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【3-0】 独立そして内戦(1917-1919年代)
第1次世界大戦の行方に世界の目が注がれていた間,フィンランド人は第2次抑圧の時代を何とか耐え抜き,いよいよロシア帝政の力の衰退が見えてきた。1世紀以上に亘って培ってきた独立への夢が現実のものとなろうとしていた。
ロシア国内のごたごたに乗じてフィンランドは一方的に独立を宣言したが国際的にはなかなか認知されず(【3-1】参照),国内的には第1次抑圧時代から生まれていたブルジョワ対労働者の対立が武力闘争となり内戦を勃発させた(【3-3】参照)。
内戦は数ヶ月の後ブルジョワ・中産階級側の勝利で終わり(【3-4】参照),政体に王制を敷こうとしたが失敗に終わり,現行の大統領制を敷いて(【3-5】参照)今日に至っている。
【3-1】高次元の問題
対ドイツ戦がうまく行かず,食料品や日用品の不足が1917年春,ロシアを崩壊へと導いた。ニコライ2世は1917年3月15日皇位を放棄し,国権は臨時政府へ移行した。二月革命である。
革命はフィンランドでも真実を忘れそうになるほど自由を獲得できるのではないか,という夢をもたらした。1899年の2月宣言や1910年の一般法,1912年の「フィンランド国内に居住するロシア人はフィンランド人と同等の権利を有する」という法律も完全に無効になった。
二月革命後,フィンランドには新しい有産階級諸党6人,社会民主党員6人からなる内閣(Senaatti)が成立した。SDPの議会多数派は,党執行部のオスカリ・トコイ Oskari Tokoi が首相になると見られていた。しかし,国権は誰が持っているのか,という問題が持ちあがった。
すなわちロシア臨時政府側は,1809年以来ロシア大公が持っていたフィンランドがいう国際的正統権,言いかえれば外交権・国防権をロシア臨時政府がスライドする形で持ったのだと考え,フィンランドはロシア大公が皇位を放棄した瞬間にこれらをフィンランドが自動的に手に入れたものと考えた。
ロシア労働運動の理論派ボルシェビキ党は,臨時政府が皇帝一族に属す少数民族の自治を許可することを武器にした。ボルシェビキはまた,SDPの要求する最高権力のピエタリ(サンクト・ペテルベルグのこと)からヘルシンキへの移行を支援した。これを梃子にして最高権力の使用または権力法といわれる法が生まれた。左翼多数の国会は,1917年7月,この法を成立させた。
有産階級グループは,社会主義者が主導する国会の権力に従うことを嫌い,権力法がSDPではなくフィンランド臨時政府を強固にするよう発布されることを要求した。それは待っていたのではなく,国会を解散して強めた。
社会民主党は議席の確保に努めたが,臨時政府の多くはそうさせないようにした。1917年10月の選挙では,有産階級諸党が巧みな選挙同盟を組み,議席多数を獲得した。
議会運営の失敗から,多くの労働運動指導者層は直接行動をしようと準備した。1917年秋,絶えず揺れ動くSDP執行部は路線を1本にまとめることは出来ず,党路線は揺れ動き,党員を静かにさせることはできなかった。
(出典:[01])
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