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【3-5】67日間の王制
内戦が終わって国会を再開してみると議員は200議席中84名だけであった。92名いたフィンランド社会民主党(SDP)の議員のうち40名はロシアへ逃亡し,50人は戦犯として服役中であり,うち5名は死刑が執行された。
国会はスビンフフブドを臨時政府の議長として任命した。新政府にはフェンノマン党(Fennomaani)の流れを汲む「老フィン人党
(Vanhasuomalaiset)」のパーシキヴィ(Juho Kusti
Paasikivi)が主導し,王制を敷こうと奮闘した。事実ドイツ王室ヴィルヘルムU世の子,オスカーをフィンランド王にしようとしたがこれはうまくい
かなかった。8月下旬ヘッセン皇太子のフリードリッヒ・カール公をフィンランド王に担ぎ出し,1918年10月9日第1次世界大戦の急展開の終結のこの
日,フリードリッヒ・カール公をフィンランド王にすることが決まった。しかし王制を敷いたもののフリードリッヒ・カール王はフィンランドに上陸することな
く12月中旬で67日間の王制は終わった。
臨時政府議長スビンフフブドは辞任し,代わってその席にマンネルへイムが着いた。マンネルへイムは,1919年3月国会議員選挙を実施した。選挙の結
果,SDPは1917年選挙の議席数に12議席減ったものの80議席を獲得,1917年の議席数に16議席を増やし42議席を獲得した「農民同盟」と共同
して与党を形成した。
1919年7月19日の国会で国政の大きな権限を委譲した大統領を国家元首とする共和国制を敷くことを165対22で可決し施行することを決定した。
これによって国会において第1回大統領選挙を実施し,与党が推すストールベリ(Kaarlo Juho Ståhlberg 1865-1952)と野党・有産階級が推すマンネルへイムとの戦いで143票対50票でストールベリが初代大統領となった。 (出典:[01])
1919年3月の国会議員選挙後,イギリス,アメリカがフィンランドを承認し,これに続いて他の国々からも承認され,晴れて独立国として国際社会を歩めるようになった。
日本が承認したのは,1919年5月である。
以上長々と見てきたように,ロシアのフィンランド統治のおよそ110年という時間は,フィンランド人自らが完全独立を獲得するために必要な知恵と力を蓄える貴重な時間だったと言える。
一部の人々があたかもロシア統治の全期間に渡ってフィンランド人は弾圧されてきたようにいうその抑圧の期間はわずかロシア統治の最後の10数年であり,それもロシア国内の事情によって弾圧は実施されず,これをうまく切り抜ける知恵とシス(Sisu=フィンランド人魂=フィンランド人の我慢強さ・粘り)が優って独立を自らの手で獲得したのである。
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