(1) Raija Järvelä-Hynynen SEURASAARI : Kuvakirja ulkomuseosta 1992 ISBN:951-9075-48-8 Vammalan Kirjapaino OY
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フィンランドで木造住居という場合,そのほとんどが丸太小屋,即ち丸太組積造です。この丸太積みの家は,原始時代の稚拙なものから緻密なノッチング処理をした現代のものまで,長い年月をかけ大きな発展がありました。丸太小屋の発達は,フィンランドの場合「暖房・炊事窯」の発達と密接な関係があります。
時にはフィンランド南部でもマイナス30度,いえそれ以下にもなり,人は5〜6ヶ月もの長期にわたる冬を「暖房」なくして過ごすことはできません。暖房・炊事窯と家屋の発達は,厳しい冬をどのように快適に過ごすか,というフィンランド人の知恵の積み重ねを物語っています。
古代から近代までのフィンランドの暖房・炊事窯と家屋の発達を見て行きましょう。
(このディレクトリ内の写真・絵の著作権は,特記部分を除きすべてjussihにあります。)
年代 |
炊事・暖房器具と家屋 |
具体例 |
古 |
今のフィンランド人の祖先(元はシベリアのウラル山脈の西麓に住んでいた人々)がフィンランドに住み始めたのは,永い氷河期が終わった紀元前9500〜8200年ごろといわれています。その後徐々に数を増していきます。 |
突き立て棒小屋とその平面
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0 |
次の時代に行く過渡期には,棒を四角く縦に並べて泥土で覆った家屋(これをturvekota(トゥルヴェ・コタ)と言います。turve:泥土,kota:小屋)が現れます。棒を縦に並べるのは,突き立て棒小屋の建て方とよく似ています。 この住居の形は,1782(天明2)年にアリューシャン列島アムチトカ島に流れ着いた伊勢の大黒屋光太夫が見た泥土家屋によく似ています。江戸幕府は,その聞き取り調査を記録に残しています。 |
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500 |
後期鉄器時代から約1,000年あまり後になると斧で基礎部分を丸太積みし,建物の強度を増すと同時に高さを確保した住居が現れます。室内の真中に平炉があるのは,突き立て棒小屋と同じ構造です。
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上表の突き立て棒小屋→泥土家屋→簡単な丸太積み家屋の流れは,一つの時代が完結し,次の時代が始まったというものではありません。突き立て棒小屋を取って見れば,居住用ではないが20世紀初頭まで実際に洗濯用の湯沸し小屋として使われていました。次の時代の新しい形式の住居と並行して,パラレルに使用されています。
年代 |
炊事・暖房器具と家屋 |
具体例 |
1000 |
1100年代になると,南方から石をドーム状に積み上げた石積み窯(savu-uuni)とその中で調理する技術(オーブン料理)が伝わりました。同時に基礎から屋根まで丸太組積造(丸太を寝かせて積み上げる工法)の家屋の建築技術が伝わりました。
石を積み上げ,ドーム状の中で火を焚くと暖房効果が格段に増すことに注目されて盛んに作られた窯 かつて部屋の真中にあった炉は,石積み窯となって入口の近く,壁際に移り,居住性が良くなった。この形の建物は丸太組積造の原形で,現在でもスモークサウナ(フィンランド語ではsavusaunaという,savu:煙り,sauna:サウナ)として生き残っています。 ところでこのsaunaという語は,本来は小屋という意味で,まず住居,その他にheinätyspirtti(牧草地小屋),niity- pertti (干し草作り小屋),kalasauna(魚貯蔵小屋),kalapertti(魚の小屋)というように,pirtti,pertti,saunaは「小さな小屋,倉庫」を意味していました。従ってsaunaは浴用ばかりでなく,まず日常生活がそこで営まれ,時々浴用に用いられていたのです。西方ではいまだに浴用サウナのことをpirttiと呼ぶ地方もあります。 |
手前が突き立て棒小屋の名残り,奥が丸太組積造の1室住居 (セウラサーリ野外博物館)
入口近くの石積み窯 (セウラサーリ野外博物館)
石積み窯の発展形。手前が炉,奥がオーブン
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中 |
中世期以降,これまで石を積み上げただけの不安定な窯の石を,石膏を使って固定させる技術がボヘミアから伝わり,これと共に家屋の構造が大きく変わりました。 煙道(煙突)のない石膏で固定した煙窯(savu-uuni,savu:煙 uuni:窯,オーブン)を持つ特徴的な建築物(これを煙屋(savutupa)という。savu:煙 tupa:家,居間)がフィンランド西部から起こり,建築史上の一様式を形成しました。この煙窯によって室内でパンを焼き,炊事し,暖房がとれるようになりました。 右の写真は,一室住居の6分の1程を占める煙窯です。この窯の構造は,手前の焚口で火を焚き,底に3本の脚がついた鍋または自在鍵で吊るした鍋で煮物をします。奥の空洞で火を焚き暖房とパン焼きやグラタン料理などのオーブン料理をします。どちらも煙は奥に引き込まれます(引き込むのは,オーブン最奥から焚口の上にある排出口まで斜めに煙道が昇っているためです)。この排出口から出た煙は,その先に煙突がないため,煙は部屋中に充満し,呼吸が出来なくなります。 煙屋は床から天井まで,4〜5mの高さがありますが,これは十分に煙を室内上部に溜め込んで,一気に排出させる生活の知恵です。 充満してくると人々は,床に座り込み,歩くときは腰をかがめて歩きました。これ以上耐えられないところまで充満したら,天井に作った開口蓋から洞丸太(ウロマルタ)の木管を通して屋根から外へ排出させます。 写真の家は,1844年以前から建っていたものですが,室内は冬でも暖かく,ヘルシンキの野外博物館に移築された1909年直前まで実際に住居として使われていました。 煙窯の暖房能力は顕著なもので,1586年フィンランドを旅行したドイツ人旅行者は, 「フィンランドの住民は厳寒の冬でも室内ではシャツ一枚で生活している,煙窯は,朝夕一回づつ熱せられ,窯は部屋を一日中温め続け,上着は身を隠すためにしか用いない」と書き残しています。一度温まった煙窯は,溜め込んだ石から輻射熱が一昼夜以上も部屋中に広がり,排煙時の外気の流入によって一時的に寒い思いをする以上の見返りがあったのです。
1638年,都市化とともに石造建築が進んだトゥルク(Turku)であっても434軒の煙屋があったとの記録があります。
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石膏を塗り固めた窯(イマトラの野外博物館)
時代と共に窯も家屋も充実して ↓ このように大きく。
上記煙窯を持つ煙屋(savutupa)の外観。天井の高さにご注目! (セウラサーリ野外博物館)
これも煙屋(savutupa)です。白矢印が天井梁の位置で,窓の高さからも天井が高いことが分かります。青矢印は煙突ではなく洞丸太の排煙用木管です。(セウラサーリ野外博物館) |
1500 |
煙屋に代わって煙道(煙突)を持つ窯が作られ,西部フィンランドの貴族,ブルジョア階級から使用され始め,徐々に低所得層に,そして西部から東部へ,内陸部へ拡散しました。煙が室内にこもることがなくなったため,天井の高さは煙屋(savutupa)に比べ低くなりました。同時にガラスが安く普及し,ガラス窓を持つ建物が建築されるようになりました。 しかし,煙道を持つ窯は,最初ダンパー技術がなかったため,せっかく暖めた暖気を煙道から逃す結果,あまり普及しませんでした。内陸地方や東フィンランド地方では,依然として煙窯を持つ建物が1900年代初めまで建築され,使用されました。これは煙窯の暖かさに慣れた人々は煙窯を煙道付窯に切り替えようとはせず,敬遠したためです。 ダンパーは最初木製で,窯の火を落としてから焚き口全体に蓋をする構造のもの,煙道の途中でスライドさせて開閉する構造のものなどがあったが鉄製ダンパーが開発されてからは都市部を中心に煙道付き窯が飛躍的に普及しました。 鉄製ダンパー付の窯の建築方法は最初,西フィンランドの都市部で定着し,その後他の地方の都市部,そして農村部に伝搬した。 |
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1600 |
それまで1室住居だった家屋が,煙道付きの窯の普及によって,それぞれの目的のための部屋を持つ建物が,地主や貴族など金持ち階級から農民,小作人までもが造るようになりました(多室化の始まり)。 これは1つの窯を2つの部屋の間に置き,両側から使えるようにしたもの,4つの部屋を田の字に集め,その中心に窯を置いたものなどが工夫されたためです。 これによって炊事専用窯はリビング・ダイニング室に,暖房専用窯は客間,夫婦の部屋,娘の部屋などに設置されるようになり,窯が分化して行きます。
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1700 |
南フィンランド特にUusimaa地方,南Pohjanmaa地方では使用頻度の低い部屋を上階に配置した2階建ての住居や物置小屋や家畜小屋などの付属建物が都市型建築物をモデルにして建てられるようになった(多層化の始まり)。
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1800 |
都市の建物では住居ばかりでなく,事務所,商店,学校など多室,多層階の建物が作られるようになった。
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以上,フィンランドにおける木造家屋と炉・窯の発達を見てきました。もう一度「炉・窯の発達」と「家屋と間取りの発達」を一覧にして見てみましょう。
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