第六章 名物妖魔との戦い

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6-4-1 夢枕に立つ国王

 早いもので、三蔵が唐の都、長安を発ってから5年が過ぎようとしていた。 三蔵はこれほどまでに長旅になるとは思っておらず、少しばかり弱音を吐くと、
「まだまだ。表門だって出ちゃあいないですよ」
 と、悟空はうそぶく。
「まったく、兄貴はデタラメばかり」
 と、言いつつも八戒は半信半疑に悟空の顔を見る。
「まだか、まだかって言っているうちに着くさ。着いてみれば名残惜しくなっ てまた旅に出かけたくなるってもんだ」
「そんなわけあるか。わしらと兄貴では考え方が違いすぎる」
 八戒がぼやくと、やり取りを聞いていた悟浄は「今に始まった事じゃないで しょう」と冷めた調子でなだめる。三者三様の弟子にそっとため息をつきなが らもまた、三蔵は心強さも感じていたのであった。

 深い山にさしかかり日も沈みかけていた。宿を探さねばならないと思ってい たら、ちょうど山間に楼台と殿閣が幾重にも重なって見えた。近づいてみると たいそう立派な寺で、門の上に「敕建宝林寺」と書いてあった。
「泊めて頂けるか、わたしが聞いてこよう」
 人相の悪い弟子に変わって、宿の交渉役を三蔵がやるということはすっかり 定着してしまった。
 三蔵は馬を下りて金の鋲<びょう>で打ってある赤い門扉をくぐった。両脇 には金剛仁像の塑像<そぞう>(木で芯を作った粘土の像。唐の時代に流行した)がある。さらに奥にある門を抜けると今度は四大天王(*第二章の注釈1参照)の像 がそれぞれ東西南北の方角に置いてあった。三蔵が手を合わせて拝んでいると 中から男が出てきた。
「もう日も暮れますが、どうされました?」
「わたしは唐土より参った僧でございます。天竺へ経を取りに行くところなの ですが、一晩泊めて頂けないでしょうか」
「左様ですか。しかし、ここの住職は少々人間不振なところがありましてね。 中へはお通ししますが、あまり期待をされないよう」
 そういって男は方丈(長老・住職の居所)へ行って住職にその旨を伝えたあ と中へと通した。住職は三蔵のみすぼらしい姿を見るなり「どこの馬の骨とも わからぬ者を入れるなとあれほど言ったであろうが!」と憤慨した。
 男は驚いてごもごもと弁明を口にした。
「ですが、唐より参られた僧侶ゆえ……」
「たわけたことを! 口ではどうとでも言えるわ」
「ご住職!」三蔵は殴りかからんばかりの住職を止めに入った。
「なぜそこまでおっしゃるのです。道観寺院みな仏門に入った者の宿場という ではありませんか。理由がおありなのでしょう? 話しては下さいませんか」
「わしだって人を疑うようなことはしたくない。だが、10年くらい前のこと になるかのう。何人かの行脚僧がやってきてな、宿を求めたのじゃ」
 住職は三蔵の問いかけに落ち着きを取り戻し、静かに話し始めた。
「身なりはボロボロで、わらじさえ履いていなかった。不憫に思ったわしは僧 たちを招き入れ、斎<とき>を出してやり、着るものも与えてやった。ところ がやつらはいつまで経っても出て行こうとはしない。それどころか悪さばっか りしおってのう。屋根の瓦を投げて遊ぶわ、戸を外して焚き火にするわ、茶碗 を盗んで博打をするわ、とんでもない振る舞いで、それはまぁ困ったもんだ。 結局7,8年ぐらい居座っておったかのう。……そういう次第であるから、良 識のある身分の高いものしか通さぬよう言付けているのじゃ」
「ご住職、お気持ちはお察ししますが、それでは仏の教えに背くことにはなり ませぬでしょうか。高価なものを身にまとっているからといって心が清らかと は限りません」
 住職は恥じ入るように頭をもたげ、三蔵の話を聞いている。
「ご住職のお弟子さんの中にはまだまだ立派な袈裟を持たぬ者もおりましょう。 また、持ちたいと思わぬ者もいるでしょう。俗世の――」
「お師匠さん!」
 突然話の腰を折られ、振り返れば案の定、悟空が突っ立っていた。
「ちょっとぉ。遅いじゃないですか。魔物の巣窟だったんじゃないかって、心 配しちゃったよ。話し込む前におれたちも中に入れてくださいよ」
「この者は?」
 住職は目を丸くして三蔵と悟空を見比べた。
「申し訳ありません。わたくしの弟子で悟空と申します」
「そんな挨拶は後回しだ。住職、宿を貸すのか貸さないのかどっちなんだい」
 悟空は如意棒片手にずかずかと上がり込んできた。
「ええ、それはもう……」
 住職は怯えた様子で口ごもる。
「そりゃあ、文句ないよな。唐から来たえらい僧なんだから。千間ほど掃除し て用意してくれよ」
「千間!? この寺は方丈と仏殿、鐘鼓楼と2つの回廊を合わせても三百間程度 のあばらやです。どうか別のところでお休み下さい」
 住職はこれ幸いとばかりに追い出しにかかった。
「なぁに。冗談だ」といって悟空は続けた。「お師匠さんの部屋とおれさまの 部屋、あとの弟子の部屋があれば充分だ。おれたちの旅に贅沢は許されていな いんで。ね、お師匠さん?」
 三蔵はバツが悪そうに住職に頭を下げた。
「もう長く一緒にいるんですけどね、この通りの荒くれ者で。これでも初めは 頭に乗っている金の輪を呪文で締め付けねばならぬほどでしたが、最近ではそ の呪文の言葉も忘れそうなぐらいです。急に人格は変わりませんが、信じてあ げることが大切です」
 住職は同情するようにうなずき、弟子たちに部屋を用意するように言いつけ た。

 月夜の晩だった。精進料理をいただき、弟子たちも寝入り、久々に静かで穏 やかな夜を過ごすことになった三蔵は、経を開いてひとり念じていた。
 ふと眠気が差し、まぶたが重くなった。
 ろうそくの揺らめきがぼんやりとした視界をチラチラと照らした。
 風が出だしたのだろうかと窓の外を見やるが、大きな松が4本、静かに月明 かりに照らされているだけだ。どこか夢見心地で経に目を落とすと、見知らぬ 人の声が聞こえた。
「御僧……」
 再び窓の外を見ると、全身ずぶ濡れの男が三蔵のほうを見ていた。
「ひぃ!」
 と、声にならぬ声をあげ、三蔵は身震いした。男の肌は青白く生気がない。 品のいい人間の体<てい>をしているが魑魅魍魎<ちみもうりょう>と遭遇し たかのように三蔵の身は凍り付いた。
「驚かせてしまって申し訳ない。私は化け物のたぐいではございません」
 男は悲壮に満ちた表情で三蔵に訴えかけた。よく見れば、男は頭に冠をかぶ り、鳳凰と龍をあしらった立派な着物を羽織り、金で縁取られた白玉の珪<けい>を持っていた。どこかの国王であろうか。こんな夜更けに一人で現れるく らいだからよほどのことであろう。三蔵は事情を聞くべく室内に招き入れた。
「どちらの方でらっしゃいますか。雨も降っていないのにどうして着物が濡れ ているんでしょう」
「朕は、ここから西へ40里ばかり行った地に国を興した烏鶏<うけい>国の 国王です。このような姿で真夜中にやってきたのにはわけがあるのです」
 烏鶏国王は憔悴しきった様子で語り始めた。
「こうなってしまったのも、もとはといえば、もう何年も前のことになります が、我が国はひどい干ばつに見舞われたのです。日照りが続き、いっこうに雨 が降ることもなく、田畑は干からび、作物が育たなくなりました。人間さえ食 べるものにままならぬ状況ですから、家畜もまた大きな打撃を受けたのです。 年貢も絶え、国の倉も空っぽで誰もが空腹でした。そこで斎戒沐浴(物忌みを して身を清めること)をし、香を焚いて雨乞いをしたりもしました。
 そんなことが3年も続いたころでしょうか、鐘南山から全真派の道士がやっ てきました。錬金術をも会得したという道士は雨を降らすことはわけないと言 い、我が国の大地を充分に潤すほどの雨を降らせたのです」
「雨……それで濡れておられるのですか」
「いいえ違います。朕はその道士と契りを交わし、2年ほど寝食を共にしてお りました。あるとき道士と庭に出ていると、八角の瑠璃井から金色の光が放た れているのが見えました。あの井戸の中に何か落ちているのではと、道士にそ そのかされ、中をのぞき込むと、背中を押され井戸の中へ落ちてしまったので す」
「なんと!」
 三蔵は驚いてかける言葉もなくした。国王はその井戸から這い出てきたとい うのだろうか。
「あれからすでに3年が経ちました」
「3年ですって!?」
「ええ、朕は3年前に命を落とし、その恨みから幽鬼となって今ここに現れて いるのです」
 やはり、この世の者ではなかったのかと、三蔵は手にかけていた数珠を無意 識に握りしめた。
「しかし、一国の国王がいなくなったとなると、周りのものは必死になって探 すはずなのではないですか。道士の悪事に気がつくのでは?」
「奴は朕と2年も一緒におった。朕に成り変わって王の座に着くことなどたや すいことなのです。どうか奴の正体を暴いてください。この3年間、それだけ を考えてきました。そうしたら、今宵、夜游神が御僧の夢枕に立たせてくれた のです。とても慈悲深い方で、弟子に腕っ節のいいのがいるから力になってく れるでしょうと」
「お力になれればと思うのですが、遠方から来た行脚僧のことなど信用するで しょうか」
 三蔵はここの住職のことを思い出していった。
「朕はこれから皇后のところへも行くつもりです。御僧のことはお話ししてお きます。それから、朕には世継ぎの太子もおります。明日は城を出て狩りをす る予定です。奴の目から離れた時であれば聞く耳も持つでしょう。これをお持 ち下さい」
 王は身につけていた白玉の珪を差し出した。
「これは朕が肌身離さず持っていたもの。朕に化けた奴はこれをなくしたと言 って誤魔化しています。これが証拠となってくれましょう」
 三蔵は白玉の珪を受け取った。すると手のひらに氷のような冷たさを感じて 三蔵はハッとなった。

 体がピクッとなって、三蔵は伏せていた顔を上げた。
「寝てしまっていたのか」
 キョロキョロとあたりを見回す。目の前にいた青白い顔の国王はいなくなっ ていた。気づけば三蔵は机の上に顔を伏せて寝てしまっていたのであった。
「あれは夢……?」
 ふと机の上を見ると国王が持っていた白玉の珪が置いてあった。
「そういえば夜游神が夢枕に立たせてくれたとおっしゃっていたな」
 これも苦難のひとつであろう。翌朝、三蔵は悟空に事情を説明し、妖怪の正 体を暴くべく、作戦を決行することにしたのであった。

「それじゃ、お師匠さんは唐王から授かった錦襴の袈裟を着て待っていてく ださいよ。お師匠さんはそういう格好が嫌いみたいだけど、所詮人間なんて 見た目で判断してるんだ。とにかく、心を開かせるにはまずはそれだ。いい ですね。それから、夢枕に国王が立ったなんて嘘くさいからおれの作戦通り、 神懸かりな方法で太子には説明してください。いいですか、肝心なのは信じ 込ませることです」
「しかし、そんな嘘が通用するだろうか。心と心を通わせるには――」
「お師匠さん! つべこべ言ってる暇はない! おれは出かけますから!」
 そういって悟空は太子を誘い出すためにひとり烏鶏国へ斛斗雲を飛ばした。

 まだ城下町もひっそりとした朝早い時間帯だった。悟空が上空で待機して いるとほどなく城門が開き、馬に乗った一陣が丘へと向かって走り出した。 皆弓を持ち、細くて鋭い矢を携えている。先頭に毛並みの良い馬に乗った太 子がいた。たかだか狩りだとはいっても、緊張を途切れさせることのない目 つきは後継者にはふさわしいものだった。
 悟空は早速白兎に化けて太子の前に躍り出た。太子は馬を走らせながら弓 を射る。飛んできた矢を捕まえるのなんてお手の物。悟空は当たったふりを しながら逃げていく。矢が刺さった兎が元気に逃げていくのを不思議に思い ながら、太子は後を追った。
 しばらくすると太子は兎を見失ってしまった。ところが、遠方に見える寺 の門に自分の矢が刺さっているのが見えた。近づいてみればそこは勅建宝林 寺であった。
 そういえばいつだったか、父上が修繕費をお布施し、仏殿や仏像を修理さ せたことがあった寺だ。これは何かの予兆かもしれぬと太子は寺に立ち寄っ てみることにしたのだった。

 一方悟空は寺に戻り、打ち合わせ通りに体を小さくし、漆塗りの箱の中に 入った。
「お師匠さん、わかってますね」
 三蔵はまだ迷っている様子を見せながらふたを閉めた。本堂の真ん中で仏 を拝する。そうしているうちに寺の僧侶に案内され太子が入ってきた。
「そなたはここの和尚か?」
「いいえ、わたくしは行脚の僧でございます」
「それはえらいことじゃないか。ずいぶんと頭が高いのもうなずける」
 と、太子は嫌みたっぷりに言う。三蔵は叩頭し、太子に申し出た。
「今日は折り入ってお話がございます」
「ふん、まるで私がここに来ることを知っていたみたいな口ぶりだな」
「左様でございます」
「嘘をつけ! ここに立ち寄ったのは気まぐれだぞ。ええい、この無礼者を 引っ捕らえよ!」
 太子が将軍らに言いつけると、こぞって三蔵に飛びかかった。それを察し た悟空は印を結び、「護法の諸天、御仏に使える三蔵法師を守られよ!」と 唱えると、透明の壁でも出来たように三蔵には誰一人として近づけなくなっ た。
「けったいな術を使う坊主が」
「誰の身も滅ぼさぬ守りの術は大変ありがたいものです。それと同様に過去 や未来を見通せる力もまた重要なことです」
「何が言いたい?」
「わたくしは立帝貨という、過去から未来にかけて1500年の物事を知り尽く す精霊が呼び出せます。その者が言うには太子のお父上、つまりは烏鶏国王 に関わる問題があるそうなのです」
「立帝貨? それはなんだい。易経でもなければ亀卜<きぼく>でもなさそ うだ。ただのまやかしであろう? 国にも易者はいるが禍<わざわい>が起 こるなど耳に入ってこないぞ」
 三蔵は胸が痛む思いで箱のふたを開けた。手に乗るくらいの小さな悟空が 出てきた。
「なんと。新種の猿か?」
「殿下、わたくしは立帝貨と申す者。猿ではございませぬ」
「こましゃくれた口をきく」
 太子は握りつぶしてやろうと手を伸ばした。すると悟空は術を唱えて天井 に届きそうなほどに身の丈を変えた。太子は動揺するでもなく三蔵を見やっ て言う。
「そなたは優れた術使いであるな。いつぞやの道士みたいだ」
「それは話が早い、太子殿」
 悟空は言った。
「その、いつぞやの道士のことですよ。不審には思われませんでしたか」
「いいや。ある日突然姿を消したが、我が国を日照りから救ってくれたお方 だ。行方を追う必要もあるまい」
「まぁ、ある意味行方を追う必要もないのですがね」
 意味深な物言いに太子は悟空を睨んだ。
「そんな怖い顔をなさらずに私の話も聞いてくださいな。殿下もおっしゃっ たように、数年前、烏鶏国は大干ばつに見舞われましたね。食物は育たず、 国王でさえも食べるものに困った。そこにやってきたのが鐘南山の道士だ。 その道士が雨乞いすると一瞬にして大地が潤い、貴国はまた栄えることにな った。国王は道士と契りまで結んだが、3年前ふいにいなくなった。その時 の国王陛下の様子にお変わりはありませんでしたか」
「さぁ、どうだったか」
「陛下のお宝、白玉の珪がなくなってしまったそうじゃないですか」
「ああ、あれか。確かに父上は白玉の珪を紛失したとおっしゃっていた。父 上は人の良さで国を築き上げたようなお人だ。疑っていてもそれを口に出す ことはない。さしずめ道士が盗んでいったのだろうが、そんなことは取るに 足らぬ事だ。所詮、我々はどんな宝物を持っていようが、自然に太刀打ちで きないという教訓を得たのだから」
「そんなのんきなことを言っていられるのも今のうちですよ。国王が道士に 殺され、その道士が国王に成り変わっているとしたらどうです? 烏鶏国は 末永く安泰とは言えますまい。私には見えますよ。飢饉や一揆で国が荒れ、 つけ込むように他国から攻め入られる烏鶏国が」
「ふざけるのもたいがいにせい!」
 太子は顔を真っ赤にさせ、腰に差していた大きな太刀を抜いた。調子に乗 る悟空をみかね、三蔵は太子の前に進み出てひれ伏した。
「殿下、どうか刀をお収め下さい。わたくしどもの無礼はお詫びのしようも ありません。しかし、烏鶏国王陛下の身に何かあったのは間違いございませ ん。昨晩、わたくしの夢枕に陛下が現れました。どうか道士の悪事を暴いて くれと、わたくしにこれを託されたのです」
 三蔵は白玉の珪を差し出した。
「やはりそうか。そなたはあの時の道士だな。確かに、これは父上のもの。 そなたが盗んだのであろう? 3年も前の話だというのに今更何をたくらん でいる? 何が望みだ。干ばつを救った礼が足りぬのならそうと申したらい いものを」
「いいえ、本当に陛下がお持ちになられたのです。陛下は瑠璃井に突き落と され、命を落とされたそうです。道士は陛下が持っていた白玉の珪を回収す ることが出来ずにいたから、なくしたと嘘を言ってるのですよ。信じてくだ さい」
「どちらが嘘を言っているんだか。瑠璃井は今でも清水がわき出て私も毎日 飲んでいる。死体が井戸の底にあるというのなら、誰かが腐敗臭を感じてい るだろう。信じろというのなら父上の遺体でも見せてくれ」
 太子は刀を収めて言った。
「日照りから救ってくれたことには感謝している。だが、もうこれ以上の関 わりは許さないと肝に銘じてくれ」
 太子は向きを変え、本堂を出て行った。
「皆の者! 帰るぞ! この者たちの城内への立ち入りを禁ずる。城門をか ためよ!」
「ははっ!」
 太子は狩りに出てきたことも忘れ、まっすぐ城へと帰っていった。

 太子が城へ帰ってくると、皇后が話があるから来てほしいとの言付けを受 けた。部屋を訪れると、皇后は使用人らを追い出し、扉をきっちり閉めた。
「どうされたのです」
「夢を見たのです」
「夢?」
「いえ、ああ、違うわ、あれは夢であって夢ではないわ……」
 あきらかに皇后は取り乱していた。
「落ち着いてください」
「とにかく、陛下が偽物だというのです」
「なんですって?」
「夢の中でそう陛下自身がおっしゃって」
「もしかして、数年前に日照りを救った道士が父上を井戸に突き落としたとか いう?」
「あなたのところにも来たのね。夢枕に陛下が!」
「いえ、私は先ほど妙な僧侶に会って、彼も夢枕に父上が現れたといって、宝 の白玉の珪を持っていたのです」
「ああ、そのお方に粗相があってはなりません。陛下は道士の悪事を暴くこと を唐僧にお願いされたのです」
「しかし……」
 太子は何を信じていいのかわからなくなった。あの道士は3年も雨が降らな かった大地に雨を呼んだ、それくらいの術を会得している男だ。夢の中に入り 込み、皇后をそそのかすことぐらいはやってのけるだろう。
 皇后は胸に手を当てながら言った。
「そういわれてみれば、そんな気もしていたのです。そのころから陛下が冷た くなってきたと私は感じていました」
 実のところ、夫婦間の営みが全くなくなってしまっていたのだ。
「私は何も気づきませんでしたが……」
「夫婦の間にしかわからぬこともあるのです」
「とにかく、父上には内密にしておきましょう。あの僧侶がどういう手段で出 てくるのかもまだわかりません。道士が化けているにしろ、そうでないにしろ 黙っておくのが賢明です。私は僧侶の動向を探ります」
 太子は胸騒ぎがしてならなかった。さっきは井戸の水を飲んでいると言って しまったが、ここ何年か井戸のある御苑に近づいていなかった。そこは国王が 趣味で作った庭園だからだ。そういえば近頃は御苑で行われるお茶会の誘いも ない。
「まさか、本当に父上が……」
 太子は信じられない思いでいっぱいだった。

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