【 月 光 浴 】
グルグルと鳴る喉声と、調子を合わせたような二つの寝息。
空にはぽっかり、真ん丸のお月様。
それは、梅雨の終わり間近な夜の事で。
珍しく夕方からは雨も上がり、久しぶりに仮の宿にしていた山間の、古いお堂の外に出た。
「うわっ! 折角雨が上がったのに、メチャクチャ蒸し暑〜いっっ!!」
長雨に降り込められて、すっかり退屈していたあたしは、張り切って外に出たのに、この物凄い湿気と高温にたちまちげんなりとしてしまった。
昼間なら判る。
お日様に照らされて、暑くなるから。
でも、今は夜だよ?
さっきまで、雨も降ってたんだよ?
―――― この当時の人間であるりんが、『風炎』いや『フェーン現象』などと言う言葉を知っている筈もない。
「あ〜ん、身体中 ベッタベッタするぅ〜」
襟元を指先でつまんで風を入れて見ても、不快さは減らず。
( ん、と…。この先に川があったよね。水、浴びてこようかな )
そう思いつつ、背後のお堂を振り返る。
( 戻るまで、どこにも行くな )
そう言い置いて殺生丸様は、邪見様をお供に雨の上がった夕方、お出かけになった。
今夜のあたしのお守役は、阿吽。
この場所は、危なくないのか殺生丸様がお出かけになってすぐ、阿吽はぐうぐう寝てしまった。
( …そうだよね。殺生丸様が危ない所にりんを置いて行く訳ないもんね。ちょっとだけだし…、うん! 大丈夫!! )
あたしはそう決めると、そっと足を忍ばせその場所を離れた。
いくら危なくない場所とはいえ、阿吽が起きたらやっぱり行きづらい。
殺生丸様に動くな、と言われてるから。
お月様が明るいので、足元は大丈夫。
山と山の間を、川が流れている。
その辺りは少し平たく開けてて、木々も疎ら。
川幅は、もう山の麓に近いせいかかなりゆったりしている。
川は山の壁にぶつかる様に流れて行き、やがて見えなくなる。
こう言う場所は『盆地』と言うんだと、邪見様が教えてくれた。
お椀の底のような、形をしていると。
川原に出ると、少し涼しいような気がした。
雨の後なので、水嵩が増してるのはあたしだって知っている。
だから川縁の水の深さが一番浅い、流れの穏やかな、そしてすぐ身を隠せるように、大きな岩の有る所を捜した。
「あっ、ここ 良さそう ?」
あたしが見つけた場所は、川の本流のすぐ側で三日月型の水溜りになっている。まだちょろちょろと本流からの水が流れ込んでいるので、本当の水溜りではないけれど。都合良く、大水で流されて来たみたいな大岩もあるし、あたしはそこに決めた。
ぱっぱっと着物を脱いで、裸になると足元の三日月型の水の中に身を浸した。ぺたん、と底にお尻を付けても、あたしのようなチビでさえ胸の下までしか水がこない。
「へへへっ、もし、これで溺れちゃったら、思いっ切り邪見様にバカにされるよねぇ♪」
ぱしゃぱしゃと水を掬っては落とし、掬っては落とし肌を濡らしてゆく。
その度ごとに、流れ落ちる水の雫が空の月の光を反射して、きらきらと煌く。
「あ〜、いい気持ち。やっぱり女の子だもん。きれいにしとかなくちゃ」
べた付いた汗を流し、すっかり寛いだ心地になった。
ついでに頭からも水を被り、汗臭い髪の毛もきれいに漱ぐ。
その様は綺羅を纏い、月の光に映え ――――
この世の者ではないような、不可思議で稚(おさ)ない美しさ。
『無垢』なる者の、無知であるが故に『全て』を知っている者の叡(ひかり)が、りんの内身(うち)からりんを照らす。
「ん〜、もしぃ、こ〜んなとこを邪見様に見つかったら、きっとこう言われちゃうんだよね」
( こりゃっ!! りんっっ! 夜中に、一人で出歩くとはっっ!! 夜はな、『魑魅魍魎』の世界ぞ。お前のような人間の小娘なんぞ、そやつらに見つかったら、一口でパクリだぞ!!! )
「うん、うん、そーだよね、邪見様。でもね、りん このお月様見てたら、じっとしてられなかったんだ。なんだかね、こう りんの中がザワザワして……」
そう、呟きつつりんは水の中から立ち上がる。
きらきら、きらきら、りんの幼いなめらかな肌を幾つもの雫が滑り落ち、夜空を照らす望月の光は、りんの足元で揺れる三日月に融けて行く。
届かぬ筈の空へか細い腕を差し伸ばし、りんは月の光を浴びている。
( ああ、浴びたかったのは、『水』じゃない。この月の光 ――― )
―――― 同じ。
―――― 同じ、金の色。
……だから、平気。
だから、大丈夫。恐くない。
水に濡れた肌は月の光に染まり、それでも足りぬと ――――
それは月の『神』に妻(め)あわされた古代(いにしえ)の、斎(いつき)の媛皇女(ひめみこ)の禊を思わせ ――――
―――― いつしか降り立った、地上の『月』もその様を見ていた。
娘の濡れた黒髪はそのまま夜空に溶け込み、娘の大きな黒い瞳には宙(そら)の星が宿っている。
ちっぽけな人間の小娘に過ぎぬのに、計り知れぬ広大さ。
卑小な、殺す価値もないほどつまらぬ存在であるはずなのに、何故……?
……気が付けば、あの娘は一糸纏わぬ姿で駈け寄ってくるだろう。
あれは、そういう娘だ。
満面に笑みを浮かべ、全身で喜びを表し ――――
己など、顧みる事もなく。
それが、どう言う事なのか…。
何も知らない愚かな娘。
何も知らない無垢な娘。
それ故に、罪は深く ――――
りんの足元でざわめく、三日月の水面。
―――― 私の、心。
月の光に ―――――
【了】
2004.3.26
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