【 修 羅 】
早春の森の中。
裸樹の枝先は薄緑に染まり始め、裸足で踏みしめる感触も柔らかいものに変わってきた。すでに日は暮れ、厚さの薄い木々の重なりから、足元の方で人家の灯りがちらちらとゆらめいている。
こんなに人里から離れてはいない場所で夜営するのも珍しいな、とりんは思った。勿論、人里から離れてはいないと言えど森の中である。 日が落ちてしまえば、村人が森の中に足を踏み入れる事もそうあるまい。
里山のまだ若い森。
初々しい木々の中で、この森の主のような古木が一本。
いつもの様に、その樹の根方に腰を据え殺生丸一行は夜を迎えた。
その横にちょこりん、とりんが控えている。
「りん、食い物は盗んでこんでもよいのか?」
殺生丸の側を離れ様としないりんを見やり、夜営の為の火を熾しながら邪見がそう促す。
( あっ、そうか )
りんは思わず傍らの殺生丸を見上げた。
静かに瞼を閉じ、気配を辺りの風景に融け込ませている。
「うん! 判った、邪見様。りん、ちょっと行ってくるね」
言うが早いか、もう駆け出している。
「これ、りん! 待たんかっっ!! ワシも行くぞ!」
慌てて後を追おうとして、邪見はその場で足をもつらせてしまった。
「いいよー、邪見様ぁー! すぐ、そこだもん。りん、一人でも大丈夫!!」
返って来た返事は、すでに遠ざかりつつ ――――
「ああ…、りん……」
聞こえなくなる声とともに、もうその姿は木立に紛れてしまっていた。
恐る恐る彼らの主人を振り返ると、殺生丸は微動だにせず。
……どうやらこの辺りには、りんに危害を加えるような動物や妖怪などの類はいないのであろう。
( …そうじゃな、ワシがおらぬ方がりんも村の人間に乞いやすいやも知れぬな )
――― 実りの秋、蓄えの冬を過ぎ、糧を得るにはこの早春の時期が一番難しい。このほんの一時期なのだが、冬眠から覚めた空腹の山の動物なども徘徊し始め、危険も増す。
調達出来るものなら、人里の物の方がりんの口にも合いやすいだろうし、安全であろう。
( そこまで見越しておいでか )
―――― 物言わぬ、主人であった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
すっかり暗くなった森を怖れもせずに、りんは麓目指して駈けていた。
殺生丸との旅で培われたのか、もともとの素養か、りんには人間にしては鋭い『ある』感覚が備わっていた。
……つまり、自分にとってそれが『危険』であるか、そうでないかと言う直感のようなもの。それから幼い子に往々にして見られる、人知外のものに対しての親和感も強かった。森の出口でりんは、ピタリと足を止めた。
火を囲み、数人の人影。
微かに漂う酒の匂い、干し魚の焼ける匂い、醤(ひしお)が火に炙られ香ばしい香りを振りまいている。
りんが人影に気付いて足を止めたのと、火を囲んでいた人影がりんに気付いたのはほぼ同時だった。
( …人間? 男が…、四・五人… )
「うん、どうしたな? そこの娘っ子。迷子かな? それとも村に帰る途中かな?」
人影の中でも一番恰幅の良い、年嵩の男が優しげにそう声を掛けてきた。
「あっ…」
返事をしようとして、何かがりんを引き止める。
目が慣れて来たのか、仄暗い焚き火の明かりでも人影の様子が大分見て取れるようになった。旅の途中と思しき一行。
先にりんに声を掛けて来たのが、この一行の頭のようだ。
四十半ば、行商人のような親しげな優しげな気のうちにも、抜け目なさのような物を感じる。その脇には三十がらみ、目付きの鋭い男がりんを見ている。道中の護衛役なのか隙のない男に見えた。残りはまだ年の頃は十四・五から十八くらいの若い衆。
( …なんか嫌だな。関わらない方がいいみたい )
りんが男達を避けてその場を離れ様とした時、思いもよらずりんの腹の虫が鳴いてしまった。
「なんだ、腹が減ってるのか。娘ッ子、お前ぇ、旅の途中だろ? こちとら同業だ、見りゃわかる。村に下りて、食い物でも貰うつもりだったんだろ?」
頭の男がさもありなんと、言葉を続けた。
「う、うん…」
「止めとけ、止めとけ。しみったれた村だ。見ず知らずの旅のガキに食い物を恵んでやるようなお人好しはいねぇよっっ!!」
屯(たむろ)っていた若い衆の一人が揶揄するように声を上げた。
「これ、そんな情けのないような事は言うな! 袖振り合うも他生の縁。ほら、娘っ子。この握り飯をやろう」
焚き火で炙られ、香ばしい匂いを振りまいていた握り飯の一つを取ると、頭はそれをりんに投げて寄越した。
「あっ、でも……」
「…お前ぇ一人で旅をしている訳じゃあるまい? お父っさんやお母っさんと一緒かな?」
頭の物言いの優しさに、ついつられてりんは首を横に振ってしまった。
「……そうか、まぁ、それでも連れはいるってこったな。そのお人はどうしたんだ?」
……現代で言う所の誘導尋問に引っかかりそうになった事に気付き、りんは首をまた横に振ると、それから手の中の握り飯を見、それを下に置くと一目散に引き返した。
「ほう、このご時世に躾の良いこって。おい、辰っっ!!」
今までの人当たりの良さそうな仮面を脱ぎ捨て、この中の誰よりも険悪な目付きで若い衆の一人を呼び付けた。
「へい、頭!」
「気付かれない様、あのガキの後を付けろ」
「へい、で、 一体どうしやすんで?」
険悪さの中に、冷酷さも顔を出す。
「あのガキの連れって奴を確かめて来い。俺の読みじゃ今の娘、主(あるじ)持ちだな。躾の良さとそれなりの身なり。ありゃ、そこらあたりの村の娘じゃねぇ」
「主(あるじ)?」
「ああ多分今の娘、この戦乱で没落した貴族か武家の奥付きの使い女だろう。主が売り物になりそうな女なら、今の娘共々廓(くるわ)に売り飛ばす。男なら叩き殺して金目の物を分捕る。まぁ、どっちにしろあの娘は廓行きだがな」
頭の言葉に、怪訝な顔をする辰。
「…頭、今のガキ、あっちの役には立ちそうもねぇ、ほんっとガキですぜ? 取り立てて器量が良い訳でもねぇし…」
辰の言葉に、ふんと鼻を鳴らし ―――
「すぐにも売り物になりそうな器量良しの娘を見つけるなんざ、素人でも出来る。目利きの女衒(ぜげん)ってのはな、今は大した事はないほんのガキでも、大化けするような器を持った娘を見極める眼を持った奴の事を言うんだ」
「じゃ、あのガキ…」
「ああ、この地獄の徳兵が言うんだ。五・六年もすりゃ、どんな男でも振り向くような器量良しになる。あっちの方でも特上のな」
この世界でも黒幕的な存在である頭の言葉に、それでもまだ信じらぬ気の表情が消えない。
「――― へっ、まだお前ぇのような若造には、あの娘の良さは判らん。グズグズせずに、とっとと追いかけろっっ!!」
一喝され、慌ててりんの後を追いかける。
いつも悪し様に扱われ、辰はその胸の内にどす黒いものを燻らせていた。
「頭……」
「政、たいした相手じゃねぇと思うが、準備だけは怠るな」
「へい、判りやした」
その場にぎらりとした、異様な殺気が立ち昇る。
自分たちが目を付けた相手が、人知外のものであるとは知らずに。
「政兄ぃ、頭には童女食いの趣味もあったんで?」
小声でそう問いかけるのは、残った若衆の一人、吉三だった。
「…馬鹿か、お前。頭がそんなゲテモノ食いする訳ねぇだろ! ありゃ、『禿後家(かむろごけ)』にでも仕立てあげるつもりなんだろうさ」
「禿後家? 何です、それ?」
若衆の残りの一人、半次が口を挟む。
「…お前ぇら、そんな事も知らねぇでいっぱしの女衒になるつもりか? まったく、呆れた連中だな」
こんな馬鹿は相手にしていられないと政が口をつむぐと、入れ替わる様に徳兵がしたり顔で説明を始めた。
「まぁ、お前等が知らねぇのも無理はねぇ。『禿後家』なんざ、滅多に拝める玉じゃねえからな」
「へい」
「いいか。禿後家ってのはな、さっきのガキくらいの時から『男漬け』にして、手練手管を叩き込むのよ。で『印』が来たらな、一年から一年半、男絶ちさせる。まぁ、後家みたいなもんだな」
「そうしたら、どうなるんで?」
「熟し具合も絶妙な、大金稼いでくれる『男殺し』の絶品の出来あがり、って訳さ」
「そんな…、そうなったとしてもまだガキでやんしょ? 年季の入った太夫連中の方が上じゃないんですかい?」
と吉三。
「それに、そんな風に仕込むんなら別にあの娘でなくともいいじゃねぇんですかい? 大金稼いでくれるんなら、今までにでもやってりゃ…」
またも半次が口を挟む。
一人焚き火の側で酒を呷っていた政が、後を引き継ぐ。
「…とことん馬鹿だな、てめーら。年端も行かねぇガキを、大の大人が朝に晩に犯りまくってみろ。ぶっ壊れるか気が狂うかのどっちかだろー が! よしんば、そのどっちにもならねぇにしても、大抵は男狂いの色狂いになっちまう。そんなのはな、値がつかねぇんだよ」
「へぇー、そんなもんですかい」
「お前らは間違っても、手ぇ出すんじゃねぇぞ。完成された禿後家を一度抱けば、大抵の男は魂を食われてしまう。夜も日も明けず、通い続けて大店(おおだな)の主人だろうが、大身の侍だろうが、家傾けちまうからな」
「…そんなに凄いもんなんですかい」
「抱けば天国、離れりゃ地獄。ツボ(名器)に嵌るっちゃ、この事だ」
「あの娘、とてもそんな風には見えねぇが…」
徳兵も政から酌をされながら、酒を呷る。
本当の目的は、目の前の村から言葉巧みに娘達を安く買い叩き、遊郭へ高く売るのが目当てだったが、予想もしなかった宝石の原石を見つけたようで、気分は高揚していた。
「…お前ら、あの娘の瞳(め)に気付かなかったのか? 覇気に溢れ、あるものをあるがままに受け入れ、それでもその魂は汚れる事のない強さを持っている。ああ言う瞳をした娘しかなれねぇんだよ」
徳兵がにやりと、下卑た獣めいた笑みを浮かべる。
それにつられ、残りの男たちも ――――
―――― りんのまったく預かり知らぬ所で、おぞましげな会話が続けられていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
( 何か嫌だ! あの男たち!! )
飛ぶような勢いで駈け戻りながら、りんの胸は警戒音を発し続けていた。
兎に角、皆のところへ!
殺生丸様のところへ!!
……足の早さだけを買われて、手下に加えられた辰が後を付けているのも気が付かずに。
「わっ、どうしたんじゃ! りんっっ!!」
藪を一気に駈け抜け、息せき切って飛びこんで来たりんに度胆を抜かれ、思わず尻餅をついてしまう。
「邪見様っっ!!」
はぁはぁと、大きく息をつき、ようやくその大きな黒い瞳に求めていた人物の姿を映し出す。
古木の下で佇む、主の姿。
「一体どうした? 腹を空かした熊にでも出会ったか?」
「う、…ううん。何でもないの。一人で森の中を歩いてたら、なんだか急に怖くなっちゃって…」
その場を繕う為だけではなく、本当にりんはあの男達に言いようのない『恐さ』を感じたのだ。
自分と同じ人間なのに、それでも。
「で、食い物は見つかったのか?」
邪見の問いかけに、りんは小さく首を横に振る。
やれやれと、邪見は懐を探るとなにやら干からびたものを取り出した。
「こんなものでも、腹に何も入れぬよりはマシじゃろう。文句は言うなよ」
そう言って、りんの手に干からびた蛙や蛇の切れ端を渡した。
「邪見様…」
本来、殺生丸ほどの大妖ともなれば糧を得るのに食する必要はない。
その身を満たす妖力だけでも活動できる。
もし、どうしても必要であればその場にある、もっとも清浄な『気』を己が身に取り込む事で糧とする。何かを口にするとすればそれは、本当にただ『愉しみ』の為だけ。 邪見も似たようなものである。
まぁ、もっとも邪見の場合は、いつも飢えてはいるが飲まず食わずでも生きて行ける『餓鬼』に近いような気がしないでもない。
……だから、この蛙や蛇の切れ端はこんな時の為に、りんの為に用意しておいてくれたもの。
( ……なんで、こんなに優しいんだろ。同じ、食べ物をくれるってだけの事なのに、なんでこんなに違うんだろう )
りんはこの慈悲深い小妖怪に、そして敬愛してやまない殺生丸に出遭えた我が身の幸せを噛み締めていた。
「……邪見様、大好き!」
干からびた蛙の足を齧りながら、満面の笑みでりんがそう言った。
邪見は年甲斐もなく、赤くなったのだろう。
只でさえ悪い顔色が、いっそう悪く、赤とも緑とも言えぬ色になっていた。
―――― そんな二人のやりとりを、見るともはなしに見つつ、りんが息せき切って帰ってきた訳を察する。
人間の食べ物の匂いと、りんのものではない複数の人間、それも『男』の臭い。
りんが何を恐れて戻って来たか知らぬが、話さぬなら聞くまでもない。
微かに殺生丸の眉を顰ませたその臭いも、りんの柔らかい甘い匂いに掻き消されて行く。
この時、殺生丸にしては不覚であったのだが、風下であった事とりんが連れてきた臭いと同じ物であったと言う事と、『他の事』に気を取られていた為、いやあまりに相手の気配が卑小であった事もあろう、それを見過ごしてしまったのだ。
( …何てガキだ、あの娘っっ!! あの、小さいの。連れは連れでも妖怪じゃねぇか! それに…… )
茂みを透かして、古木の根方に座する殺生丸を盗み見る。
まじまじと見てしまうには、隠れているこちらを察っせられそうで恐ろしく、ほんの一瞬盗み見て、地べたに這いつくばって隠れる。
( あの、人間離れした優男。あれも妖怪か? あんなのが主人だってのか? )
藪と地べたの隙間から、ちらりちらりと伺い見る。
りん、とか言ったあの娘が主人と思しき優男に何か一言、二言言葉を述べ、主人は応える替わりに微かに頷く。
娘ははしゃいで主人の装束の一部である、見た事も無いだが明らかに高価そうな毛皮に擦り寄っていった。
―――― 夜半過ぎ、辰はようやく隠れ所からじりじりと後退り、その場を離れた。
不思議な光景だった。
森の中。
薄く差し込む月明かりに、浮かぶこの世ならざる者たちの姿。
水辺に生きる生き物を思わせる、醜い容貌の小妖怪。
長い首を項垂れて眠る双頭の竜。
ちっぽけな人間の小娘。
それらを束ねる美しき妖怪。
最初、森の外れで会った時はただのガキにしか見えなかったりんが、なんだか特別の存在のように思えた。
そこにあって、違和感を感じさせない。
確かに自分と同じ人間なのに。
本当に、ただのちっぽけな小娘なのに。
あの妖怪の毛皮に包まれた、娘の姿が妙に目に焼き付いて ――――
( …行ったか )
何の目的でりんの後を付けたか察しはするが、この様を見てどうこうするほど愚かではあるまい。
殺生丸はそれっきり、露ほどにも気にかけなかった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「おい! 遅いから、迎えに来たぞ!!」
辰が戻り道を半分ほど戻った所で、迎えに来た吉三と半次に出っくわした。
「あっ、吉三、半次…」
奇妙で異常な緊張感に包まれていた辰は、仲間達の声ではっと我に返った。
「で、どうだった? あのガキの連れは? 叩き売れそうな女主人か? それとも身包みはげそうな野郎か?」
「あ…、いや……。それが…」
「うん、どうした? まさか、巻かれっちまった訳じゃあるめぇな?」
正直に話したものかどうか迷ったが、普段からつるんでいる仲間の事、隠す事もないだろうと、今見てきた事を話した。
「…あの娘の連れは、妖怪だって?」
「おい、本当か? 辰っ!!」
「ああ、間違いねぇ。ちっこい不細工な奴と首が二つある竜と、人間離れした優男だ」
吉三と半次は顔を見合わせ、お互い頷きあう。
「…やっぱり、あの娘。頭が言った通り、『並み』の娘とは違うんだな」
「ああ。妖怪でさえ手懐ける程の、『玉』って事か」
二人だけで分かり合っているその様子に、辰が焦れて口を挟む。
「おい! どういう事だ? あの娘、何かあるのか?」
「…そうか、辰お前ぇ、頭の話を聞いてなかったな」
「あの娘、仕込めば年季の入った太夫連中も適わねぇ程の上玉になる、って話さ」
「上玉?」
「ああ、『禿後家』とか言う、男殺しの逸品になるらしい」
その言葉は、不思議とすんなり辰の胸に収まった。
あの美貌の妖怪の傍らで、当たり前のように寝入る事の出来るあの娘なら。
「なぁ、この話。そのまま、頭に話すのか?」
「ああぁ、どういうこった? 話さなきゃマズイだろう。」
「…そうなった場合、その妖怪と誰が遣り合うんだ? そんなものまで虜にするような娘なら、頭が諦める訳ねぇぜ?」
三人はお互いの顔を見合った。
「…俺達、か? やっぱり?」
「そいつ、強そうな奴か? 俺達でもどうにかなりそうか?」
「…判らねぇ。見てくれはすげぇ男前だ。その代わり、物凄い寒気を感じた」
三人の中で一番年長の半次が、ひたと考える。
そして ――――
「よし、判った。いいか、辰。お前は、あの娘に巻かれっちまった。もしかしたら、ありゃ、狸か狐が化けてたかも知れねぇ、って言い張るんだ」
「それで?」
「もともと頭は、あの村の娘どもの買い付けが目的だからな。どこに行ったか判らねぇじゃ、仕方ねえだろ? 危なねぇ橋は渡らない方が賢いってもんさ」
「じゃ、あの娘は諦めるのか?」
半次の目が小狡(ずる)そうに光る。
「勿論、その野郎に隙が出来りゃ、横から掻っ攫うさ。俺達で味見した後で、頭に渡せばいい。まぁ、いくらかの手間賃貰って、後はとんずらさ」
「へへっ、それって……」
「もし野郎が取り返しに来たとしても、ぶち殺されるのは、いつも俺等を馬鹿にしやがる、あの頭と政兄ぃって事で」
「いいな、それ。そうなったら、きっと胸がすっとするぜ」
「そうそう、野郎に隙がなけりゃ俺達には縁がなかった、って事で何食わぬ顔しておけばいいしな」
頭が頭ならば、手下も手下。
同じ穴の狢(むじな)である。
この三人が元の場所に戻り、そう報告したのを頭は訝しげな顔で聞いていた。なまじ騙し騙される人買いを生業としてきた訳ではない。こんな下っ端の嘘など見抜けぬ訳はなかったが、一体どう言うつもりか、騙されたふりをして様子を見てやろうと決めた。
翌朝、早く。
村の娘たちの品定めの為、頭と政は旅の商人を装って村に入った。
それを見届け、三人は殺生丸一行が夜営した場所へと急ぐ。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
柔らかな朝の光がりんの瞼をくすぐり、耳に可愛らしい小鳥の囀りが飛び込む。ふわぁぁ、と大きく欠伸をし手足をう〜んと気持ち良く伸ばしながら、りんは目覚めた。
ふと気付き、辺りをきょろきょろと見回す。
「どうした、りん?」
「あっ、邪見様。殺生丸様は?」
「朝早くお出掛けじゃ。お前も自分の食い扶持くらい、自分で取って来い」
「邪見様は?」
「うん? ワシか。ワシはこの先の沢で水でも汲んで、川魚でも取って来よう。干しておけば何かの役に立つじゃろう。」
そう言いながら、もうひょこひょこと歩き出していた。
昨夜のような暗さは微塵もなく、明るく爽やかな朝である。
この場所から、あまり離れなければ大丈夫だろう、昨日の男達がわざわざこんな所まで来る事はないだろうと、りんは思った。
藪の下生えを覗くと、数は少ないが山菜がちらほら芽吹いている。
フキにノビル、カンゾウの若芽。
立ち枯れたつる草に目をやれば、森の動物が残してくれたのかムカゴまである。
嬉しくなってりんが顔を上げると、少し先の方、まだ朝靄が残る辺りに色彩の薄いこの森の中で、一際鮮やかな緑。すがしい竹林。
「やった! 筍っっ!!」
子犬のように弾んで駈けて行くその後ろ姿を、粘つく視線が追いかける。
りんは竹薮に入ると、大きな瞳を皿のようにして僅かな土の盛り上がりを探し始めた。裸足の足も、足の裏全体でその存在を捜し求める。地上に顔を出す前の筍であれば、生でも食べられる。それをまた、焚き火の中で丸焼きにしたらその美味しさは…。
「あっ、あった!!」
地面の中の宝物を捜すように、りんは夢中になって筍を取っていた。だから、すっと足元に影が落ち、周りの空気が変わっていた事に気付かなかったのだ。
「…りん、って言うんだな、お前」
突然かけられたその声に、りんの全身が硬直した。
おそるおそる見上げると、そこには ――――
( に、逃げなきゃ!! )
りんは手にした筍を投げ捨て、男達をかわして走り出した。
しかし竹薮は走りにくく、こんなに明るくては身を隠すところもない。
( 殺生丸様っっ! )
そうして、今 主はここにはいない事を思い出す。
どうにかして、邪見の居る沢まで逃げ延びねば、とそれだけを念じていた。どれだけりんがはしっこくても、男の、しかも一番敏捷性のあるこの年齢の者達には適う筈がない。男達は獲物をいたぶる性質の悪い猫のように右に左にとりんを追い立てて行く。追い立てられたりんが下草に足を取られ、その場に倒れる。ゆっくりと、男達がりんを取り囲む。
「なかなか生きがいいな」
倒れ伏したりんを、上から見下ろし下卑た笑みを口の端に浮かべている。そんな男達に負けじと、りんはその強い光を湛える黒い瞳で睨み据えた。
「ふ〜ん、成る程なぁ。頭の言う通りだ。いい瞳(め)をしてやがる」
「ああ、まったく。男をそそるいい瞳だ」
「お、おい。本当に犯っちまうのか? まずかぁないか?」
三人の中では影の薄い吉三が、他の二人に遠慮しながら口を挟む。
「はん? 何がまずいって?」
「…だってよ、この娘。抱いたら、魂食われっちまうんだろ?」
……決して、りんの身を案じての言葉ではなかった。
「ば〜か。そりゃ、禿後家に仕立て上がってからの話だろーが。まぁ、俺が見たところ、こいつぁまだ未通女(おぼこ)だ。こんな滅多にお目にかかれないような玉、犯らねぇ方がどうかしてるぜ」
「そうか、初物か。なら、まだ大丈夫だな」
「どうだかな、それは。もしかしたら、あの野郎にもう『女』にされてるかもな」
幼いりんには、男達の会話の意味はよく判らなかったが、ただ自分だけではなく大事な殺生丸まで物凄く汚されたような気がして、怖さを通り越して腸(はらわた)が煮え繰り返っていた。
「ほれ、もっと良く顔を見せてみろ」
辰がりんの顎に手をかけて、むりやり顔を近付けようとする。りんはその手を両手で毟り取ると、思いっきり噛みついてやった。
「うわおうっっ!!!」
男達に一瞬、隙が出来た。
りんは渾身の力を振り絞って、その場から駆け出した。
怖さより怒りが、りんの足を動かしていた。
「くそっっ!! あのガキ!!! とッ捉まえて犯り殺してやる!!!」
思わぬ反撃に、男達が切れた。
まるで修羅の如き形相で、りんの後を追う。
朝靄の残る竹薮の中で、先を駈けてゆく少女の影と、その後を追う人でなしの影。
凄惨さを秘めた、影絵芝居。
影が伸び、りんの着物の襟にかかる。
もう一つの影は、りんの左肩に。
もう一つは、腕を捕らえる。
男達は腹の裡(うち)で舌なめずりをした。
ここで少し力を込めて引き倒せば、後は哀れな餌食を食うばかり。
―――― 瞬、薄紫の光が一閃した。
男達はふっ、と手にした重みが失せた事に気が付いた。
捉まえたと思った少女が、数歩先に転ばいてゆく。
りんは背後に感じた重みがいきなり消え、つんのめる様に前に倒れ込もうとした。
そのりんを受け止めた、柔らかく暖かな、この感触。
そこには ―――――
「殺生丸様っっ!!」
完全に逆上した男達には、目の前に現れた者が何者かを見極める事も出来ず、自分達がどんな状況かも把握出来ていなかった。頭に血が上った状態で、血走った眼で殺生丸を睨み付ける。
「野郎っっ!! その娘を返しやがれっっ!!!」
「そいつは俺達の獲物だ! 手を出すなっっ!!」
三人は一見、この人間めいた妖怪に我を忘れて襲いかかろうとした。
「…うるさい」
たった一言。
冷淡に響く。
まるで舞いの一指しのように、流麗に指先を動かし走り出た閃光が男達の足元を薙ぎ払った。
飛び掛ろうとした男達はがくん、と体が崩れ視界が低くなった事に気が付いた。
「うわぁぁぁー!!!」
「い、いやだぁぁぁっっ!!!」
「ぎゃぁぁぁぁ!!!!!」
怒りの怒号が、阿鼻叫喚の悲鳴に変わる。
男達は自分達の周りが血の海に変わってゆく中で、のた打ち回っていた。
殺生丸は、今だ未練がましくりんの襟首や肩を掴んだままの男達の『手』を、汚いものをつまむ様につまみあげるとそれを男達の方へと投げ捨てた。
「殺生丸様…」
「…帰るぞ、りん」
顔色も変えず。
顧(かえり)みもせず。
……後に残ったのは、最初の一閃で手首から先を切り落とされ、二閃目で膝から下を切り捨てられた、『人間』の残骸。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
昼過ぎ、村で何人かの娘を買い付け半次達と共に次の村へ移動しようと森の入り口まで戻って来た徳兵は、案の定、姿を消した三人に気がついた。
「へっ、俺の裏をかこうって腹かい! 政っっ!! あいつらひッ捕まえて、あの娘の行方を吐かせろ!!」
「へいっっ!! 頭!」
徳兵は森の奥へ消えて行く政を見ながら、どちらにせよあいつらは処分せねばなるまいなと思っていた。
森に分け入った政は、森の奥から掠れて力尽きそうな人とも獣ともつかぬ呻き声を耳にした。
用心しつつ、その声に近付いてゆく。
―――― 目の前に広がっていた光景は…。
「…ま、まさ兄ぃ…。た、たすけ…て…く……」
「あぐぐぅぅぅぅ、ひぃぃっぃ…」
「ひぃひぃぃ、た、たすけ…」
すでに体を起こす事も出来ずに、自分達の流した血に塗れ、芋虫のように醜く蠢いている。 政は、比較的意識のしっかりしていそうな半次の前に腰を落とすと、問いかけた。
「…お前等、誰にやられた?」
「…あ、あの娘の連れ…。よ、妖怪…、だ」
「ふ〜ん、お前等。俺や頭を出し抜くつもりだったろう? あん、違うのかっっ!!」
政の眼が、剣呑な光を帯びる。
「…す、すまねぇ。も…う、し…ねぇ…。だ、だか……」
助けを求めて伸ばされた手を、無慈悲に政は踏みにじる。
「お前ぇらに、『もう』はねぇんだよ! 手前ぇらの欲ばっかり突っ張りやがって、相手や俺達の力量を見誤りやがってよっっ!!」
「あ、兄ぃ…」
すっ、と政が立ちあがる。
「あ、兄ぃぃ!!」
「ふん、手前ぇらを助けたってもうお前等は使い物にはならねぇからな。勝手に野垂れ死にやがれっっ!!」
「 ――――――― っっっ!!!!!」
三人の、声にならない悲鳴。
この男には最後の止めを刺してやる、と言う慈悲さえも持ち合わせてはいなかった。
「……まぁ、あの娘には手出し無用と言う事か」
ほんの少し肩を寄せ、政は三人の視界から消えて行った。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「り〜んっっ!!!」
川魚を両手に一杯持って、オロオロしていた邪見がりんの姿を見るなりそれを放り出し、りんに駈け寄った。
「邪見様っっ!!」
「すまぬ、りん。ワシが少し目を離したばかりに、恐い目に合わせてしもうた。許せ、りん」
「ううん、りんもいけないの。筍取りに夢中になっちゃって…」
りんの優しい言葉を聞き邪見は、主の前に低身低頭平伏した。
「も、申し訳ありませぬ〜っっ!! 殺生丸様!!」
どんなに足蹴にされても、それは仕方ないと覚悟していた。
だが殺生丸は身を固くして待ち構えている邪見の側を、何もないように通り過ぎ……
「へっっっ…?」
その様子を訝しみ、顔をあげ振り返って見た時に ――――
すこーん。
邪見の頭に、特大のハチの巣がぶつかった。
「せ、殺生丸様…?」
「…りんに食わせろ」
そう言ったなり、またもあの古木の根方に腰を据える。
――― 別にりんの為に探したものではない。
奈落の行方を追うのに探りを入れていた時に、見つけたもの。
ただ、それだけ。
邪見の手の中の巣には、たっぷりの蜜とハチの子が詰まっていた。これらのものが人間にとって、どれほど滋養の高いものか邪見だって知っている。
「りん、ほれ。殺生丸様からの土産じゃ。手を出すがよい」
差し出されたりんの小さな手に、優しい光を集めたような金色の液体が滴り落ちる。
優しくて、柔らかくて、甘い。
―――― 同じ、金色。
でも…。
あれも、金色。
冴え冴えとした、りんを追っていた男達を切り捨てた、あの時の瞳。
りんはぷるぷると首を振った。
( ……決めたんだもん、りん。ずっと殺生丸様について行くって! )
……『人』として、数奇な道を歩み始めている事に、この幼い少女はまだ気付いてはいなかった。
【完】
2004.2.18.
【 あとがき 】
ふうぅぅ、や〜と終わりました。
今までになく、長くなっちゃいました。多分、書下ろしではこれが一番
長いんじゃないかな? 他に長い分は前後編に分けたり、連載にした
りなので。
オリキャラを出すと、どーしても長くなる傾向があります、私。
既存のキャラだと、読み手のお客様はすでに予備知識があるものとして
表現を割愛して言葉を減らすんですが、オリキャラはそう言う訳にはい
きません^^;
今回はりんちゃんを軸に、妖怪である殺生丸達と人間である女衒の一行
とを対比させてみました。
私は『犬夜叉』と言う作品に触れて、それぞれのキャラの存在意義を考
える時に、何故か『人間』ってなんだろう? と考える事がよくありま
す。四魂の珠の存在からそうですし。
これからも、あれこれ考えて作品にしてゆきますね。
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