北槎聞略より

 

 「(前略)言語はいさゝかも通ぜされとも、こなたへ来るべしといふさまなれば、島人もろとも打連て峠を越れば、はや北の海濱一面に見えわたれど人家とては一軒も見えず。(中略)麹むろの如きものの前に連行(つれゆき)、戸を開きて内に伴う。入て見れば横2間計(ばかり)長さ6、7間計(ばかり)に地を堀(掘の誤り)りくぼめ、土際より梁を人字の形のごとくに組み合わせ、横木をわたし、草にて葺、その上に土を覆ひ、正中(まんなか)は土間にて両辺に板を以って床をかきたる家なり。(中略)此島の人は皆穴居(あなすまい)也。」

 要 訳 

 (前略)言葉はまったく通じないがこちらへ来い,という身振りに従って島民と共に連れ立って峠を越えると,北の海岸が一面に見渡たせるが家らしい家が一軒も見あたらない。(中略)麹室のようなものの前に連れてきて,戸を開いて中に招き入れた。入ってみると横3.6メートルほど,奥行き11・2メートルほどに地面を掘り下げた地面の際から人字形に梁を組み,横木を渡して草を葺き,その上を土で覆ってある。部屋の中は,真ん中が土間になっていて両側に板を渡して床を敷いた家である。この島の住民は皆このような穴に住んでいる。

 

   絵:jussih
「北槎聞略」巻之二 飄海送還始末上より
 「北槎聞略」とは天明2(1782)年12月13日(旧暦),伊勢の商人大黒屋光太夫 以下17人乗り組みの神昌丸が駿河湾沖で難破し,7ヶ月の漂流後,アリューシャン列島のアムチトカ島へ漂着。約10年後にエカテリーナU世女帝の許しを得て帰国した光太夫ら(帰国したのは3人で,帰国直後根室で死亡した1名を除いて結局2名)から聞き書きした江戸幕府の記録書。
 1783年,アムチトカ島に漂着後,光太夫が目にしたロシア人や土着民の家屋の様子を記録したくだりがこれである。
 この文章から想像して描いたのが右の絵であるが,多分土間の真ん中には炉があったことであろう。この構造から推して生活様式は古代フィンランド人のものと酷似している。

 

 古代のフィンランド人たちがどのような住居に住んでいたか,ラップランド地方イナリ(Inari)にある「シーダ,サーミ文化博物館」(SIIDA, Saamelaismuseo)に光太夫が目にした住居に酷似した住居が展示されている。以下はその写真。

 

写真:jussih 写真:jussih

古代ラップ人の住居内部(天井に排煙用の穴が見える)(SIIDA, Saamelaismuseo)

 

写真:jussih

古代ラップ人の住居外観 (SIIDA, Saamelaismuseo)

 

 

 

 

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