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【2-0】建国の戦い

 19世紀の後半になるとヨーロッパの状況が大きく変わってきて,それまで寛容であったロシアの対フィンランド政策は,これに合わせるように変わり始めた。その結果,ロシアのフィンランドに対する抑圧が始まる。
 それは1899年から1905年第1次ロシア革命までの第1次抑圧時代(【2-1】参照)と1908年から1917年までの第2次抑圧時代(【2-3】参照)であり,この2つの大きな山を経てフィンランドは独立を獲得する。この2つの山の間では旧議会法(身分制議会法)を改め,普通選挙法(全成人に選挙権・被選挙権認めた(女性にも被選挙権を認めたのはフィンランドが世界初)で選出した議員による1院制議会を開設し(【2-2】参照),独立への足がかりを作ったことは特筆に価する。

【2-1】第1次抑圧時代

 19世紀の後半になるとロシアは,ドイツの脅威に対してセントペテルブルグの西方を戦略的に固める必要が出てきたこと,ロシア帝国内でフィンランドだけを特別扱いできなくなったことなどが原因で1899年,その前年にフィンランド総督になった軍人ボブリコフがニコライ2世に迫って「2月宣言」に署名させた。
 この「2月宣言」とは,「フィンランド議会が行う立法は,ロシア基本法の制限下に置かれる。フィンランド議会には意見を申し述べる権利のみあり,ロシアはこれになんら関与しない」というものである。
 1809年に振り返っていただきたい。スウェーデンからフィンランドを勝ち取ったロシア皇帝はその統治をフィンランド人自身の手に委ねた。この時,スウェーデン時代の一般州法を継続して行使することを許され,この時代には既にフィンランド憲法の地位にまで引き上げられていた。また同様に立法手順を定めた法律も既に存在していた。これらの法の上にフィンランド身分制議会の議を経ずに新たな法を置くことは,明らかな法律違反であった。650年間のスウェーデン圧政から解放されて90年,手にした自由はまたしてももぎ取られ,フィンランド国中大騒ぎになった。
 このようなロシアの圧力に対してフィンランド人は,全国的な署名活動を展開し,「2月宣言」の撤回を乞いにニコライ2世のもとに届けたが徒労に終わり,その後,

矢継ぎ早の引き締め策を展開した。

 このフィンランド軍を廃止し,ロシア軍に統合させる措置について [03] では次のように説明している。

 2月宣言を後ろ盾に1901年成立させた法とは,宣言の布告で国内が大騒ぎになった「徴兵制法」であった。フィンランドには1878年以来フィンランド軍があった。新たな「徴兵制法」はフィンランド軍を解体し,ロシア帝国軍に統合するものであった。1905年にはフィンランドでの徴兵をやめ,その代わり「兵隊代」と言われた税をロシアに納めた。(出典:[03])

 我が世の春を謳歌していたフィンランドに暗雲がかかってくると,シベリウスの愛国劇「フィンランドは目覚める」の伴奏曲(1900年から「フィンランディア」となる)を聞き,カレヴァラを題材にした Gallen-Kallela の力強い絵画を見たフィンランド人たちは独立への決心をいよいよ強めたが,一青年による総督ボブリコフの暗殺(1904年)は,多くのフィンランド人にとってロシアとうまくやってゆこうとする努力に水をさす事件であり,ロシアの報復を恐れた。 総督ボブリコフの死を悼み, 元老院広場のアレクサンドル2世像に献花(モノクロ写真)した。

大ストライキ

 1904〜05年の露日戦争でロシアが日本に負けると1905年10月,ピエタリ(サンクト・ペテルブルグのこと)では大ストライキに突入した。皇帝はこれに屈し,完全な専制君主制を停止した。立法権が国民議会に移行し,同時に国民の自由権が拡大した。
 大ストライキはフィンランドにも波及した。この初期には,国民のあらゆる階層が参加し,整然としたストライキであった。国民多くが望むように2月宣言前の法律と権利に戻った。しかしながら1週間続いたスト中に労働者層と有産階級は,別の方向に歩み始めた。
(出典:[01])

 この教科書(出典:[01])での日露戦争に関する記述はこれだけであるがそれはさて置き,サンクト・ペテルブルグでのストが飛び火してフィンランドでも11月初旬ゼネストが全国に広がった。
 職場放棄した人々は,元老院広場( Senaatintori )に集まり,2月宣言の撤回を要求した。ストは1週間にわたった。その様子は,このプレートに読み取ることが出来る。

TÄMÄN TALON PARVEKKEELTA
LUETTIIN SUURLAKON AIKANA
1.11.1905 TORINTÄYTEISELLE
INNOSTUNEELLE KANSANJOU-
KOLLE YRJÖ MÄKELININ KIR-
JOITTAMA NS. TAMPEREEN
PUNAINEN JULISTUS.
SIINÄ VAADITTIIN SUOMELLE
VAPAUTTA VENÄJÄN SORTO-
VALLASTA, YLEISTÄ JA YHTÄ-
LÄISTÄ ÄÄNIOIKEUTTA SE-
KÄ YHDISTYS- KOKOONTUMIS-
JA SANANVAPAUTTA.
JULISTUS HYVÄKSYTTIIN
LAAJALTI MAASSA JA SEN PE-
RIAATTEET OVAT ITSENÄISEN
SUOMEN VALTION KULMAKIVIÄ.
写真:jussih
 このプレートは,旧セナーッティ・ビルの南壁にあったが,国際環境の変化に対応したのか?,現在は取り外されている。
訳:
 大ストライキのさなか,1905年11月1日,このビルのヴェランダから広場に集まった,熱狂した群集に向かってユルヨ・マケリンの執筆した「タンペレ赤色宣言」が読み上げられた。
 そこには普通選挙権,男女平等の選挙権,また集会の自由,結社の自由,言論の自由など,ロシアの弾圧政策からの自由を要求した。
 宣言は国内に広く支持され,そしてこの重要なことは,フィンランド国家独立の礎石となったということである。

 民衆の圧力に屈した皇帝は宣言を発し,延命策を採った。これがフィンランドにおける前近代との別れとなった。

 ゼネストは皇帝の発した「11月宣言」(訳者注:1905年11月4日発布)で終わり,ロシア化は中止された。加えてこれまでの身分制議会を廃し,国民議会新設の準備をせよとの命令を含んでいた。 (出典:[03])


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