【 窓 】





 ―――― 何時(いつ)だったかな。



 階段の踊り場にある開かない窓を、一生懸命に開けようとして、邪見様に笑われたのは。
 あれは……、あたしがこのお屋敷に引き取られて間もない頃。


 
 今までのあたしとは、まるで別世界のようなお屋敷での暮らし。
 古くて大きくて、とても立派なお屋敷は、今よりももっと小さかったあたしの目には、お城のように映ってた。


 
 ……あたしが、ここに来たのは、とても不幸な巡り会わせで。


 
 あの時まで、お父さんが居て、お母さんが居て、お兄ちゃん達が居る。
 それが、あたしの周りの当たり前の風景だった。
 家族皆で車で出掛けて、高速道路に入った所まではあたしも覚えていた。
 高速道路の単調な景色は眠気を誘い、いつの間にか眠ってしまったあたしが、体中の痛みで目が醒めた時、あたしは一人ぼっちで病院の白い壁に囲まれていた。


 
( ……可哀想に。でも、家族皆の分も、しっかり生きなきゃね )


 
 ――― そう言ったのは、看護師さんだったか、お医者様だったかよく覚えていない。


 
 あたし達の前を走っていた四駆車の、後部ドアの脱落が事故の原因だった。前席に乗っていたお父さんとお母さんは、そのドアに直撃され、その後、高速道路の消音壁にぶつかった。お兄ちゃん達は、消音壁にぶつかった時に前に投げ出され、割れたフロントガラスから飛び出して壁にぶつかり、首の骨を折った。
 あたしは前席と後部座席の間に落ち込み、助かったらしい。
 ぶつかった後、しばらくしてあたし達の乗ってた車は炎上した。
 その事故を起こした運転手が、あたしを車から引き摺り下ろしてくれなかったら、あたしも焼け死んでる。


 そうして、あたしは孤児になっていた。


 お父さんもお母さんも早くに両親を亡くし、一人ぼっち同士だったから、こうやって家族が増えるのは嬉しいと、まだ小さかったあたしの頭を撫でてくれた事があった。
 本当に、その言葉通りで。


 誰も、あたしの引き取り手はいなかった。

 


 児童相談所で施設への入所手続きを取っている所へ、厳つい顔をした男の人がある人の代理人だと言ってやって来て書類を渡すと、あたしの手を取り自分の車に乗せた。


 そうして連れて来られたのが、このお屋敷だった。


 
 あたしを引き取ってくれたのは、あたしを車の炎上から助け出してくれた人で。
 爆風に煽られる銀の色が、焔の色より鮮やかで。


 
 ……そして、事故を起こした車を運転していた人でもあった。


 
 後であの厳つい顔をした、このお屋敷の顧問弁護士だと言っていたおじさんから話を聞いた。
 あの事故は殺生丸様の責任ではなく…、そう あたしを助けて引き取ってくれた人の名前なんだ、殺生丸様。
 その車を作ったメーカーの致命的なミスで、本来ならここまでする必要はないんだが、と説明された。


 事故で家族を無くした、身寄りのない子供と言うだけなら良い。


 今回の事故で、家族の生命保険金とメーカー側からの多額の補償金を得たこの子供を世間の狼どもが捨て置く訳もなく、施設などに入れていたらいつの間にか居ない筈の『親戚』が現れて、子供ともども食い荒らされるのは目に見えている。そうならない為の特別な措置だと。


 あたしには大人の話で良く判らなかったけど、なんだか恐いな、とそう思った。


「……狛小路(こまのこうじ)様においてはご自分の責任ではないにしろ、ご自分の関わった事で貴女がこれ以上悲惨な目に逢われるのは望ましくないと考えられまして」


 ……やっぱり、良く判らないよ。


 頭がずぅっと、ぼんやりしてる。
 どうして、誰もあたしの名前を呼んでくれないの?
 どうして、お父さんやお母さん、お兄ちゃん達の声が聞こえないの?


 どうして、あたしはここに居る…の……?


 
 もう、誰も… 本当に……、居ないの?


 
 あたし、一人ぼっち……?


 
 おじさんの声がだんだん遠くなって、目の前がゆらゆら揺れてきて、ぽろぽろ溢れ出した涙がもう止まらなかった。


 
「りん」


 びくん、とした。
 初めて聞いた声。


 だけど……。


 涙でくしゃくしゃの顔のままゆっくり振り返ると、あの人が立っていた。


 
「ああ、狛小路様。今、彼女に説明をしていた所ですが……」


 顧問弁護士が、腰を浮かしかけてそう言い募る。



「……そんな話、これに判る訳がないだろう」
「ええそれはそうですが、やはり説明はしておかないとですね。貴方が彼女を引き取ったのは、事故の責任からではないと明確にしておかないと不味いでしょう」
「ふん」
「それに下世話な話ですが、彼女の遺産が目当てと思われても……」
「……遺産? 愚にもつかんな。邪見っっ!!」


 話を打ち切る様に、一声大きくこの屋敷の取り纏めをしている者を呼ばわった。


「はい、殺生丸様」
「りんを、部屋に連れて行け」


 あたしはその、邪見と呼ばれた小柄なおじいさんに促され、その部屋を後にした。


 
 あたしの部屋は階段を上った三階、左から二つ目。


 
 小じんまりとした、ホテルのような部屋。
 背の高い窓には、飾りの付いた格子が出窓のように嵌っており、窓を開け放しても、外に落ちないように配慮されている。天井も高く、天窓には淡い色彩のステンドグラスが光を彩っていた。
 部屋の調度は、落ちついた色合いの堅そうな木で作られた寝台と洋服箪笥と、りんが使うにはかなり大きめの何の飾りもない書斎机。
 りんの眼を引いたのは、、机の上に置かれたのガラスのスタンド。これもステンドグラスみたいにきれいなお花が描かれていた。堅いそうな木の枠組に硬質ガラスを嵌め込んだテーブルが唯一、季節が夏だと物語っていた。
 どの調度も時の重みだけが醸し出す、重厚な艶を放ち……。
 開け放した窓からそよぐ風が、白孔雀の尾羽のようなレースのカーテンを翻し、場違いなりんをどこはかとなく拒否していた。


 そう、ホテルのような…、仮初(かりそめ)の空虚な空間。
 生活と言うものを感じさせなかった。


 後で知った事なのだけど、この数え切れない程、沢山お部屋のあるこのお屋敷に住んでいるのは、この館の主の殺生丸様と邪見様のお二人だけで、後の使用人は通いの者ばかりだった。


 部屋に通されたあたしは、邪見様の言われる通り部屋に設えられたテーブルの横の椅子に腰掛けた。テーブルの上には、グラスに入れられた氷も涼しげなアイスココアと、口どけの良さそうなクッキーが添えられていた。それを食べろと、邪見様が目で促す。あたしはクッキーを一つ、口に入れた。


「あの……」
「うん、なんじゃ?」
「あたし、どうなるの?」
「うむ、お前は今日からここで暮らす事になる」
「どうして……?」
「あー、うむ…。お前は、今のお前の状況を把握しておるかのぅ?」
「…状況? 把握……?」



 大人の話は、どうしてこう難しい言葉が一杯なんだろう。



「……少し、いや物凄く辛い事かも知れんが、よーく聞くんじゃぞ。いいな、りん」
「う…、うん」
「……うむ。お前は今、天蓋孤独の身じゃ。判るか? つまり一人っきり、と言う事じゃ」
「……うん」
「普通、そう言う子供は然るべき施設へ行くものじゃが、お前の場合ちと勝手が違ってな。お前に残された遺産と言う荷物が、今のお前には重荷過ぎたのじゃ」
「…………」
「……まぁ、そんな所も気になったのだろうのう。殺生丸様がお前を拾う気になられたのも」
「……あたし、拾われたの?」
「ああ……」

 邪見様は箪笥の中を開け、あたしの為に用意された洋服などを見せてくれた。机の中にも、学校で使うのに必要なものが全て揃っている。


「……ここから通うとなると、学校も転校せねばな。こちらは新学期から転入出来る様、もう準備はしておるがな」
「転校…? りん、お友達とも別れるの?」
「仕方あるまい。お前はもう、ここで暮らすのじゃからな」


 りんの周りから、りんの『元』の生活が全て消えてゆく。


「……嫌って、言っちゃダメ? だって、りん……」


 折角止まりかけていた涙が、また溢れてくる。


 ……お父さんもお母さんもお兄ちゃん達も死んだんだよ、と聞かされた時、あたし、泣けなかった。
 涙が出てこなかった。


 嘘だと、思った。


 本当だと判っても、『心』が凍り付いて、自分の事じゃないような気がして……。


 あれから何日か経ってりんの体の痛みが薄れてゆくのと反対に、『心』がズキズキと痛みだしてあの時流せなかった分、より以上に涙が溢れる。 


「りん、お前が嫌だと言うてものう、施設に入ればやはり転校はせねばならんのじゃぞ?」


 あたしはスカートの裾をぎゅっと握り締めた。


「……悪いようにはせぬ。殺生丸様にお任せしてみよ。お互い似た境遇であるからな」
「……似て…る? あたし、と?」
「ああ、殺生丸様も早くにご両親を亡くされてな。お早いうちからこの屋敷を始めとする莫大な『遺産』を背負われたのじゃ。りん、お前の負うておるものなど、微々たるもんぞ」
「……………」
「また、お前と違って小狡い『親戚方』も多かったからな。まるで、死肉に群がる、ハイエナどもじゃ! 一癖も二癖もあるお歴々と、まだ学生の身でありながら堂々と渡り合ってきた。今ではもう、誰も異を挟む事なき、御当主様じゃ」
「殺生丸様……」
「まぁ、その所為で極度の人間嫌いになってしまわれたがな。りん、お前にご自分の幼い頃を重ねられてるのやも知れんなぁ」
「りんと、一緒……?」


 りん、一人ぼっち。


 殺生丸様も?


 だから……?


「疲れたろう、りん。ワシが呼びに来るまで、この部屋でゆっくりしとれ。迷子になるから、部屋から出てはならんぞ」
「あっ、あの……」
「うん、なんじゃ?」
「りんの名前、どうして知ってるの?」


 只でさえ大きな金壷眼を更に大きくして、りんをまじまじと見詰める邪見様。


「……養い子の名を知らぬ、養い親があるものか。よいか、りん。今日から『ここ』がお前の家だ」


 ぱたん、ドアが閉められて、邪見様は何処かに行かれてしまった。
 あたしは一人ぽつんと、部屋の中。


 色んな事がありすぎて、何も考えられない。
 りんの頭、バカになったみたい。


 
 でも……。


 
( ……不思議だな。殺生丸様にも邪見様にも、『りん』って呼ばれてなんだか懐かしいような気がしたの。初めてあった人達なのに、どうしてかなぁ? )


 そんな事をぼっーと考えていたら、いつの間にかあたしは眠っていた。

 

 


  ――――― 煩雑な手続きを弁護士に押し付けると、私は書斎へ篭った。


 
 書斎と言うよりも、書庫と言った方が正確なのだろう。
 半地下のその部屋は、四方の壁と部屋の中央に四列、書棚が据え付けられている。
 空調が利いてるから、夏だろうが冬だろうが半地下でも構いはしない。
 書棚の上、部屋の天井近くから四角い夏の日差しが切り取られた様に入ってくる。


 この部屋では【光】も【影】も密度を増し、固体のように存在する。


 光の光度が高い分、その光が遮られ生まれた影は影としての濃度が濃い。ドアのすぐ側に少し空間があり、そこに仕事も出来る様に一式のものを揃えている。
 私はそれらの物には手を触れず、机の上に肘を突き顔を半分隠す様に手で口元を覆うとこの部屋の一番奥にある、その【影】を睨みつけた。


 
 ――――― 初めて見た時から、変わらない。



 影の中に浮び上がる、自分と良く似た【人で無いモノ】の幻影(かげ)。
 不敵な笑みを、この若き当主に投げ返す。


 
「……これが、望みか」


 発せられた言葉は、どちらの口から零れたものか。


「……あれは、不幸な娘などではなかった。お前が求めた、親兄弟と死にはぐれ、心貧しい村人に塵芥(ちりあくた)のように扱われた挙句、狼に食い殺されたような、そんな哀れな娘では!」


 
 ……幻影(かげ)の、異形の者である金の眸が微かに眇められる。


 
( ……今まではな )


 
「……っっ!! あのまま放っておけば、そうなっていたと言いたいんだろうっっ!! ああ、確かにそうかも知れん。だから、引き取る事にした。だが! これだけは言っておくっっ!! あれは、あの【りん】は、お前が求めている【りん】ではない!」


 
 幻影の口許が、冷笑を形作る。


 
( …それを、お前が言うのか。【殺生丸】 )


 
「 ―――― っっ!!! 」


 
 影の中に佇んでいたその姿が身動ぎ、一歩、【光】の中に足を踏み入れる。
 夏の日差しに煌く銀、突き刺さる金。姿を形作る輪郭は光に融ける。


 
( ……過去世と今生、ともにあれに拭えぬ咎を負う。どれほどの罪咎を重ね様と、求める心は止まぬ )


 
 さらにもう一歩。
 時代掛かった装束に、腰に帯びた太刀、ニ口(ふたふり)。
 その額には、鮮やかに浮び上がる月の紋章。



「……私が【お前】ではないように、あれも、お前の【りん】ではない! 迷うなっっ!! 亡霊っっ!!!」


 
 既に、光の中にその姿を融かしつつ、嘲るように言い捨てる。


 
( ……同じ【魂】だと言うに、人間の身ではなんと感情的な事か。忘れるな。あれの現状(いま)は、【殺生丸(お前)】が望んだものだとなっっ!! )


 その言葉の有する恐ろしさ。
 それを否定するように、ばんっっと目の前の机を叩く。
 書斎に響くその音が消える前に、幻影は掻き消えていた。


 重い現実を、突きつけたまま。

 


 ―――― 言われるまでもない。

 


 そう、求め続けていた。
 『何か』を。


 
 まるで、無くした体の一部を捜す様に。
 自分が自分である為に!
 無限の苦しみに思える、この魂の飢えや渇きを癒す者。


 
 私の傍らに、在(あ)るべき者を。

 


 だが……。


 
 ……私が望んだ故に、あれは一人になった?


 
 あの事故は、不可抗力。
 あの時まで、私はあれがこの世に存在(いる)事も知らなかった。


 
 ……ただ ――――


 
 そうどんな事をしても、私の側に、と ――――
 どこに居ようと、何があろうと、この手にあれを ――――


 
 あの事故を、【りん】の家族を、幸せな日常を奪ったのは、私のこの想 いか?
 私の、そして【あいつ】の永い思念故(ゆえ)。

 今生において、私の想い故に家族を奪い。


 過去世において、その想い故にあの娘に「人で無い」生(せい)を送らせ、その身を引き裂き ――――


 繰り返しては成らぬと思い。
 それでも、お前を求め。


 この想いは既に彼奴(きゃつ)のものか、吾(われ)のものか、定かにならず ―――――


 心は、ただただひたすらに……。

 

 

 


 ……どうしてだろう?


 どうして、こんな事を思い出したのかな?
 二階と三階を繋ぐ階段の踊り場にある、背の高い窓。
 見上げるくらい上の方に半円形の飾りがあって、下の方はあたしの膝頭よりも下で。この窓からの光で、この踊り場はとても明るくて。
 窓に嵌ってるガラスは古いものらしく、厚みのある分透明度が低くて、窓越しの景色は良く見えなかった。


 そこにあるのに良く見えないのが何だか気詰まりで、窓を開けて風も入れた方がもっと気持ち良くなれそうで。
 古くて大きいから重たくてなかなか開かないんだろうと、うんうん言って開けようとしていたら、後ろから邪見様に笑われた。


( そこは明り取りの為の窓じゃ。開きはせぬよ )
( え〜、明り取り? じゃ、窓じゃないんだっっ! それならここになくても…… )
( 何を言う。なくば足元が暗かろう? 高さがあるからのう、お前のような粗忽者が落ちぬとも限らんじゃろ? さ、早よ降りて来い。食事じゃぞ )
( ん〜、でもぉ〜 )
( ほれ、りん。行くぞ )

 


 ――――― だって、息苦しいんだもん。

 


 そこにあるのに、触れられない。
 そこにあるのに、風の声も聞こえない。
 そこにあるのに、よく見えないよ……。

 


 最近あたしは、夜中に体中が痛くなって目が醒める事がよくある。
 あの時のように、あたしの周りが病院の真っ白な壁な訳でもなく、一人でもないんだけど……。


 
( ああ、息苦しい…… )


 
 どうして?



 こんなにも近くに触れ合っているのに、何を考えているか判らないよ。
 【声】が聞こえない。
 りんの名前を呼んでくれるのに、でも【声】が聞こえない。


 りんの奥まで、嵌め込まれてるのに。
 銀の髪が、りんを覆っているのに。


 
 苦しい、苦しい、苦しいよ ―――――   殺生丸様っっ!!


 
( ああ、何て言ったっけ、あの窓…… )



 
 そう……。



 そう、確か…… 【嵌め殺し】。

 



 ……りん、また殺されちゃうのかな。



 ねぇ、殺生丸様……?

 



【完】
2004.07.10

 

 

【 あ と が き 】


…「言葉萌え」で書き始めたSSの予定でしたが、仕上がってみると通
常の作文とほぼ変わらない長さになってしまいました。当初の予定では、
冒頭の7行と、文末の「 ―― どうしてだろう?」からだけの文章だ
ったのですが^_^; 本当、普段が情景描写を割愛しまくりですので、ち
ょ〜と書いて見たら、こんな事になりました。


【嵌め殺し】…、凄い言葉ですよね。


何故この言葉が私の頭を過ぎったか、経緯は定かではありませんが、多
分「ああ、そろそろ窓掃除でもしなきゃ。」なんて事を思っている時に
でも、ひょこっと浮んで来た言葉だろうと思います。
で、それを転がしてるうちに、あれあれあれ〜っっ??? と。


これも、先に書いた「夾竹桃」の影響を受けていますね。それから続く
「狂夜」が救い様の無い話になる予定なので、こっちは出だしは暗くと
も、救いのある方向に持ってゆきたいな、と思っています。





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