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【2-2】フィンランド議会改革

 ロシア国内の抵抗勢力の対応に追われた皇帝は,フィンランドの圧力にも屈して「2月宣言」を撤回してフィンランドの状態を1899年以前に戻した(11月宣言)。また,議会改革法にサインしフィンランド国会の開設を許可した。1899年から始まった第1次弾圧の終焉である。
 1906年に一院制議会が創設され,翌1907年春普通選挙が行われた。当時の人口約280万人のうち満24歳以上の成人男女に選挙権が与えられ,有権者は約120万人に達した。この時既にニュージーランド,オーストラリア,アメリカの一部の州で女性の選挙権が認められていたがフィンランド女性が世界に先駆けて選挙権とともに被選挙権を得たことでも有名である。
 この選挙で投票率は70%以上となり,200議席中,労働者組合を母体とするフィンランド社会民主党(SDP=Suomen Sosialidemokraattinen Puolue)が80議席を獲得して第1党となった。第2党は59議席を獲得したフェンノマン( Fennomaani )を母体とする老フィンランド人党であった。
 最後の身分制議会(1905年〜1906年)における四身分の割合と全国民に占める割合をご覧ください。いかに一部のブルジョアによって国が支配されていたか明瞭である。

身 分

身分制議会における四身
分の議席の割合(1905)

人口(1890年)に占める割合

貴 族

54%

0.12%

僧 侶

12%

0.26%

市 民

18%

3.11%

農 民

16%

26.15%

その他

0%

70.36%

 その他とは,四身分に入らない者で,下級役人や小規模商店主,工場労働者,小作人,寄生など。

(表の出典は,[01])

 1880年代から1906年までの緊張した時代,第1次抑圧の時代についてフィンランド放送大河ドラマ「Hovimäki」の解説を以下にご覧いただきたい。1880年代から議会改革に至る経過がよく描かれている。

第1次抑圧の時代

言語政策から選挙権問題へ

 1880年代になるとフィン人党(Fennomaani,フェンノマン党)の中から緩やかな改革をめざす老フィン人党に対し積極的な改革をめざす青年フィン人党といわれる党の分裂する動きが現れた。これを止めようと部分的に党内紛糾の重点を言語問題からずらそうという動きが出た。しかし1883年,1885年の言語法によって原則的にフィンランド語とスウェーデン語は対等となり,政治的興味は選挙権問題へと移った。

 問題は即ち,貴族,有産階級,僧侶,農民の四身分からなる議会規則は時代遅れとなり,巡回学校の教員は僧侶身分に属すのか,セナーッティ・商務部の行政官は有産階級身分へ投票していいのか,多くの小作人や下級役人は農民身分の選挙へ参加できるのか,給与所得者やこの頃生まれ始めた工場労働者はどの身分に属すのか,等々大多数のフィンランド人の要求に応えられなくなっていた。
 社会の力関係が作り上げた言語と身分的区別―農民身分と僧侶身分はフィン語グループでこれが国内多数を占めており,少数でありながら貴族身分と有産階級身分がスウェーデン語グループであるというそれ―による選挙という問題で新しい選挙法がなかなか認められないでいた。個人個人の選挙行動の広がりがこの均衡を崩し,新たな選挙法の行方が政治戦略を支えるようになった。

 1890年代になると言語による区別から国民社会の区別へ,さらにどのような政治を支持するかという方向に移った。ライト主義の労働運動思想がまだ多少残っていたが1880年代既に長老支配の衰弱が見られ始めた。生活水準が上がり,同時に多くの新しいグループが,次々と起こる社会のいろいろな問題を解決しようと利己主義的権利の要求をしはじめるようになった。1899年トゥルクで労働者党が結党し,20世紀の始めには社会主義者の熱い思いが急激に広まり,1903年フォルッサでの大会で「フィンランド社会民主党」を結成した。

第1次抑圧の時代

 社会変革の力が既に1890年代フィンランドに生まれていたが,ロシアでは同時期フィンランド統治に関する批判や帝国内での統一を要求する声が強くなってきた。最初の抑圧は1890年フィンランドの特別な地位に対して「郵便宣言」と言われるフィンランド郵政省のロシア帝国郵政省への統合という形で始まった。アレクサンドル3世の死後数年はおだやかであったが,ニコライ2世とその政府は,1898年意図的なフィンランドのロシア化を推進し始めた。

 最初の措置は総督の首のすげ替えで,新しい総督に指名されたのは短期間に強引にスパイ隊や憲兵隊を創り1899年2月,皇帝の宣言を発しさせフィンランド自治政府の弱体化を操作し始めたニコライ・ボブリコフであった。「2月宣言」といわれるこの宣言の中身は,スウェーデン時代から引き継がれてきてこの時代には既にフィンランド憲法となっていたいわゆる一般州法の上にこの宣言を置き,これを弱体化せしめるものであった。
 このショックから祖国愛に燃えた国民の意思が一つの方向に向かい,フィンランドの権利としてこれをロシア皇帝へ届けようと数週間の内に「大請願書」といわれる署名簿を集めた。ニコライ2世は,ロシアのフィンランド政策に関するピエタリ
(訳者注:サンクト・ペテルブルグのこと)駐在フィンランド大使の面会も大衆示威行動などいずれのアクションも禁止した。

 抑圧は首尾一貫して継続され,党内政争や猛烈な国内政治闘争が生まれ,国内で一つの見方にまとまりが見え始めた。老フィン人党は,スウェーデン人党や青年フィン人党支持者が再び穏やかな抵抗の態度であったため柔軟な方向性を支持した。労働党はロシア労働諸党の流れを汲み緩やかな抵抗を掲げるタムペレ派と自ら創設しロシア労働諸党との同調路線を掲げるヘルシンキ派とに分裂した。
 政争が荒れ狂う中,フィンランドの自治を消滅させようとするロシアの手立ては急激に進み,最初1900年夏,上級官庁では徐々にロシア語に置き換えられ,団結の自由,集会の自由,報道の自由が制限されるようになり,学校ではロシア語の時間が増えた。1901年法律違反
(訳者注:既にフィンランド憲法となっていた一般州法の中には立法手順を規定した立法法が制定されており,この法を無視して,身分制議会の審議を経ず発布することは法律違反であった)の徴兵令が公布され,少しずつフィンランド軍の崩壊に踏み込んだ。ついに1903年になると第1次抑圧の時代の頂点に達し,ボブリコフ総督は執政官法における権利を持ち,新法に反抗するものをフィンランド国外へ追放した。合計53名が追放され,うち10名はロシアに流された。
 ちょうどこの時,フィンランド政治改革史上に深い影を落とした。1904年エウゲン・シャウマンが総督ボブリコフを暗殺し,これが穏やかな抵抗の方が得策だと感じ始めるその原点となった。実際に1904年創立されたフィンランド積極抵抗党支持者は少なくなった。しかしこの時初めて力で対抗することが政治的隷属を受け容れることになるという見方が生まれ,皇帝や総督に逆らわず一般国民のなすことから世論を和らげる,そのような従順なやり方を取り,法律違反の命令を実行する役人を軽蔑し,これは官憲の権力の減少を引き出した。ついに政党間の闘争が加速し,地下に潜った人の扇動や工作活動が始まると平和建設に向けて政治を行うことが信じられるようになり,非合法活動を封じ込めた。

 しかしながらロシア国内で政府転覆の力が立ち上がり始めるとイギリスと同盟を組んだ日本はロシアの朝鮮侵攻に対して決定的成果を収め,アジアは今まで以上に発言を要求するようになり,フィンランドの自治に対する追い風が吹くようになった。1904年〜1905年の身分制議会を開催し,ついに一般法を議員立法で廃止した。この身分制議会選挙で穏やかな抵抗の支持者が大勝し,法的復権を目的とした大請願を可決した。同時にこの請願が受諾されるまで議会ストを実施する宣言を発した。皇帝の回答の到着は遅れ,請願のいくつかが受け容れられるまでは決して無法状態をやめないとなったが,続く新法を準備する時間がなかった。何よりもまず選挙権問題の討論のないまま社会主義者らの力関係が危険になるほどの逆上したデモが全国で始まってしまった。

ゼネスト

 フィンランド国内は騒乱状態となり,1905年10〜11月,ゼネストに突入した。ゼネストは,ロシアから伝わり,露日戦での敗北が皇帝の力の失墜を露呈し,長い間くすぶっていたロシア政権転覆の力が打倒へと結集した。間もなくロシアでは全権を皇帝に宿すのは危険だということが理解され始めたが,革命に対する不協和音が倒権力を弱め,ニコライ2世政権は革命を恐れた。しかしながらこの騒動の時にツァーは,ロシア帝国議会(ドゥーマ)開設の約束を発した(この議会の権力を後々削減し,少なくとも形式的に廃止したのはこの独裁者であった)。

 フィンランドに伝えられた騒乱やゼネストは,労働者階級から生まれた大衆運動であった。熱狂的に推進された運動(例えばタムペレ赤色宣言)はゼネストの初めから目的を変えた。人々の願いとしては,もうすでに法的に元通りにすることではなく,重要なことは民主的原理原則を出来るだけ早く達成するよう要求するようになった。このように実際の革命が成功しなかったとしてもゼネストやその後の内政の混乱とその復旧作業はその後多くの政権打倒のモデルとなった。

 このように最後の身分制議会(開催期間:1905年〜1906年)において時代遅れとなった身分制議会からきちんと規定した一院制議会へ突然変更し,選挙法も成人誰でもが持つ一般選挙権,男女同一の普通選挙権へと変更した。改革は各党にも及び,各党則も根本的に改められた。重要なことは約100万人の新たに選挙権を得た人々,例えば全ての女性や肉体労働者,小作人,工場労働者などが社会的に認知され,党の支持は多くの人々から審判を受けた党の政策綱領から来るべきものであるし,党は社会政策に対する有権者の要求を受け容れるよう義務付けることが整えられたことであった。加えて新しく選挙権をもった人々の多くは地方の貧民であって,各党の農地解放運動に特別の注目を集めていた。

 この時まで公の仕事につくことは現実的に2党の党則で管理されていたが,1906年の時点でどの党の党則でも出来るようになり,各党は綱領を再編して発行した。国民の身分的区別は「農民同盟」の誕生を招いた。その構成は一つに言語であり,一つに法律上でも評価しうる部分であった。その他の党の一般路線は,対ロシア政策のためには柔軟な政策を支持するフィンランドの党に対応して,また言語政策のためには1906年創立したスウェーデン国民党( Svenska Folkparti )に対応して進めた。なぜならゆるやかな抵抗や旧法を維持することはゼネストの後はボブリコフ時代に比べもう問題にはならず,1906年に公式に設立された青年フィン人党だけが他のフィンランド語使用者の党とうまくやってゆくことができず,政治的に孤立した党であった。論理的といわれた社会民主党はブルジョワと労働者の間の埋めることの出来ない深い溝があると表明したことによって身分的区別問題を封印した。

 世の緊張した雰囲気がフィンランド各地で小作人ストや農地からの立ち退き騒ぎが頻発した。しかし最初の国会議員選挙がスタートし,表向きは社会民主党が特に地方で順調な伸びであった。老フィン人党や農民同盟の農地解放計画は具体的に実施されたことから社会民主党の政策からは少し離れるようになったけれど,第1次抑圧時代の一般的な政治騒乱は地方のプロレタリアートに影響を及ぼし,社会的にも政治的にも従わせる地位にある者は卑下されるような風潮になった。社会民主党は一般市民へ権限を与え,上流階級の権限を制限した唯一の政党であり,老フィン人党の開明的な「紳士への憎しみ」(訳者注:上流階級の者に対する一般国民の憎しみ)は,この頃既に改正を約束しただけの政策より階級闘争の学習からより良い満足を導き出していた。

 このようなことから最初の国会議員選挙では社会主義者が都市票(33.3%)より地方票(37.6%)が上回った。社会主義者は新議会で80議席を獲得した。中産階級政党のフィンランド人党はかつてない議席(59議席)を制し,スウェーデン人党はかつての影響力を無くした(24議席)。 (出典:[02])

 このような時代,一般の人々の生活はどのようものだったのでしょう。 こ こ に ひとつの例があります。(2011年9月9日追記)


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