気に入らない人間を殴る権利。
 海軍准将アーサー・ロン・ムラカミ公爵令息は無意識のうちに貴族の特権をそのように捕らえ
ていた。無論それ以外にも権利はあるが、彼は特にこの権利を行使する事に執着していた。
 そういう意味で、「軍」というのは彼にとってぴったりの職業だといえる。上官として、部下を平
手打ちする権利が与えられているのだ。
 ただ、この権利は身分に反比例する事も彼は無意識のうちに理解しており、これまで、決して
身分の上位の者に向かっては――表立って――激発する事を堪えていた。
 しかし、現実において、海軍准将で公爵令息、という身分は軍においても貴族としても最高の
階級(クラス)に属する。確率論的にみて、手当たり次第に他人を殴ってもその人物が、自分よ
り身分が上位の者であった、ということはほとんどありえない。
 しかし、この時はその油断が命取りであった。

 今、まさにジュートに振り下ろされる平手打ちは、その至近距離において突如として動きを止
めた。

 「……なっ!」

 ムラカミ准将はその右手首を締め上げるように掴んでいる。別の腕を見た。

 「だ、誰だ!離せ!」

 突然そう叫んだムラカミ准将にジュートは咄嗟に目を見開いて状況を観察した。
 周囲のギャラリーの壁から一本の腕が飛び出し、その腕がムラカミ准将の手首を掴んでい
た。

 「ぶ、無礼者!何者か!私はムラカミ公爵令息だぞ!」

 ギャラリーの貴族達は慌てて身を引く。 開けた視界のその場には漆黒の軍服に身を包んだ
一人の長身の軍人がムラカミ准将の手首を掴み上げ、直立のまま立っていた。何故か目深に
被った軍帽から覗く唇は満面の笑みを浮かべている・・・。

 「そ・・・総務官?」

 間の抜けた声で驚きを表現する。名ばかりの軍人とはいえ、ムラカミ准将はさすがにその漆
黒の軍服の意味するところを理解した。

 「宴の場で、凶行に走るとは古き伝統の門閥貴族として、また栄誉ある我が軍の将校として
あるまじき行為だな、ロン・ムラカミ公爵令息。」

 その美声は、長身の軍人から発せられたものではなかった。遅れて現れたその人物は軍帽
から亜麻色の髪の覗くこれまた総務官である。

 「で、殿下・・・。」」

 「ジャネス殿下!?」

 すっとんきょんにそう叫んだのは事の成り行きを見守っていたロレッタである。その声に思わ
ず、周囲の青年貴族達は再び押し黙り、突然現れた珍入者に注視した。

 「久方ぶりだな、ロレッタ嬢。誕生日、御祝い申し上げる。」

 「あ、有難う御座います、殿下・・・何でこちらに?」

 「なに、任務でな。」

 そう短く言うと、ロレッタはムラカミ准将に向き直り言った。

 「さて、ムラカミ公爵令息。貴殿が、宴の場において、無用に士官を殴ろうとした件を小官は
確認した。それゆえ、このオイカワ大佐に命じて止めさせたわけだが・・・。」

 「・・・そ、それはこの者が無礼にも私の命を無視して・・・。」

 慌ててそう取り繕うムラカミ准将はさすがに「総務官」と「ジャネス公主」という二つの衝撃に圧
倒され、正気を取り戻していた。

 「貴官は今、軍務中ではなかろう。軍務中でないものの命令は抗命しても罪にはならない。」

 そう言うと、ジャネスはジュートに目を向けた。思わずジュートは硬直してしまう。

 「少尉の行為は、我が軍の軍人として当然の行為であり、賞すべきだと私は思うが・・・どうか
な?ムラカミ令息。」

 「・・・・・・。」

 押し黙るムラカミ准将。だが、その怒りは再燃したらしく、その険しい眼光を、ジャネスに向け
た。

 ジュートはこの時初めてムラカミ准将に殺意を覚えた。ジャネスは言わば、一般兵士達から
は女神とも称されるほど敬愛されている。無論、ジュートもその類に漏れず、ジャネスに対して
厚い信仰心を持っている。
 そのジャネスにあのような怨嗟のこもった目を向けるのだ。
 思わずカチンときた。
 だが、ジャネスはその眼光を見て、ニヤリと微笑する。

 「そんなに睨むな。小官は極秘任務中だ。このことを総務官府に報告するつもりもないし、貴
殿の考課にも影響はない。分かるか?見なかった事にしよう、といっているのだ。」

 その言葉を聞いてもしばらく、ムラカミ准将は眼光をジャネス公主に向けていたが、乱暴に掴
まれていた自分の腕を振り解いた。
 そして、乱暴な態度のまま、踵を返した。怒りに憤激している形相を見て見物者の貴族たち
は思わず後退りしつつ道を開けた。その中にはムラカミ家と懇意にしている幾人かの青年貴
族もいたらしく、慌てて、その後を追いかけて行った。

 「・・・やれやれ・・・。ご苦労だった、オイカワ。」

 「はい。」

 「ジャネスさまぁ!」

 そう黄色い声で叫ぶと、長いドレスのスカートを掴んで走り出したロレッタはジャネスに飛びつ
いた。護衛に徹するべきのオイカワは突然の出来事に、笑顔のまま凍りついた。

 「ちょ・・・っぶっ、ロ、ロレッタ、ちょっとちょっと・・・。」

 「ああん、ジャネス様。わたくし幸せですわ。私の誕生日にジャネス様にお会いできるなんて。
もうっ、運命かしら・・・。」

 どうやら、ロレッタはジャネスの熱狂的ファンらしい。しかも筋金入りのようだ。そのジャネスに
向ける眼差しはまさに恋する乙女である・・・。
 まあ、ロレッタが恋するのも分からなくは無いな、といつの間にやら蚊帳の外になっているジ
ュートは茫然としたまま思った。
 ジャネスにはその気は無いのかもしれないが、言うなれば軍服姿のジャネスは「男装の麗
人」そのものなのである。まあ、女性用軍服、というものが無いのだから仕方が無いが、これが
まるであつらえたように良く似合っている。しかも彼女は外見のみ存在ではない。いざ戦えば必
ず勝つ不敗の名将であり、身分も王族としては最高の「公主位」を所有する。どの要素を採っ
ても人々を魅了して止まないのである。
 宮廷において一部の貴婦人達が「ジャネス公主後援会」なる組織を結成している、という話は
有名である。
 思わずジュートも気がつけば、ジャネスのその姿を目で追っていた。
 ロレッタとはそれなりに親しい仲なのだろう。抱き付かれて慌てている様子は無い。辟易して
いるようではあるが・・・。

 「ちょ・・・あの、そ、そろそろ離してくれないか、ロレッタ嬢。」

 「あん、つれない御方・・・。良いじゃないですか、女の子同士なんですから。」

 その科白に「それはそれで問題があるのでは?」と思ったオイカワは二人を引き離そうと一
歩踏み出した後、たたらを踏んだ。

 「ロレッタ。いい加減にジャネス閣下から離れろ。閣下は重要な任務でここにいらしたのだ。」

 人垣から現れたその人物は重度の肥満でツルリと禿げ上がった頭はシャンデリアの光を充
分に反射していた。フォルカー・フラン・ロン・シュタミッツ侯爵その人である。

 「・・・お父様・・・。」

 ロレッタのその呟きはそれまでのはしゃぎようが嘘のようにさめていた。
 ジュートは心の中で絶叫していた。似ていない。あまりにも似ていない二人なのだ。「あの太っ
た禿げ親父がロレッタの父親だと?養女か?」と本気で思った。



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