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【1-6】政党の誕生

 1800年代のフィンランドには今のような政党と呼べるものはなかった。しかし未発達ながら党として結集したいくつかのグループが生まれ始めた。身分制議会(訳者注:スウェーデン統治時代からある議会で,貴族・僧侶・自作農・市民の四身分から成る)ではそれぞれの身分の利害関係で分かれていたが共通の立場で合同することもあった。
 フィンランド最初の党はフィン人党(Fennomaani,フェンノマン党),別名フィンランド語党である。党員は通常,当時のエリートが皆そうであったようにスウェーデン語で会話していたが,フィン語の質的向上と社会的地位向上に努力し,フィンランドの行政言語にまで引き上げようと努力した
(訳者注:徴税も裁判もすべてスウェーデン語で行っていたためスウェーデン語の分からない一般のフィンランド人にとっては不利な状況におかれることが日常であった。そのため,言語の地位引き上げによってフィンランド人の地位向上を目指すグループが現れた)
 この運動の中心人物は,1860年代自治政府の閣僚となり,晩年その功績により爵位を受けた哲学者,J.V.スネルマン(Johan Vilhelm Snellman 1806-1881)であった。スネルマンは,学校教育やフィン語で国民の意識を覚醒させ,団結したフィンランド国民を創造しようと努めた。彼の主張は,その新しさが国民を魅了し,ロシア皇族に圧力をかけ,皇帝や国民の後ろ添えを得て実現していった。
 フェンノマン党の指導者は教育ある人たちで,スネルマンの後継者は G. Z. フォルスマン(George Zakarias Forsman:通常Yrjö Koskinen というフィン語名を使い,爵位を得てYrjö Sakari Yrjö-Koskinen といったスウェーデン系フィンランド人)が継いだ。党の機関紙としてフィン語新聞「Uusi Suometar」を,スウェーデン語新聞「Morgonbladet」を発行した。
 フェンノマン党は,農民身分全部を率いる聖職者身分の支持を得ていた。また,後にはアガトン・ミュールマン(Agathon Meaurman)という目覚しい政治家が現れた。多くのフィン語を話すフィンランド人たちはフェンノマン党を支持していた。

シベリウスとアクセル・ガッレンカッレラの絵(2004年1月発売の切手より)
シベリウスとアクセル・ガッレンカッレラの絵「Satu」

写真:jussih
1837年創業のカッペリ

 1880年代になるとフィンランド民族主義の学生らが学生自治会を主導し始めた。彼らの中からユハニ・アホ(Juhani Aho),ラウリ・キヴェカス(Lauri Kivekas),ユハニ・ヘンリック・エルッコ(Juhani Henrik Erkko),アルヴィド・ヤーネルフェルト(Arvid Janerfelt),エエロ・ヤーネルフェルト(Eero Janerfelt),ミンナ・キャント(Minna Canth),ジャン・シベリウス(Jean Sibelius),アクセル・ガッレン(Axel Gallen)など,文学者やその他芸術家が支持する新しい急進的な国民運動が現れた。彼らはそれぞれの道で新しいフィンランドらしさ追及し,創造していった。以後,彼らはフェンノマン党から離脱して「青年フェンノマン党」を結成した。その機関紙は「Päivälehti」であった。 (出典:[01])

 文学者,芸術家,学者などで作るグループの彼らのよく集う溜まり場は,ヘルシンキ・エスプラナーディ公園内のレストラン兼喫茶店「Kappeli」(フィンランド語)で,1867年開業のこのレストランは現在も続いている。

大衆政党の誕生

 労働組合や労働者運動が活発になると彼らの権利を代表する者を議会へ送ろうという運動が活発化し,1899年「フィンランド労働者党」が生まれ,1903年「フィンランド社会民主党(SDP:Suomen Sosialidemokraattinen Puolue )」と改称した。SDPは,長い間身分制議会に代表を送ることが出来なかったが,1905年の大ストライキ後にできた議会改革法による一院制議会の第1回普通選挙(訳者注:この普通選挙では女性にも世界最初の選挙権,被選挙権が与えられたことでも有名)では最大与党となった。 (出典:[29])

 フェンノマン党は,貴族身分やブルジョワなど上流階級の多くの人々と事あるごとに対立した。この上流階級の中からフェンノマンに対抗する党が組織され,スウェーデン語を話す人々の問題改善について積極的に働きかけた。アクセル・オロフ・フリューデンタール(Axel Olof Freudenthal)が率いた「スウェーデン人党」は,スウェーデン語を話す人々を中心に建国することを望み,そうなるように運動した。1880年代,フィン語対スウェーデン語の言語闘争が激しくなった時,フェンノマン党はスウェーデン系フィンランド人の総攻撃を受けた。
 注目すべきは,貴族,ブルジョワ,高級官僚などがレオ・メケリン(Leo Mechelin 1839-1914)が率いるリベラル派を担ぎ出したことである。メケリンは,フィンランド民族主義者に対して「一国民,二言語」というモットーで注目を集めた。彼らリベラル派は,スウェーデン系フィンランド人の豊富な資金力を使って,裏では金で投票権を買うことをしながら表向き経済生活における自由,出版の自由,言論の自由を主張した。ロシア皇帝の批判者となったリベラル派はその矛盾が災いして一般国民の支持は得られなかった。
 フィンランド人の大多数は党活動の外側にいたが,党員は会合に参加する,党機関紙を購読するなどで支援した。会合は通常,誰かの家で開くがフェンノマン党は牧師館や村の学校教員のところで開催した。スウェーデン系の人々はこのような運営がうまく組織出来ず,互いの気持ちを団結させることが出来なかった。
 ヘルシンキ大学の教授,特に土曜会に参加し,フェンノマン党を推す教授は政治にも積極的に参加し,身分制議会の最後の頃(1906年)には僧身分の議席48席中9席が教授であった,その他の身分の議席中にも多くの教授が選出されており,64名の教授が国会議員または国務大臣を勤めていた。
(出典:[01])


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