セウラサーリ 野外博物館写真集
SEURASAARI  Kuvakirja ulkomuseosta

 

   ここに1992年,フィンランド国立博物館から出版された「セウラサーリ 野外博物館写真集(SEURASAARI  Kuvakirja ulkomuseosta)」と題する写真集があります。セウラサーリとは,ヘルシンキ中心街から北西へバスで20分にある小さな島で,その島の東半分をフィンランド各地から移築した木造家屋(すべて丸太小屋)を中心に,フィンランド民族文化を展示する野外博物館となっています。
   それら展示物を写真で紹介した本が本書です。フィンランド語から訳した拙文を私の撮り溜めた写真と共にお読みください。

 

 

       序

 

   セウラサーリ野外博物館の最初の案内書は,この博物館の創設者,Axel Olai Heikel(1851〜1924)が最初の展示用建物の竣工直後に出版した小さな冊子であった。1912年からHeikelは「セウラサーリ野外博物館」という表題の刊行物−その内容は,初めに博物館の展示物移築の経緯,そしてKonginkangasからセウラサーリに移築したNiemeläの農家群の解説など−を次々と出版した。翌年には7棟の新しい展示物について,またNiemeläの農家群の間取り図を冊子に著した。続いて5棟の展示用建築物についての解説書は1919年に,またその後もKaruna教会に関する詳細な解説書が刊行された。これらの解説書は最初の版からスエーデン語,ドイツ語,英語,ロシア語に訳されて刊行された。

   Heikelの死後,後継者たちもセウラサーリに新たな展示物を移築するたびにこれらのシリーズを増していった。そして遂にはこれらの解説書を一巻にまとめて出版した。それぞれの展示物のことが書かれていた文章を厳選して縮めた訳である。1973年にはセウラサーリ野外博物館を紹介した写真集−民俗学のN.Valonen教授が解説を執筆−が上梓された。この写真集は好評を博し,出版から短時日で完売した。

   今日では本書が多くのカラー写真でセウラサーリ野外博物館を目の当たりにしてくれる。文章は外国人読者のために英語にも訳されている。この本によってAxel Olai Heikelの生涯をかけた偉業をお汲み取りいただけることを願っている。同様にセウラサーリ野外博物館のより一層の充実のために遺産を充当すべしとのHeikelの娘婿,V. Nordlundの遺言に対して感謝の意を表すとともにその一部で本書が出版されたことをご報告する。

 

       ヘルシンキ,1992年1月

                   Raija Järvelä-Hynynen

 


 

        野外博物館を民衆公園へ

 

   セウラサーリ野外博物館は北欧諸国のものとともに第1世代の野外博物館といわれている。それはArthur Hazeriusがストックホルムに開設したSkansenの12年後,1909年の開設であった。フィンランドでは野外博物館という考え方は既に1900年代初頭から台頭してきており,HakasalmiのHesperia公園*1に野外博物館建設構想が持ち上がった時に,政府の歴史博物館(これは今の「フィンランド国立博物館」だが)その建築計画の中に場所を統一して建設しようとの提案があった。最初の展示用建築物,Maalahtiにあった古い北欧様式をとどめた代表的な家畜小屋は,民俗学者で後の野外博物館創設者Axel Olai Heikel が1903年に発見し,1906年にAntell基金で購入されたものであった。

   野外博物館に移築した最初の建築物は,Konginkangasから移築した「Niemeläの小作農家」であった。この農家は,移築前から画家Akseli Gallen-Kallelaや建築家Yrjö Blomstedtの注目を浴びていた。このKeitele湖の岸辺にあった古い小作人農家は,製材所建設で取り壊し寸前であった。BlomstedtやA.O.Heikelらによる並々ならぬ努力の結果,この農家群を引き取ることに成功し,ヘルシンキに移した。しかしながらこの時すでに遅くHakaniemiのHesperia公園では雄大な森や自然に包まれたフィンランド家屋にぴったりの景観にそぐわない,という理由で実現間近の野外博物館構想は頓挫してしまった。そこで野外博物館の次の候補地としてヘルシンキ市から借り受けた自然の美しいセウラサーリに変更してNiemeläの農家群を移築することになった。

   ヘルシンキ市が所有していたセウラサーリ島は,この時島をヘルシンキ市民の憩いの場としての民衆公園として開設し,セウラサーリ財団に貸し出しされていた。財団は,島の中に野外博物館として必要な構造物,例えばレストラン,船着き場,管理人用家屋,島へわたる橋などを建設した。これらの構造物の設計には建築家Frithiof Mieritzが当たった。島内にはまた,遊歩道,広場,池など快適な設備も設けた。財団執行部は,島に野外博物館が来ることに対し好意的であり,博物館の受け入れとその充実については民衆公園の管理活動方針にも合致するものであった。

   1913年野外博物館が政府のものとなり,フィンランド国立博物館の一部として合併した時,ヘルシンキ市から1939年までの賃貸契約が結ばれ,これを過ぎた後も逐次更新されることになった。野外博物館は晴れてセウラサーリ島内に水辺に一際引き立つフィンランド松,樅,白樺の生える敷地を確保した。島の景観は,展示建物のうち,ほんのわずかな建物−例えばKonginkangasのNiemeläとかKarunaから移築した木造教会など−には,元々建っていた景観と見事に溶け合っている。民衆公園は,一般人に対し,いつでも開いているものであり,たとえ博物館の閉館時であっても自由に島に入って古い建物と親しめるべきもの,ということでここに決まった訳である。

   開設以来,セウラサーリ野外博物館は,目標とする明確な方針をもっています。それは博物館は,フィンランド各地方の様式の建築物を保存し,展示する使命があるということであり,即ち,建築物がその地方を代表するものであること,社会的にも代表するものであること,また建築史上にも中心的な様式を保っているものを収集することなどである。Heikelのいた時代に今の展示物のおよそ半分を収集したし,前述の方針に従って現在もまた民衆公園として収集すべきものを充実すべく,前向きに努力している。

*1  ヘルシンキのフィンランディアホールからオペラハウスに続く公園。

 

        フィンランド建築史概観

 

   セウラサーリ野外博物館の展示建築物はすべて木製です。木は,北欧の森林地帯に生える自然の建材であり,19世紀中葉に至るまで民家の建材として中心的建材でした。森は様々に活用でき,割合簡単に加工できる材料を提供してくれます。

   フィンランド前史における最古の住居跡は建物の中心に暖炉兼炊事用の石炉のある円形の小屋でした。このような形態のものはサウナ用,洗濯用の湯沸かし小屋として今世紀まで使用されてきた円錐形の棒小屋によく似ています。

   丸太の両端をノッチを作って積み上げる丸太積みの建築が始まったのは,後期鉄器時代から約1,000年あまり後のことです。初期の丸太小屋は暖房兼炊事用の炉が円い部屋中央にしつらえられたものでしたが鉄器時代後期,すなわち紀元後1,000年ぐらいになると住居用またはサウナ用として使用したと思われる炉が部屋の片側に寄り,丸太を積み上げ壁を作った,たった一間の小屋でした。それは四角い部屋で正面壁に出入り口があり,両側壁に排煙兼採光のための窓がついていました。この建物に隣接して石と粘土で作った戸外のパン焼き窯や独立した炊事小屋が建設されていました。このような戸外の窯は西フィンランド地方,中部Pohjanmaa,北Pohjanmaa,Lappi地方では1900年代に至るまで,まるで遺跡のようにパン焼き窯として実際に使われていました。

   中世になると部屋の中に煙道のない石積みの煙窯savu-uuni(savu:煙uuni:窯)を持つ特徴的な建築物がフィンランド西部から起こり,建築史上の一様式を形成しました。この煙窯によって室内でパンを焼き,炊事し,暖房がとれるようになったのです。

   1500年代になると上流階級の中には煙道を持つ窯が一般的になり,同時にガラスの窓を持つ建物が建築されるようになりました。この建築方法は最初,西フィンランドで定着し,その後他の地方に伝搬しました。しかしながら内陸地方や東フィンランド地方では依然として煙窯を持つ建物が1900年代初めまで建てられました。これは煙窯の暖かさに慣れた人々は煙道付きの窯は煙道を通して室内の暖気を戸外へ排出してしまう,として煙窯をやめようとはしなかったのです。

   1600年代になると地主や小作人までもそれぞれの目的のための部屋−客間,小部屋,ホールなど必要なときだけ使い,日々の生活に必要不可欠というものでない部屋−を持つ建物が造られるようになりました。

 南フィンランド特にUusimaa地方,南Pohjanmaa地方では1700年代になると使用頻度の低い部屋を上階に配置した2階建ての住居や物置小屋や家畜小屋などの付属建物が都市型建築物をモデルにして建てられるようになった。また,建物の外壁を赤く塗る様式も1800年代初頭から,フィンランド西部から始まり広がった。保守的な内陸,東フィンランド地方の建築方法には魅力が乏しく流行ることはなかった。

   丸太積み建物は千年も残るものではあるが,セウラサーリ野外博物館の建物の多くは1600年代以降の建築のものである。セウラサーリには1600年代の建物が2軒ある。自然の材料である木材は徐々に朽ちていく。しかし,建物の最悪の損失は,極く密に建築した市街地や群落のすべてを消失する火災です。フィンランドでは中世以降城塞や旧教時代の教会のみが石で作られました。ルター派の時代になって再び主として木で教会が造られるようになります。石造建築は1800年代になって都市において幅広く行われるようになりました。ここに至るまでは石造建築は独立した貴族の館,都市の市庁舎,一般的な公共建築などに行われていました。

   フィンランドにおいては,ここ何世紀にわたって農業が主産業でした。セウラサーリ野外博物館の建物群は主として自給自足で生活する農民の家を代表しています。副業源としては,例えば漁業とかタールの採取*2とかであったものと思われます。博物館では教会,貴族の館,牧師館などの一方,小作人農家,職人の家,商店,労働者の小屋など社会のあらゆる階層の建物を収集しています。都市の建物としては皇太子妃の厩と教授のピクニック小屋などとともにヘルシンキ近郊から移設したものがあります。

*2  船舶用植物性タールを松から採取して輸出し,当時の外貨稼ぎの雄であった。

 

       フィンランド建築の伝統 −野外博物館を例に−

 

   セウラサーリ野外博物館の中で完璧に保存されているものはNiemeläの小作農家,Säkyläから移築したAntti家,Loimaaから移築したLeppälä家などであり,またある程度揃っているものは第2次世界大戦後東国境の向こう側,ソ連に割譲したカレリア地方のSuojärviから運んだ貴重な建築様式をふんだんに残すPertsinotša家などです。

   Savo地方のSelkämä家とかRieska家という家では完全なものから一部牛舎と物置小屋群が欠けています。その他の家屋は,博物館のごく近くから主屋を,そして可能ならば隣接家屋を含めて移築してあります。また加えてこの博物館にはいろいろな種類の独立家屋,例えば物置小屋,水車小屋とか風車小屋などもあります。(訳者注:NiemeläやAntti家,Leppälä家などは屋号です。丸太組積造は,増築することが難しく,従って敷地内にいくつもの建物が中庭を中心に立ち並びます。この文章は,そういうことを説明しています。)

 

       Niemeläの小作農家

Kuva:Jussih    岸辺にある主に洗濯用の湯を沸かすために使った円錐小屋(写真→)は,なにか別の使い方をしたであろう前史時代の円い底面の住居の面影があります。鉄器時代からあった部屋中央に炉のある小屋様式の丸太積み建築物は,Niemeläの庭の中ではとりわけ夏に食事の用意をした炊事小屋だとわかります。この小屋の数少ない丸太を積み上げた壁の隙間から,また簡単に葺いた板屋根の隙間からは,煙を外に吹き出すように外気が自由に出入りできます。小屋の中で必要な水は井戸からまっすぐに樋を使って中に引き入れてました。1800年代には酒の自家醸造が許されており,Niemeläのこの炊事小屋でも自家用ばかりでなく隣近所のふるまい酒として醸造しておりました。

Kuva:Jussih

   Niemeläの小作農家の中で最も古いのはサウナ(←写真,少女が覗いている建物)です。この小作農家が1700年代中頃に建築された時,最初の持ち主Lasse Turpeinenは,たぶん最初はどこか別の所にあり,後になって移築したのであろうこのサウナに住んでいました。壁は丸太を積み上げたものであり,両端だけを六角形に削り取ったものです。サウナの炉は灰色で部分的に火力で壊した石を積み重ね,隙間だらけの構造で出来ています。このような密閉したサウナのような部屋は,後期鉄器時代スラブ地方から西方へpirttiという名で伝搬し,サウナとしてまた,住居として使われていました。西のある方言ではpirttiという語は,今でも「サウナ」を意味しています。サウナは後になって一時貸しの借家としてあり,例えば低所得者の「サウナの借家人」の住居としても使われていました。また開墾をする時には普通,最初にサウナを建築し,浴用としてばかりでなく,寝泊まりの部屋としてもこれを使いました。

Kuva:Jussih

 

 

   現在のNiemeläの主屋(これをsavutupa,savu:煙,tupa:広間という)は,1844年以前からその場所に建て替えられて建っていました。この主屋は中世初期,西方から入ってきた建築様式を踏襲しています。主屋には上の方が横長で窯の上部が開閉できる煙道*3 のある巨大な石の漆喰塗り窯(訳者注:これを煙窯(savu-uuni)という)があります。煙道は燃えが良くなるよう燃焼に必要な風の流れを起こします。パン窯の前には焚き火場もあり,自在鉤で吊した大鍋または3本足の鍋で食事を煮炊きしました。tupaという語も,この部屋に典型的なuuni(窯)という語も西方の古語である(スエーデン語のstugaとugnに当たる)。

 

 

   Niemeläの広間には,古い建物ではまだガラス窓がありませんでしたが,後年6枚格子のガラス窓を2つ作りました。窓の形状は縦より横幅が広く,引き戸で窓全体をふさぐ昔の作り方そのままです。このように端に押し込むような引き戸で出来た窓穴は両方の壁にあります。これらの窓からは新鮮な空気が入ってきます。窯を暖めた煙は高い舟形の天上に昇り,屋根にある丸太の洞(ウロ)でできた煙道を通って少しずつ排出されます。部屋が非常に高いのは煙屋(savutupa)の大きな特徴です。

Kuva:Jussih

 

 

   Niemeläのサウナと主屋(写真→)は,高さ幅ともに異なるものであり,これら2つの建物を薄板を使った建物の出入り口(porstua)でつないでいます。これの正面にはフィンランド建築にはまれな,
Kuva:Jussih 壁の一部に板を縦に使った建築物(写真←)でできています。porstuaというのは,スエーデン語farstuの借用語であり,非対称の部屋同士を合体させるやり方は中世の名残です。Niemeläの出入り口は,現在の主屋よりも古いもののようですが,出入り口の裏手にある乳製品製造部屋は現在の主屋と同時期に建築されたものです。乳製品製造部屋の煙突付き窯は,新しい時代の一般民衆の様式です。出入り口からは,主屋とサウナ両方向の建物にドアを通して出入りすることができます。

 

 

Kuva:Jussih    Niemeläの小作農家が建っていたKonginkangasは,内陸や東フィンランド地方など,焼き畑農業地や開墾地が家と家との間を広く取る結果となった過疎地域に属しています。一軒の家の付属建物は,土地に合わせて使い勝手がいいように配置されています。セウラサーリに置かれたNiemeläの建物群は,元々あった場所とまったく同じように配置されています。方位も正確なものです。Konginkangasでは水辺だけが両側にありました。柵で囲まれた生活の広場の周りには,主屋,炊事小屋,馬小屋(写真→)とそれに付随した納屋,物置小屋などが配置されています。人の出入りに伴って移動させる*4,家族一人一人の所有物を入れておく物置小屋は,端の場所にあります。広場のもう一方の端には牛舎とか豚小屋などの家畜小屋,そして他に1794年建設された穀物乾燥小屋があります。

*3  これは燃焼効率を上げるための,本体と一体になった煙道で,煙窯から室外へ直接排出する煙道はなく,煙は室内に排出された。煙が充満すると天井の穴から屋根に取り付けた洞(ウロ)丸太を通して室外へ排出した。排出回数を少なくするため天井を高くとって,煙の収容量を大きくしてあった。

*4  結婚すると嫁入り荷物と共に物置小屋もばらして移動させた。

 

       Antti家

 

Kuva:Jussih    セウラサーリ野外博物館の移築建築群のうち,すべてが完全に保存されている2番目の建物はSäkyläにあるKorvi村はずれから移築したAntti家(写真→。農作業の広場側から撮影)で,この村が谷川や湖岸,海岸で形作られた南西フィンランド地方の農村地帯の代表的家屋です。周囲を囲まれた庭は,中世初期以降「農地計画利用配分制」が残っていた名残で,村の集落や街道村における村落共有地内に建物をおいたところで使われていたものです。建物を敷地の境界線に沿って隣接家屋と接して建てることは中世の建築様式,たとえば城郭の中庭のようであることが判ります。狭い都市共有地における建築様式もまた同じように現在まで伝えられています。閉じられた庭の境界は,たとえば野獣に対してすばらしい防護壁となっています。建物を建てる共有地の大きさは,共有者数に依存していました。Antti家においては,庭は生活の広場と農作業の広場との2つに柵で仕切られ,後期にはその後作られた「伯父の家」によって分けられています。「広庭」とか「男の庭」とか呼ばれた生活の広場は,スエーデン語の「gård:庭」とか「mangård:男の庭」の訳語です。このような遺構は,Ylä-Satakunta地方に拡散しました。Antti家で男の庭の周りにあるのは,主屋,サウナ,炊事小屋,地下貯蔵庫,ロフト付き物置,馬小屋などです。農作業の広場側には家畜小屋や納屋が残っています。丸太を積み上げた建物と建物との間にはその屋根の下に3方が壁で囲まれた物置があります。Antti家は狭い西フィンランド地方にあり,荷車を引く牛を畑仕事にも使い,これらを牛舎として使っていました。

   火災で類焼を避けるため,牛用飼料小屋は通常閉じられた庭の外側少し離れたところに穀物貯蔵庫と一緒に建てられました。Antti家では同じ理由で薪小屋や馬車庫,タール採取場やここで採れたタール貯蔵小屋や炭小屋も勿論,閉じられた庭の外側に置きました。

   古い遺構であるsavupirtti(煙居間)と西方のsavutupa(煙広間)は,フィンランド内で様々な様式に融合しました。これらの様式の中から選択することが居間・広間の改善に働きましたが,暖炉のある主室はある地方では「pirtti=一室住居の居間」という名で呼ばれていました。tupaもpirttiも古い地方都市においては大家族の中で全く別の家造りが残ったと考えられます。この良い例としてちょうどこのAntti家があります。

   入口の両側に建物の奥行きと同じ幅の部屋のある対照的な2部屋式−これをparitupa(2居室)という−は,近代文明の開花とともに発展しました。同じ時期に生活様式が,最初社会的地位の高い者から,しかしすぐに農民たちに広がっていきました。西フィンランドにおいては最初煙道のある暖炉やガラスをはめた窓を作ることが一般的になります。1600年代以降同様に部屋を他の使途のために建築するようになりました。小部屋や客間が作られます。小部屋は通常出入り口のすぐ奥に主人の寝室として作られるようになります。

   Antti家の建物は,1811年の村の火災以後建築されたものです。建物は,1868〜9年に,以前の基礎の上に建築されました。この時にtupaとpirttiの場所を交替し,入口の奥にもう一つ小部屋を増築しました。大火以前は,別の場所にあった客間は主室の並びに続けられました。客用小部屋は独立した丸太積みで建築されています。

Kuva:Jussih    Antti家の大広間は,冬の間中家族の生活の中心となる部屋である。そこでは男も女も皆室内でできる手仕事をし,そこで食事をし,そこで子供たちも使用人たちも寝た。大広間の縦型暖炉(写真→)−これはSatakuntaや西Hämi地方固有の形式の代表ですが−は,室内暖房用としてのみ用いました。4つの窓は大広間をとても明るくしました。

   1898年に新造した巨大なパン焼き窯は,大部屋を占拠しています。パン焼き窯の焚き口は軒壁側にあります。Säkyläは,西フィンランド地方の固焼きパンの地方に属し,そこでは年に2回秋と春にパンを焼きました。パンは天井のパン干し棒で乾燥させ,食料庫のパン貯蔵箱に保存のため移しました。この大広間はパンを焼いたり日常の食事の準備にのみ使用しました。夏には食事をこの広間で摂りましたが最後には夏以外も採るようになりました。

   入口奥の小部屋には1700年以降,窯にタイルを貼る例が一般化し,そのようなタイルを貼った暖炉があります。一方の小部屋にこの家の主人が寝室として使い,もう一方の小部屋を婚期の娘が使用しました。

 社会的地位の高い人々の建物には1600年代に既にホールと呼ばれる部屋がありましたが,農民のそれにはようやく1800年代になって一般的になりました。農民のホールは,Antti家でもそうであるように一般的に暖房せず,寒いままの晴れの部屋であり,事があるときだけタイル張りの暖炉を使いました。ホールは家族の大きなお祝い,結婚式,葬式,巡回学校その他の大きなパーティーの会場として使用しました。ホールに付随した小部屋は来客用の寝室として使用しました。Antti家の両方の出入り口前には,これもスエーデン語の借用語であり,上流社会文化の影響であるkuisti(ポーチ)があります。

 

       Leppälä家

   Loimaa地方のKojonperä村のはずれにあったLeppälä家の小屋は,Antti家と同じ西フィンランド地方の遺構を伝える文化地帯にありましたが,Antti家とは全く異なる社会集団の生活様式を代表しております。小屋は丘の未利用地に住む貧民の様式であり,他人の土地の農耕に適さない丘の斜面に建っていました。この小屋を造った人が借地権を得て親子3代にわたる居住権を1980年代初めまで得ていました。小屋のただ一つの部屋は,竪型暖炉−この広い焚き口で3本足のお鍋で食事を作った−のある1室住居です。パンを焼くためには外の土で塗った外窯があり,これで夏でも冬でもパン焼きをしました。このやり方は,部屋を製パンや炊事の部屋として使われることが一般的になる前までこの小家族に使い続けられてきました。Leppälä家の外窯は最後までは使われておらず,既に廃棄されていました。これを補うため1937年Loppiにあった外窯をセウラサーリに移設しました。このような生活様式には通常炊事小屋と地下サウナが付きものです。

   Leppälä家の小屋には板壁の入口があり,これは庭にある平屋根の板小屋もまたほとんど代用した鋸引きであり,この小屋の最後の住人は鋸引き職人であったかもしれないということを表しています。丘の住人の小屋の入口にはまた妻側の壁のところ,切り妻屋根の下に風よけや雪の吹き溜まりを防ぐための簡単な木の棒を立てかけただけの入口があったのであろうと思われます。

   このような小家族には,穀物も農地もなくただ敷地内のジャガイモ畑を耕す程度であったのでこれ以上の付属建物は必要でなく,ただ脇に便所があるだけでした。

 

       国境カレリアの家 Pertinotša

Kuva:Jussih    SuojärviのMoisenvaaraのはずれにあるPertinotša家(写真→。穀物保存小屋側から撮影)の建物は,「北方ロシア地方の建築様式」といわれるものの代表であり,東方の一部,正統国境カレリア地方にのみ見られるものです。Suojärviは「古いフィンランド」といわれる地方に属し,1811年フィンランド自治大公国に併合され,1920年フィンランドに独立しましたが,第2次世界大戦後和平条約によりソ連に割譲した地域です。Pertinotša家の建物は野外博物館へは1939年夏大戦初期に移築しました。

   国境カレリアの家のモデルは,ロシア貴族の館や都市の建築物などです。その間取りは生活の部屋と生産の場を同じ屋根の下に持ち,2階建てか3階建てです。スペースは通常,屋根の片流れの一方に生活の部屋を置き,もう一方を穀物倉庫を隣り合わせで置くか,妻側の一方に人が住み,反対の妻側に穀物などを保存します。Pertinotša家は後者の様式を代表しています。これは1884年に人が住めるように改装されましたが,それ依然1800年代半ばに別の土地で一連の建物群の1つとして建築されました。

   国境カレリアの家の中で重要なことは,東のpirttiとかperttiと呼ばれていた主たる生活の部屋の床の高い位置や生活の部屋から降りられ,階下に窓のない倉庫や家畜小屋があるという事です。pirttiの並びにはPertinotša家のようにもう1部屋pirttiまたは客室−その客室へは主たるpirttiの壁にドアがあり,そのドアから入る−があります。客室の下にある貯蔵庫へは建物の妻側にあるドアから入れるようになっています。生活の部屋の窓は妻側にも軒側にもあります。村の家々は普通村道に,家の妻側を向けてまばらに列をなしていました。Suojärviの独立した家々の妻壁は朝日の昇る方向に向いています。建物の中へは軒先の壁側からまずそのすぐ奥は倉庫になっている1階玄関から入ります。踏み板だけの幅広い階段で2階入口に続き,その奥1階倉庫の真上に2階倉庫があり,ここから生活の広間へのドアがあります。1階入口玄関の反対側,階下には家畜小屋があり,ここには外の家畜をのき壁にあるドアから入れるようになっています。家畜小屋の上は,干し草や農具置き場になっており,そこへは2階入口からも家畜小屋の中階段からも,また建物裏の斜めに掛けた橋からも入れるようになっています。

Kuva:Jussih    Pertinotša家は丸太で建てられており,生活の部屋の壁だけは内側をへつって平らにしてあります。建物のうち生活の部屋は独自のノッチワークで建築されており,その他の部分の建物は,生活の場の建物より50cm程広くなっており,これまた独自の組み手をしています。出入り口の上には2つの別々の建物が反対方向に傾斜するのを防ぐため組み手で作った緊結丸太があります。Pertinotša家の広間にはpätsiと呼ぶ煙突付きの窯兼炉(写真→)があり,これでパンを焼き,食事を煮炊きしました。この窯兼炉は,カレリア地方から東へNovgorod地方にまで広がった様式を代表するものです。木枠の上に石を塗り固めたもので,階下の家畜小屋から丸太柱で支えています。炉の焚き口は出入り口側にあり,その前部は石を積み重ねて前縁をなし,右隅には自在鉤で下げたり,3本足の大鍋で煮炊きする火を燃やす部分があります。もう一方の隅には木の円柱が火覆いを支えています。炉の角には外側に馬の頭の形にくりぬいたkoniskaというノブを彫った,がっしりした厚板が立っています。この厚板は,ドア方向と隣室の壁方向に食器や食材を置いておく棚板を支えています。炉の脇にはベンチがあり,この座板の下には家畜部屋へと続く階段があります。

 

       Pohjanmaa地方の家々

   Pohjanmaa地方の家−スエーデン語をはなす地方のNarpioのNäsby村近くにあったIvars家とフィンランド語をはなす地方のKuortaneにあったKurssi家−は,すべて移築すると生産に差し支えるとして主屋とそのほか1棟の付属建物を移築してあります。

Kuva:Jussih    Ivars家(写真→)の方が建築年代が古いものです。1747年Carlborg教区長がこの地方の伝統からはずれて2階建てに建てさせたもので2室住居の特徴を持つものの公共建築物の方向をとてもよく保持しています。この建物は1798年農民のものとなりました。その時からロココ風の腰折れ屋根を切妻屋根に作り直しました。社会的地位のある人がそうであるようにIvars家も縦板で覆い,赤い泥塗料を塗っていました。Ivars家は宿屋もやっており,1819年,ロシア皇帝アレクサンドルT世のフィンランド行幸の折り,馬の交換で立ち寄りました。この行幸のためにIvars家ではたとえば出入り口前にエンパイア風の玄関を設けたり,2階客間を皇帝やその随伴者用に直したり,入口壁を塗ったりと改装しました。

   Ivars家の平面図は,左右対称の2室住居です。入口から左側にある居間の片側にはPohjanmaa地方風の炉があります。炉の口は妻壁の方に向いています。居間には両側横壁に窓があります。この居間の反対側にはホールがあり,ホールには両横壁に1つずつ,また妻壁には2つの窓があります。ホールの暖炉はタイル張り暖炉で客のあるときだけ暖めました。ホールは来客用の部屋として使い,それ用の家具を配していました。入口奥の小部屋はこの家の主人の寝室として使い,この部屋には居間側からも入れるようになっています。

   2階の部屋は1階平面とまったく同じです。両端の部屋は1階のそれよりも多少狭く,それに伴って2階ホールとその脇の小部屋は広くなっています。部屋の大きさは庭に面した軒壁にある窓が1階の窓の位置と比べてもずれていることから判ります。

Kuva:Jussih    Ivars家の中庭は四隅が空いている長方形で,庭へは主屋のちょうど反対側にある長屋門(写真→)から入るようになっています。2階建ての長屋門は博物館に移築したただ1つの付属建築物です。門の片側には馬小屋がありその上階は草小屋になっており,もう片方はロフト付き物置となっていて,夏にはこの家の女中たちが上階のロフトで寝ていました。門中央のロフトはこの家の男の使用人の夏の寝室となっていました。

 

   Ivars家が元々あった中庭の広さは現在の博物館のものより広めでした。長屋門を入った左手には左右対称の平面を持つ宿泊者用客室がありました。また,右手には奥の小部屋を持つ広間やその続きにある車小屋,物置,薪小屋などの長い建物が建っていました。博物館のこの場所にYlimarkkuから陪審員Hedman氏の離れ(写真↓)−西フィンランド地方の比較的裕福な家に一般的なそれ−を移築しました。 Kuva:Jussih

 

Ivars家の離れとして移築したように,その家の隠居所として使われることがよくありました。別棟を建築する習慣は古いものですがこれが定着する1700年代後期から1800年代初めにかけてこのような別棟の客間を建てることが流行しました。Ivars家の元々あった付属建物群−牛小屋,物置小屋,穀物乾燥小屋,サウナ,作業小屋−は,中庭の外側に配置されていましたが豚小屋だけは長屋門と宿泊者用建物との間の角にありました。

 

 

 

Kuva:Jussih    Kurssi家(写真→)は,正確な年代は不明ですが1700年代後期に建てられたもののように見えます。建物は部分的に2階建てになっていて,あの時代の農家の建物には珍しいものでした。2階建て建築物が社会的地位の高い人や都市建築物のモデルとしてPohjanmaa地方やUusimaa地方に確実に浸透したのは1800年代中期でした。Kurssi家の建物からは主屋のみを移築いたしました。Kurssi家の付属建物類は古いPohjanmaa地方の建築習慣にならって国道の反対側に移動されていました。後に西フィンランド地方のやり方にならって普通に中庭を中心に建物群を配置する予定のものでした。

 

 

Kuva:Jussih    Kurssi家の大広間tupaは,入口から入ったすぐの隅に巨大な石窯(写真←)があるほぼ正方形の部屋で,これが建物の幅になっています。入口のすぐ奥にある主人の小部屋は居間にあるドアの方からのみ出入りします。建物のもう一方の部屋は,豪族の館のような建物を建てることが流行り,両方とも同じような部屋に仕上げてあります。Kurssi家では入口から左右どちらの部屋にも通じるところに暖房のない乳製品製造部屋があり,また多くのPohjanmaa地方の家々で客間や両親の部屋−ただし,Kurssi家では女の手仕事をする部屋として使っていた−タイル貼り暖炉のある中部屋があります。この部屋は,教会学校や巡回学校がいつでも開けるようきれいにしていました。

   Kurssi家のその他の部屋は2階にあり,その上は2階ホールからあがる屋根裏部屋があります。大広間の真上にはタイル貼り暖炉で暖房し,壁はきれいに壁紙を貼ってある上の大部屋があり,この部屋は娘たちの寝室として使っていました。下の中部屋の上には,炉のある「上の広間」があり,この部屋の壁は丸太に直接新聞紙を糊付けし,その上にカーテンを吊しています。「上の広間」の炉では,Kurssi家の両親が独立して料理していました。上の広間から乳製品製造部屋の上にある暖房のない「上の小部屋」にドアで続き,ここは使用人の寝室であることが判ります。

   Kurssi家の建物とともに博物館に移築したものにKuortaneのRuona村から丸太の隅に1782年という建築年代が読めるSippola家の長屋門があります。このような通り抜けできる長屋門は典型的な中庭住宅用建物です。門の片一方には夏だけ寝起きする,窓はあるが暖房装置のないロフトがあります。Sippola家の長屋門では主人の伯父が住んでいました。門のもう一方では,いろいろな道具や農機具などの物置になっていました。長屋門の端にある梯子で2階に昇るとそこには「入口ロフト」「中ロフト」「奥ロフト」と名付けられた部屋があります。入口ロフトはこの家の娘たちの夏の寝室になっていました。そこには壁や天井にまでぎっしりと積み重ねた,嫁入り衣装や織物を保管していました。

 

       Kaukolaの煙屋

Kuva:Jussih    カレリア地峡のKaukola教区内にあるKorttensalmi村から移築した煙屋(savu:煙,tupa:家屋,広間 *5 )は,Pohjanmaa地方の家々よりも年代が若いものでありますが,どこをとっても古い時代の生活様式を保っている代表的建物です。年輪年代学的調査によれば1820年代にまで遡ることが出来ますが1910年代まで実際に使われており,この時,古い煙屋に代えて新しい家に建て替えました。

   平面図から見るとKaukolaの煙屋は,通り抜け用入口が左右2つの大きさの異なる部屋を結びつけているNiemeläの小作農家を彷彿とさせます。両方の部屋には丸太の台の上に石を塗り固めた石窯があります。大広間の方の石窯には2本の梁を支える堅固な角柱があります。火は塗り固めた窯の前方,飼葉桶のような出っ張りを胸板と角柱のところにある飾り板で支えた場所で焚きます。小さな広間の石窯の方は,角柱と飾り板がなくなっていますが,窯の上の口には火の粉が飛ぶのを防ぐため庇のような出っ張りがあります。どちらの部屋からも天井の穴から外へ,中空の木の幹で作った管を通して煙を排出します。

   入口のドアの前には太い丸太柱が軒を支え,入口に向かって左右両側に滑り止めを施した粗末な踏板が斜めにかかっています。

*5  冒頭のNiemeläの煙屋と同じ形式の建物です。写真のAは,床の高さ,Bは,天井の高さで,大人の身長の2倍以上の高さがあります。

 

       Selkämä家

   南savo地方PieksämäkiのVanaja村から博物館へ移築した建物は,登記簿にはSelkämä家とあり,隣近所の人々はRieska家と呼んでいました。主屋は1840年代初めから使われていたものと思われます。この家は,中世期の開墾地で一般的になっていた様式を代表しています。主屋は,建物の幅そのままの広間があり,広間には灰色の石を塗り固めたパン焼き窯兼炉があります。この家には同様に特徴的なものがもう一つあります。それは小さい居間,これは食事をする部屋で,この側に小部屋と小さな台所が付属しています。Selkämä家の建物の入口は,そのまま通り抜けられるようになっています。その後ろには丸太を刻んで組み上げた「爺さんの小部屋」があり,これは平面図を広げれば,クローバーの葉の形をしていました。この付け足しの小部屋は,博物館へは移築しませんでした。入口奥の部分には隅に小部屋を作りつけ,その後ろ壁は主屋の壁よりも外に出っ張っています。

   Selkämä家の建物は外壁は塗装しておらず,ただ窓枠とそれを押さえる板枠のみが茶色に塗装してあります。農家の建物を塗装する習慣は,1700年代に西の方から社会的地位のある人の家をまねて徐々に広がっていきましたが,この時代,まだSavo地方には伝わっていませんでした。    Savo地方の家の庭には2棟の付属建物があります。1つは上下4部屋のロフトハウスで,下に穀物小屋と肉の貯蔵庫,2階は2部屋の寝室があります。もう1つはロフト付き馬小屋で,片側が土間の厩と板床の餌場になっています。ロフト部分は1部屋になっており,藁や干し草の貯蔵庫として使っていました。

   KangasniemiのHarjumaa村からsavusauna(煙サウナ)を移築してあります。サウナに付属して土間の湯沸かし小屋−これはNiemeläの小作農家を思わせます−があります。Savo地方の家には牛小屋がありません。Pieksämäkiは南Savo地方の「柱立て *6 牛小屋」発祥の地であり,柱立て牛小屋を移築することが博物館の近い将来の目標です。

*6  柱を立てて屋根を支持する工法は,フィンランドでは皆無に近いものである。

 

       Halla家

   Kainuu地方のHyrynsalmiのHallavaara村から博物館へHalla家の建物群のうち主屋のみを移築してあります。建物はパン焼き窯兼炉がある生活の中心の部屋−これをpirttiと呼ぶ−があるフィンランド東北地方のものです。100平方メートルもあるpirttiは1800年代初めに建築されました。

   建物のもう一方の側は,pirttiに比較して小さめですが,十文字にほぼ同じ大きさの4部屋に壁で仕切ってあり,1900年代初めに増築された部分です。この時,この建物は国会議員J.A.Heikkinenの所有でありました。彼の一家がこの建物のこちら側をほとんど占有していました。台所の窯は隣の食事部屋まで出っ張り,炊事の火は同時に食事部屋の暖房を兼ねていました。奥の小部屋にはタイル張り暖炉があります。一番奥の主人の小部屋と食事部屋には,壁紙を貼ってあります。

   大きなpirttiは,いろいろな男仕事や織物,編み物など女の場所をとる大変な仕事など,主要な仕事場として使われました。pirttiはまた,トナカイ遊牧民や森林労働者,また道に迷った旅行者の宿泊場所としても提供されました。

 

       社会的地位のある者の建物

   社会的地位のある者の建物を代表して,その生活様式を展示するためVarsinais-Suomi地方のTaivassaloにあったKahiluoto荘館と北Savo地方のIisalmi郡の牧師館の2棟のみを移築してあります。当然使用人たちの住む建物が付随するのですが,いろいろの訳で残しました。

   社会的地位のある者の建物は,どちらも1700年代後期の腰折れ屋根の,正面からは左右対称のロココ様式の建物です。どちらも赤く塗った縦板の外壁をしています。Kahiluoto荘館は,中央部が2階建てになっています。どちらの建物も平面図から見ると部屋が長手方向に並行してあります。

   1687年には既に軍政部建築のために設計図が公刊されており,この後1700年代に2度にわたって手直ししました。これらの設計図類から見ると部屋数を階級の昇格に従って作り直しています。1600年代大佐のみがCarolinianという平面を持つ公館に住むことが許され,1727年牧師らに使用を許し,1732年少佐や海軍艦長に,1752年には中尉にまで−そのころ大佐は既に2階建てに−住むことが許されていました。

   1755年Carl Wijnbladがストックホルムでナイトや貴族や社会的地位のある者用の石造や木造の住居の設計図集を出版し,その本の中にKahiluotoの荘館やIisalmiの牧師館の平面図を見いだすことができます。

   Kahiluoto荘館の2階建てになっている中央部は,上下2階とも芯壁で縦に,建物の中心の前の部分は左右両入口とその間に挟まったホールとに,その裏側は3つの小部屋に分けています。建物1階の両端には,一方に大きなホールとその脇に小部屋が1部屋,もう一方の側には台所とそれに付随した什器庫を通って女の仕事部屋と子供部屋があります。この荘館の1階両入口の間のホールは食堂として,また端の大きなホールは実際にお祝いやお祭りの部屋として使われました。建物内を注意深く見ると,ホールの壁紙,ドア,断熱壁,暖炉などは1700年代後期のグスタフ王朝様式を表しています。食堂とホールの壁紙は,元はVihtiにあったOlkkala荘館のもので,Kahiluoto荘館の博物館への移築に合わせて張り直したものです。1700年代〜1800年代の生活を表現したその他の部屋は,インテリア,家具などできるだけ同時代のものに合わせるよう努力しています。

   Iisalmiの牧師館は1790年代後期に建築されたものですが,1800年代風の内装にしてあります。博物館への移築に際して,建物の基本部分は可能な限り1700年代の様子に近づくよう努力しました。しかしながら牧師館は,そこに赴任した牧師たちのその時代その時代の様子が分かるように展示されています。建物はほとんど中央ホール様式を表しており,設計図集の中でも最も使われているものといわれています。狭い入口に隣接して広いホールを置いています。ホールは建物の中心にあるのではなく,ホールの一方に小部屋を2つ,もう一方に1つ配置しています。

   博物館では牧師館のすべての部屋を一般開放しているのではなく,建物の公開部分の反対側を博物館事務所として使用しています。

 

教会

   古いフィンランドの木造教会をセウラサーリ博物館へ加えることは,博物館の計画段階から既に案としてあり,開設初年度すぐに博物館に移築しました。最初,1700年代中期に建てられたKeuruuの古い木造教会移築の話がありましたが,教区の強い反対があり実現しませんでした。

   次に,教区が新しい石造教会を建てるため不要になって残るというKarunaの木造教会を取得する好機が訪れました。Karuna教会移築費用の資金集めのためセウラサーリ野外博物館株式会社を設立しました。教会の壁を飾っていた多くの油絵をAntell基金代表団の斡旋で国立博物館のコレクションとして買いました。

Kuva:Jussih    Karuna教会(写真→)は,Sauvo教区内にあったKaruna領主,男爵であり大佐のArvid Hornが1685〜86年に寄進教会として建築しました。教会の最後は,教区の住民までもが屋根葺き材や板材を寄進したり,移築の竣工を見届けるまで大工仕事に参加しました。Karuna教会はSauvoの元教会から遠く離れて海岸際の村(訳者注:セウラサーリのこと)で展示されるようになった訳です。

   教会の名前となった聖マリア・エリザベスとは,Arvid Hornが寄進した聖Conversazioneが描いたマリアとエリザベスの評判から名付けたものであろうと推測します。

   Karuna教会はPohjanmaa地方において1600年代に西塔をもち,支持柱で建てた教会の例やVarsinais-Suomi地方やSatakunta地方で1600〜1700年代後期にまで建てられた木造教会の例のように,中世期の石造教会の伝統にまで影響を与えました。ついには西塔や支持柱がなくなり,武器部屋(訳者注:教会へ入る時,野獣護身用のピストルなどを預ける部屋)聖物安置所は反対側の中央部分に建てるようになりました。Karuna教会の設計者は判っていませんが,Varsinais-Suomi地方の1600年代の「長い教会」の様式を保っています。

Kuva:Jussih    Karuna教会は棟梁Anders Wahlborg指揮の修復で1773年大改造しました。それ以前は寄せ棟屋根であったものを,妻側をまっすぐな切り妻屋根にし,梁を利用して樽型天井に改造しました(写真←)。同時に四角い窓の上部を半円に直しました。窓枠は建築当初から鉛で出来ていたもののようで,教会の出納簿にはたびたびその記述が出てくることから判ります。1787年教会の西側に入口を増築し,1818年丸太壁の外側を板貼りにして赤い泥塗料を塗りました。その後行った修理は主に良い条件で保存することに意が注がれ,教会の外観を変えるようなことはしませんでした。

   セウラサーリに移築したKaruna教会は,フィンランド語系のMeilahti教区およびスエーデン語系のMatteus församling(教区)の夏期教会に属しており,夏の日曜日にはミサを行っています。小さな家族的な教会ですから特に結婚するカップルの結婚式教会としても人気があります。

 

       物置小屋群

 

   セウラサーリに移築した個々の建物群とは別に,独立した物置小屋群を移築してあります。特に穀物小屋は,よく火災から守るため主屋から遠く離して建て,このため独立家屋として残りました。特に密集した村では,たくさんの物置を一カ所に整列させるようになり,同様に博物館でもそのようにしてあります。

Kuva:teperi.fi

   最も古い物置小屋は,PaltamoのMelalahti村から移築した穀物小屋で,そのドアの上に1698年と1723年の築年が刻まれています。基礎の構造から見るとPaltamoの穀物小屋は「柱立て小屋」といわれており,この構法はひろく西フィンランド地方から北フィンランド地方にまで拡散しました。小屋の一番下に4本の丸太を井桁に組み,これの4隅に柱を立て半割丸太を支えます。これらの上に小屋の壁を立ち上げます。この上に来る小屋は北フィンランド地方の小屋様式で前方に出っ張った上階部分−おでこ *7−そして前方にまで続く側壁−ほっぺた *8−そしてほっぺたにある窪んだ切れ込みがあります。

*7  小屋正面を顔に見立て,上階の前に出っ張った部分を「おでこ」と呼んだ。
*8  上階のおでこを支持する1階側壁が前方に出っ張った部分を「ほっぺた」と呼んだ。

   Uusimaa地方やHäme地方からセウラサーリに移築した小屋群の列にはその地方独特の小屋様式−ほっぺたのあるもので,または全くないものでおでこのある小屋や屋根を長くのばした小屋,加えて妻側または軒側にドアがあるロフト付き小屋など−を表しています。博物館の物置小屋群は1700年代後半から1800年代初め以降のものです。その多くは穀物小屋です。なぜなら穀物小屋は次の雨季まで乾燥させて保存させるもので,穀物の保存スペースを出来る限り意図的に地面の湿気から離して,床下を通風させるように努力しました。小屋の基礎部分は,リスやネズミなどが中に入らないよう設計されています。ロフト付き小屋の2階部分は通常衣装庫として,また夏には寝室として使われました。

Kuva:Jussih

 

   Tornio河畔一体に伝わった3階建て物置小屋の例ではMuonio教区のYlimuonio村の赤壁小屋があります。小屋の壁は2階部分までは真っ直ぐしていますが3階部分から軒,側壁が外側にカーブしています。小屋の様式は1700年代後半に伝搬したものでその例として港町の海岸にある商業地の倉庫−これは現在もOuluに残っています−があります。

 

 

   Kaukolaの煙小屋といっしょにカレリア地方から3戸の物置小屋を移築しました。物置小屋は,長く出っ張った庇がドア壁のいたみを防ぐようになっている東フィンランド地方の様式を保っています。これらの小屋からは西フィンランド地方の物置小屋に特徴的な支柱はなく,4隅に置いた石の上に建ててあります。小屋の家1棟はKaukolaから2棟はSakkola村から来ています。

 

 

 

 

 

   物置小屋の中にはLappi地方の1本足の物置小屋について言及すべきでしょう。それは支柱になる,生えている松または樅を斧で手の届く高さの所から丸太切りして作りました。その高さは熊が物置に届かない程度のところに設けました。支柱の頭には加重支持材を載せます。この上に床板材を敷き詰め,この上に板にノッチを刻み,背の低い壁としました。妻壁が梁と屋根葺き材が載る棟木とを保持しています。妻壁にある出し入れの口は非常に小さくやっとものが入る程度の大きさです。1本足物置は,ほとんどラップのサーメ人の夏の場所(訳者注:夏はトナカイとともに北に移動してトナカイの放牧キャンプをした)に作り,ここには肉などを野獣から守るために保存した。セウラサーリには1928年PetsamoのSuoni村から移築しました。

 

 

 

       水車と風車

   我が国における水車や風車に関する最も古い資料は,1300年代のものであり,1400年代にはVarsinais-Suomi地方,Hämi地方,Satakunta地方におびただしく残っています。Savo地方,Pohjanmaa地方における水車や風車に関する記述は1550年代以降のものです。最も古いものは水車で,この伝播は変化を好まない村の生活や農耕技術の伝播の例にならってゆっくりと浸透しました。

Kuva:Jussih    水車の最も初期の型は,一本足ひき臼です。myllyという言葉はスエーデン語からの借用語です。博物館は一本足ひき臼(写真→)を中部フィンランド地方の辺鄙なSumiainenから移築してあります。ひき臼を作るのは簡単です。直立させた羽根付き心棒(これが一本足)を水が回転させ,臼の上半分の石を回転させます。水車の型によって地域によって呼び名もいろいろあります。徴税簿には「流れの挽き臼」という名を使っており,水車は通常,春の小川や小さな河の雪解け水を利用して回していました。水車の仕事量はそう大きくなく,1昼夜でやっと2〜4桶分程度のものでした。水車は,個人所有のこともありましたが多くは共同利用でした。Sumiainenの水車は,2軒で共有していたものです。

   我が国の風車は3種類あります。最も古く且つ,全国に伝播したものは,「足指風車」というもので,たぶん中世後期に既に我が国の南西地方に伝わったものでしょう。風車小屋は直立しており,固定棒に取り付けて360度全方向に向くようになっています。固定棒の底面に十字に組んだ振れ止めが固定棒に直角に付いています。風車小屋上部にある羽根回転軸が歯車を回転させ,石臼の上部回転部を回す回転縦軸に力を伝えます。このタイプの風車は当博物館にはありません。

 

 

Kuva:Jussih    博物館にはPunkalaidunから西フィンランド地方に伝搬した「かささぎ風車」を移築してあります。風車は2つの部分から成っています。挽き臼が中に入っている下の部分は半地下式に建っており,上の部分は中空になった固定棒に取り付け,かかさぎのしっぽを連想させる羽根軸を順風,逆風どの方向にも向くよう回転することが出来ます。風車の上の部分にある羽根回転軸の歯車の力を中空の固定棒の中にある臼を回転させる縦の駆動軸に伝えます。Punkalaidunの風車の回転翼は,風の強さに合わせて開閉できる窓が準備されています。

   西の伝搬地域にはまた,「ロングスカート風車」(写真←)というのがあります。博物館へはVarsinais-Suomi地方のOripääから移設してあります。風車の名前は,本体から下部にいくにつれて広がった女性のロングスカートを連想させることからこう名付けられたものです。風車上部は風向きに合わせて回転させることが出来ます。羽根回転軸の歯車は臼の上部を,または2輪の石の車輪を同時に反対方向に回転させる縦軸に伝えます。Oripääの風車には現在6枚の羽根が付いていますがその数は4枚であったり,6枚であったりまた,8枚であったかもしれません。

 

       教会舟と舟小屋

   人口がまばらで多くの湖や河で分断されている地方では教会のミサに出かけるにもどうしても長距離になってしまいます。水上交通はその点短くなり,このような訳で距離を短くするため,行程を快適にするため,村の何軒かで共同の舟を用意しました。舟の大きさはそれに乗る人数で決まりました。博物館にあるVirratから移設した教会舟の例では長さ21メートル,14個のオール掛けのあるもので100人乗り,またVellamoから移設したLuopionenの教会舟は16メートルの例があります。

   教会のミサに行くのに馬を使ったPohjanmaa地方では,馬を休ませたり,ミサに行った人々の一夜を過ごすための「教会馬小屋」を教会のすぐ近くに建築しました。このような教会馬小屋は,ある教区では100戸もあった例があり,Närpiöでは今日も11・12戸の教会馬小屋が残っています。博物館へは中部Pohjanmaa(南北Pohjanmaa地方の接するあたり)地方のKaarlelaから教会馬小屋を移築してあります。

 

       インテリア

   フィンランドのpirttiとかtupaとか言われる大広間内の物の配置や内装は,全国的に同じような特徴があります。窯はドアを入ってすぐの隅にあります。部屋の奥はドア側より威信のあるところで,来客があればそこで歓待しました。部屋の最も良い場所は窯の斜め反対側で,そこに一家の食卓を置き,食卓の奥または,食卓の端にこの家の主の座る場所がありました。部屋の壁際をぐるりと固定したベンチが取り巻いています。食事の時には食卓の壁際にあるベンチに男どもが座り,女たちは食卓の前にある短いベンチに座りました。ロシア正教信者の国境カレリア地方の家の窯の斜め反対側にある隅は,聖なる絵イコンをかかげ,すべての来訪者はドアを入るとすぐその場でイコンに向かって挨拶する習わしでした。そこでは食卓は奥の壁中央に食卓の端を妻壁に向けて置いてあります。主人の居場所は,食卓の壁側のベンチになります。    大広間は通常使われ方で2つに長手方向に割ります。ドアと食卓の側を男の領域,窯と妻壁との間の空間を女の領域としていました。この切り分けは内装や家庭用品の配置にも反映していました。

   家具の中で食卓やベンチの次に古い物はベッドで,その置き場所は窯やドア側です。この使い方は性別に関わりなく,他の家具の使い方同様に守っています。博物館に移築したカレリア地方の家の大広間にはベッドはありませんが,ベンチで寝るとか夜だけ寝具を運び入れて床の上で寝るとかしていました。

   家の部屋数を増やして家族の誰かが部屋を別々に占有することがあっても大広間の男女の領域の原則的な切り分けは依然として残っていました。2室式住居では女の仕事場をもう1つの部屋に優先的に移しました。例えばAntti家ではパン焼きや炊事部屋として,Selkämä家では炊事部屋として,Kurssi家では女の手仕事の部屋として使用しました。

   小部屋の使い方としては通常その家の主人夫婦の寝室として,また娘たちの寝室として,また時には来客用として使いました。

   物を保存する家具としては,古くは四隅の支柱に板を張った,また新しくは蟻差し継ぎで継いだ衣装箱があります。小さな壁掛け棚は,1600年代以降西フィンランド地方で一般的になり,高価な物や頻繁に使う物を入れておくものとしてありました。1700年代にはいるとベンチの上に置く物とか床の上に置く大きな戸棚の作り方が伝搬しました。戸棚には例えば食器などを保管しました。

   椅子は1700年代から頻繁に使われるようになり,特に小部屋の調度としてよく見られます。ゆり椅子は1800年代に一般的になり,例えばその家の主人の,またはおばあさんの,また時には来客の座る重要な場所としてありました。

   セウラサーリの展示建物の中でNiemeläの小作農家の煙屋,Kaukolaの煙屋は,中世期から伝わる原始的な生活様式を表しています。Pohjanmaa地方の調度は,裕福な西フィンランドの多種多様な家具類−−例えば食卓,ベンチ,食器棚,大きな食器戸棚,衣装ダンス,箱時計,2段ベッド,たくさんの椅子,男の鉋掛け台とか女の糸すきベンチのような仕事で使う備品など−−の例を提供してくれます。

   社会的地位のある人の家の家具はそれなりのスタイルを保持しています。1700年代には家具類を壁際全体に置く習わしでした。家具類は普通まったく一品ものでしたが,椅子は同じ種類のものを置き,小さなテーブルと鏡は対になっているものを置きました。しかし,全体として見た感じでは,家具類はその時代の流行のスタイルをしていて,その時代の雰囲気を醸し出しています。Biedermeider様式の到来とともに1830年代以降,ソファ,テーブル背もたれ椅子,小椅子など同じ木から同一のフォルムで作った組み家具として作ることが流行りました。樹種については特にマホガニーが推奨されましたが,多くは明るい火焔白樺も使われていました。昔からある習慣を止め,ソファの前にあるテーブルを囲むように椅子を寄せ集めるようにしました。1800年代中頃までにいろいろな家具の量が増え,同時に家具の置き方も自由にするようになりました。

(了)