「悠久の宴」号の船室の中でも、最も贅を尽くした造りの部屋といえば、この船の持ち主、フォ
ルカー・フラン・ロン・シュタミッツ侯爵の私的応接室である。その豪華さといえばちょっとした貴
族の邸宅の一室とまったく代らない代物である。
 高価そうな椅子やテーブルといった調度品はもちろんのこと、通常、天井が低いのが船内に
ある部屋の最大の欠点なのだが、この部屋だけは、特殊な工法で作られているらしく、天井も
高い。そして大仰にシャンデリアまでついている。壁に施された細工はあくまで優美で見る者の
神経を逆撫でするようなケバケバしさは無い。
 だが、今、その部屋を占拠しているのは漆黒色の軍服に身を包んだ一向に華やかさの無い
五名の軍人であった。
 
 軍部において軍服の色はその所属する軍隊を示す。土色は陸軍、白は海軍、深緑は憲兵、
紫は近衛師団。
 だが、漆黒の軍服は四つある軍部の所属のどれにも属してはいない。「総務官」「総務軍
人」、正式には「総務官府所属武官」と呼ばれる軍人のみ着用を許された軍服なのである。

 総務官とは軍務省において、陸、海、憲兵、近衛の四軍隊全てに職権が与えられた武官の
事を示す。つまり、軍務全体を国王に代わり統括する軍務大臣、軍事作戦全体に対して総指
揮権が与えられている王国軍最高司令長官、現場で、四軍隊全てを実際に指揮する実践の
総指揮官、といった者達が主である。
 このシステムは軍部内において、陸、海、憲兵、近衛が、派閥を作りそれぞれの軍隊に対し
てその活動を阻害する事が無いよう設けられたものである。実際、このシステムが出来てか
ら、この国はこれまで幾たびも起こった紛争において負け知らずであり、周辺諸国からは「強
兵の国」として恐れられる存在だ。
 だが、欠点もある。王国軍の全体を統括する権力が一箇所に集中している為、軍全体が、
政治から解離し、独走を招きやすい状態である事である。実際、これまで幾度か総務官による
クーデターが企てられ、そのたびに血生臭い暗殺、謀略の悲喜劇が展開された。

 その五名の総務官の内、軍用マントを着用し椅子に座っているたった一人の者がいた。真っ
黒な軍帽から鮮やかな亜麻色の髪が覗いている。
 その軍人を守るように同心円状に四名の軍人が直立不動になっている。明らかに椅子に座
った軍人は他の四名に護衛されるほどの高級軍人である事が分かる。
 そして残り一名の軍人は、椅子に座った高級軍人のすぐ脇に立ったまま控えていた。小脇に
抱えた黒い鞄が奇妙に似合って印象的だ。
 
 だが、部屋にいたのはそれらの厳つい軍人だけではなかった。
 先程から、室内をグルグル歩き回っている人物がいた。背筋の曲がった右目に片眼鏡をし
た白髪の老人で手には杖を持っている。
 唯一椅子に着席していた亜麻色の髪をした軍人はその落ち着き無い老人に対し明らかに苛
立ちを覚えていた。不機嫌そうに目を瞑り、テーブルを人差し指で何度も連打する。
 一人脇に控えていた軍人が、その状況を見かねて発言した。

 「マジックソン博士。」

 その声は無感情であったが、その軍人の顔には何故だか笑顔が張り付いていた。
 マジックソンと呼ばれた老人は一瞬身体を震わせると振り向く。

 「申し訳ありませんが少々静かにして頂けませんか?」
 
 その言葉遣いは非常に丁寧なものであった。
 マジックソン博士、と呼ばれた老人は顎鬚を扱くと至極嬉しそうに口を開いた。

 「いや、年甲斐にも無く興奮していましてなぁ。何と言ってもあの『旧世界』時代の出土品です
 からなぁ。それも極めて希少価値の高い『水晶』とくれば、それはもう興奮するなというのが無
 理でして…。おおっと失礼を、『旧世界』時代の『水晶』というのは何かといいますとな、オイカ
 ワ大佐…。」

 静かにするどころかさらに興奮が高まったらしく顔色を変えてニヤニヤ厭らしい笑顔を浮か
べながらそう話を続けるマジックソンにとうとう、亜麻色の髪の軍人は少し大きく机に指を叩き
つけると瞑っていた目を見開いてマジックソンを睨んだ。その青色の瞳からは凍て付くような眼
光が発せられた。

 「煩いと言っている。黙れ、暫く動くな。煩わしい。」
 
 その冷厳極まる声は驚いた事に女性の美声だった。

 「しかしですなぁ、殿下・・・。」

 さらに言い募ろうとするマジックソンに、側に控えていたオイカワ准将は笑顔のまま内心驚い
ていた。この女性の怒りの眼光を受けても恐れを抱かないとは…この民間人、見かけによらず
豪胆な性格なのか、それとも興奮し過ぎて状況が分かってないのか。
 軍服姿の女性は無意識に軍帽を取り上げつつ無機質な声で言った。

 「…さらに通告しておこう。軍務中は私が王族である事は考慮する必要は無い。以後私を『殿
下』と呼ぶな。」

 マジックソンもそこでようやく相手の怒りに気付いたのだろう。顔色を収め、多少の理性がそ
の瞳に戻ってきた。

 「む、無論、承知致しておりますよ。ジャネス中将閣下。」

 その時、レリーフの施された両開きのドアの向こうからノック音がした。

 「入れ。」

 無機質にジャネス中将は言い放った。
 ドアを開き中に入ってきたのは白い軍服姿の海軍の士官だった。巡洋艦「イエーガー」の艦
長より、不信船の真偽を確かめるべく出動したキム海軍少佐である。
 キム少佐は緊張しきった面持ちで海軍特有の角度の浅い敬礼をすると口を開いた。

 「ジャネス公主殿下!シュタミッツ侯爵閣下を御連れ致しました!」

 必要以上に大きな声でそう言う。
 亜麻色の髪の軍人ジャネス・ペイリン・ロン・ディ・ハーベイス中将は「公主殿下」と呼ばれた
事に不快感を刺激され、キム少佐を思わずその眼光で射抜いた。
 ジャネスは王族であり、王族には「美しい」と形容される遺伝子が集合しやすい。そのため無
論ジャネスもかなりの美人だ。だが、その美女から発せられる眼光というものはかなり迫力の
あるものだ。
 射抜かれたキム少佐は思わず「ひっ」と僅かに空気を鼻から漏らした。
 ジャネスは取り去った軍帽を丁寧に被り直すと椅子から立ち上がり軽く顎を杓った。。

 「中へ入れろ。」

 「はっ、はい!侯爵閣下!どうぞお入り…」

 「下さい」とキム少佐が言い終わる前に、なにやら巨大な塊が意外な素早さで扉を潜り抜けて
きた。突き飛ばされるようにキム少佐は素早くその塊を避けた。

 「おお、おお、おお、公主殿下。御機嫌麗しゅう御座います。」

 その巨大な塊にはにこやかな笑顔がたたえられ、その口からは奇妙に高い声が発せられ
た。まだ声変わりのすんでいない少年のような声だ。
 なんと形容すればいいのか…。「肉塊」という題名の銅像があったらまさに彼がモデルだった
ろう。ただ、その目は無生物ではなくギラギラと眼光を発している。
 ジャネスは軽く優美な眉を動かしつつも無表情を保っていたが、オイカワ准将は相変わらず
の笑顔なのだが僅かに唇の右端が震えた。護衛に控えていた総務官の護衛達もあまりといえ
ばあまりの光景に僅かに数センチ後退った。
 シュタミッツ侯爵は片膝をついて臣下の礼を取る。オイカワ准将はそのとき、ジャネスの美唇
が僅かに動いたのを見た。空気を震わせず一言「豚」と…。

 フォルカー・フラン・ロン・シュタミッツ。
 王国貴族シュタミッツ侯爵家第四代当主にして、ムラカミ公爵に次ぐ国内貴族の実質第二位
の権勢家。
 現在は公職は辞しているが、かつては商務大臣と財務大臣を歴任した政界の大物。
 内国経済協力会議の議長を勤め本人も手広く事業に参画し、シュタミッツ財閥の総裁という
財界の重要人物。
 その貴族という特権と、商務、財務大臣時代に作り上げた政界の人脈、そして事業拡大と投
資という経済活動の巧みさから、別名「王国堂の大商人」と呼ばれている。
 だが、容姿というものは世俗の幸福を求めすぎると、反比例して下降してしまうものらしい。
 恰幅が良い、と評するにはその身体は豊満すぎた。身体の余分な肉はは歩くと大きく波を打
つ。今も、片膝をついて一礼しているが、腹が支えて腰が曲げらず左手が床に付けないでい
る。頬には骨格が不分明になるほどの肉がぶら下がっている。
 頭部は禿げ上がり、ラードを塗りたくったようにギラギラ滑っている。水に落ちたら水面には
間違いなく油膜が大きく広がるだろう。
 特徴的なのはその高めの声と意外に愛嬌のある笑顔だ。その容貌を見て「まるで大きな赤
ん坊だ」 と、評したのは彼の政財界のライバル、ムラカミ公爵である。

 「本来ならば私自身が御出迎えしなくてはならぬところを、申し訳御座いません。」

 「いや、小官が無理を通して急がせたのだ。謝罪には及ばぬ。乗船許可を頂き感謝する、侯
爵。」
 
 内心の軽蔑を押し殺しつつジャネスはそう言った。そしてジャネスとオイカワ准将はそろって
敬礼をし、慌てて護衛の四名がそれに倣った。

 「王族に対する礼は不要だ。頭を上げられよ侯爵。このたびの任務は国王陛下の承認の  
基、軍務大臣より発令された正規任務である。…意味は分かるな?」

 つまり、あくまで軍人として自分を扱って欲しい、というジャネスの要望だ。

 「承知致しました。殿下、あ、いえ、中将閣下。」

 シュタミッツ侯爵は立ち上がった。

 「うむ。…キム…海軍少佐だったな、貴官は。」

 先ほどの眼光で放心していたキム少佐に打って変わって温和な美声で声をかけると、キム少
佐はたちまち正体を取り戻した。

 「あ!はい!」

 キム少佐はジャネスが自分の名を覚えてくれていた事に軽く驚いた表情を見せた。

 「任務に戻れ。貴官のここでの仕事は終了した。」

 「は、しかし、殿下、いえ、閣下が本船より下船するまで閣下の護衛をするよう、艦長より命令
 されておりますが…。」

 「その任務は中将である私の命により消失する。ここには総務官の護衛もいる。もし海軍の 
 護衛を受け入れてしまったらお互い仕事がし辛いであろう。」

 それは当然の意見だった。例え同じ佐官級の軍人とはいえ総務官と海軍という一軍内の佐
官とでは形式上は同じ地位ではあるが権限が大幅に違う。互いの命令系統が上手く連結する
状況にはとてもならないだろうし、感情的問題もある。

 「は、はあ。」

 キム少佐は羨ましそうにジャネスを取り囲んでいる総務官の護衛たちを眺めてやった。み
な、勤めて無表情だがキム少佐にはそれすらいけ好かないように感じられる。そしてオイカワ
大佐のにこやかな笑顔とまともに衝突してしまい慌てて視線をはずす。
 「何であんなに笑顔なんだろう?」と思わずにわいられない。確かにキム少佐も「スマイリン
グ・スタッフ・オフィサー(微笑む参謀)」の噂は聞いた事はあるが。

 「艦長に正式に護衛を拒否する事を伝えておいてくれ。それと感謝する旨もな。」

 「承知致しました。それでは閣下の任務のご成功をお祈りします。失礼致します。」

 内心、憧れのジャネス公主との別れを惜しみつつもここは抗命する訳にもいかず、キムは敬
礼と共に踵を返した。
 後に、イエーガー号へ帰還したキムは同僚や上官たちから「一体何をしに公主殿下はいらっ
しゃったのか」と質問攻めにあったが、明確な回答は出せず「総務官府よりの正規任務らしい」
と好奇心を満たすには程遠い返答をするにとどまる。
 また、ぜんぜん関係ない事ながら後にキム少佐は「それはそれは美しい御方だった」と放心
しながら思い出したように呟くようになる。

 しかし、例えキム少佐がその場にとどまる事を許可されても、イエーガー号帰還後の質問に
明確な回答を出す事が出来たとは思えない。

 シュタミッツ侯爵が席につく許可を求め、お互いが机を挟んで正対する位置になると、シュタ
ミッツ侯爵が社交辞令を言う前にジャネスが口を開いた。

 「挨拶などというまどろっこしい事は抜きにして、早速だが本題に入る。」

 「…はあ。」

 出鼻を挫かれたシュタミッツ侯爵は気の無い返事をした。「王国堂の大商人」としては会話の
主導権が奪われるのは愉快ではなかった。
 「どうもいつものような商談を行うときのようにはいかないらしい」とシュタミッツ侯爵は険しい
顔でジャネスのその美貌を眺めた。
 だが、ジャネスはシュタミッツ侯爵の思惑とは裏腹に宣言するように言い放った。

 「総務官府は侯爵と商談を行いたい。」

 「…はっ?総務官・・・つまり軍がですか?…いやはや、軍の取引にまさか総務官殿がじきじ
きに出向いてくださるとは…。」

 シュタミッツ侯はこれまでに軍と商売上の取引は何度もしたことがある。武器、戦艦、食料と
いった軍需が主な取引材料だ。
 だが、そういった取引なら、書類上の決済ですんでしまう。こうして、総務官が出向いてきた
事を考えると、かなり大きな取引である事が分かる。しかし、それが何であるかはまだわからな
い。

 「中将閣下が取引の仲介役ですかな?」

 そう探りを入れてみる。総務官中将にして王国公主である人物が出向いてきたのだ。その人
物がこの任務でどれだけの権限を有しているのか知る事で、取引の内容の重要性が分かる。

 「公式にはそういうことだ。小官は取引を成功させる事を任務としている。」

 「…公式?と、いうことは私的な理由が御座いますので?」

 「それは貴公の知った事ではないな。機密だ。」

 ジャネスはわざと尊大な態度でそう言い放った。優位に位置している事を相手に示している
のだ。

 「…それは…私的に大変重大な理由がある、と解釈されますが宜しいので?」

 「貴公の抱く印象に感知するつもりはないな。」

 そこでシュタミッツ侯は柔和な笑みを見せた。ただ目だけは相変わらず鋭い。

 「では勝手にそう思わせて頂きます。…そういえばお飲み物がなかったですな。」

 「無用だ。貴公が来る前に私が断った。…マジックソン博士、説明を。」

 「は、はいはい。」

 手持ち無沙汰に、ただ杖を摩りつつ会話を眺めていたマジックソンは弾かれたように返事を
した。
 シュタミッツ侯は一瞬目を見張ってその老人を見た。ジャネスが話を向けるまで、その存在に
全く気付いていなかったのだ。
 マジックソンの影が薄い、というわけではない。シュタミッツ侯の脳が、明らかに貴族ではない
マジックソンという老人を、「重要人物」と判断せず、無視しても大過ない、と結論付けたのだ。
それゆえ、シュタミッツ侯はその老人を、単なる静物としてしか認識していなかったのだ。
 シュタミッツ侯のその表情を読み取ったジャネスは、意地の悪い表情を浮かべてマジックソン
を紹介した。

 「この老人はロン・シェルビー・マジックソン。サマンサ王立学院大学の考古科学の教授で名
の通り、勲爵士だ。」

 王国には貴族の他に一般的に「貴人」と呼ばれる身分の人物がいる。それは学問や、芸術
などの専門分野で、高い評価を得、国王より勲章を授与された人物が主である。勲章を授与さ
れた人物は「勲爵士」と呼ばれ、自分の個人名の前に「ロン」の貴人称号を帯びる事が許され
る。血統貴族の場合はこの「ロン」の称号は家名の前、個人名の後ろに帯びる。これは、勲爵
士の立場が家柄の名誉としての「ロン」ではなく、個人の名声としての「ロン」であることを示して
いるのだ。無論、個人の名誉であるため「ロン」の称号が、自分の子孫や後継者に継承される
事はなく、一代限りのもである。

 「…この度は、ジャネス中将閣下の任務顧問として、随員をさせて頂いております。」

 マジックソンは背筋を伸ばすと深々と一礼した。

 「まずはごらん頂きたいものが御座います…。宜しいでしょうかな?中将閣下。」

 「オイカワ、例の物を。」

 「はっ。」

 先ほどから不動のままジャネスの傍らに待機しているオイカワは、それまで抱えていた黒鞄
をテーブルの上に載せあける。その中には一つの、飾り気の少ない木箱が入っていた。
 オイカワは軽く、ジャネスと目を合わせ、一瞬頷くと、木箱をテーブルに置きその蓋をそっと開
いた。

 すっと、木箱の僅かに開いた隙間から光が零れた。

 「…これは…。」

 シュタミッツ侯は思わず、目を細めつつそううめく。
 光は隙間が拡大するに比例して放射範囲を拡大していく。だが、光の量はそれに対して、周
囲に拡散され、まぶしさが減少していく。
 次第に目の慣れてきたシュタミッツ侯は、しげしげとその物体を観察する。
 その木箱には柔らかい布が敷き詰められ、その上にこぶし大の大きさの球体が収まってい
た。
 その物体は淡く、自ら発光している。
 表面は水晶のように透明だ。だが、無色ではなく、その水晶の内部に黒い雲のような模様が
入っている。しかもよく見ると、その雲は僅かながら動いているように見て取れる。その動きに
合わせて隙間から光が漏れているのだ。まるで、夕立ちが止み雲の切れ切れから光が漏れる
ように。

 「見ての通り、この球体は自ら光源を持ち、発光いたします。単なる水晶などといった宝石と
は違いますな。」

 奇妙に胸を張った、自身たっぷりの声色で、宣言するようにマジックソンは言った。

 「中の模様が…動いているように見えるな。」

 目を細めたままシュタミッツ侯はそう言う。

 「左様で御座いますな。これは『考古科学』で言うところの『科学水晶(サイエンス・クリスタ
ル)』と呼ばれるもので御座います。」

 「科学?」

 「単なる科学ではありませんぞ、閣下。失われた古代科学ですぞ。…閣下も御存知でありまし
ょう。よく、昔話などで話される『旧世界』の事は。」

 「ああ、知っている。」

 「この科学水晶は、その旧世界時代に作られた、大変希少価値の高い遺跡物、と、いうのが
我々考古科学者の共通の見解でして。…しかしながら長年の研究にも関わらず、この水晶に
ついては全くといって解明されておらんのですわ。…原因はまず、現存する水晶が少ない事、
これにつきますな。研究をする、という事は、時にはその物質を破壊しなくてはならない事もあ
りますからな、それはなかなか…。故に、その『何故自発光をするのか』『何故、水晶の中の模
様が動くのか』『何のために作られたのか』といったことは全然分かっとらんのです。全く残念な
事で…。」

 そこで、話を遮るようにわざとらしくオイカワが咳払いをした。
 講義を中断され不快感を誘われたマジックソンはオイカワの方に顔を向けると、そこにはさら
に不快感を露わにした、ジャネスの険しい眼差しがあった。

 「…あ、えー、ゴホン。…閣下はこの科学水晶に良く似た水晶を御所有しておりますな?」

 「…。」

 「ヒースター市で行われたオークションで、貴公が『雲の水晶』と呼ばれる宝石を手に入れた
事は既に調査済みだ。」

 沈黙の無意味さをジャネスはそう言って示した。
 シュタミッツ侯は諦めたように溜め息を吐く。

 「…確かに、全く同じものではありませんし、それが科学水晶かどうかは分かりませんが、似
たものを落札いたしました。」

 「総務官府としてはその『雲の水晶』を所望したい。…無論対価は払おう。」

 「…。」

 シュタミッツ侯は愛嬌のある笑顔を引っ込めて考え込むように口元を右手で抑えた。

 「分かりませんな…。…総務官府の命令であるとしても、閣下の御要望と致しましても、何
故、『雲の水晶』を?正直申上げまして、例え学術的に価値が高いと致しましても、何故、軍が
それを欲しがるのか、それに閣下になんか代わりがあるのか…。」

 そこでシュタミッツ侯は口を噤むと、意外に凄みのある微笑と共に言った。

 「それとも…学術的なもの意外にも価値があるのか…。」

 「機密については話せんな。そのことに関しては貴公に自由は無い。」

 意外に鋭い指摘をするシュタミッツ侯に内心防壁を強化しつつも、表情には出さずそう言う。

 「残念ですな。好奇心は刺激されるのですが…。」

 シュタミッツ侯は身を乗り出す。

 「この要請はあくまで『取引』でありますな。つまり、私が断っても法的には何ら問題はない
…。」

 「そうだな、あくまで『法的』なものに限定するならな・・・。」

 ジャネスは表情を変えず、足を組むと艶然とした流し目でシュタミッツ侯を眺めた。

 「…だが、要請を断られた総務官府での貴公に対する感情は悪化するだろうな。軍との取引
も多い貴公の事だ。歓迎はできんだろう。多くはムラカミ公爵へ比重を多くするだろうな。無
論、小官の貴公に対する感情も悪化する。何かしらの報復にでないとも限らん。」

 「…ほうっ、それは例えば?」

 「実際、私の公主の身分でも貴公を追い落とすなどまず無理だろう。だが、社交界での貴公
の友人を多少減らす事ぐらいならできるだろうな。」

 「閣下にとって、そこまでさせるほど重要なものなのですか…この取引は。」

 「だが、この取引に応じてくれたら総務官府としては貴公に対して百万王国フィザーを支払う
予定がある。さらに、小官のポッケットマネーから多少色をつけても良い。」

 「…それは気前の宜しい事で。」

 内心、その金額にシュタミッツ侯は絶句していた。あの「雲の水晶」の落札価格の約十倍の
値段だ。それほど価値のあるものには見えなかったが…。
 さらにジャネスは追い討ちをかけた。

 「それにムラカミ公爵には兄上である王太子殿下が後ろについている。貴公にはその後ろ盾
がない。貴公の唯一の弱点はあまり王室に近づかず財力はあるが、権力には遠いところだ
な。」

 「ジャネス殿下が後ろ盾についてくださると?」

 内心の取り乱しが「閣下」敬称を忘れているところに現れている。が、ジャネスは逆に満足そ
うな表情で頷く。

 「小官はこう見えても部下達の人望が厚くてな…。」

 控えめすぎる表現でジャネスは自分をそう評した。これはシュタミッツ侯にとってとどめとも言
える言葉だった。
 つまり、ジャネスが後ろ盾になれば、軍もそれについてくる、という意味だ。古来より政治的な
力の背景には必ず軍の威圧というものが存在する。それは国家間でもそうであるし、政府内の
派閥闘争でもそうだ。ムラカミ公爵は軍との取引はシュタミッツ侯に負けず行っているものの軍
から絶対的な好意を受けられるほどではない。兵士達より絶大な人気を誇るジャネスの後ろ
盾は大きな魅力だった。

 「貴公の選択肢は二つある。一つは、取引を断り、軍、私、友人各共々からそっぽを向かれ
てしまう事と、取引に応じ、相応の金銭と共に、私の後ろ盾を得て、軍への影響力をますこと
だ。」

 シュタミッツ侯は腕組みをして、難しい顔をした。そのまましばらく押し黙ってしまう。
 快諾するものだ、と思っていたジャネスは眉を跳ね上げ、シュタミッツ侯を睨んだ。

 「迷うことか?」

 「いえ、実は迷ってはおりません。既にどちらの選択を取るかは決めております。しかし…。」

 「しかし?」

 「フェアではない取引に応じてしまうことに多少、プライドが刺激されてしまいましてね。」

 ようやく破顔してそういう侯爵にジャネスは初めて含み笑いを見せた。勝利を確信したのだ。

 「なるほど…。私の交渉術はなかなかのものだ、と『王国堂の大商人』からのお墨付きを貰っ
た、と思ってよいのかな?」

 「…交渉といえますかどうか…。私に絶対に断れない取引を持ってくるのですから…。」

 それは、ようやく口にした敗北宣言だった。
 ジャネスは足を組替えると軽くオイカワと目を合わせてから言った。

 「小官は負けるのが嫌いでな。負けるような戦はしないし、参加しない。勝つ戦には勝つため
に万全を期す。戦の鉄則がこんなところで役に立つとは思わなかったがな…。ところで…。」

 「はい?何で御座いましょう。」

 両手を合わせ何故か揉み手をしている「王国堂の大商人」は赤ん坊のような柔和な笑みを浮
かべている。

 「そろそろ、茶が欲しいな。ここにいる全員の分を揃えてくれ。」

 「承知致しました。」

 シュタミッツ侯は、先程よりもさらに軽快な足取りで扉に向かい、その向こうに待機していた侍
従にお茶の催促をした。



第一章 5へ続く



               
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