【 雪の宿 】


 山奥の見捨てられたような古いお寺の中に、りん一人。

 外はしんしんと雪が降り続いている。足跡をつけるものも無いままに、その深さを増してゆく。誰も居ないお寺の庫裏(くり)だけど、幸いこの雪や風を防いで手足を暖める囲炉裏もあるから、りんみたいな者でも凍えずに済んでいる。

 こんな事もあると、それは覚悟して付いてきた。
 あの村を出れば、『人としての暮らし』を捨てれば。

 ……そして、あたしがどんなに殺生丸様の足手まといになるかも、それも承知の上でついてきた。だから今、あたしがここで一人なのを辛いだとか悲しいだとか思うのは、大間違い。

 暖かな囲炉裏の火の色を見ながら、うとうとと思う。

 今の自分は悲しいのか? 辛いのか? と。
 それは違うと、あたしの頭の中のりんが首を横にふる。あたしにここで待っていろと言ってくださったのは殺生丸様。あたしはその言葉を信じるだけ。信じて待つ、誰よりもお側にありたいと思った殺生丸様を。これ以上、幸せなことはない。楓様の村にいた頃の、『待つ』とは違うこの気持ち。殺生丸様の訪れを待つことが糧だったあの日々、今は共に行くための過程の中の『待つ』だから。

( ……火の色って、なんだか懐かしくなるなぁ。いつだったか殺生丸様と二人、ただ火の色を見ていたことがあったっけ )

 幼い頃の自分。
 まだ殺生丸様と旅をしていた頃に。

 あの時の温かく、なによりも大きな安心感を思い出していた。

( ……あの時はりん、びしょ濡れで季節はもう冬だったからめちゃくちゃ寒くて。濡れた着物を剥がされて、殺生丸様のもこもこに包んでもらったんだよね。本当にあったかかったなぁ )

 囲炉裏の火に顔を炙られ、火照ったような気がする。

 ……囲炉裏火の、熱さのせいだけではなかったかもしれないが。

 パチパチと囲炉裏で火が爆ぜる音がする。たゆたったような温気の満ちる中、りんは眠りに落ちてゆく。外はいつしか吹雪いていたが、雪や風の咆哮もりんの耳には届かない。朽ち果てた寺の本堂から外れたその庫裏の辺りだけ、雪が当るとぼぅと微かな妖光を発して溶けてゆく。風の強さもその妖光の波を起こすだけ。殺生丸の施した結界が、庫裏屋全体を包んでいた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 庫裏の中がほの暗い。
 囲炉裏の音も静まり返っている。

 夢見心地でりんは、自分を送り出してくれたあの優しい村の事を思い返していた。

 あたしが楓様の村を出ようと思ったのは、かごめ様が遠いお国から犬夜叉様のもとにお嫁に来られて二年くらいした後の事。お二人の姿を見て、ずっと自分の胸にうちにあったものが『なんなのか』に気が付いて。

 あたしが殺生丸様と旅をしたのは一年ほど。その後は楓様の村に預けられて、珊瑚様や弥勒様、犬夜叉様に七宝や琥珀や村のみんなに可愛がられて暮らしていた。楓様の村はみんながとても親切で、あたしが殺生丸様と旅をしていたと聞いても、それであたしを変な目で見る人はいなかった。あたしが住んでいた村とはぜんぜん違って、とても居心地が良い村だった。

 あたしを楓様に預けた殺生丸様も、時折は村を訪ねてくださる。小さかったあたしはそれが嬉しく、そして少し寂しくも思った。殺生丸様がそうお決めになったことだから、あたしに否はない。ただただ、従うだけ。
 村での暮らしで色んな事を学び、人と接する暮らし方も覚えてきた。このままずっとこうなのかな? とも思い始めていた。


( うん。みんな優しいし、ここは暮らしやすい村だよ。知っている人も沢山いるし、ひとりぼっちじゃないし )

 それから ――――

( 殺生丸様だって邪見様だってりんの事を忘れてる訳じゃない。ここに置いて行かれたのだってりんの為を思っての事 )

 それでも ――――

( でも、なんだろう? このままじゃなんだか不安な気がするんだ。本当にこのままで良いのかな? )


 殺生丸様は何も仰らない。ただたまに村に寄ってはりんに新しい着物などを下さるだけで。りんにどうしろとか、これからどうするとも何も言わず、りんの顔を見てそれからまた邪見様と阿吽をお供に空へ舞い上がる。人間のあたしなんかじゃとても手の届かない所へ。

 そんな思いを感じながら楓様の村で暮らし始めて三年目、あの時骨喰いの井戸に消えたかごめ様が戻ってこられた。ご自分の生まれた遠いお国の家族や友だちや自分の持っていたもの全部と引き換えに、ここで犬夜叉様の側で暮らされることを選ばれて。

 二度と戻る事はない、戻るつもりもないと静かに力強くそうかごめ様は仰った。

 かごめ様のお国は遠い遠い時の彼方にあるお国だと、この時初めて知った。骨喰いの井戸の側で三年間、ずっと待ち続けていた犬夜叉様の言葉があたしには良く判っていなかった。あたしの頭じゃ、その遠い遠いお国は本当に遠くにあって人間がどんなに走っても、半妖である犬夜叉様が走っても辿り着けないような遠くにあるのだと、そう思っていたんだ。骨喰いの井戸の不思議な力で、繋がっていたんだなぁとぼんやり考えていた。

 かごめ様のお国は、この世の中のどこにもないお国。
 そんな遠い所から、犬夜叉様のもとへ ――――

( そっか、きっとそういうことなんだ )

 りんの中で、モヤモヤとしていたものへの答えがだんだん形になってくる。それをりんが口にするのには、それからさらに二年の月日がかかった。
 直ぐにも一緒に行きたい、付いて行きたいと言ってしまうのは『子ども』のわがままな様な気がして、言ってしまったらもう二度とここには来て下さらないかもしれないような気がして。

 季節ごとにりんに着物を下さる殺生丸様。この秋の終わりにもりんを訪ねて下さった。いつものように言葉少ない短い時を過ごして、やがて空へと舞い上がられようとした時、りんは殺生丸様のお召し物の袂を掴み、思わず叫んでいた。

「りんも、りんも一緒に行きたい!!」
「りん……」

 お側についている邪見様が、とんでもないと大きな目玉を更に見開き、りんを叱り付ける。

「馬鹿を言うでない!! お前は今ではこの村の人間じゃ! ここで今までのように待っておれば、こうして季節ごとに殺生丸様は訪れる。それ以上の望みは贅沢じゃ!!」
「邪見様……」
「それにりん、ワシも殺生丸様もなにものにも縛られる事のない妖怪じゃ。留まる所も根を下ろすところも持たぬさすらいモノ。人間のお前にはついてはこれぬ」

 りんの覚悟は出来ていた。
 この気持ちを言わないまま、生温い優しさの中で自分を誤魔化すのはもう嫌だ。
 りんの身の程を弁えないこの言葉が殺生丸様のお気に障って、手打ちにされても構わない。呆れ果て、もうお前など知らぬここにも来ぬと言われるなら、りんの命のある限り殺生丸様を追い続ける。

 りんはりんの命をかけても、殺生丸様のお側に在りたい!! ただ待っているような、そんな受身な生き方は嫌だ。
 りんはりんの思う、りんらしい生き方がしたい!
 それがりんの『わがまま』だと、許せぬとお思いならどうぞ殺生丸様のお手でりんを殺してください……。

「……ついてゆきます、ついてゆく事を許して下さるのなら」
「りん……」

 邪見様が絶句される。りんの気迫に押されて。

「……付いてくるなと言っても、お前は勝手に付いて来るつもりだろう。あの時のように」
「殺生丸様……」
「それがどれほど私の足手まといになるか、承知しての戯言なんだな?」

 感情が読めない冷たいお声。足が震えそうになるのをりんは必死で堪える。

「りんが足手まといになるのは判っています。ものすごくわがままを言っているのも。でも、戯言なんかじゃありません!! りんの思いは、ただただ殺生丸様のお側に在りたい!! それだけなんです!」
「人としての暮らしを捨てる事になる。命を削る事もな」
「……全部覚悟の上です。例えこのままこの村で、殺生丸様の訪れを待って日々を過ごし安穏に年老いたとしても、それはりんの望む生き方ではありません。待つよりも一緒に歩ける所まで歩いてゆきたい。そんなりんが足手まといで疎ましいとお思いならば、どうぞ今この場でりんをお手打ちにしてください!」

 あたしは殺生丸様の袂を掴んでいた手を離し、じっと瞳を逸らす事無く殺生丸様のお顔を見つめた。村の方から、何人かの走ってくる足音。

「殺生丸! りんちゃんはもう決めたのよ! あんたと一緒に生きていきたいって選んだの!! 今度はあんたが選ぶ番、決める番よ!」

 その声は、かごめ様。

「かごめ様……」

 あたしはその声に、その言葉に思わず後ろを振り返る。

「うん、もうそろそろだって感じてたから。似てるもんね、私たち。好きな人の側にいられるなら、何も要らない。命さえ賭けられるって」

 そう言いながらかごめ様は、りんの顔を優しく見つめてくれる。

「……犬夜叉が兄上の妖気の色が違うと、いつもより激昂されているようだと言いまして、何事かと馳せ参じた次第」

 後ろからそう言うのは弥勒様。その後を、楓様を背負った犬夜叉様が追いついた。

「楓様、犬夜叉様、弥勒様……」

 犬夜叉様の背を下りた楓様が、小さな包みをりんに渡した。

「もうよかろう。りん、お前ももう子どもではない。お前の言う事は確かにわがままでしかないが、一旦それを口にした以上、誠心誠意それを果たすが良い」
「楓様」
「当座必要なものが入っておる。あとは追々殺生丸に調達してもらえ。そして ―――― 」

 すっと楓様が慈しみ深い隻眼で、殺生丸様を見る。

「……お前様の方も、もう腹は決まられたか? 長く待たせたのはりんの方かも知れぬが、それはお前様にとっても必要な『とき』であった。さぁ、どう答える?」

 皆が殺生丸様の答えを待っている。

「―― 来い、りん。これはお前が選んだ道。泣き言は聞かぬ」

 りんの前に差し出された殺生丸様の御手。
 りんは初めて、殺生丸様の手を自分の思いを込めて握り締めた。
 殺生丸様の手を取ったりんを、殺生丸様は阿吽の上に座らせた。
 最後に犬夜叉様が ――――

「あー、その、なんだ。お前の気が向いたら、そのぅ、たまにはここに顔を出しても悪かぁないから。弥勒んとこの子ども達もりんに良く懐いていたし、村を出たからと言って俺たちはりんに『捨てられた』とは思ってねぇからな」
「うん。ここはりんちゃんの故郷みたいなもんだから。もし、なにかあったらいつでもここを思い出して欲しいの」

 かごめ様が、そう言う。
 かごめ様は、強い。

 ご自分はその思う『故郷』さえ、捨ててこられたのに。
 りんなんて、どんなに離れていても空を見上げれば一緒に過ごした村の皆と繋がっている。

 この同じ時を。

 りんは幸せだと思う。
 本当にりんは、幸せものだ。


 夢の中で、りんはそっと嬉し涙を浮かべていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 りんの寝入った目元に浮かぶ涙を、何か温かいものが拭い取る。その感触にりんは眠りの底からふっと意識を浮かばせた。夢現の感覚でりんが感じたのは、寝入る前に囲炉裏の火を見ながら思い出していたあの時の事。
 やはりこんな風な山寺に置いてゆかれそうになり、必死で後を追いかけて滝から落ちて滝壺に沈んだ。そんなりんを滝壺から掬い上げ、寒さに震える体をもこもこに包んで火の側で暖めてくれた ――――

 その時、素肌に感じたのと同じ感触。

 ふわふわでしなやかで暖かく……。
 しかし、あの時とは違う感触も感じてりんの眠気は吹き飛んだ。自分の素肌の上に感じる熱く張りのある肌の感触。ぱっと開いた瞳の前に居たのは ――――

「せっ、殺生丸さまっっ!?」

 りんを包むように広がるもこもこと殺生丸様のお着物と裸のりんと殺生丸様。
 り、りんの着物はどこっ!?

「……戻るのが吹雪のせいで遅くなった。私が戻るのがもう少し遅ければ、お前は凍え死んでいた」
「え、ええっっ? 凍え死んで、って……」

 殺生丸様に押さえ込まれていたから、体を動かす事が出来なくて瞳を動かし目の端で囲炉裏の火を見る。いつの間に消えたのか、熾火の欠片も残ってなかった。

「こんな事態が起こるなら、いくら結界を張ったとしてもお前を一人にする訳には行かぬな」
「……ごめんなさい。これからちゃんと気をつけるから」

 わがままを言ってついてきたのに、もうこんなにご迷惑をかけている、これじゃあの頃の、滝壺で溺れていた子どものりんと変らない。

「冷えた体も温まったので、着物を着ます。殺生丸様もお体に障ります、どうかお召し物を」
「……………………」

 そう言っても、殺生丸様はりんの上から動こうとはされない。
 じっと見つめられるその眸の色の深さに、自分の至らなさを映されたようでなんだか自分が情けなくなってくる。情けなさで鼻の奥がつんとしてきた。でも、泣いた顔は殺生丸様に見せたくない。

「がんばってるつもりなのに、まるであの時の滝壺に落ちたりんみたい。殺生丸様のお手を煩わせてしまって……」

 りんがそう言った時、殺生丸様の金の眸がちかりと光ったような気がした。



 ……人間が、寒さに弱い事を甘く見ていた自分にも落ち度があった。

 あの時のように一冬を過ごす館を整える前に、時節が急変した。取りあえずと風や雪を避け、山の獣や魑魅魍魎などが近付かぬよう山奥の廃寺のあまり崩れていなかった庫裏に結界を張って出かけたが、忍び込む寒さまでは計算に入ってなかった。まして人間は『眠るもの』だということも。吹雪いてきた空を見上げ、邪見がその一言を言うまでは。

(  ひどい天気でございますなぁ、殺生丸様。りんをあの荒れ寺に残してきたのは正解でした。あ、でもりんはちゃんと火の番が出来るじゃろうか? こう寒くては火が絶えては凍え死んでしまいますからな )

 その言葉に不安を感じ、邪見をその場に残したまま吹雪の中を翔け戻ってきたのだ。戻って見れば目に見えぬ寒さという死の影が、庫裏のなかを青暗く染めている。火の絶えた囲炉裏の前で、りんが嬉しそうに微笑みを浮かべていた。冷え切った体、青ざめた顔。閉じた目元に残る涙はいったい……。
 咄嗟に十分暖かい自分の着物を脱ぎ、冷えたりんの着物を剥ぎ取って自分の着物で包む。その上で肌を合わせ、自分の妖毛でさらに包んだ。

 その時、殺生丸の頭に浮かんだのも、やはりあの滝での事だった。

 こんな風に冷え切ったりんの体を温めたあの夜。
 懐に入れられるほどに小さく幼かったりん。
 それでも、あの時もりんは私を追っていた。
 どこまで付いて行きたいと、山奥の夜の闇を怖れもせず行く手を阻む木々の小枝や柴に自分の手足を打ち付けられ切り裂かれても、自分の足で追ってきた。


 人の身では叶わぬ激流の滝さえ越えようとして ――――


 私の懐で安心したように寝入ったりんの、手の甲に作った生傷に唇を寄せ思った。
 

( いつか ―――― 、この手でりんを…… )


 あの日の予感は、今の現実。
 今はもう消えてしまったその傷に、あの時よりの想いを込めて口付ける。

「せ、殺生丸様?」
「……お前は、私を温めてはくれぬのか?」
「えっ? あ、あのっ……!!」

 驚く顔は今でも十分幼い。
 それがりん、なのだろう。

 そんなりんの反応を楽しみながら、私はりんの胸に顔を埋めた。

 吹雪が止むまでは、身動きは取れぬ。
 火が消えた囲炉裏では、暖も取れぬ。

 ならば互いの内裡(うち)の焔で温めあっても、悪くはあるまい。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 ―――― 巣篭もる獣は、睦みあう。


 棲みかを持たず、さすらう者に
 ひと時の安らぎ、雪の宿。


【完】
2009.1.23脱稿
 


【 あとがき 】

このSSは昨年12月に「You will see fire but you're cool as ice」様で更新された、艶やかで趣のあるイラストに触発されて起こしたもので先方様の承諾を得て公開しています。
りんちゃんが楓さんの村を出るまで心の動きや送り出したかごちゃん達の気持ち、それから妖怪である殺生丸に添うと言う事はどういうことか? みたいなものを書いてみました。
一番書きたかったのはイラストからのイメージでもある、ラストからの15行ほどだったりします。




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