ジュートがそこでまず感じたのは強烈な「匂い」である。所狭しと並ぶ世界中の珍味を集めて
作られた料理の香りは勿論の事、酒と煙草、そして高貴な身分の人間が嗜みとして用いる香
水や口に含んだ香り球の香り。それらの香りが渾然一体となってその広間にはわだかまって
いる。
 とても形容できるような匂いではない。あえて言うなら「貴族臭」という表現しかないだろう。決
して悪臭ではないが、慣れぬ匂いにジュートは半ば辟易とした表情を浮かべていた。彼は、自
分はつくづく平民なのだな、と改めて思った。
 ふと、ロレッタを見ると、彼女は優美な微笑を浮かべつつ、若い青年達に囲まれて歓談をして
いた。生粋の貴人であり、大貴族の令嬢たるに相応しく男達の言葉に一つ一つ応答している。
 軽い、だか奇妙な敗北感を抱いたジュートは、パーティー会場に溢れる人の波を見渡しつ
つ、何故、自分がこの場にいるのか改めて自問自答し始めた。
 本来ならジュートは既に仮眠の時間である。そのささやかかつ、重要な幸福を放棄してまで、
ここにいる理由はロレッタの一言が原因だった。


 甲板から戻り、パーティー会場までロレッタを護衛していたジュートは会場の入り口前で、別
れの敬礼をしようとした。

 「それでは小官は下がらさせて頂きます。」

 「…あらあら、まあまあ…。」

 芝居がかった口調でそう言うと、これまた芝居がかった身振りで肩を竦めて見せた。

 「貴方、私の護衛をしているのよね。にも関わらずここで別れようっていうの?」

 「は?し、しかし、パーティー会場で護衛をする必要は…。」

 「貴方、私の立場っていうのが分かってないわね。まあ、平民だし、仕方が無いけれど…。い
い?説明してあげるから良く聞きなさい。」

 「・・・はぁ。」

 「私はシュタミッツ侯爵家という王国貴族の中でも屈指の名門貴族の令嬢で、しかも独身であ
る。また、私は御父様のたった一人の子供だから私と結婚する、という人は自動的にシュタミッ
ツ家の当主になる、と、いうことは…どういうことか分かる?」

 「は、はぁ…、あの…。」

 ジュートは物言いたげな様子ながら躊躇う。

 「何?まだ分からないの?」

 そのジュートの様子に苛立ちを隠さずにロレッタは言い募る。

 「あ、いえ、…求婚者が非常に多そうですね…。」

 「そう、そうなのよ。」

 重々しくうなずくと、豪奢な両開きの扉を指さして彼女は続けた。

 「中流下級貴族の子弟はもちろん、青年実業家、商人の息子、中には見目麗しい市井の美
少年を金で自分の養子にして、私と結婚する事でシュタミッツ家の恩恵に預かろうと涙ぐましい
努力をしているものもいるわ。」

 「それは…また…。」

 権力闘争というものの凄まじさを改めて知るジュートであった。

 「そんな戦いの渦中に婦女子を一人残して、貴方、それでも軍人なの?」


 というやり取りの結果、この場所にジュートは足を踏み入れたわけだが、はっきり言って退屈
である。
 断ろう、と思えば断れる要請だった。
 「任務がありますので」の一言ですむ問題だった。嘘ではない。軍務において、仮眠は立派な
任務の一つに考えられている。彼には休憩室の狭いベッドに潜り込む正当な理由と権利があ
った。
 だが、結局断らなかったのは、ジュートが女子供に弱いという事と、彼女は大貴族であり、自
分は平民だ、と言う極めて現実的な状況。そして、ロレッタの内心に見え隠れする、思いやりに
よるものである。
 ロレッタのその思考には当然ながら多分に貴族的なものが含まれている。「下々の者」であ
るジュートを「特権階級の社交場」に非公式ながら招待すれば感激するに違いない、と彼女は
単純に思ったのだ。
 ジュートにとっては自分が「下々の者」であることをあからさまに指摘されたようなものであり、
不愉快に感じないでもないのだが、一般的な貴族の考えからすると、充分に思いやりのある徳
の高い行為、とも言えなくないのだ。
 これはジュートが「海原の風景」をプレゼンをした事に対するお礼であるつもりなのだろう。
 私心のないその行為に対し、ジュートは「小官は仮眠を取りますので」と無下に断れるはずも
なく、入る事はない、と思っていたパーティー会場内で、半ば呆然としていたのだ。


 ロレッタは相変わらず、青年達と会話を続けている。
 心なしか、ジュートには疲れの色が出ているように見えた。
 ロレッタの周囲を囲んでいる青年達は、殆どがロレッタへの求婚者殿である。
 皆、ロレッタの関心を得ようと「愛」や「恋」など口々に主張するが、結局のところ彼らの目的
はシュタミッツ侯爵家の権門に名を連ねる事である。そしてそれは暗黙でありながら周知であ
る。
 その彼らに一つ一つ、丁寧に受け答えをしているのだ。疲れない方がおかしい、というものだ
ろう。

 「大変だねぇ、貴族も・・・。」

 そう呆れたように呟くジュートの目の前を、一人の青年貴族が横切った。
 ジュートはその青年貴族を見た時、奇妙な既視感を覚えた。そして、すぐその理由に思い至
った。
 青年貴族の個人名は思い当たらなかったが、姓は確か「ムラカミ」という。あのシュタミッツ家
のライバル、ムラカミ公爵家の第二令息であり、最近海軍将校として任官したばかりのムラカミ
海軍准将である。
 ジュートは直接会話を交わした事はないが、以前、定例の閲兵式の時、遠巻きに見た事が
あったのだ。

 数多い貴族将官の中でもこの海軍准将閣下は下士官達より特に嫌われている。
 性格は貴族の青年に相応しく尊大で傲慢。重度の癇癪持ちで部下を平手打ちをするなど日
常茶飯事である、とジュートは聞いていた。子供の頃から使用人達に暴力をふるう、ということ
を日常的に行ってきた、と言われている。
 ムラカミ公爵家の人間だからといって、いきなり准将に任官した、というのも嫌われる要素だ
が、何よりに二年前まで続いていた大戦が終わった直後、海軍に入隊した、というのが一番嫌
われる原因だ。命を惜しみ、戦時中は一切前線に出てこないで後方で安穏とした生活を送り、
戦争が終わってからは軍に入隊はしたものの、後方で威張り散らすような上官を誰が尊敬す
るだろう?
 ジュートは彼の下に就いた事はないが、もし、そうであったとしても、それは心暖まる事態で
はないだろう。ジュートは海軍人事局に心から感謝した。

 ムラカミ准将は軍人としてではなく、公爵令息として出席しているのだろう。軍服ではなく略式
ながら王国貴族の正装をしている。黒髪は綺麗に整えられ、その表情と共に貴公子然としてい
るが、どこか剣呑とした印象が感じられるのはやはり、ムラカミ公爵家の一門としてシュタミッツ
侯爵家主催のパーティーに出席する事への不愉快さが滲み出ているからだろう。
 シュタミッツ侯爵家とムラカミ公爵家の犬猿の仲は国内外を通じてよく知られている。
 ムラカミ准将はそのまま、ロレッタを中心とした人並みの中に歩調を緩める事もなく侵入して
行く。
 それまで、ロレッタを取り囲んでいた青年たちは、突然現れた大貴族令息の登場に波が引く
ように二つに割れ、ロレッタへと続く道を明けた。
 それに対してロレッタは誠に驚くべき態度を見せた。その昂然とした態度で迫ってくる人物に
見せつけるようには大きく溜め息をついて渋面を作ると、次の瞬間ににこやかな微笑を浮かべ
て見せたのだ。
 ジュートは感心した。あからさまも良い所だ。
 ムラカミ准将はロレッタのそのあからさま過ぎる意思表示にギョッとしたように歩みを止める
と、何とか少ない自制心を総動員したようにこわばった微笑を作り儀礼的な一礼を施した。
 茶番劇の始まりである。

 「お久しぶりです、ロン・シュタミッツ令嬢殿。国王陛下の生誕祭の宴以来でしたか。」

 「ようこそ、ロン・ムラカミ令息様。」

 それはジュートと会話するときとは明らかに違う声色である。

 「是非アーサーとお呼び下さい、ロレッタ殿。父の名代ですが、御招待、有難う御座います。
そして、御誕生日おめでとう御座います。父に成り代わりまして御祝い申し上げます。」

 「有難う御座います、アーサー様。公爵閣下が来て頂けなかったのは残念でしたが、アーサ
ー様にきて頂いただけでも当家の名声は過分に高まるでしょう。」

 アーサー・ロン・ムラカミ准将は、その言葉に大げさに驚きの表情を浮かべる。

 「これはこれは、御謙遜を。シュタミッツ侯爵家といえば我がムラカミ公爵家と肩を並べるほ
どの門地でありますでしょうに・・・。」

 「我が家はしがない商売人の家柄ですわ。王朝創設以来続くムラカミ公爵家の伝統と格式に
かなうものなど我が家にはありません。」

 ムラカミ准将は大変気を良くしたように満面の笑みを浮かべた。

 「唯一、かなうのはお金のみですわ。」

 だが、ロレッタがこの言葉を発した瞬間、ムラカミ准将の笑顔に陰りが差した。


 「ただ・・・お金があるのも良し悪し、というものでしてね、アーサー様。ほら、あちらをご覧下さ
い。」

 そう言うとパーティー会場の一角を指し示した。そこは簡易に作られた衝立がある。その衝立
が、会場のおよそ四分の一程度を仕切っているのだ。衝立の向こう側に行くための入口には
二人の警備兵が待機している。

 「あそこには今回の誕生日のプレゼントに父が買ってくれました美術品が展示されているの
ですわ。ちょうどヒースター市の美術館でオークションが行われていまして、そこで買い求めた
ものですが・・・。」

 ロレッタは呆れたように溜め息を吐くと、肩を竦めて見せた。
 貴族同士の会話は何故、これほどにまで演技過剰になるのだろう、とジュートは不思議に思
った。

 「そこでお父様が出品されたものをすべて落札するなんてことをした為に、こんな大所帯にな
ってしまって・・・。全く、お金がある、というものは考え物ですわ。あんなに無駄遣いをしてしまう
のですもの・・・。」

 口調は上品ながら非常に嫌味な科白である。つまりは言外に「我が家はお前のところよりも
金持ちだ」という意思表示を行っているのだ。明らかにロレッタはムラカミ准将に喧嘩を売って
いた。

 さすがにこの皮肉にムラカミ准将は多少頬を引くつかせた。元々、生来の貴族というものは
忍耐が足りない。しかも、ムラカミ准将は特に短気な事で知られている。内心の怒りを抑えるた
めに最大限の自制心を掻き集めているようだ。

 「・・・た、確かに我が公爵家は幾人かの王妃も輩出しておりますからね。伝統と格式におい
て、我が門地に敵う家柄は御座いますまい。」

 さすがにシュタミッツ家の令嬢に対して、そう簡単に激発するわけには行かないらしい。ロレ
ッタが言った「金」のことには一切触れず、伝統と格式の面で自分の家の優位性を示して見せ
た。かなり苦しい表情ではあるが・・・。

 「羨ましいですわ。当家は年頃の男子がおりませんが、いたとしても、軍に志願していきなり
准将になる事などありませんもの。ムラカミ公爵家のお力は凄いものですわねぇ。」

 一瞬、ムラカミ准将はキョトン、とした表情になる。誉められた、と勘違いしたのだ。
 長年、ムラカミ家の特権を当然、と受け入れてきたのである。家柄によって「准将」の地位を
手に入れたことを扱き下ろされてもピンと来ないのだ。
 だが、ロレッタは鈍いムラカミ准将にも分かるようにさらに慇懃無礼な態度で続けて言い募っ
た。
 それまで畳んで持っていた扇子を目にもとまらぬ素早さで優雅に広げると、顔した半分を覆
い隠し、妖しい眼光を放つ。
 なかなかに迫力のある出で立ちである。

 「例え武勲がなくとも『准将閣下』なのですから。」

 決定的な言葉である。
 そして、あろうことか、その言葉を吐き出した後、ロレッタは僅かに肩を震わせ忍び笑いをも
らした。舞台俳優のようなわざとらしさは芸術の域にまで達している。
 周囲は静まり返った。
 不思議な事に、ロレッタを取り囲む小規模の集団の外側のざわめきも何時の間にやら収ま
っている。
 何か起こったようだ。
 だが、ジュートは、ロレッタの放った一言に衝撃を受け、それどころではなかった。
 「そこまでいうのか、このお嬢様は…」と、周囲に聴かれる事をはばかり、口にすることは出
来なかったが、ジュートは内心感心するばかりである。
 どうやらこのお嬢様は喧嘩を高い値で売りつける才能があるようだ。まさに商売人の娘であ
る。
 ムラカミ准将は呆然としていた。
 「まあ、当然だろうな」と一瞬ジュートはムラカミ准将に同情した。持ち上げられて(勘違いだ
が)、どん底に突き落とされたのだ。何を言われたかまだ理解できていないのだろう。「個人的
に無能なくせに家柄だけで准将になった、っていわれたんですよ」と説明したい衝動にジュート
は駆られた。
 瞬間、一気にムラカミ准将が赤黒くなった。
 ようやく理解できたようだ。
 弾かれたように、周囲の一部の青年貴族たちの凍結が溶け、足早に参を散らし始める。

「き、き、き、貴様は、わ、わた、私が家柄だけの、む、む、むむ無能者だとでも言うの…。」

「言い直しましょうか?予備役准将閣下。あら、それとも名誉准将閣下かしら?」

 この国の貴族軍人の特徴には「予備役」や「名誉」といった役職の前につけるこれらの名称
を極端に嫌う傾向がある。「騎士道」がまだ隆盛だった頃の名残なのだが、貴族であるが上に
この名称を冠した場合、あからさまに軍人としての能力が無いことが強調される、という貴族文
化の歪曲した思想の為だ。
 この状況において、それを堂々と言う、ということはムラカミ准将にとって傷口に塩を擦りこま
れ、さらに唐辛子を擦りこまれたのと同じである。
 ちなみに「予備役」よりも「名誉」という名称の方が遙に不名誉、とされる。

 ムラカミ准将は赤黒い表情のまま、一歩進み出た。もはやその口から意味のある言語は吐
き出されない。ただ、肉食獣のような唸り声を上げるのみである。完全に正気を失っていた。
 また一歩、ムラカミ准将が足を踏み出したとき、ロレッタはジュートをちらり、と見た。
 その一瞬の視線の交差で、ジュートは納得したように大きく息を吸い込みながら思わず髭を
捻った。
 「なるほど、このために私はここにいるのか」と、自分の職務を再認識した。
 ジュートは「護衛」という名目でロレッタに付き従っていたのである。
 不本意ながら引き受けた護衛だが、ムラカミ准将が今、まさに暴力を振るわんと主人に向か
ってきたのである。ここで動くべきはジュートでなくてはならない。
 ジュートの表情筋は努力の結果、ようやく微苦笑の程度に収まっていた。
 吸い込んだ息を鼻から吐き出すと、ジュートはロレッタとムラカミ准将の間に一歩進み出て律
儀にも敬礼をした。

 「失礼致します、公爵令息。」

 ジュートは平静と変わらない声でムラカミ准将に呼びかけた。

 「小官は、この度、シュタミッツ侯爵令嬢の護衛についております、ジュート・ノーウッド海軍少
尉であります。閣下、どうか御冷静に。落ち着いてください。」

 と、一応言ってみるが、制止できるとは思ってはいない。一応の礼儀のようなものである。相
手は身分の高い人物だ。何の根拠もなしに力ずくで相手を制止できるはずもない。

 「まあ、一発ぐらい殴られておくかな・・・。」

 と、ジュートは諦めの気持ちでムラカミ准将を見つめていた。

 ムラカミ准将は突然視界に割り込んできた人物に驚いた表情でしばらく沈黙した後、口を開
いた。

 「・・・階級は『少尉』だな?でしゃばるな。私を誰だと思っている。上官に反抗するつもりか。」

 都合の良いときに限って階級を誇示して見せる態度に、ジュートもさすがに呆れた。

 「そこをどけろ、少尉。」

 「出来ません、閣下。小官の任務は御令嬢の護衛です。」

 「無礼な!貴様何を言っているか分かっているのだな?!」

 突如として、周囲の青年貴族たちがざわめいた。「なんと不敬な。一介の少尉ごときが」「平
民の癖に生意気な」「ムラカミ令息殿、いつものとおりやってしまえ」などといった呟きが聞こえ
る。
 ロレッタを殴ろうとした際には聞こえなかったギャラリーの無責任な声援は、明らかに平民を
いたぶるのを見物したい、という下世話な願望から来るものであった。ムラカミ准将はこの声
援にこたえるように一歩進み出た。

 「ふん、ならば抗命罪だな。」

 そうあっさりと言い切るとムラカミ准将は、ジュートに一発平手を張ろうと腕を振り上げ、振り
下ろした。
 さすがに人を殴り慣れた人物、と評判なだけのことはある。腰の回転、振り下ろされた腕の
角度、鞭のようにしなる腕、その速度、どれをとっても一級品の平手である。

 「ああ〜、痛そうだな〜。」

 ジュートは無感動にその平手を受け止める準備をした。つまり、目を瞑り、歯を食い縛る。
 が、平手はしばらくたっても顔面に振り下ろされなかった。



第一章 6へ続く



               
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