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【3-2】独立とその承認

 フィンランドに独自の軍隊がなかったので国民は,生命と財産を守るため,ボランティアの武装自警団を組織した。最初にできた有産階級自警団は1917年春,農林経済ストの最中に誕生した。自警団には普通その土地の青年団やスポーツクラブ,自治消防団,農村クラブなどの積極的メンバーが加入した。いろいろな名前の有産階級の自警団が1917年末には全国で400団体以上にもなり,団員は38,000人にも上った。各地の労働者の自警団はセントぺテルブルグのそれをモデルとして1917年5月組織された。この年の年末には有産階級自警団とがほとんど同じぐらいの数,30,000人程に膨れ上がり,名前を「赤衛軍」と変えた。

 1917年11月初め,ボルシェビキがロシア臨時革命政府を打ち倒し,再びロシアの権力が交代した。十月革命と呼ぶこの革命は,フィンランドの考えをはっきり2つに分けた。有産階級はレーニン政権を好まず,ロシアから可能な限り早く分離するものと見ていた。ボルシェビキと好関係にあったフィンランド社会民主党(SDP)は,ロシア新政府とともに協調してフィンランドの独立に最もいいように達成しうると信頼していた。
 ボルシェビキは,フィンランドの労働運動が主導する革命を後押しした。これを意識したゼネストが11月14日ヘルシンキで始まり,翌日夜労働者執行部は過半数で権力奪回を完遂した。上の権力転覆機関,即ち実行権のある委員会が十分に熱心さを見出せなくなり,まったく同じ道に後戻りした。
 ゼネスト最中の11月15日,国会がフィンランドの最高権力者である,と宣言した。社会民主党は8時間労働法や普通選挙権,男女平等選挙権を地方自治にまで拡大することを含んだ立法にこの法を組み込んで農民党の支援を受けて議会で成立させ,ゼネストを停止させた。

 青年フィン人党(Nuorsuomalaiset)のスビンフフブド(Pehr Evind Svinhufvud)は,新しく有産階級による内閣を組織した。この最も重要な仕事は,フィンランドをロシアから切り離し,独立へ向けて国際的認知を手に入れることであった。スビンフフブド内閣は独立内閣として認められるよう努力した。スビンフフブドは12月4日,後にフィンランド独立宣言として知られる声明を国会へ上程した。議会は2日後この宣言を可決した。フィンランドは特に華々しい式典もなく,独立を宣言した。
 内閣は独立の承認をボルシェビキへ要求すればソビエト・ロシアの事実上の承認を引き出すであろうが,ボルシェビキ政権側に傾くのを望まなかった。そのため独立に向けてまず西側諸国,特にスカンジナビア諸国,ドイツ,フランス,イギリス,アメリカなどから承認が得られるよう模索した。しかし,スカンジナビア諸国のヘルシンキ在留議員達は,ボルシェビキは少なくとも何らかの可能性で許可を与えるロシア唯一のグループであるからレーニン政権からまず承認を得るべきだと忠告した。

独立承認をレーニンに詰め寄るスビ
ンフフブド一行(映画の一場面から)

 フィンランド政府はだらだら遅らせることはできなかった。スビンフフブドは自ら承認の請願書を持ってペテルブルグへ向かった。1917年12月31日,年が変わる直前にソビエト政府の発行した承認書をレーニンから手にした。
 ロシアの後,スウェーデンとフランスが1918年1月4日フィンランドを承認した。特にフランスは驚くべき速さであった。わが国がドイツへフィンランド承認を求た時,フランスはそれを妨害しようとした。イギリスとアメリカは,ボルシェビキ政権が成立し,ロシア内に対ドイツ戦闘準備ができる新政権が形成されるのを待っていた。フィンランドは英米の承認までまだ2年も待たねばならなかった。
 ドイツは1917年秋,フィンランドの独立に向けた宣言を歓迎した。ドイツの戦略的計画では,他のヨーロッパ諸国からロシアが孤立するようフィンランドが緩衝帯となることであった。しかしながらボルシェビキ政権が1917年12月中旬,ブレスト・リトフスキーで停戦と和平交渉を承諾するとフィンランドのドイツに対する戦略的意味は少なくなった。そのためドイツの承認は1918年1月6日となった。
(出典:[01])


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