【 野に下る 】




 ――― 傀儡であるか、本体であるか。


 それはあまり殺生丸に取っては意味の無い事だった。
 誰であれ、この『時』を邪魔するものは腹立たしく、万死に値するという事のみ。
 りんの為に張った結界越しに、相手を睨みつける。
 腕の中のりんは、いつものように深い眠りについている。


 このような人里はなれた深山の、古代よりの森の中。
 長き時を経たものが放つ神気を帯びた空間と、自分が張った結界。
 迂闊だったのは昂ぶる己が気に遮られて、なりを潜めた相手の気配を近づくまで察せられなかった事か。



 ――― このような場所で、このような形でお逢いするとは…


 相手も瘴気に満ちた結界越しに、慇懃な声音で声をかけてくる。


 ( ………………… )
 ( いえ、こんな静かな夜に、どこよりか盛りのついた雌猫の五月蝿い鳴き声が耳に障りまして )


 冥い暗赤色の眸の端に、狡猾そうな光が走る。


 ( つまみ出してやろうと、足を運んだのですが…、まさかこんな所でお逢いするとは思いませんでしたよ、殺生丸様 )


 そう言う相手の声には、明らかに侮蔑の響き。
 その眸に浮かぶ淫らな光が針のように、腕の中に抱き寄せたりんを包む妖毛から覗く、細い項や肩、幼い手足に突き刺さる。


 ( ……ずっと不思議だったのですよ。人間嫌いな貴方様が、どうしてそんな役にも立たぬ下劣な人間の小娘を連れて歩いているのかと )


 ( ……何が言いたい )


 ( いえいえ、ただその理由が判ったと思っただけでして。そういう用向きにお使いになる為に、連れて歩いておいでだったとは )


 りんの項や肩、手足に残る赤い刻印を更にいやらしげに見詰める。


 ( ……堕ちられたものですな、殺生丸様。戦国一の大妖と謳われた貴方様が、このような下賎な、しかもまだ女にもならぬ人間の小娘に血道を上げられるなどと )


 ( ………………… )


 ( せめてその娘が、食べ頃になるまで待てなかったものですかな? 殺生丸様。その娘の上げる嬌声が盛りのついた雌猫なら、貴方様はまるで相手の見境の無い、やはり盛りのついた野良犬のよう。まったく浅ましい限りですな )


 妖毛からはみ出したりんの両足。
 その間を流れる、薄青く燐光を発するもの。
 明らかな嘲笑。
 ここで、この場で何が行われていたか承知での振舞い。
 わざわざ探らねば判らぬようなこの『場』すらも、土足で踏みにじる。


 ( 「食べ頃になるまで待つ」…、薄汚い半妖のお前の考えそうな事だな。人間とは、かく思うものなのか。どちらが浅ましいやら )
 ( その小娘のような幼女を夜な夜な寵愛なさる……。そのような貴方様こそ、下賎な人間どもはこう言うのですよ。犬畜生! と )
 ( 構わん。もとより人でなし、飼われてもおらぬ )


 赤い凶眼が更に燃え盛る。
 その狂ったような視線は腕の中のりんに注がれ、それを遮るように深く胸の中に抱き込む。


 ( ……まったく興味深いものですな。何事にも執着なさらず超然となさっていた貴方様が、そこまで狂われてしまわれるとは。よほど好いのでしょうな、その娘の躰は )

  
  悪意を込めた慇懃な言葉で、りんを穢してゆく。


 ( それほどの娘なら、是非相伴に預かりたいものですな、殺生丸様 )
 ( …………… )
 ( 所詮は妖怪と人間との束の間の戯れ。いずれ飽きて始末に困る折もありましょう。その時で良いのですよ、殺生丸様。今は存分にその娘を味あわれるがよい )


 あまりの汚らしい言葉に、きつくりんの体を抱き締める。


 ( ……言いたい事はそれだけか、下衆 )
 ( どちらが下衆でしょうな、殺生丸様 )


 殺生丸は切り裂きそうな鋭い視線を相手に向けた。
 声は凍てついたように冷たく、鋭利な響きを含んでいる。
 その声の冷たさと反比例して、殺生丸とりんを包む結界は怒りで赤く熱を帯び出していた。


 ( くくくっ、下衆ゆえの野暮はお許し下され。殺生丸様は丁度良い所を邪魔されて、お怒りのよう。直ぐにお暇致しますゆえ、どうかお気になさらず続きをごゆるりと ―― )


 もう声を潜める事無く高らかに嘲りの笑い声を響かせて、その者は立ち去った。


 暫く殺生丸の張った結界は、主の怒りを反映して赤い閃光を発していたがやがてそれも鎮まり、薄い白紫や紫金の極光が微かな帳のようにたゆたう。
 腕の中のりんは今の騒ぎには気付かなかったようだ。



 ――― 無理も無い。


 年端もゆかぬお前には、あまりにも過ぎた責め。
 疲れ果て、落ちた眠りゆえ……



 『時』を待てば ―――


 どのような想いで待てば良い?
 これの終焉を見知ったこの私に……


 共に在れるは、ほんの一刹那。
 人の儚さも ―――





 ――― 朝(あした)の紅顔  夕べの白骨





 初めてお前の笑顔を思い出したあの時のような気持ちでは、もう使えない。
 命を繋ぐは、慈悲の心で振るう天生牙。


 お前に寄せる想いは……


 お前が、『おんな』だから欲した訳ではない。
 本当に『守りたい』ものからお前を守り得ぬ事を知っている。


 下らぬ生き物と、捨て去る事が出来たのなら……
 この手で葬る事が出来るような存在であるのなら……


 『次』はないかも知れぬ『時』を留めたく、お前をこの腕の中に抱く。


 帰る場所もなく、留まる場所もない我等には、この漂泊の天地こそが棲家。
 野を駈ける獣のように、なにものにも囚われはせぬ。
 我、妖ゆえに。


 唯一の軛(くびき)は、ただりん お前だけ。
 お前の声が呼ぶ、我が名の響きは心地よい。
 己の中深く、眠っていたものが呼び起こされる。


 そを聞きたくて、お前を夜毎に抱くのだろうか。




 そして、お前。


 お前には判るまい。
 なにも失くすものを持たないお前には。
 数多の妖怪をおぞましくも我が身に取り入れ、作り変え、切捨て、殺し ―――


 最初は何であったのか。
 下衆な妖怪どもの寄せ集め。
 その妖怪どもはお前の一部であっても『お前』ではない。
 何処にも『お前』と言うものは存在(い)ないのだから。



 腕の中で、小さく身じろぐりん。
 うっすらと、星を湛えた黒い瞳を開きかける。


 「殺生丸様……?」


 額に唇を寄せ、瞼を閉ざす。


 「……疲れたろう。朝まで寝ていろ」


 逆らう事を知らぬ娘。
 胸に小さく笑みの吐息を零し、柔らかく微笑んだまま眠りの国へ戻ってゆく。



 見る事が許されるなら……


 どこまでも駈けて行きたい。
 この野をお前と。
 野の花のような、小さな獣のようなお前を伴って。



 そんな、夢を ―――


 見果てぬ夢を ―――




【終】
2006.2.1




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【 あ と が き 】


言い訳になっちゃいますが、我が家の殺りんは基本設定・現行設定一線越えでも、私は殺生丸をロリコンだとは思っていません。
と言うか、その「ロリコン」も人間の価値観によるものだろうと私は思うので、生粋の妖怪である殺生丸にそれを当て嵌めるかな? と。

人間っぽいはっきりとした恋愛感情や欲望的なものを満たす行為としての一線越えなら、多分私は書きません。
もともとが在り得ない関係の二人なので、殺生丸はもっとも妖怪らしく、りんちゃんは一回死んで蘇った、人間であっても尋常ではない状況の子どもとしてのスタンスを崩したくないんです。

それと純粋無知という性質も。
りんちゃんを『おんな』にしたくない気持ちもあるので、殺生丸に抱かれていても何も判ってないりんちゃんにしています。
本当ならこのあたりで女のドロドロとした情念のようなものが生まれてきても良いのですが、りんちゃんに関してはパス! です。

今、ブログ連載で書いている「比翼連理」から基本に据えている設定で、殺生丸は高貴な生まれであっても、帰るべき国も館も持っていません。従って、りんちゃんのお姫様設定も当サイトでは皆無です。
あくまでも、自然の中にある主従なんです。山奥や森の中を棲家として。
以前書いた作品の後書にも書いた事があるのですが、我が家の殺りんは高貴な獣と小さな獣の番(つがい)なんです。
妻に娶るとか恋人であるとかの感覚もないまま、一緒に居る二人です。

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