(2007.1.29掲載)


ヘルシンキ半島の丸太組み木造建築 Helsingin niemen hirsitalot

都市の発展と丸太組み木造建築

 1800年代初め,ヘルシンキ半島にあるヘルシンキ市は石造建築が数棟建ち,小さな丸太組み木造住宅(フィンランドで木造住宅といえば丸太組みのものを指す。この時代の丸太小屋は,丸太を四角い柱状に製材したものを積上げたものでここにその例がある)が建ち並ぶ,人口3,000人ほどの小さな町でした。市部の主だった建物が建つ地域は,当時海辺だったKruununhakaのあたりです。この頃のヘルシンキは,頻繁に火災がありました。
 住民の石造建築を建てようとする意識が芽生えたのは,防火意識が高まってからのことでした。今では都市の中心は,石造建築であるべきだと考えるのが普通ですが建築材料として石より安くて,作り易く馴染んでいた木を選択する方が多く,石造建築は稀なものでした。

 1808年11月,ヘルシンキの大半を火災で焼失する大火がありました。これを契機に,この国最初のシステマチックで計画的な都市再建計画がスタートしました。再建委員会の再建計画に従って,都市中心部の建物は石造と決まりました。この建築は,数年にわたって活況を呈した。これにはヘルシンキが1812年からこの国の首都になること,加えて人口増加を伴う大学の移転という理由がありました。石造の都市中心部の周辺に急速に,広範囲にわたって,画一的な丸太組み小屋に下見板を貼った,画一的な建築様式の平屋建ての木造都市が建てられていきました。住居が道路側に沿って建ち,その敷地の内側を事務所,車庫,物置,トイレなどが取り囲んでいました。再建された都市は,現在の Kruununhaka,Kluuvi,KaartinkaupunkiやKammpi,Punavuoriの一部にも広がりました。

 1865年,都市の一般建築計画基本構想が制定されました。ヘルシンキにおいては,へぎ板屋根を禁止し,石造建築用地を開発しました。この結果,高さの低い木造都市の中に,石造建築が中央から周辺部にゆっくり拡大すると同時に,建物の高度が高くなっていきました。19世紀中頃には,再建意識が不活発となり,人口や生活水準も前のように停滞しました。1860〜70年代になって,社会一般の繁栄,工業化の芽生え,都市交通の利便性向上などとともに,建築が再び活発となりました。都市計画内の都市の周辺部,Kampinmalmi,Ruoholahti,Punavuori,Ullanlinna,Katajanokkaなどでは,木造建築が活発化しました。

 1875年には,新都市計画法が策定され,ヘルシンキ半島の周辺地域およびkatajanokkaが都市計画内に追加されました。これを契機にヨーロッパ大陸の例に倣って,高層石造建築用に敷地の有効利用のもとに拡大する都心部が木造建築を駆逐していきました。当初建物の高さは無制限でしたが,1895年,都心部の建物を5階建てまでと制限しました。ヘルシンキ半島の木造建築は,19世紀末にはその数は減少し,20世紀に入っては木造建築の建造はなくなりました。その頃のTöölö,Alppiharju,Kallioなど都市周辺部では,木造建築の例は続いていました。

 ヘルシンキ半島には,1800年代の影響を受けた丸太組み木造建築が今でも全市至るところに残っています。

《引用ウェブ》

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1. Kristianinkatu 12

 消防士長の家
 設計者不詳(1818年築)
 ヘルシンキの旧市街に残る市内で最も古い丸太積み建築で,1869年に屋根を改修した以外はそのままの状態を保存している。1980年代から市立博物館の支所として開館し,1860年代の中産階級の生活様式を再現展示しています。

 写真:Jussih,消防士長の家道路側
道路側
 写真:Jussih,消防士長の家中庭側
中庭側

2. Bulevardi 40

 設計者不詳(1823年頃築)
 シネベリコフビール工場の住宅兼事務所として1823年ごろここに移築された2階建て丸太積み木造建築で,現在は美術館として使われています。

 写真:Jussih,シネベリコフ美術館事務所
シネベリコフ美術館事務所

3. Lönnrotinkatu 6

 旧教会
 設計者: C.L.Engel (1824年築)
 長手のほぼ中央の前後に,塔と部屋を設けたため外観は十字型教会のように見えますが実は長方形教会です。ヘルシンキ大聖堂が出来るまでのつなぎの教会として建てられました。石造作りのように見えますが,丸太積み構造です。

 写真:Jussih,旧教会
旧教会西側・長手方向から

4. Unioninkatu 44

 設計者: C.L.Engel (1833年築)
 ヘルシンキ大学植物学部演習庭園のメインオフィスとして1833年に建てられました。1850年に改装され1900年代初め,現在地に庭師の住居として移築されました。

写真:Jussih,庭師の住居
植物園庭師の住居

5. Kaisaniementie 6

 レストラン「カイサニエミ」
 設計者不詳(1836年築)
 ヘルシンキで最も古いレストランで,現在まで何度も改修されました。半円形の客室とテラス部分は1920年代終わりに増築されたものです(2020年建物は,現在売りに出されている模様です)。

写真:Jussih,レストラン「カイサニエミ」
レストラン「カイサニエミ」

6. Unioninkatu 44

 3棟のエムパイア様式の平屋建て丸太積み建築がここに移築されました。
 1棟目は現在コーヒーショップとして使われている建物(写真なし)で,1830年代ウーデンマー通りにガブリエル・アンダーソンの設計で建てられたもの,2棟目は同じ設計者で1840年代に建てられ,現在はヘルシンキ大学植物学部博物館の植物収集施設として使われているもの,3棟目の最も小さい建物は,プナブオリ通りに建てられ1830年代から住居として使われてきたものです。

写真:Jussih,植物収集施設
植物収集施設(2棟目)
写真:Jussih,植物園係員住居
植物園係員住居(3棟目)

7. Kalevankatu 39, 41, 43

 ここに残る3棟の丸太積み建築の設計者は不詳です。
 3棟のうち最も古いのは,1833年竣工した39番地のもので,その他は約10年後に竣工しました。これらの建物は,最初1830-40年代,当時流行っていたエムパイア様式の住居として建てられました。特に43番地のものは,エムパイア様式が美しく残っています。建築デザイン的にも,建築史的にも,また都市の景観としても貴重な建物です。
 1995年にヘルシンキ市のものとなり,1997〜8年にかけて内部をヘルシンキ市立学校博物館開館に向けて徹底的に改修し,現在39番地,41番地の2棟が博物館として使われています(開館日注意)。
 また,敷地内にはヘルシンキ職業高等学校とレンガ造りの古いビール工場があります。
★ヘルシンキ市立学校博物館は2010年,閉館しました。

写真:Jussih,39番地建物
39番地建物
写真:Jussih,41番地建物
41番地建物
写真:Jussih,43番地建物
43番地建物

8. Unioninkatu 44

 設計者: Jean Wik 1843年設計
 この小さなエムパイア様式の建物は,1850年代ヘルシンキ大学植物学部庭園の住居として建てられました。1911年現在地に移築され,現在は植物学研究施設として使われています。

 写真:Jussih,植物学研究施設
植物学研究施設

9. Uudenmaankatu 38

 設計者不詳 1865年築
 丸太積み建築の上に漆喰を塗ったこの平屋建建物は,プナブオリ地区が開発された初期に住居として建てられ,現在も使い続けられている。

 写真:Jussih,漆喰塗り住居
漆喰塗り住居

10. Kasarmikatu 11-13

 設計者: Ludvig Isak Lindqvist 1884年築
 外科病院の敷地内に,当初隔離病棟として建てられた建物で,正面は公園の方に向き,中庭側に2つのベランダがあります。後に薬学史博物館設立の構想があったが現在は内科病棟(2007年当時)となっています(2021年時点では空き)。

 写真:Jussih,内科病棟
内科病棟

11. Merimiehenkatu 10

 設計者: 棟梁 E. Sihvola 1886年築
 1886年築の小さな平屋建て丸太積み建築と庭の奥の1909年築の2階建て石造建築が見ることが出来ます。

 写真:Jussih,可愛いらしい住居
可愛いらしい住居

12. Merimiehenkatu 13

 設計者: 棟梁 E. Sihvola 1888年築
 シヒヴォラの代表的建築物で,初め住居として建てられたこの建物は,現在事務所として使われています。

 写真:Jussih,壮麗な住居
壮麗な住居