【 にじ・そら・ほし・せかい 】




  ―――  虹が 消えてしまう前に
               よく 見ておこう ―――


 二月に入って節分も終って、少しは暖かくなってきたのかな。
 今までなら雪になるものが、細かい雨になって落ちてきた。
 雲の切れ間から差し込む、冬の日差し。まだお昼を少し過ぎただけなので、思ったよりも明るくて。霧に近い細かな雨粒に、太陽の光が反射しておぼろげな虹が冬の空にかかる。

 今にも消えそうな虹。

 なんだろう、この感じ。
 胸がどきどきする。

 ……そう。もうずっとりんは追いかけても、手に届かないものを追っかけていたような気がする。

 そこにあるのに。
 そこに見えるのに。
 触れようとして手を伸ばしても、触れる事は出来なくて……


 そして、いつかりんは置いて行かれる ―――


( ……やだなぁ。なんでこんな事、思っちゃったんだろう )


 訳は判らないけど、普段は寄り道なんかしない邪見様が買い物に連れてきて下さったのに。その邪見様が車をデパートの駐車場に入れる間、ここで待っておけと降ろされたデパートの玄関先。街は先取りした季節の色で、甘くて華やか。りんの目の前を行く人たちは楽しそうで笑顔で忙しそうに歩いている。
 空を見上げている人なんて、誰もいない……。

( りんだけかな、この虹に気が付いたの )

 冬の虹だけに少し陽が翳ると、もう見えない。

( おんなじどきどきでも、全然違うね。あの時のどきどきは、もっと、こう ―― )

 りんは、あのクリスマスの夜の事を思い出していた。



   * * * * * * * * * * * * * *



 ……クリスマスの朝。りんが目が覚めた時、最初りんはどこにいるか解らなかった。

 りんの部屋よりずっと広くて立派で、見た事もないような室内。
 りんが寝ていたベッドももの凄く大きくて、ふかふかで温かくって。
 そこでりんは気が付いた。

「りん、どうしてガウンを着たまま寝てるの?」

 大きなベッドの上に、りん一人。
 きょろきょろ見回してみて、気が付いた事がもう一つ。
 それはりんの隣に残っていた温もりのある大きな窪み。
 これって……

「ここ、もしかして殺生丸様のお部屋?」

 そう気が付いた瞬間、りんの体は熱くなって胸がドキドキしてきて、顔は熱を出したように真っ赤になってしまった。

 その後りんを起こしに来た邪見様の話では、夕べ夜更かししたりんは殺生丸様のお部屋で温かい飲み物を頂いているうちに、眠っちゃったらしい。そしてそのまま殺生丸様が、この部屋で休ませてくれたんだってわかった。

「子どものくせに夜更かしなんかするからじゃ。みっともなくも寝穢(ねぎたな)い真似をしよって……。朝は朝で、殺生丸様のお見送りもせんと寝過ごしておるし……」

 りんにはそんな邪見様の小言なんて耳に入らなかったの。
 だって、あのろくにりんとはお話もして下さらない、いつもお留守がちな殺生丸様が夕べはりんと同じベッドで眠って下さったんだよ? 
 そんな事って、りん 信じられないよ!!

 物凄くビックリしたけど、あの時感じたどきどきは、あったかくて嬉しくて、なんだか幸せな気分だったんだ。


 ――― でも、だからって、それからの殺生丸様がいつもと変わった訳じゃないけどね。
 相変わらずお忙しそうだし、お留守がちだし……。

 そうだね、クリスマス・プレゼントだもんね。
 一夜限りの。


 ――― 虹がとけた 風を呼吸して
             目を閉じよう ―――


 まるで、今も天翔ける風のよう。
 そう、光を纏って。


『りん』の中に残るのは、その幻影(まぼろし)……



   * * * * * * * * * * * * * *



 思わず知らず、零れる溜息。

「なんじゃ、なんじゃ。若い娘が年寄りみたいな溜息をつきおって」

 あたふたと、デパートの地下駐車場から邪見様が、走ってこられる。

「ううん、何でも無いの。でもどうして邪見様、りんを買い物なんかに連れ出したの?」
「あ〜っ? 何を言うておる、りん。こんな機会でもないと、普段からの感謝の気持ちをお伝え出来んだろうが!?」
「感謝……?」
「うむ、ワシもあれからのぉ、まぁちと調べたんじゃが。なんでも『バレンタイン』と言うのは、どうやら本命やら義理だとかだけで騒ぐものじゃないようじゃの」
「邪見様?」
「あー、まぁそういう一面ばっかりが取り沙汰されとるが、海の向こうじゃクリスマスと同じで、大事にしたい、大切に思っている者同士がカードにちょっとしたものを付けて贈り合うのが慣わしとの事じゃ」

 ちょっと都合の悪そうな顔をして、邪見様がもごもごと。

「そうなんだ。りん、本当の意味は良く知らなかったけど、お母さんが言っていた『大好きな人』ってそう言う事なんだね」
「りん、お前はいつも殺生丸様にお世話になっておるんじゃから、せめてこんな機会にでもな、と思った訳じゃ」

( ……そうじゃ、りん。ワシにはお前と殺生丸様との間には何かあるように思えてならんのじゃ。あのイブの夜のあの光景を見た時、はっきりそう思った。ワシはずっとあの光景を見ていたのではないかと )

( そう思った時、ワシの目には今の二人がぎこちなく思えてのぅ……。あの殺生丸様が笑うとは思えぬが、もう少し穏やかなあたたかな風に過ごせるのではないかとな )

「ありがとう邪見様! りん、殺生丸様も邪見様も大好きだよっっ!!」

 りんの笑顔が弾ける。
 ああ、ワシが見たいのはこの笑顔。聞きたいのはこの弾んだ声。

 そう思う心の片隅、遥かな記憶の影で何かが燻っている。


 ――― ワシは何か思い出すのも恐ろしい事を、忘れているのかも知れない……


 微かに邪見の胸に兆したものも、デパート内の溢れるような人ごみにもみくちゃにされ、いつしかどこかに紛れてしまった。


「邪見様〜、どこ〜〜」
「り、り〜ん! ここじゃ、ここじゃ!!」

 まずは定番かと思われた、チョコ売り場。そこは、それこそ黒山の人だかり。小柄な二人は自分たちより上背のある若い女性達の波に沈んでいた。

「ふぅ〜、物凄いね、ここ」
「ああ、このデパートで扱う商品は人気も質も最高の物しか扱わんからな」
「ねぇ、邪見様。殺生丸様はどこのチョコがお好きなの?」

 そう問われて、はっとした表情になる邪見。

「えっと…、どこと言われても、はて? お好みはなんじゃろう……?」
「知らないの? 邪見様」

 真顔でりんに問われ、戸惑う邪見。考えてみれば、殺生丸の好みは難しい。
 好みにうるさいと言うのではなく、その時に気が向いた物を摂るような所があり、次もそれを摂るとは限らない。ただ言える事は、いくらまわりが持てはやそうと自分の意に染まないものは、決して手にしないと言う事。

「………………」
「……判んないのなら、最初は邪見様の分からだね」
「えっ! ワシの分!?」
「そうだよv りんに取っちゃ、邪見様はりんのおじいちゃんみたいに大切な人だもん!」
「お、おじいちゃん…、まぁ 仕方がないかのぅ……」

 少しトーンダウンしたその声の調子。何時までも若い者と同じ気持ちでいただけに、そう言われるとちょっと辛い。

「邪見様は、どんなチョコが好き?」
「う、うむ…。ワシはチョコよりも大福や団子の方が好きじゃが……」
「りん、お団子なら作れるよ! お母さんと一緒に作った事あるもん」
「ほう、りんの手作り団子か。食べてみたいような恐いような、じゃな」
「ひど〜いっっ! ちゃんと作れるよ、りん。お母さんも上手だって言ってくれたんだよ。あっ、そうだ!!」
「ん、なんじゃ。りん」
「殺生丸様のチョコもりんが作っちゃダメかな? お母さんが生きている時に教えてもらったんだ。お父さんもお兄ちゃん達も美味しいって言ってくれたよ」

 ――― 強くなったな、と邪見は思った。りんが家族の全てを事故で亡くして二度目のバレンタイン。昨年までは、思い出してはその小さな胸を痛めていた。今は、そうやって楽しい思い出として話せるまでになったのだと。


「そうか、それも良いかも知れんな」
「それじゃね、このデパートよりもりんの知っているスーパーの方が材料を揃えやすいよ」

 その一言で邪見とりんはデパートを後にした。



  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



 下町のスーパーで揃えた材料を持って、屋敷のキッチンに立てこもったりん。
 まずは、邪見へのプレゼントにする団子作りから。団子の粉をボールにあけて、水を少しずつ加えてゆく。団子作りは水加減が大切。入れすぎて柔らかすぎたら格好が悪くなる。りんは自分の耳たぶに触りながら固さを確かめ粉を捏ねてゆく。
 丁度好い固さに捏ね上げた粉を、りんの小さな手で丸めて沸騰した鍋の中へ。熱が通って浮いてきたらそれを穴の開いた玉じゃくしで掬って、冷水の中へぽちゃん。

「ほう、なかなか様になっとるじゃないか、りん」
「へへ、言ったでしょ。上手だって」

 団子の粉を鼻の頭につけて、りんがにぱっと笑う。

「邪見様、お団子はみたらしと餡子で良いの?」
「ああ、それで十分じゃ。こりゃ、楽しみじゃな」

 りんが餡子の缶詰を開け、それからみたらしのタレを作るのに小ぶりの鍋に砂糖と醤油を入れて煮詰め始めたのを見て、邪見は自分の部屋に置いてある取っておきの玉露の茶葉を取りに行った。
 邪見がキッチンに戻って見ると、串に刺されタレを塗られた団子が焼き網の上で香ばしい匂いを漂わせていた。その横の作業台の上で、りんが団子にたっぷりと餡子を乗せている。

「そろそろ出来上がりじゃな」
「うん、もうちょっと焦げ目が付いたらね」

 りんの作業ぶりを見ながら、邪見は温めた急須と湯のみを用意し、沸かしたての湯を別の急須に注いで少し湯温を下げたものを玉露を入れた急須に静かに注いだ。
 ふわっと薫る茶の香り。


「良い匂いだねぇ、邪見様」
「そうじゃろ、そうじゃろ。ほっとする良い香りじゃからな。さて、りん。一緒に茶にしよう」

 キッチンの窓際のテーブル。
 外はまだ空気が冷たいけど、差し込む光は明るさを増して。
 窓ガラス越しに光が踊る。
 風が通るたび、きらきらと。

 ほぅ、と寛ぐりんと邪見。
 何気に二人は空を見上げた。

「……不思議なもんじゃなぁ、りん。こうしておるとなんだかずっと前からお前とこうしておったような気がするんじゃよ」
「あっ、りんも。やっぱりね、こうして空を見上げてお帰りを待っていたような気がするの」
「待っていた?」
「えっ…? あれ、りん、どうしてそんな事言っちゃったのかな?」
「変な奴じゃのう。ところで、りん。チョコの方は出来たのか?」

 へへっと舌を出しながら、りんが悪戯っぽく笑う。
 その手には、チョコのレシピ本。

「あのね、殺生丸様に差し上げるものだからちゃんと作りたいなって。りん、お母さんと一緒に作ったのって一回きりだったから…。ダメかなぁ、邪見様?」
「ワ、ワシが手伝うのか! なんなら、屋敷の料理長に手伝わせるがのぅ」
「それは、ダメ! 料理長さん、プロだもん。りんが作った事にならないもん」

 その一言で、邪見も巻き込んでの悪戦苦闘のチョコ作り。作るはりんの発案で、ブランデー入りのトリフュ・チョコ。
 どうにかそれらしいものが出来上がったのは、もう夕暮れ。

「ああ、もうこんな時間か。ほれ、りん。早くここを料理長に明け渡さんと、夕食はろくなもんにならんぞ」
「りん、たまにはお茶漬けみたいなのでもいいんだけど」

 そう言うりんの頭を軽く叩きながら、邪見とりんはまだ甘い香りとブランデーの芳香の残るキッチンを後にした。



  * * * * * * * * * * * * * *



 その後はもう、バタバタ。
 急いで学校の宿題を片付け、夕食を済ませてお風呂。
 それから、邪見に手伝ってもらって仕上げたトリフュをラッピングする。
 それを持って、去年のように半地下の書斎へと向う。今でもはやり、留守中に殺生丸の自室に入るような不躾な事はしない。

「……今日も殺生丸様、お帰りは遅いんだよね」

 ことり、と今度も机の上に包みを置いた。
 上体を机の上に傾けた拍子に机の照明の前に、いつもお守りのように身に着けているあの菫の花束のペンダントが零れ出る。机の照明が、紫水晶の花弁を透かしその光を薄紫に染める。

「昼間見た虹の欠片みたい…」

 そっとりんは目を閉じた。



 ――― どこまでも続く草原。雲が流れる空。


 あれはいつの事?

 青々とした草の海、緑滴る山の木々。燦々と降り注ぐ太陽の光。
 通り雨が上がった後に、空にかかる鮮やかな虹。

 それよりもっと、鮮やかなのは……。

 また、或いは。
 茶色に枯れた下草。遠くに見える山々の頂には白い雪。
 葉を落とした細い枝々越しに見える、薄い冬の太陽。
 山の上ではもう雪でも、まだ麓は氷雨。
 りんはその雨に濡れながら、空を見ている。

 りんには判るから。

 もう、雨が止む事が。
 お帰りになられるのが。
 りんの瞳に、おぼろな虹。
 その向こうから ―――

 そして、りんは包まれる。
 柔らかく暖かな……、白銀(ぎん)。


「……何だろう? 今のイメージ。りんの小さい時の記憶? ううん…、良く判んない……」

 何気なしにりんは書斎の一番奥の、窓に面した寝椅子のある子どもの為のコーナーに足を運んでいた。
 寝椅子に座り、今 頭に浮かんだイメージを追いかけてみる。
 自分のもののようであり、そうではないような……。

 でもとても胸がどきどきして、それと同時にきゅうっと締め付けられるような気もする。
 いつもいつもりんは空を見ていた。
 夜も昼も。
 夏も冬も。

『りん』には、広い野原が、森の中が棲家(すまい)。

 空を見上げて、待ち続けて ―――


「りんの心の中の空……」

 ぽつりと、呟く。
 不意に襲ってくる、睡魔。
 逆らい切れずに、りんは夢の国へ ―――


 書斎の窓に映ったりんの姿。
 その姿に重なる、りんに良く似た幻影(かげ)。
 暖かな色合いの単(ひとえ)、片側だけ束ねた無造作に伸びた髪。

( ……そうだよ、りんはいつも待ってたんだ。空を見上げながら )

 いつか、『空』を見る事が出来なくなる事を感じながら。

 だから……


  ――― こころの中 いつでも
             空が みえるように ―――


 窓の中の『りん』が、寂しげに笑った。

( ……殺生丸様、『りん』の事、見ては下さらないね )

 寝椅子の上のりんが身じろぐのと同時に、窓の中の『りん』は掻き消えた。



   * * * * * * * * * * * * * *



「……また、か」

 夜遅く屋敷に戻った殺生丸は、階下の書斎から明かりが漏れているのを見咎めて、階段を下りてきた。
 予想に違わず、書斎入り口に置いた仕事用の机の上に、紫色のリボンをかけた小さな包みと一生懸命言葉を考えて書いたのだろう、バレンタイン・カード。

 書かれた言葉は ――

『いつもありがとうございます。大好きな殺生丸様へ』

 と、一言。
 口許に浮かぶ笑み。

 今の、このままの『時』を留めておける物なら……
 共に在るだけで、心を満たされるそんな距離。

 大好きと言う言葉の意味がそのままで済まされる、この時を。

 一緒に置かれていた包みを解く。転がり出たのは、不揃いなチョコらしき茶色の物体。そのチョコの大きさの割りに、強すぎるブランデーの香り。口許を苦笑いの形に変えると包みの中の一つを口に運び、残りを手にして奥へと歩を進める。そこには――

「……お前は自分の部屋でない所で寝るのが、趣味か?」

 寝入ったりんの横に腰を下ろし、そうぞんざいな言葉をかけると額を軽く指先で弾いた。

「う、うう〜ん……」

 明るすぎる書斎の照明。薄く目を開けたりんの視界に飛び込む、照明の光とさらりとした白銀の色。


  ――― みかづき わらった
          ぎんいろ まほう ―――


( 殺生丸様、笑ってる……? )

 寝起きでぼんやりしたりんの目には、そう見えて。

「あっ、お、お帰りなさい、殺生丸様!!」

 あわてて、ぴょこんと寝椅子の上に正座する。
 そのりんの口許に、手にしたチョコを押し込む殺生丸。

「……始末の悪い物を作るな、りん。甘すぎるし、ブランデーは入れ過ぎだ」
「あ、あの…、殺生丸様……」
「お前の湯冷め予防には良いかもな」

 どう反応したら良いか困ったりんはふっと、目を窓ガラスにやった。

( あれ…? 窓の中の殺生丸様、額に三日月……? )

 改めて見直すと、そこにはいつもの殺生丸様。
 いや…、いつもとは少し ―――

「いつまでそうしているつもりだ。私はもう行くぞ」
「あっ、はい! りんも出ます」

 慌てて殺生丸様の背中を追うりん。
 いつもと態度は変わらないけど、でも……。

( 殺生丸様、笑ってる! )

 それだけで、りんの心は浮き立つ。
 
 そう ―――


   ――― こころに 小さな羽根をつけたら
              世界を 駆けてゆこう ―――


 殺生丸様の背中を無心に追いかけていた、あの頃のように。



  * * * * * * * * * * * * * *



 明かりが消される瞬間、窓ガラスに光が反射した。
 瞬く光の狭間で、幻影の三日月が哂(わら)う。


  ――― 虹が 消えてしまう前に
              よく みておこう……  ―――


 どこかで、小さな女の子の声がした。





【完】
2006.2.13

BGM ザバダック 
アルバム「SIGNAL」 −にじ・そら・ほし・せかい− より




【 あとがき 】

昨年書いたバレンタイン物より、随分と長くなってしまいました。
今回は、過去世のりんちゃんをかなり出してみましたので、その分今生の殺兄はあまり自嘲的な描写がないですね。
書いていて楽しいのは、りんちゃんと邪見のほのぼのシーンだったりします。
邪見も過去世の記憶が浮かびつつありますね。

…しかし、相変わらず判り難い話ですね^^;

バレンタイン、めでたくも甘くもないものですが、よろしければお一つどうぞ


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