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【2-3】第2次抑圧の時代へ
回復された平和は長くは続かなかった。1908年ストルイピン総督が着任し,第2次弾圧の時代が始まった。1912年には「フィンランド国内に居住するロシア人はフィンランド人と同等の権利を有する」という法律が成立した。しかしながらロシアの遠大なロシア化政策は1914年8月のドイツ,オーストリア,ハンガリーとの開戦で実施されなかった。
「フィンランド」のプラカードを先頭に 入場するフィンランド選手団 |
しかし,ロシア化がいつ再び開始されるか分からない状況の中,対ロシア抵抗運動はいろいろな形で展開された。
1915年から大学生や青年を中心に 志願兵運動(フィンランド語)が展開され,最初はスウェーデンに訓練受け容れを打診した。しかしスウェーデン政府はこれを拒否したためロシアの敵国ドイツで狙撃隊訓練を受けた。2年半の間に約2,000名の若者がプロイセン第27師団で訓練を受け独立戦争に備えた(この狙撃隊の多くは1918年,独立宣言後の国内戦で白軍として勝利軍側についた)。
一方,1900年初め頃からスポーツを通じてフィンランドを国際的に知らしめようとした運動があった。特にオリンピックはその格好の場であった。1908年のロンドン大会では事がうまく運んだが1912年のストックホルム大会では問題が起きた。
開会式でフィンランド選手団は,”フィンランド”というプラカードとヘルシンキ女子体操クラブの旗とともに入場しようとした。ロシアの強い要求で旗は除かれたがプラカードはそのままであった(上の写真)。
また,サッカーで対ロシア戦を2−1でフィンランドが勝ったとき,負けたロシアの旗がポールに掲げられた。これを見ていた観衆の中のフィンランド人たちは,白い大きな布を破り,「Finland vunnit! (フィンランドの勝ち!)」と大書し,示し抗議した。
(出典:[01])
1908年〜1917年の9年間に及ぶ第2次抑圧の時代をもう一つの資料で見てみよう。
第2次抑圧の時代
明るい希望で始まった議会活動は,1908年再びロシア化政策が始まり,ほとんど全く窒息状態に陥った。皇帝はほとんど毎年議会を解散させた。1908年から1916年の間フィンランドでは6回の議員選挙が行われた。
1910年皇帝は,一般議会立法法を強固にした(訳者注:ロシア皇帝に有利な法案としたこと)。この足がかりをつけた皇帝は,この法より重要な立法,「フィンランドに居住するロシア人はフィンランド人と同等の権利を有する」といういわゆる「同等法」を1912年成立させた。しかしながらロシアの大計画は1914年8月のドイツ,オーストリア,ハンガリーに対する戦争の開始でこれ以降は実施されなかった。
フィンランドもこの戦争に組み入れられた。それでも普通選挙は1916年実施された。フィンランド社会民主党(SDP)は103議席を獲得し議会での発言権を強くした。しかし,政治活動はこの戦争のためにほとんど停止状態にあり,目覚しいものはなかった。
(出典:[01])
年 |
スウェーデン |
老フィン人党 |
青年フィン人党 |
農民同盟 |
キリスト教 |
フィンランド |
国民党 |
投票率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1907 |
24 |
59 |
26 |
9 |
2 |
80 |
− |
70.7% |
1908 |
24 |
55 |
26 |
10 |
2 |
83 |
− |
64.4% |
1909 |
25 |
48 |
29 |
13 |
1 |
84 |
− |
65.3% |
1910 |
26 |
42 |
28 |
17 |
1 |
86 |
− |
60.1% |
1911 |
26 |
43 |
28 |
16 |
1 |
86 |
− |
59.8% |
1913 |
25 |
38 |
29 |
18 |
− |
90 |
− |
51.1% |
1916 |
21 |
33 |
23 |
19 |
1 |
103 |
− |
55.5% |
1917 |
21 |
32 |
24 |
26 |
− |
92 |
5 |
69.2% |
(表の出典は,[03])
フィンランド工業にとって世界大戦は好況をもたらした。南部フィンランドではドイツの攻撃に備えて塹壕や土塁を作って要塞を築いた。要塞建築は1万人のフィンランド人を雇用した。ロシアへの物資供給と市場はフィンランド工業を自立させる量を満たした。一方,戦争は西側からの輸入を停止させた。1917年には物資が不足し,多くの生活必需品,特に粉や砂糖が欠乏した。
世界大戦勃発とともにフィンランドでは抑圧の停止という,眠っていた大望が再び目を覚ました。ロシアの戦況が芳しくなく,フィンランドがロシアから分離すべき好機到来という見方をする急進派が台頭した。秋には学生団が狙撃兵運動を開始した。この裏にはフィンランド独自の国家的な自由義勇軍を作ろうというものであった。この狙撃兵訓練の支援をスウェーデンに断られ,ドイツに依頼した。2年半の間に2,000名の青年が違法のドイツに渡り,プロイセン第27皇師団で訓練を受けた。
1917年から1918年に起きた出来事 (訳者注:独立とその後の内戦のこと)の後は輝かしく,一貫した方向に向かうものと思われたフィンランドの独立の思いは時代錯誤のものとなっていた (訳者注:王制を敷こうとしたこと)。1917年以前には少数の急進派集団は排斥され,一つの政党もフィンランドの完全な独立を明白に完遂できなかった。 (出典:[03])
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