軍艦に搭載されているサーチライトの照明の帯が幾本か、三時の方向に向かって収束し照
らされた。その光の点、となった地点に一隻の小型艇がこちらに向かって前進して来るのが見
える。
 それと共に、鉄と鉄の擦り合わされる耳障りな轟音と共に、この「悠久の宴」号の船尾がゆっ
くり左右に開放される。この扉の奥は、船内船渠(ドック)になっており、小型船を幾隻か収容す
る事ができる。
 この船に何者かが小型艇ごと乗り込んで来よう、としているようだ。
 
 その様子を「悠久の宴」号の甲板から一人見ている女性がいた。不機嫌そうに眉間に皺を寄
せつつ…。
 せっかく騒がしい上に詰まらないパーティー会場から静寂を求めて抜け出して来たのに、甲
板も先程から煩すぎる。周囲の護衛艦が、小さな漁船を発見した途端、このざまである。
先程からその様子を眺めていた女性は、どうやら何か不測の事態が起こったのだろう、と言う
事は分かった。

 「…傍迷惑な奴。」

 ボソリ、とその女性は呟いた。
 
 小型艇は開け放たれた船内船渠に進入すると、再び金切るような轟音と共に船渠の扉が閉
じる。たっぷり一分ほどしてその轟音が止み、サーチライトの光線の動きが規則性を取り戻す
と、漸く安心したように女性は一つ溜め息を吐いた。
 
 女性はふと、船内の最上階、つまり三階のパーティー会場の窓を見上げた。大きなガラス窓
からこうこうと明りが放たれ、消し炭のような人影が浮き上がって見える。
 あそこは大勢の貴族、豪商、高級軍人が腹の探り合いと色恋沙汰に戦々恐々としている魔
窟だ。
 女性はそれを見上げると軽く皮肉の微笑を浮かべた。数百人もの人間が、わざわざあの狭
い空間に集まって人ごみの一部になっているのだ。彼らにもそれぞれの思惑があることは女
性には分かる。だが、一つ外の世界から見ると、その世界の小ささに滑稽さと共に自嘲を覚え
る。
 女性は自分のドレスに目を落とした。深みのある青いドレスに首と腕には煌びやかな装飾品
を身に付けている。手にはドレスに合わせてあつらえられた手袋と羽毛を蓄えた扇子。
 つまり彼女も貴婦人の一人として、あの魔窟の人ごみの一部に構成される人間の一人なの
だ。
 今度は先程の溜め息とは打って変わって、不機嫌そのものの大きな溜め息を吐く。

 それからしばらくの間、女性は手摺りに身を預けて海をただぼんやりと眺めていた。今はた
だ、静寂と暗闇に身を任せていたかたった。
 その、女性の僅かな憩いの一時を無常にも踏み躙ったのは再び雑音である。
雑音といっても先程のような轟音ではない。甲板の鉄板と硬い何かがぶつかる規則正しい、だ
が、不快な音。その音が次第に女性の方に近づいてくる。
 女性はこれ以上無い位眉を歪めると、次の瞬間無表情になり手摺りから身を起こして顔の
下反面を広げた扇子で覆った。それは、貴婦人が男性貴人に対する礼儀の一つである。多分
パーティー会場から自分を追ってきたどこかの青年貴族か実業家と言ったところだろうと思っ
たのだ。
 甲高い足音は女性より七歩ほど離れた場所まで近づいてから「カツン」と踵を打ちつけた。そ
の意外な行動に女性は軽く眉を顰める。

 「失礼致します。」

 その声は非常に事務的な硬いものである。
 船内からの光が逆光の為、女性にその人物は黒い影にしか見えなかったがその形から小さ
く敬礼しているのが良く分かった。
 それに左腰には軍刀が下がっている。

 「ロレッタ・ロン・シュタミッツ侯爵令嬢と御見受け致します。」

 その瞬間、サーチライトが二人の頭上を流れた。そして女性は初めて近づいてきた男の顔を
一瞬見た。鮮やかな赤毛に細身で長身の男がそこにいた。白い軍服は海軍士官の動き難そう
な物だ。右腰には短銃。左腰には軍刀を携帯している。生真面目に敬礼しているその顔には、
似合わない大きすぎる口髭が乗っている。思わず女性は心の中で「あの口髭は減点」と男を採
点した。

 「何だ、軍人か。」

 ぞんざいにそう言い放つと女性は扇子を掌で叩いて畳み、男に背を向け海の方を見た。
 男は、一瞬口篭もった。目前の貴婦人のあまりにも乱暴な口の聞き方に驚いたのだ。貴婦
人というのはどんなに目下の身分のものであっても口調だけは丁寧であるものだ。それが淑
女の嗜みというものである。それをこの貴婦人は公然と無視して見せたのだ。
 男は平静を保ちつつ敬礼のまま言葉を続けた。

 「…小官は当船の警備、護衛任務に就いております、ジュート・ノーウッド海軍少尉で…。」

 「違うわよ。」

 ジュート・ノーウッドの自己紹介を最後まで言わせず、貴婦人らしからぬ貴婦人は海を見たま
まそう言い放った。

 「…は?」

 「私はロレッタ・ロン・シュタミッツではない、と言ってるの。お分かりかしら、軍人さん。」

 女性は噛んで含むように歯切れよく言い切った。
 これはなかなかに手堅い御令嬢のようだ。

 「…ですが甲板の出入り口を警備していた下士官が、金髪の貴婦人が甲板に出て行った、と
 証言しておりますが…。」

 女性は豪快に舌打ちした。これもまた身分の高い女性としては、はしたないと評価される行
動である。

 「口止めしたのに、駄目だった見たいね。口止め料、払っとくんだった。」

 ジュートは敬礼を漸く下ろす。ロレッタが海を見ているのを良い事に隠す事もなくやれやれ、
と頭を掻いた。だが、口調は相変わらず事務的で硬質だ。

 「口止め料など払っても我が軍の軍人である限り例え一兵卒であろうと受け取るはずがあり
 ません。」

 「…あら?もしかしてその建前、本気で信じてる?」

 明らかにからかう雰囲気を醸し出しながらロレッタはそう言い振り向いた。その彼女の優美な
唇は微笑を浮かべていたが、青い瞳は冷え切っていた。
 そのいかにも敵対心剥き出しの眼光にジュートはあまり恐れを抱かなかった。それが演技で
あることをジュートは何となく肌で感じたのだ。

 「…いえ、小官がそう信仰しているだけであります。実際の所は日々の糊口を満たす為に軍
 人になったものも大勢いますし…。」

 ジュートはロレッタに屈託無く言った。
 ロレッタはあっさりと降伏の旗を顔に張り付かせたこの軍人に少し興味を抱いた。「軍律」を
額縁に飾っているようなプライドの高い、だが視野の狭い軍人ではないようだ。もしそのような
軍人であれば、身分の差を考えても控えめに反論しただろう。

 「実際には百桁の単位の者が報酬の為我が軍へ利敵行為を働いている、と思われますが 
 …。あ、無論小官はそのようなことをしたことはありませんが…。」

 糞真面目にそういうジュートにロレッタは冷え切った眼光を収めると、多少顔を伏せて「ふっ」
と鼻で笑った。
 それに安心したようにジュートも髭を捻ろうとして右手を伸ばしそのまま髭に手をやらず再び
敬礼した。

 「…シュタミッツ侯爵令嬢、パーティー会場から御令嬢の姿が見えなくなった、という事で小官
 を含めまして数名で捜索をしておりました。御無事で何よりでした。」

 再び努めて事務的な口調でそう言う。ただ、先程よりも柔らかく聞こえるのはロレッタの偏見
だろうか?。

 「御苦労でした。ノーウッド海軍少尉。」

 さっきとは打って変わって貴婦人然とした態度と口調で艶やかにそうロレッタは返答した。

 「幸い、パーティー会場においては御令嬢の不在は極小数の武官にしか知られておりませ 
 ん。お早目に会場へお戻りになる事を小官はお勧めします。…それに、夜間に甲板に出るこ
 とは危険を伴う為禁止されております。」

 「…もう少しだけここに居させてくれないかしら?」

 ジュートの言葉に、目を伏せてロレッタは首を振った。

 「少し涼みたいの。」

 「しかしながら…。」

 「私、今日誕生日なの。」

 言い淀むジュートの言葉を遮って唐突にロレッタは言った。

 「…はぁ、あ、お、おめでとう御座います、御令嬢。」

 ジュートは今更ながらロレッタの誕生日に対して祝辞を述べた。
 ロレッタは、また海の方に身体を向け、甲板の手摺りに腕を重ねその手の甲に顎を乗せた。
ここを動きたくない、という意思表示だ。

 「だから、誕生日プレゼントを頂戴。」

 ジュートは、そう言うこの貴族の令嬢の真意を最初謀りかねた。だが、次の瞬間、得心したよ
うに髭を捻ると居ずまいを正して進言した。

 「承知致しました。では、小官からのプレゼントと致しましてこの海原の風景を、御令嬢に進 
 呈致しましょう。…しかしながら、条件が御座います。」

 「何かしら?」

 「御令嬢が甲板におられる間においては小官の護衛を受け入れて頂く事。それと、この事を
 御内密にして頂く事…宜しいでしょうか?」

 もし、このロレッタに万一のことがあり海に落ちたとあれば、大事件だ。ジュートの進退にも関
わる。護衛の進言は彼にとって当然だった。また、自分の独断で、深夜進入禁止の甲板に居
たロレッタを黙認した、ということも、重大な命令違反である。それに対して、ジュートは釘をし
たのだ。
 それにロレッタは軽く首を縦に振った。

 「良いわ、少尉の言う通りにします。ただし、こちらからも条件があるわ。」

 「いかがなものでしょう?」

 「しばらくの間、静かにしている事。それだけよ。」

 「…了解致しました。」

 ジュートは敬礼し、解いた後、直立不動のまま、サーチライトの照明が飛び交う中、数十分を
過ごす事になった。その間、まったく会話は交わされなかった。



第一章 4へ続く



               
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