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【3-3】赤白内戦

 独立してもフィンランドから飢餓がなくなるわけではなく,国民を一つにまとめることもできなかった。労働者階級と有産階級,すなわち赤と白の対立は1917年11月から既に暴力的衝突を引き起こしていた。加えてフィンランドにはまだ引き上げについてレーニン政権が渋っていた4万人以上のロシア軍が駐留していた。

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マンネルへイム銅像(ヘルシンキ)

 1918年1月初め革命路線の支持者達は,赤衛軍の最高権力である労働組合執行委員会が多数を握った。一方内閣は,1月12日国会から委譲された権限で「しっかりした保安国家」を作るよう準備した。1月25日内閣の中に国防部設置を宣言した。陸軍の設置について模索すべく,スビンフフブドは1917年十月革命以来ロシア陸軍を見限っていたマンネルへイム(Carl Gustav Emil Mannerheim 1867-1951)を呼んだ。マンネルへイムは,商人マルミベルグの計らいで白軍防衛部の最も強固な南ポホヤンマーに変装して移動することに成功した。
 スビンフフブド内閣の政策が有産階級諸党のぶち壊しにあい,労組執行部は赤衛軍の動員を決心した。戦闘は3つの方向からほぼ同時に始まった。ポホヤンマーではマンネルへイム率いる自警団(白軍)が1月28日,5,000人のロシア軍を無抵抗で武装解除した。ヴィープリ方面ではその地域の自警団(白軍)と赤衛軍との戦闘がこの前日から始まっていた。ヘルシンキでは1月27日労組執行部が制圧し,議長に Kullervo Manner,中央執行部に Otto Ville Kuusinen,Yrjö Sirola,Oskari Tokoi のヘルシンキ革命内閣(赤軍)を樹立した。スビンフフブド内閣の一部は地下へ潜り,一部はヴァーサに逃げ,ヴァーサ内閣(白軍内閣)を設立した。

 フィンランドの革命運動は,いろいろな面でロシア・ボルシェビキの革命と違っていた。フィンランドでは革命を引っ張ったのは共産主義者ではなく社会主義者たちであった。彼らはレーニンが主張する議会主義制に固執することなく,国民のための自治国家建設のための民主制を執ったことである。例えば広場に集まって議決するスイスの民主制を新生社会主義フィンランドで行おうと考えていた。
 赤衛軍の動員数は最大時10万人,うち兵員は7万人であった。白軍のそれも7万人で拮抗していた。2月初め白軍は兵器取り扱い講習や兵学校を開いた。赤衛軍は2月中旬,北から攻撃を開始した。しかし,これはうまく行かず,戦略上重要な Haapamäki − Piekusämäki 線を奪取できず,当初の陣地すら落としてしまった。両軍の社会的身分の構成は表のとおり良く知られている。白軍は自作農が最大数で,地方議会議員,管理,教員,大学生らとともに排他的な白軍に混じってブルーカラー15%,小作農10%ほどが戦った。赤衛軍には排他的な南部フィンランド地方の都市部の労働者や小作農達で編成され,良く訓練された軍隊であった。

社会的身分

全国民に占め
る割合(1920年)

赤 軍

白 軍

官僚,指導者,大学生を含む
Virkamiehet, johtavat asemat, opiskelijat

9.8

1.1

17.0

地主,自作農
Tilalliset (omaa maata viljelevät väestöt)

27.6

5.4

45.4

小作農
Maanvuokraajaväestöt

21.3

12.5

11.0

寄生,その他
Loiset, itselliset, maatyöläiset

13.3

16.1

8.7

工業等労働者
Teollisuus-ym. työläiset

19.9

62.8

14.2

その他
Muut

8.1

2.1

3.7

合  計

100%

100%

100%

(表の出典は,[01])

 赤衛軍も白軍も軍事訓練については欠点だらけであった。どちらも資格のある指導者と武器を欠いていた。しかしながら2月下旬白軍の戦闘能力はプロイセン第27師団で訓練を受けた1,000人以上の狙撃兵がヴァーサに帰国して飛躍的に回復した。

フィンランド内戦と狙撃兵運動についての詳細はこちら。

 1918年2月スビンフフブドは,ドイツに対して軍事的援助を要請した。1週間後ドイツは同意を表明したがなかなか実行に移されなかった。ヴァーサ内閣はベルリンまで出向き,フィンランドの持っている海外市場の利用権やフィンランド国内の駐留基地の設置権を譲って協定に署名した。
 ソ連政府は赤衛軍へ軍事援助を申し出たが実際にロシアから届いたのは戦闘が始まってからのことであった。赤衛軍はフィンランド駐留のロシア軍の援軍を期待したが,その大半は望郷の念に駆られ,既に戦意は喪失していた。赤衛軍に自主的に合流したロシア兵はたった1,000人程であった。
 1918年4月初めドイツ・バルト師団9,500人が Hanko に上陸し,4月12日ヘルシンキを制圧した。一部のドイツ軍はエストニアから Loviisa に上陸し,赤衛軍を Lahti から東の方向へ追った。内戦終結期のドイツ援軍は,白軍にとってあまり役立つものではなかったがそれでも戦闘を数週間短くする効果があった。
 ヘルシンキ内閣やこの内戦で赤衛軍を指導した執行部を中心にソヴィエト・ロシアに国外逃亡した者が約5,000人,内戦終末期の戦死者は白軍が3,200人,赤衛軍3,500人,また白軍は赤衛軍捕虜70人を射殺した。
(出典:[01])


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