この稿を起こすにあたってまず,「ニューメディア」の中身を限定する必要を感じた。私の道具であるパソコンにはソニーのDD-DR1というパソコン用ブックマンが接続されている。これも新しいメディアである。すでにご存じの読者も多いと思うが,CD-ROMという大量に文字情報その他を記録できるメディアに辞典・辞書などの情報を記録して,電子情報として提供しているものである。
この電子辞書の登場により旧来からあった,見出し語を引くという引き方に加えて,語尾で引く(「日本語逆引き辞典」のように),そして,キーワードを頼りに引く「条件検索」が可能になった。さっそく『現代用語の基礎知識電子フック版』でニューメディアを「条件検索」してみた。該当項目は16件あり,そのさすものはおおよそ次のような文脈である。
コンピュータにデータベース化し,端末機と電話回線に結び,利用する…電気通信'というネットワークとコンピュータという“頭脳"がインフラとなり,光通信による,VAN,キャプテン,ファクシミリ,移動体通信…ビデオテックス…スケッチホン,テレビ電話…CATVセンター,テレトピア計画,テレコムプラザ,双方向CATV,高度情報通信システム…
この目の眩むような固有名詞のキーワードは「通信」にある。すなわちニューメディアは通信網を駆使した新たな「メディア」を指している。本稿ではこれら一般の「ニューメディア」の枠を大きく取り払って,旧来のメディアである紙による印刷物と黒板以外のものとしたい。
すでに一般化した音楽用CDであるが,今年,ある出版社から入試ヒアリング問題集がCDで提供されることになった。
CDの優位性は音質が劣化しないなど音響面の他,その検索性にある。すなわち希望の位置に瞬時に達することができる。かつて教科書でビバルディの「四季」を扱った時,解説書の「主題は○○秒のところ」という指示を頼りに,曲のテーマをほぼ瞬時に取り出して生徒に聞かせることができた。これは教室で英語の朗読を聞かせるときにも応用できる。従来のテープでは希望の場所を探すのにまごまごすることもあったが,教科書準拠CDが提供されれぱこの点でわずかであるが改善されることになるだろう。
今年は教科書会社から提供されるフロッピーディスクを利用している。私の使用しているディスクには本文全文,新出単語一覧,小テスト4回分,まとめテストが各課ごとにおさめられている。小テストやまどめテストにこれを使用するかどうかは意見が分かれるところだろう。現在のところこのテストを本校生徒用に整形して原稿を担当教師にまわし,利用については各担当にまかせている。
一方,教科書全文テキストをパソコンの英文解析ソフトにかけて,本文英文を検討する時などは自分で入力する必要がないだけに楽である。今回解析した英文の総単語数は1,200語にのぼった。テスト作成時に必要なテキストを切り出して,問題作成に使えば,これも時間と労力の節約になる。
さらに問題集付属プログラムも登場し始めている。これは範囲を指定して,問題形式,問題数を指定すれば,ランダムに問題と解答と場合によっては解答用紙を作成するソフトである。これを用いると時間が違うクラスでの小テスト,不振老の再テストにと,生徒にはうれしくないだろうが,短時間に同じ範囲のテスト数種を作成することが可能になる。
フロッピーで提供される文字情報もニューメディアといえるだろう。そして,この分野では英語科が先陣をきって導入しているようである。
NHK衛星第1で随時放送されているBBC,ABC,CNNのニュースは英語教育のかっこうの教材になることは他の言をまたない。すでに自宅で録画し授業に応用されている方も多いだろうし,私も文化祭特別企画「2カ国語放送をしもう」という講座を開講したこともある。
さらにビデオに英語字幕を表示し,パソコンのデータとして流用できるビデオキャプションがある。この機器を使った実践もすでに報告されている。これら身近な新しいメディアは派手さはないが,りっぱなニューメディアであるし,肩肘はらずに明日からでも導入,実行可能なことである。
LL教室が導入され始めて20年以上が経過した。4,5年前のことであるが,当時の勤務校で生徒にセサストリードを見せようと思ってテレビとビデオを麦室に持ち込んで授業をしたことがあった。新LL数室の教材提示装置を見て,これならTOEICの写真を見せて行うリスニングテストが可能になる,と夢をふくらませたものである。
それから十数年後,現在担当の3年生にビデオとテキストの並行学習という当時からすれば夢のような授業が日常の風景として可能になった。
この授業はテキスト(Unicorn Advanced English Readers UB:Lesson 3“The Eddy Duchin story")が映画『愛情物語』からの書きおこしであり,映画の台詞をかなり忠実に再現しであったこと,ビデオが入手できたことで初めて可能になったことだ。
教科書を読んだ後で,該当のシーンをビデオで鑑賞するという手順を踏んだ。
Eddy sadly screamed“Merry Christmas, Merry Christmas!" over and over again.
という,受験を控えた生徒が読むにはあまりにもなんの変哲もないことばも,スクリーンでタイロン・パワーが語ると息を吹き返す。Chopin's Noctuneのメロディーも頭に残ったことであろう。
この連続してLL教室を利用する授業は、別に特別の手法を用いたわけではない。黒板の代わりに教材提示装置を使い,読みの練習ではヘッドセットを利用し,何人かの生徒の読みをモニターした。また,自分の声を録音して練習することも一度であったが行った。どれもこれも10年の経験を有したごく普通の作業である。次の条件を満たしていれぼLL授業も「定着」したと言えるかもしれない。
●LL教室でなければできないか
●LL教室を使うんだ,という気負いはないか
●教科書からあまりはなれていないか
●生徒・教師ともごく当たり前に操作しているか
●必要に応じて機能を選択しているか
一方,次のような「LL教室定着度」をチェックしてみたらどうだろうか。
▼英語科スタッフの利用率
▼個々の教師の機能習熟度
▼使う機能の整理度・妥当性
▼LL教室の使用頻度
一時の「LL教室ブーム」を経て,現在,LL教室を使う教師と使わない教師に二分化しているのではないか。使ってもデープの一斉ダビング程度で終始している場合も多いのではないかと懸念している。
目下表記のタイトルに最も直結していると思われるのがコンピュータを20台から40台ほど設置した「電脳教室」,いわゆるCAIということになるであろう。新教育課程でほとんどの科目にわたって「情報」という言葉が散りばめられ,それは学校に設置された,もしくは設置されるであろうコンピュータを念頭においたものである。
CAIについては先進的に取り組んでいる学校もあり,その分析作業も盛んに行われている。大手通信ネットであるNIFTY(本誌通常号連載「英語教育ネットワーク通信」参照)のCAIの会議室「機器導入と利用の事例・設備・一般」では,中・高・大の教育関係者が入り乱れてCAIについて激論を交わしている。
主な論点は次のようなものである。
@コンピュータ利用がどの面で有効なのか
A) 学習とは何か,学ぶとは何か
B) 何を教えたいのか
C) 学習したときの効果とは何か
ACA1をドリルと演習と規定したとして,そのソフト作成に要する時間・労力と実際の効果とを天秤にかけた場合,はたして実行可能か
すなわち,CA1の人り□の教育の根幹にかかわる部分での話し合いが行われ,必ずしもCAlの未来に好意的ではないのである。
CAIがドリル&プラクティスの道具として使われるとすれば,そういった面が強い英語で使われることは大いに可能性もあり,また現実に進行している。ましてや今後登場するであろうマルチメディアの中心となるコンピュータでは,音声や映像も同時に扱えることになる。しかし,このようなことにいたずらに胸を躍らせる前に検討する課題はずいぶんあるようだ。
コンピュータを多数設置した「電脳教室」での操作は,LL教室での操作内容に比べて格段に複雑であることが予想される。LL教室も設置された年代により機能その他に相違があるが,コンピュータは過去においてもそして今後も設置する機種,時代により大幅な相違があるだろう。LL教室20年余の歴史を振り返れば,これからの「電脳教室」に英語教師が何を留意すれぼよいかはっきりしてくるだろう。
ニューメディアのもう一方の旗頭はパソコン通信であろう。すでに何本かのすぐれたパソコン通信を利用した実践が報告されている。その時間と空間を超えた新しいコミュニケーションは新たな可能性をたくさん提示している。
一方,通信を始めるには新しい機器と電話線が必要である。中継局が遠方にあれば高額の電話代を払わなければならないし,通信使用料もやがて請求される。他の機器や参考書は使用すればするほど「もとがとれる」のに対して,パソコン通信は使用すればするほど出費が増える。
これを公立学校に設置するとなれば,数少ない電話回線をどのように確保するのか,予算的位置づけをどうするのか。パソコン通信が英語教育にどのようにかかわれるのか,そしてその効果(もしあれば)をどう検証するのだろうか。他教科を巻き込んで説得していくには多大のエネルギーと学校外での経験が必要とされる。
「電脳教室」を中心としたニューメディアはこれから英語教育界の関心事の一」つの柱になるかもしれない。本稿のなかにも多数のモノの名前が登場した。ニューメディアがモノと密接に結びつき,さらにそれがモノヘの不満,要望,予算請求へと続き,英語教育の中心とは離れたことに言古題がいきがちである。さらにこうした新しいモノヘの適応力にはかなり個人差がある。「電脳」推進はとほうもな=い粗大ゴミを持ち込む危険性と隣り合わせである。ましてや教育の根幹の部分でさえ共通認識ができないような機材の導入に際しては慎重にならざるをえない。
いわゆるマルチメディアではコンピュータを基地として音・映像を自由に操り,限りなく現実世界に近い臨場感のある世界が提案されている。細心に練られたソフトウェアが登場すれば,一人一人の生徒が個々の進度状況に応じ,あたかも家庭教師に手取り足取り教わっているようなぜいたくな学習環境が構築される可能性もある。しかし,これらの実現には多大な経験の他に,カネやモノをまず前提として必要とする。
一般の英語教師がこのようなモノを追及し,環境を構築する日がはたして本当にくるのであろうか。確かに旧来の黒板,テープレコーダーに加えてさまざまなメディアが登場している。しかし,私たち英語教師はそのモノにことさら目を奪われることなく,まず「英語を教える」「英語を学ぶ」という視点を中心に据えて,そのために現在何ができるか考えてみたい。その素朴な願望がゆっくりであるが,着実な歩みで私たちの日常の授業を少しずつ変えていくことになるだろう、