パソコンと私,この14年

  1. 初めに

  2. 1982年春 (パソコン購入にいたるまで)
  3. 1984年冬 (パソコン教師と「噴煙」)
  4. 1985年夏 (ソフト時代と違法コピー)
  5. 1988年冬 (ゲームとドラクエ)
  6. 1989年秋 (例文収集と辞書騒動)
  7. 1992年秋 (電子辞書と教材研究)
  8. 1992年秋 (ニューメディアによる授業のあり方:パソコン通信に寄せて)
  9. 1995年春 (HANDBOOK作成とCD−ROM)
  10. 1995年秋 (これからのパソコンと英語教育)

1 初めに

 初代パソコンを購入して14年が経った.最初にパソコンを購入したのは初任校である須坂商業高校の最後の年であった.何か幸運なことがある時にはいくつかの要因が重なるもので,当時まだマイコンと呼ばれ,当時,県の何かの調査では英語科職員としては5人しか所有していなかったパソコンを購入したのもいくつかの幸運な条件が重なった.1つは初めての卒業生を送り出したこと.新卒の私の力量,当時の高校生を取り巻く雰囲気(ナメンナよ猫や横浜銀蠅がはやっていた)などもあって,卒業生を送り出したことは私にとって大きな節目であった.それに20代最後の年でもあった.現在となっては年齢の区切りなど考えたくもないし,できたら避けて通りたいが,当時はそれも何か新たな挑戦のきっかけとなった.商業高校にいたことも幸いした.職場に電算機が導入されたり,クラスの引率で情報センターのプログラムを横目で見たりしたことも遠因となった.そんなわけで1982年の3月にほとんどなんの予備知識もないままにパーソナルコンピュータを購入した.


2 1982年春 

(パソコン購入にいたるまで)

 私はパソコンを購入してしまうまで,パソコンはテレビやステレオと同じだと思っていた.すなわち,A社でもB社でも値段や機能は変わっても扱い方そのものは変わらないと思っていた.そこで,モニター,記憶装置(当時はテープレコーダ),本体は一体型が良いと思い,購入直前に一般紙に広告が出たシャープのMZ80Bという機種をほとんど値引きなしで購入した.(それも文房具店で!?)

 さて,パソコンで何をするのか.私は高校では電気科の属した理系落ちこぼれで,ゆえあって英語の専攻をめざした.そこで大学入学に際してはとにかく英語の力をつけたい.技術としての英語力をしっかり身につけたいと考えた.電気を捨てたことで,英語に身も心も打ち込みたいと思えるようになったのである.そこで,20代にはいろいろな研修会にも参加したし,英語力を証明するような試験もいくつか受験した.それでも単語はなかなか覚えないし,もの覚えの悪い状況は悪化することはあっても改善の見通しはなかった.そこでデータベースができないかと常々思っていた.そんなことができるのかどうかわからないが,自分が読んだり,触れたりした英語を一括管理して,見たいときに見たり,練習問題のようにして,英語力増強の一助となりはしないかと考えていたのである.パソコンをいじっていた同僚の先生に聞いた見たところ,「できるんじゃない」とおっしゃった.メモリ32キロバイト(標準で16キロ,最大64キロといえばびっくり),8ビットのCPU,データの記録には信頼性の高いデータ専用テープとテープレコーダ,日本語漢字プリンターといえば20万はし,カラーモニターも20万円以上.そんな時代の話である.


3 1984年冬 

(パソコン教師と「噴煙」)

 パソコンは購入した.付属品はBASICというプログラミング言語だけであった.当時ソフトという概念そのものがなかった.パソコンを購入したら,プログラムは自作するか,人の作品を自分で打ち込むしかなった.そこでBASIC入門といった本を何冊か購入し,プログラミングの勉強を始めた.目標は英文の処理であったが,まずは基本.最初は合計,平均,並べ替えといった成績処理にうってつけの処理の学習から入った.私のパソコンは漢字を表示することはできなかったので,アルファベットとカタカナを駆使してプログラムを作ることになる.須商での1年はそんなことに費やした.

 購入2年目の春は新婚で2校目の木曽高校で迎えた.木曽高校へ赴任したことも大変ラッキーであった.赴任した直後はそれほどコンピュータのできる人はいなかったが,次から次へとパソコンを操る人が加わり,パソコンに関する情報には不自由しなかった.その後現在勤務している飯田高校に赴任したが,木曽高時代の陣容は望むべきもないという状況が続いている.木曽高での出会いには感謝することが多いが,「噴煙」という職員文集も存在も忘れるわけにはいかない.「噴煙」は職員の自発的な文集で,毎年会員を募って3月に会誌を発行するというものである.生来字が下手で文章などと言うものを須商時代には1度も書いたことがなかったのに,この会誌に文章を書くことになった.そのころにはワープロのはしりのようなソフトも手にしていたので,自分の字の下手さ加減をさらす恐れはなくなっていたが,とにかく人前に文章を発表すると言うことは大変な経験であった.職員文集というのは当然小説を書いたり,作品批評といった国語科の先生もいれば,自分の普段の研究を発表する理科の先生もいる.すなわち様々な読者いるわけで,読者を特定できない文を書くことには大変な困難が伴う.

 ともかく当時の最大関心事はパソコンにあったので,パソコンについて文章を書くことにして,書きたいだけ書いてみた.ところができあがった文章は「英語教師とパソコン活用」といった内容でとうてい文芸作品集の趣のある「噴煙」にはふさわしいものではなかった.せっかく書き上げた文章であるので捨てるのはもったいないし,「噴煙」にはちょっと【専門的】すぎるし,などと考えているうちに,今となってはその具体的な経緯はすっかり忘れてしまったが,購読している「英語教育」(大修館)にこの原稿を送った.投書のつもりで送ったのか,なんのつもりで送ったのか,本当に現在では覚えていないが,プリントアウトした資料なども添付して送ったところ,しばらくして「採用したい」という返事がきた.この決定はずいぶん早かったようで,その年(1984年)6月号に特別記事として掲載された.この記事の内容については拙著「英語教師の快適パソコンライフ」(研究社,1991年)の冒頭で触れたので,省くが,当時に予感したことが,不思議と10年経っても変わっていないことに驚く.

 「噴煙」の原稿は「パソコンシンドローム」と称して,一般職員でも読んでくれそうな内容にかえて書いてみた.木曽高在職中は毎年1月になると,「パソコンシンドローム」というシリーズにして寄稿した.「噴煙」は結構な話題を職員に提供して,その年の3月の飲み会では必ず噴煙の文章が話題となって,ああでもない,こうでもない,とおもしろおかしく話し合ったものである.現在では木曽高に流れていた活力に心から感謝している.


4 1985年夏 

(ソフト時代と違法コピー)

 パソコン黎明期にはパソコンはただの箱で,中身のプログラムは自分で調達するのが原則であったから,当初は成績処理にしても英語プログラムにしても自作のプログラムを作った.1度文化祭ではCAIなどとはとうてい言えないような,単語当てゲームを自作して文化祭に提供してみた.画面上部に単語が出て,それにあたる日本語を画面下部の4つの選択枝から選ぶもので,正解すれば「笑顔」が,不正解の場合は,音と「泣き顔」が表示されると言う全く原始的なプログラムであった.家庭での静かな時間もとれたこともあって,「笑顔」作成に数時間,「泣き顔」に数時間といった時間のかけようも気にはならなかったが,こんな家内工業的なソフト制作は長続きしないだろうと思っていた.私の友人には漢字を1字ずつ制作したという人もいたが,私もそれに及ばないもののワープロソフトを入力して,辞書を作り出したこともある.ところがある時,当時ベストセラーであった「文筆」というワープロソフトをコピーしてもらったら,この快適な操作性に自分の今までの自分の労力が一気に吹っ飛んでしまった.○○万円もするソフトが瞬時に,なんの劣化もすることなく,完璧にコピーできるのである.コピーの偉大さにびっくり仰天してしまった.

 1983年「日経パソコン」というソフトを中心に紹介する雑誌が登場してから,パソコンは急速にプログラミングからソフトの活用へと移行した.ただし,ほとんど目に見えない知的生産物に何万円も払うことはできるなら避けたい,というので,そのソフトのほとんどはコピーであった.自分で2万も3万もするソフトを購入しても全く使いものにならずに捨て去る,などという経験もしてソフトはコピーに限る,といった状態になったのである.

 1985年から「日経パソコン」でコピーの違法性に関するキャンペーンが始まった.それまで全く罪悪感もなくコピーを繰り返していたので,このキャンペーンはいささかショックであった.なんといってもソフトは高価なもので,9万とか15万といった値段が付いていたのである.

 こうしてコピーしたソフトの中にdBASEUという当時購入価格で16万円もしたソフトが含まれていた.このソフトはいわゆるデータベースソフトで,文字数がアルファベットで255文字と制限があったものの,単語帳のようなものを作ったり,読書の記録,住所録などデータの管理ができた.自分でソフトを作っていた頃には考えられないくらい,簡単に入力,印刷,検索,並べ替えができた.パソコンを購入して4年めにしてようやく本格的なデータベースの入り口にたどり着いた.


5 1988年冬 

(ゲームとドラクエ)

 パソコンとゲームは切っても切れない縁にある.私自身もピンポンゲーム以来ビデオゲームには興味を持っていた.パソコンを購入してからも麻雀ゲームやボールゲームを自分で入力して動かしていたりした.ファミコンが登場する前のパソコンゲームはやはり黎明期にあり,様々なゲーム形式がアメリカで登場するところだった.雑誌で紹介される Adventure Game, Simulation Game, Role Playing Gameという英語に響きには何か,単なるゲームという域を越えた高尚な響きがして,強く引きつけられた.ゲームの広まり具合では,まず戦略などをめぐらすSimulation Gameが定着し,その後Adventure Gameが登場した.初めてテレビの番組を通じて見たMystery HouseというAdventure Gameは恐ろしく魅力的に思われた.何しろ Open doorと画面に打ち込むとドアが開いたり,use keyと打ち込むと鍵がはずれたりするのだ.この「動詞+名詞」という命令形式から,当初は英語以外でAdventure Gameを作ることは不可能などと言われたりしたものだ.そして真打ちがRole Playing Game,略してRPGというゲームジャンルだ.最初,このゲームシステムがなかなか理解できなかった.アメリカではサラリーマンがこのゲームに夢中になって夫婦仲に危機が生じているとまで言われたこのゲームのおもしろさがわかったのは,日本では初めて大ヒットとなったハイドライドである.その後いくつもこの種のゲームをやり,アメリカのサラリーマンと同様に夫婦の危機に何回も直面した.

 83年にファミコンが発売されると瞬く間に普及して,様々なゲームがファミコンへと移植された.そしてドラゴンクエストというRPGが社会現象になるまでに売れて,世間で騒がれるようになった.通称ドラクエの続編の発売日にはかつ上げ,盗難,学校のさぼりなど社会的な事件にまで発展した.88年のことである.実は読もう読もうと思い何回も挑戦し,途中でとん挫している本に「指輪物語」(トールキン)がある.指輪物語はルイスの「ナルニア物語」とならんで西洋ファンタジーの本流とされるもので,RPGは2冊の舞台設定に大きな影響を受けている.当時RPGはたくさん経験してが,英語教師でこんなにゲームをやっているのはいないだろう(?!)と考えて,ドラクエ騒動の機をとらえて,「ドラクエ,ファンタジー,英語教育」という1文を「英語教育」に投稿した.なんとなくこじつけに思われるかもしれないが,ドラクエの源流になったRPGやその背景を英語教師に紹介したかったのである.


6 1989年秋 

(例文収集と辞書騒動)

 パソコンのソフトが定着し,使えるソフトが登場するようになって,当初めざした英語データベースに本格的に取り組めるようになった.ペーパーバックはできるだけ読もうと心がけていたが,それほど読めるわけでもなかった.ただ,読みっぱなしというのなんかもったいなかったので,読んでいるときに引いた単語や,表現を入力するようになった.

 木曽高では1年次に文法の時間があり,この文法を何回か担当するようになった.しばらくすると文法テキストに登場する例文の陳腐さがどうも気になるようになり,こんな例文ならもっといい例文がありそうだ,などと考えるようになった.そこで,授業で使える例文集を集めたらどうかと考えた.そんな考えを当時同僚であり,現県英研の事務局である片野先生に話すと,「それは言い考えだが,例文を集めるのもいいが,自分で作っちゃどうだい」と話された.例文は集めるものか,自作するものか.これは結構本質的な問題で,その後例文について考えるときには常に念頭に置いておかなければならない事項となった.

 翌年,現任校に転勤となった.1年目ということであったが,支部教研の発表が飯田にあたっており,その発表をしないかと言われた.木曽高時代は3校しかなかったので支部教研といっても思いつきでその場しのぎの活動をしており,レポーターなどというものを決めたことはなかった.とにかく良い機会だと思い「例文採取」についてレポートをすることにし,その年の夏は例文採取の為にひたすら英文を読んだ.

 支部教研が終わった直後に「欠陥英和辞典の研究」という本が出版された.「辞書の例文が悪い」といった趣旨のようであるので,広告を見た直後に購入した.ところが読んでみるとひどい本で,この本の為に怒りが爆発した.その為に発売元のJICC出版局に抗議の手紙を,研究社には激励の手紙を,そして「英語教育」のFORUMには「怒れ!英語教育関係者」という1文を投稿した.その後JICCに送った反論の手紙は研究社からの反論集に納められたが,JICCからは何の返事もこないばかりか,著者の副島氏にいたっては,その続編で「俺に黙って,研究社はコソコソとこんな冊子を配っている」などと書いてあった.「池上論文はとるにたらない論文だから相手にしない」というのはわかるにしても,その池上の抗議が,発売から1週間後になされて,編集部に直接送ったものであることには,なんら触れていなかった.「副島!ふざけるな!」と今でも思っている.


7 1992年秋 

(電子辞書と教材研究)

 実際に例文を入力してみるとこれには不断の努力が必要であることがわかる.何人もの人が分担して入力して併合すればそれだけ立派なファイル(データベース)ができることは確かであるが,それもままならないとなると,個人のデータベースで使いものになるものを制作することはかなわぬ夢のようにも思われてきた.そんなおり(1989年頃),ソニーから電子ブックという新しいメディアが発売された.電子ブックはCD−ROMという大容量記憶媒体で書籍情報を提供しようとするもので,現在も入手可能であるが,電卓のような,あるいは携帯テープレコーダのような形をした機械であった.この電子ブックをパソコン上で使用可能となるドライブが91年に発売されたので,早速購入した.なにしろ,「研究社英中和・和英」,「現代用語の基礎知識」「大辞林」といった辞書がパソコン上で引いて,他のソフトに移動できるのだ.研究社の英中和ではある単語を含む例文を全て(インデックスがついていれば)表示して,その中から希望の例文を選んだりできる.

 CD−ROMの大容量,検索性などと実際に体験してみると,ちょうどプログラムを作るより,出来合いのソフトを購入する方がはるかに効率的で優れているように,自家製のデータベースは市販のデータベースにはかなわないだろうと実感した.「これからはCD−ROMの時代ですよ」というのが,しばらくの合い言葉であった.


8 1992年秋 

(ニューメディアによる授業のあり方:

             パソコン通信に寄せて)

 91年に「快適ライフ」を出版してからは,時々,原稿を依頼されるようになった.92年の「英語教育増刊号」(大修館)では,「ニューメディアによる授業のあり方」というお題をいただいた.それ以前にも依頼されて書いた原稿もあったが,基本的には「書きたいときに書きたいことを書く」というスタンスであったので,お題をいただいて書くという苦しみというかプレッシャーというのはことの他大きかった.

 パソコン通信自体は1985年頃アスキーが始めて,その後急速に普及して,「パソコン通信してます」といった記事も多かった.私自身はパソコン通信には懐疑的であった.まず対費用と効果という大切な問題があったし,「パソコンはおもしろいですよ」と連呼する人たちに,自分が参加していないという潜在意識からか多少反感を持っていた.ところが原稿の依頼があったので,「ニューメディア」にパソコン通信が入らないのは片手落ちだろうということで,モデムを購入し,NIFTYという商業ネットワークに参加した.

 95年の6月に通信に加入して4年目を迎えた.多少発言をしたこともあったが,現在は週に1度ほど,英語教育,英語学習に関するフォーラムを覗いている程度である.フォーラムを読むと刺激を受けたり,勉強になることも多いが,書き込みを始めるのはある意味ではマラソンに参加するようなものである.一度走り始めたら立ち止まることが許されない世界だと感じている.すなわち中途半端な関わりが許されない世界だ.長野の先生にも参加している人もいるが,大概,フォーラムは少数(2名から5名)の常連とゲストとなる人,数名(おおければ10名を越えることもある)で構成されている.常連の人は走り続ける人である.その他の人は,ある一時期積極的,精力的に書き続けて,忽然と姿を消していく人たちである.一つのフォーラムの登録者は何万人といるので,実際にはその中のほんの一部の人が活動しているだけである.

 そんなわけで通信そのものに対しては決してアクティブなメンバーではないのだが,通信で交わされている情報は紙の情報よりははるかにはやく,臨場感があるので,貴重な情報収集の場であることにはかわりない.また,電子メールは大変便利である.原稿送付などはこれを使うと速達よりはるかに「速く,安く」届けることができる.

 100万人を越える会員を集めるようになった通信は一般化したせいか,現在の話題はINTERNETである.INTERNETに対しても,パソコン通信に感じたことと同じような反感を持っているが,ネットワークが世界まで広がったこと.英語の世界であることが決定的に違うかもしれない.ただ,NIFTYにある英語専用ネット,NETICの経験からすると,やがて,そのあふれるばかりの英語情報でおぼれ死にそうになるだろう.

 もっとも私が当初パソコン通信に抱いたり,現在INTERNETに対して抱いている反感に近い感情は持たざるものの持てる者への反感に近い.従って,私が「パソコンはいいよ」とか「これからはCD−ROMだ」などというのも,少なからず反感を買っていることと思う.最近では,やみくものパソコンを薦めることはやめた.文書作成にしか用途がない場合はワープロで十分だから,無理にパソコンを薦めても意味をなさない場合もあるからだ.


9 1995年春 

(HANDBOOK作成とCD−ROM)

 90年代に入って,「パソコン伝道師」のようなことばかりしていたので,本当の道具として成熟するためには,パソコンが表に出ないような活動が必要であろうし,実際そういうことが可能になった.パソコン使用を前提とした仕事を考えるといろいろな仕事が違って見えてくる.また,パソコンがなかったらしないであろうような活動もしたくなったりする.

 94年に飯田高校2回目の担任になるにあたって,単語帳を作ることにした.THE Crown Englishを教科書として選定し,この教科書に登場する単語の多さ,難度の高さを考慮して,教科書準拠の記入式単語帳を作成し,その単語帳をもとにドリルを実施することにした.

 単語帳の制作手順は以下の通りである.

1. 教科書を読み,生徒が困難を感じる単語をピックアップする.

2. その単語を含む英文を入力する.

3. 単語順に並べ替えて,重複する単語で意味が同じものは削除する.そうでないものはリファレンスをつける.

4. 当時,発売されたばかりの「新グローバル」をもとに,重要度,意味の分類,例題などを入力する.

5. 教科書順に並べ替えて,ページレイアウトを作成し,印刷する.

 この単語帳は実は生徒にはあまり評判がよくなかったが,市販の参考書,単語帳を使わずに自前の,「飯田高校用・・・」を作成した意味は大きかった.

 制作費はA5判変形,200ページで600円であった.

 今年度はCrown U用にHandbookという予習ノート兼ワークブック兼補助教材(読み物,文法問題)を作成した.これには担当の3人の先生方にも加わってもらい,B5判300ページという大夫なものが完成した.制作費は1冊あたり,1200円.手作りの採算度外視のゆえにできたもので,商業出版ではこのようなhandbook制作はありえなかったことだろう.

 ところでこのhandbook制作に際してはCD−ROMが大活躍した.電子ブック+ソニーのプレイヤーという時代から,音と映像それに文字情報という本格的なCD−ROMを94年に購入した.CD−ROMの先進性は触ってみないと体感できないが,とにかく膨大な情報から必要な情報を取り出して,それをワープロに貼り付ける.(この場合はHANDBOOK)これによって,生徒にとって必要となる背景知識を十分に与えることが可能になった.そこまで教師がしてやる必要があるだろうか,という疑問もあるだろうが,授業前に個々の教師がプリントを用意して配布するよりは,効率的に背景知識を与えられることは確かだ.英語科のコンピュータというのもあるが,このコンピュータにも数年がかりで,CD−ROMドライブとCD−ROMタイトル(百科事典やその他もろもろの辞書)を揃えた.そのうち,研究室の同僚が触ってくれることを期待している.


10 1995年秋 

(これからのパソコンと英語教育)

 自分のパソコン歴を披露するのにずいぶんの紙数をさいてしまった.パソコンに出会って14年.パソコンのハード,ソフトの進歩に伴って自分のつきあいかたがずいぶんと変化してきた.現在は9の段階であるから,パソコンを全面に出さずに,パソコンがなかったらできなかったような活動をしたいと考えている.具体的には手作り教材の充実である.英語科が生徒に買い与える教材はすさまじいものがある.それによって多くの出版社が収益を得,素晴らしい参考書,問題集が登場しているわけだが,パソコンを効率的に活用すれば,市販の教材に劣らない内容,体裁の教材の制作が可能である.その為にはもちろんパソコン以外の英語そのものに対する英語力も問われるわけだが,もともとある程度の英語力なくして,英語教師としてのパソコン活用は存在しないと考えている.

 私がこれまで14年のあいだ飽くこともなくパソコンとつきあってこられたのは,「パソコンで何をする?」の何の部分があったからだと思う.すなわち,その中心に英語そのものに対する情熱(というのはおこがましいが),こだわりがなければ,パソコンそのものの興味も急速に薄れたであろうし,埃をかぶってしまったことだろうと思う.まさしく英語あってのパソコンである.英語を中心にして,パソコンを使って何ができる,という視点が必要である.もっともこのことは拙著で十分に書き尽くしてしまったが.

 もう一つ,パソコン,というよりワープロをやって良かったことは,自分が発言する手段を得たことである.大学時代,オリベッティのタイプライターに出会う前は,私は字を書くのが遅く,そして恐ろしく汚かった.それがタイプ,ワープロを経験することによって,自分の思考とほぼ同程度のスピードで言葉にできるようになった.木曽高で「噴煙」の洗礼を浴びたことと,ワープロソフトの進化に立ち会ったことで,言葉を持つことができた.今日,こうして県英研の会誌原稿を長々と書いているのも,まさしくそのおかげであり,私にとってパソコンと出会った最大の収穫かもしれない.