほど外れに、花守の銀杏林がございます。この林に入った者が次々と神隠しに逢い、戻って来ないのです」 「花守?」

 聞き慣れぬ言葉に、思わずかごめが口の中で反芻する。それを聞き止めて、村長が言葉を足す。

「花守、というのは私たちが勝手にそう呼んでおりまして…。古くからある公孫樹(いちょう)の林の真ん中に、何時の頃からか一本の桜が萌え出でて来たのです。あまり年数も経てはいないのに、それは見事な大樹に育ち、春にはその美しい花々で私たちを楽しませてくれていたのですが…」
「ああ、その桜の大樹を周りの銀杏の木が守ってるように見えるから、花守って訳か」
 突き放したように、犬夜叉が口を挟む。

「はい、春には花見を、秋には銀杏(ぎんなん)を拾いに、と私たちを楽しませてくれた所なのです。が、十年程前の事でしょうか、急に実をつけなくなったのです。その時も、何人かの村人が神隠しに逢いました」
「それでは、神隠しは初めてではないのですね。」

 と、弥勒。

「それで、あんたは自分で林の中に入って、どうしてそうなったのか調べたのか?」 「滅相もございません。そのような恐ろしい所、誰も近づかないようにするのが精一杯でございます。その時は、一人の庵主様がこの村を通りかかり、林の中の桜の根方に庵を結ばれて、その法力で怪異を修めて下さったのですが…」
「その庵主様は、今はもうおられないのですか?」

 弥勒の問いに、村長は首を振る。

「……それが、分からないのです。先の神隠しの時より、この林は禁域と定め誰にも近づかせないようにしておりましたので。何かご用のある時だけ、庵主様の方から村に出向いておいででした」
「えっ、でも今、村の人が何人も神隠しにあってるって…」

 村長の説明の中に矛盾点を見つけ、かごめが尋ねる。

「……半月程前にいきなり桜の花が咲き始めました。こんな事は初めてです。林の中には近づかないように言ってあるのですが、森と違い見通しのきく場所ですので、それを見つけた村の子供や若い者が入ってしまったのです」
「林の中に入った人間がどうして消えたか判んねーが、桜のほうは只の狂い咲きだろーぜ。別にそう珍しい事じゃねぇ」

 犬夜叉は、吐き捨てるようにそう言い放つ。

「ふん…。どうせおめぇ、確かめてもねーんだろ? 消えたのが子供や若い連中ってんなら、この村が嫌になって村抜けしたってだけの話かももしれねーぜ」

 犬夜叉の言葉に、村長はまたも首を振った。

「…花の色が、あんな花の色は見た事がありません。まるで血を啜ったような、真っ赤な色で……。不吉なものを感じた私は庵主様のもとに使いを出したのですが、その使いも戻ってこないのです」

 ……確かに、怪異な事が起こっている事には間違いないようだ。

「そればかりではありません。その林に近い家々でも、奇妙な病が流行りはじめておりまして……」
「奇妙な病?」
「…なんと申しますか、体がとても冷たくなり、肌がかさかさとまるで木の肌のようになります。最後には身動きも出来なくなる病です」

 五人は顔を見合せ、一瞬のうちに了解する。

「 ─── 行こうぜ。ここにいても埒はあかない」

 立ち上がった犬夜叉に続いて、他の皆も立ち上がる。

「あっ、お待ち下さい。今は夜でございます。せめて、朝までなりと…」
「…相手も朝まで待ってくれるってのか? 呑気なもんだな」

 嘲るようにそう言うと、引き止めようとする村長を残し、座敷を後にした。


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「もう、犬夜叉。今の言葉、刺があるよ」

 後に続きながら、かごめが諌める。

「放っとけ。俺は虫が好かないんだ。てめーでは何もしようとしない、ああ言う奴はな」
「仕方ないじゃろ、犬夜叉。普通の人間が妖怪の相手なぞ、出来る訳ないんじゃから」

 七宝もかごめと同感じゃ、と言う顔をして犬夜叉の横を歩いている。

「 ─── 我等を逃すまいと、必死でしたな。悪い方々ではないようなのですが、何か引っ掛かりますね」

 犬夜叉程ではないが、弥勒も何か思う所があるようだ。

「…でも、変だね。村長の話を聞くと、確かに怪異な事が起こってるには違いないんだけど、妖怪が絡んでいるなら、どうして犬夜叉が嗅ぎつけられないんだろう?」

 疑問に思っている事を珊瑚が口にする。
 それには誰も答えられず、五人は村はずれ近くまで来ていた。
 暗闇の中、七宝が何かにつまづく。

「なんじゃ、これは? うわっっ!!」

 七宝は自分がつまづいたものを間直に見、思わず悲鳴を上げた。
 それはまるで朽木が猫の姿を取ったような、真に奇妙なもの。
 そしてもっとおぞましい事に、それはまだ生きているのだ。

「これが、あの村長の言っていた流行り病?」

 かごめが犬夜叉の後ろに隠れるように、顔だけ出してつぶやいた。

「……おい、かごめ。それに他の奴らも下がってろ。本当に流行り病なら、移るかもしれねーぞ」

 夜目を凝らして、辺りを見回す。夜陰に紛れて、あちらこちらに黒い物体が倒れ伏している。
 それらはよくよく見ると、まだ微かに動いていた。

「…twン妖怪どもに襲われて、精気を吸い取られて枯れ木のようになった死体を幾つも見てきましたが、それとは違うようですね。まるで、初めからそういう生き物のような感じですが」

 近くの人家を覗きにいっていた七宝が、ひぃっと声を上げて駈け戻ってくる。

「ひ、人が木になっておる〜っっ!! このままじゃ、オラ達もああなってしまうんか!?」

 おぞましさに、尻尾の先まで逆立っている。

「 ─── 人任せにしたい訳だぜ。ここの連中だって、もっと早く手を打ってやりゃ、助かった奴もいたはずだろうに見捨てやがったんだな」

 犬夜叉の声が、喉の奥でくぐもる。



 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


( ─── 疾(と)く、参られよ。もう、力が及びませぬ ─── )


 突然、かごめの頭に飛び込んできた、何者かの声!!
 その声は、逼迫(ひっぱく)した状況を色濃く伝えていた。

「どうした? かごめ。何かあったのか!」
「声が聞こえたの! 誰かが私を呼んでる!!」

 かごめは辺りを見回し、一点を指さした。

「あっちの方! 間違いないわ!!」

 駈け出そうとした五人を、後ろからこの世の者とは思われぬひし枯れた声が引き止めた。

「 ─── 花守の林に行くのは止めなされ。なんの縁もないあんた方まで、祟りを受ける事はあるめぇ」

 その声は、先程七宝が覗き込んでいた家から聞こえてくる。
 かごめは恐る恐る覗き込み、思わず目を背けた。
 中には四・五体の、人のような形をした枯れ木の固まりが転がっている。風に震えるように微動し、声にならぬ声を上げようと唇をわななかせ…。

 恨みがましい光を湛えた黄色い目玉だけが、まだ自分たちが生きている事を示していた。その中の一番年寄りと見られる枯れ木の固まりから、その声は聞こえてきた。

「……オラ達が祟りを受けるのは仕方ないべぇ。オラ達は大恩ある深山(みやま)のお館様を裏切っただからな」
「 ─── 裏切った? おい、爺。もっと詳しく話してみろ!」

 犬夜叉は相手の状況がどうであろうと、躊躇しない。ただでさえ折れそうな細い襟首を引っ掴み、激しく揺さぶる。

「─── 犬夜叉、折れてしまいますよ。折角、話していただけるのですから」

 弥勒が、その手を引き止める。
 そうして、聞き出した話は ───



 今から三十年程前の事である。

 この村よりさらに奥に深山の一族が住んでいた。もとは由緒ある家柄らしく、学問に秀で武芸を嗜み、また実際腕の立つ家人も多く抱えていた。
 しかし時の当主は争い事を好まず、戦国の世に逆らって安寧な日々を望み、この山奥に一族共々隠れ住んでいたのだ。その地は急峻(きゅうしゅん)な山肌を開いて作った田畑が美しく、また良質な鉄も採れた。
 僅かばかりではあったが金も採れ、一族がつましく暮らしてゆくには十分であった。深い山々に囲まれ厳しい自然との暮らしだが、皆心穏やかに平安に日々が過ぎてゆく。

 この戦乱の世とも思えぬ理想郷。

 しかし、もともとは深山の土地であったその山も当主が表から身を引いた以上、誰が主か分からないようになり、何時しか落武者どもの住処と成り果てていた。
 落武者とは言え、主家筋でなければそれほど深追いされる事はない。他家の者に見つかれば討たれる事もあるだろうが、上手く身を潜め追手を躱し、僻地の郷士の所領でも切り取り横領できれば、それはそれでまた新たな一勢力として存在する事が出来る。
 全てに力がものを言う時代である。その理想郷は何者かの手引きによって落武者どもに隠れ里が襲われるまでの、泡沫(うたかた)の夢であった。


「で、その手引きをした奴ってのが、お前の村の人間なんだな?」

 枯れ木の老爺は、カサカサと動かぬ首を辛うじて僅かに横に振り否定した。

「……何者が手引きしたかは、誰も知らねぇ」
「お前の村の者が手引きをしたのではないのなら、裏切った事にはならないのではないのですか?」

 弥勒の問いは、もっともだ。

「お館様は、オラ達の村を何度でも何度でも助けてくれただ。飢饉の時は、里の蓄えを持ってきて下さった。野良仕事が楽になるようにと名刀を作るような玉鋼(たまはがね)で鍬や鋤を作って与えても下さった。村長には火急の時に用いよと、金の粒まで預けなさった。あれ程オラ達の事を思ってくださったお館様は、他にねぇ」

 昔を懐かしむ、遠い声。

「…ふぅん。で、その落武者どもが隠れ里を襲った時、あんた達は何をしてたんだい?」

 珊瑚の問いかけに、ただでさえ顔色のない老爺がさらに顔色をなくす。

「……オラ達百姓に何ができるべ。どこで聞きつけたか、隠れ里の館に金銀財宝・名刀なんぞがうなる程あるちゅう噂になって落武者だけじゃなく、五十人以上の野盗どもも集まっただ。巻き添えを喰わねぇよう、隠れるのに必死だったべ」
「それじゃ、誰も知らせに行かなかったの」

 さすがのかごめの声にも、非難めいた響きがある。

「知らせに行きたくとも、里への道は村長他、二・三人しか知らないべ。それに知らせたとしても、相手は五十人以上だ。いくら御家人衆の腕が立つと言っても、敵う訳ないべ。お館様が討たれなさっても、オラ達は落武者や野盗どもの言う事を聞いてりゃ命は助かる。まあ、何人かは殺されるかも知れけんども。落武者も野盗は野良仕事はせんから、食い物を作る百姓はそうそう殺されねぇべ」

 戦乱の世にあっては、雑草のように生きる事も仕方がないのかも知れない。しかし、それにしても ────。

「 ─── 私、犬夜叉が怒った気持ちが分かるような気がするわ。確かに仕方のない事なのかもしれないけど、でもきっと他に方法はあった筈よ」
「それだけ優しゅうしてもらいながら、見捨てたんじゃものな。祟りとうもなろうなぁ。祟りなら、妖怪の気配がない訳じゃ。オラ達も早く引き返そうぞ」

 あの奇怪な姿が流行り病のせいではなく、祟りのせいならば一刻も早く立ち去るだけだ。そう、七宝は思っていた。

「……祟りの元凶(もと)らしきものが、何故山里の館跡ではなく、こんなにも村に近い林の中なのでしょうね」

 弥勒の言葉に、びくっと枯れ木の体が震えた。

「爺ぃおめえ、まだ何か隠してやがるな。とっとと吐きやがれ!!」

 今度こそ、枯れ木のような体を打ち砕きそうな勢いで詰め寄る。

「…小さな姫様が、居ただよ。お館様は、数人の手練の御家人衆に姫様を守らせて落ち延びさせただ。そして落ち延びたのを見届けた後で、お館に火を放ち果てられた。一族の者が皆、死んでしまったように見せる為だ」

 みるみる犬夜叉の眉が顰(ひそ)められる。

「けっ、意気地のねぇお館様だぜ。せめて敵わないまでも、一矢報いてやりゃいいものをよ」
「……犬夜叉、お前ならそうでしょうね。しかし己の命に関わるそんな時に、己の信念を貫き通す事は並大抵では出来ません。余程清廉な心根をお持ちの方だったのでしょう」
「そうだね。子供だって自分の身が危うくなりゃ、相手を傷つける事だってあるんだからさ。ましてや、大人で腕に覚えがあるって言うなら尚更だよね」
「弥勒、てめえよりよっぽど坊主に向いてるぜ、そいつはよ。で、その姫様はどうしたんだ?」
「聞くまでもありませんよ。犬夜叉」

 弥勒の眼が冷たく光る。

「……見殺しにしたんですね。小さな姫君一人と数人のご家来衆。村の中に匿おうと思えば、出来ない事はないのに。違いますか?」

 枯れ木の老爺は、それこそ生きる事を止めてしまった物のように、ひそとも動かない。

「……あの林の中で殺されたのね、お姫様達。あの村長がそうさせたのかしら?」

 かごめはあの卑屈なまでに物腰の低かった村長の顔を思い浮かべ、暗い表情で呟いた。





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