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【3-4】終戦の春
赤白国内戦は実質2ヶ月で終わった。開戦前のテロや戦闘での死,戦後の虐殺を通じて双方に約35,000人の死者が出た。両軍ともに心に深い傷を受け,和解の兆しが見えるまでに10年以上も要した。
戦闘初期には赤衛軍はテロ活動を活発化させ,自作農,教師,牧師,地方公務員らを中心に1,600人以上を虐殺した。白軍の虐殺は反撃する形で始まり,戦闘終了期4〜5月にピークに達した。その数は8,300人に達した。
タムペレの戦闘では白軍は11,000人の赤衛軍を捕虜とした。このうち200人以上を裁判なしに射殺した。4月下旬ラハティに集められた赤衛軍28,000人の中には女や子供も含まれていた。ここでは500人以上の人が射殺された。
戦闘が終結して赤軍捕虜は約80,000人にも上り,フィンランド各地の収容所に収監された。このうち12,000人は,1年以内に飢餓と伝染病とで亡くなった。
1918年5月中旬,反乱軍を処罰する法律を制定した。555人に対して死刑を宣告してすぐに約半数が執行された。6万人の戦犯のうち3分の2は3年未満の刑期であった。1918年6月制定の法によって4万人が釈放され,1918年末まで収監されていた者は約6千人であった。
(出典:[01])
NordenskiöldinkatuとPohjoinen Stadiontieの交差点(Google Street Viewより) | 赤軍死者の鎮魂碑(ヘルシンキ) |
KANSALAISSODASSA PUNAISTEN PUOLELLA TAISTELLEIDEN KAATUNEIDEN JA VANKILEIREILLÄ TUHOUTUNEIDEN NAISTEN JA MIESTEN MUISTOLLE
市民戦争で戦闘により |
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