【 むかし、むかし… 】



 昔々、西域の天空のお城に住むとても美しい妖の姫君がおりました。そのお城は姫君の性格そのままに空を奔放に翔けめぐり、姫君の強大な妖力に護られ何者の束縛も受けない自由に満ちていました。
 その奔放さと強さに、西域にはこの姫君を抑えておける者は誰もおりませんでした。姫君の勇ましい御名は西は天山山脈のこちらから、東は黄河のほとりまで轟き渡っていたのです。

 そんな自由すぎる気ままな暮らしは、いつしか姫君にとても深い退屈と言う罰を与えていました。何か面白い事はないかと、黄河の果てまで来ては見たものの姫君の憂さを晴らしてくれそうなものはありません。
 その時ふと、姫君の眸が黄河の先の青黒い程の海原に注がれました。それに気付いた姫君の乳母がぽつりと言葉を零します。

「ああ、あの海の向こうなら姫様の憂さを晴らしてくれるものがあるかもしれませんね」

 妖の世界でも、『境界』はとても重要な意味を持っていました。必要以上の侵犯は、すなわち禍を呼ぶもの。それぞれ暗黙の了解のもと、それは守られていました。
 それゆえに、この姫君もまだ海の向こうには行った事がありません。周りの者も今までそれを勧める事もしませんでした。普段そんな事を口にしない乳母だけに、その言葉は姫君の気持ちを動かしました。

「そうか、ならば行ってみるか。どうせここに居ても憂いだけじゃ」

 姫君の顔にわずかな笑みが浮かびます。言い出したら、引く事のない姫君です。そこに何も無くても、せめて行く間だけは『あるかもしれない期待』でこの退屈が少しは紛れるだろうと。乳母の顔にも笑みが浮かんでいました。

 東の地はだいぶ開けてきたとはいえ、まだまだ大陸の雅やかさや華麗さ、文化の高さなどから見れば遅れていました。その代り、荒々しくもこれからなにか動き出しそうな、そんな気風に満ちています。
 姫君はそのどちらに転ぶか判らないような世情を面白く思い、東の国にしばらく滞在なさる事にしました。

 そして、その期待は裏切られる事はありませんでした。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「おや? なにやら強大な妖気が近づいてくるな」

 姫君は自室に納まるよりは、この城の中庭に面した長い階段の上に設えた王座の上から下界を眺めるのが好きでした。
 姫愛用の椅子に優雅に腰を下ろしたまま、姫君は楽しそうな表情を浮かべて近づいてくる気配の方へと顔を向けます。金の眸は期待で強い光を発し、美しい銀の毛並みは妖気の波動で燐光を揺らめかせます。

「なんですと! 西域では知らぬものはない神狛の姫君と知っての狼藉か? 衛兵、城門の守りを固めよ!」

 姫君の幼い頃からの( ……と申しましても、それがどのくらい昔の事であったかは定かではございません )乳母が、いきり立って衛兵たちを指図いたします。

「ふふふ、面白い。乳母や、兵達を下げよ。妾が出ようぞ」
「しかし、姫! それは危のうございます!」
「あの者達では太刀打ちできまい。この妖気覇気ともに、それなりに名の有る大妖であろうぞ」
「姫様……」

 姫君の眸に妖の赤金の色が浮かびます。闘いへの期待感で、流れるような銀の毛並みも同じ色の髪も妖気を孕んで華奢にも見える姫君の姿を大きく見せています。

「では、お手並み拝見と行こうか」

 それこそ姫君は獲物を狙って舌なめずりする獣のようにまっこと楽しげに座っていた王座から立ち上がり、優雅に銀の髪・銀の毛並みを震わせるとその姿を巨大な神狛に変化させました。
 全身白銀に輝くその優美にして精悍な姿、額に月の紋章を頂き爪には猛毒を含ませ、既に戦闘体勢に入っております。眸の妖赤はますます冴え渡り、宝石の鮮紅玉のよう。それは恐ろしくも美しい姫君の軍姿でございます。

「……お側様。こちらに向かっている相手は、よほど姫様の気を引く相手のようでございますね。ああなっては、もうわたくし達では留めようがございません」

 小さな声でそう進言いたしますのは、お側様と呼ばれた乳母の右腕とも目される女官。

「ああ、そのようです。姫様の悪い癖が出てしまいました。強い相手にはご自分から出向いて、叩きのめすのを娯楽にされている姫様ですから……」

 深く溜息をつきつつも乳母のその表情にはしてやったりとの笑みすら浮かんでいます。それを女官は訝しく思いました。

「お側様? 姫様がご心配ではないのですか? あ、いえ、姫様は百戦錬磨の軍神であれば、そのような心配こそ不敬に当るかもしれませぬが……」
「無敗の軍神であろうとも、行く末を案ずるのは親の性。なれば、と ―――― 」

 乳母殿にすれば、姫君もお年頃。良き殿方を迎えて公妃となられても、早すぎることはないのです。
 しかし、姫君のお目に叶う殿方の居られぬこと甚だしく。姫君と対等に遣り合えるだけの『力』を持った殿方…、大妖も稀なれば、またこのような気性の姫君を娶りたいと言う者も稀な事。

「気の進まぬうちは、進めても見向きもしますまい。後はなるように…、でしょう」

 乳母殿は勇ましい姫君の凛々しい後姿を、微笑みながら見送っていました。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 中空で敵を待つ姫君の前に、雷光を発しながら大きな嵐雲がみるみる迫ってきます。姫君が感じた妖気は間違いなく、この雲の中から発せられていました。憂さを持て余し気紛れに海を越えて来た途端、こんなにも自分好みな敵に出遭えるとはと、姫君も心地よい興奮を感じていました。
 嵐雲が収束し、中から現れたのは己が同属と見受けられる巨大な白銀の狛が一頭。烈々とした大声で名乗りを上げます。

「俺はこの西海を束ねる闘牙王。また飽きもせず、大陸から攻めてきたのか!」

 堂々とした、聞き惚れそうな美声でそう名乗りを上げたのは姫君と並んでもなんら引けを取る事はない、これもまた立派な妖でした。姫君はその声にぞくりとしたものを感じました。

「ほう、お前がここの主か。その姿、遥か古(いにしえ)に我が一族から別れた者どもの末裔のようじゃが…。ならば、お前を倒せばこの地は妾のものじゃな」

 変化した姫君は獣面でありながら、その艶然さを損なう事無く美しく微笑まれました。それを敵である闘牙王は挑発と受け止め、ここに一戦見える事となったのです。

 場所は潮の流れも早い西海道の上空、沖津宮の田心姫神も立会いの下で激しく牙を交わします。互いが互いの喉笛に噛み付こうと至近距離まで接近しては、姫君が毒華爪を振るい闘牙王が雷光で弾き返す。その度ごとに辺りの空気は大きく鳴動し、波は高く渦巻き風は轟々と吹き荒れます。敵として闘いながらもお二人は、その闘いそのものを楽しんでおられるようでした。
 その戦いは三日三晩休む事無く続きました。両方共に闘うほどに我を忘れ、極上の美酒を飲んだがごとき快い酩酊感に獣身でありながらも姫君の様子は、頬を紅潮させ瞳を潤ませた、まるで恋に落ちた乙女のようでございました。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

「まったく、あの時はお前や周りの者どもにすっかり嵌められてしまったのぅ」

 なかなか天上の城に足を運んでくれぬ義娘の此度の逗留を喜び、ご母堂はりんの前で懐かしそうにそんな昔話を聞かせた。

「気がついたらな、りん。闘牙が妾の背中に乗り掛かっていて、それで殺生丸を身籠ったと言う訳じゃ」
「あ、あの〜、お義母上様、それって、やっぱり、あの……」

 今では「それ」がなんの事であるか、りん自身身にしみて知っている。その結果女手が必要な今、殺生丸もご母堂の申し出を断る事が出来なかったのだ。
 真っ赤な顔で、もじもじしているりんとは対照的に、りんについて行けと命ぜられこの城にきた邪見は、聞いてはならない話を聞いてしまった! と青ざめる。ご母堂の誘いを、がんとして拒否された己の主の心中を察する。

「ほほほ、りん殿。姫様、いえご母堂様に良き縁談をとあれこれ手を尽くしただけの事ですよ。闘牙殿はご母堂様の親様方に見初められ、是非婿にと望まれたのですがご母堂様がその気にならねばまとまるものでもありませんから」
「乳母様……」
「亀の甲より年の功。似た者同士のお二人ですから、何も言わず会わせてしまえば良いと。後は為る様になるでしょう、と」
「まさかあんな形で、闘牙と契る事になるとは思わなかった。仔を孕むのも初めてで面白かったし、闘牙も面白い男だったしな。おかげであの時は退屈の虫が納まった」
「闘牙王様はご存知だったのですか? 実は、お見合いだったって事に」

 りんが小首を傾げながらそう尋ねる。もし闘牙王もぐるでご母堂を騙したのなら、なんだか上手く説明出来ないけど、それは嫌だなとそんな気持ちを感じていた。

「いや、あれも知らなかったらしい。知っていたのは、西と東の古狸ばかりよ」

 りんの思いを吹き飛ばすように、ご母堂は何でもないことのように言うと、優雅に手にした孔雀扇で口元を隠され、ほほほと楽しげに笑われる。

「だから、安心せよりん。こんな妾でもあれの母になる事が出来た。あれもそれなりに育った。妾はあれを産み落とすと、薄情にも闘牙に預けて天空高く風の向くまま出奔してしまったから、この手で育てたとは言い切れぬが」
「お義母上様……」

 ふと、ご母堂は遠い眸をしてりんの顔を見た。

「……闘牙は本当に面白い男だった。妖のくせに妙に情に篤くてな、子煩悩でもあった。あれは、殺生丸はその父にやはり似ておる。妾に似たのは、見てくれだけのようじゃ」

 その眸は、りんのふっくらとした下腹に向けられる。

「妙なところが似てしまったと、今でも思う。初めてお前と会った時にそう思った。闘牙が人間の女と半妖の仔の為に命を落とした事を忌みながら、それでもお前の手を取ったあの時に、いずれこの日が来るとは思うたが」
「……………………」
「縁は異なものと言う。お前たちを見ていると、確かにそうだとしか言えぬ。闘牙の時には酔狂な事と思ったが、今ではあの女に聞く事も叶わぬゆえりん、お前に問う」
「はい、お義母上様」
「お前は人間の身で殺生丸の手を取った。あれは妖ぞ? その身には、妾譲りの猛毒すら含んでおる。それがどんな意味を持つか、今のお前なら判っておろう?」
「それは……」
「妾と闘牙なら問題はない。妖力は互角、妾に触れている間だけ毒に食われぬようにしていれば良い。闘牙とあの女の場合も、闘牙の妖気に中てられ儚くなろうが、それは多かれ少なかれ異なる者同士が交われば避けられぬ事。闘牙もそれは判っていたようじゃ。女をこちらに連れ込まずに危険承知で人間の女の屋敷に通っていたのは、己の妖気を人間たちに浄化させるためであろう」

 りんを見る眸には、自分の口では薄情と言いながら深い慈しみの光がある。

「あれは…、殺生丸はもっと性質が悪い。常にお前を側に置き、妖気と毒気をお前に注ぐ。因果な事よ、愛しみ慈しむ程にお前の命を削るのじゃから。その手を取れば己は死に近づくのを承知で、どうしてお前はあれの手を取ったのか?」

 ご母堂がもっとも妖らしい妖であればあるほど、『ひと』のその心の動きは不可解なものであろう。己の生死を他に委ね、あまつさえ確実に死にいたると判っている道を選ぶのは。何も判らぬ子どもの頃とは違うのだから。

「生きていたいから、殺生丸様のお側で。りんのこの命は、殺生丸様とお義母上様から頂いたもの。『ひと』であったりんは、もうずっと昔に狼に食い殺された時に死にました。ここに在るりんは、殺生丸様のお側に在るためのりんです。他は何も知りません、判りません」

 はっきりと、そうりんは言い切った。強い瞳の色は、この偉大な女妖を前にしても翳ることはない。

「……『ひと』でないと言うたな、りん。いや、その心の強さこそが『ひと』であろう。あの女も闘牙をそんな瞳で見つめていたのだな。妾には出来ぬ事じゃ」

 りんの輝くような瞳の色を見、りんは自分には判らぬ世界を見ているのだろうとご母堂は思う。りんを失えば、殺生丸が悲しむかとも思うが、それをどうこうする手立てなど残ってはいない。ならば、この共に過ごせる時をおもしろおかしく過ごすが勝ちじゃと、薄情で享楽なご母堂は答えを出した。

「りん、お前は良い母親になれようぞ。ああ、楽しみじゃ! あの殺生丸に子が出来る。どんな顔をするか、見物じゃのぅ。相変わらずの無愛想なままなのか、子も抱かず冷たい視線を投げるだけなのか、それともあれの父親のように傍迷惑なほどの親馬鹿ぶりを発揮するのか。これでしばらくは退屈はせずに済みそうじゃ」
「あ〜、あの、ご母堂様…?」

 話す内容のあまりの豹変振りに、りんの守り役でついてきた邪見が困惑している。

「どうせあやつはここには足を向けたがらぬだろうからのぅ、妾とりんと生まれた仔とで水入らずな時を楽しむのも一興。いや、殺生丸にしてやらなかった事をしてやるのも、罪ほろぼしかもしれぬな」

 そう言いながら、含みのあるにっこりとは間違っても言えないにやりとした笑みを浮かべた。それを見て、邪見の背に冷たい汗が流れる。今の一言、それはもう間もなく生まれるであろう殺生丸とりんの仔を『おもちゃ』にするぞ、と言う意味に他ならない。それを我が主に伝えてここに呼び寄せたとすれば、今度は主そのものが……。

( うあぁぁぁ〜〜〜、ワシどうすればいいんじゃっ! 知らせねば知らせぬで殺生丸様から責めを受けようし、知らせれば知らせたでご母堂様から受けた仕打ちの憂さをワシで晴らされるだろうし…… )

 どちらにも決めかねて、邪見はおろおろしている。その様を見て、りんが少し心配気な顔をした。そのりんにすっと近づく初老の女妖。

「……心配には及びませぬ、りん殿。このわたくしがついております。その昔、ご母堂様をその母君から取り上げたのも、ご母堂様から殺生丸様を取り上げたのもわたくし。此度はその殺生丸様のお子を取り上げる事が出来るとは、産婆冥利に尽きるというもの。ご安心召されよ」

 りんの心配気な顔を、初産を控えた若妻の不安と取ったのだろう。初老に見えて、その実どのくらいの齢を経た妖なのかは判らないが、頼もしげにそうその女妖は言った。

「はい、よろしくお願いします」
「りん殿はほんに素直じゃ。きっとお産も軽かろう、力を合わせて元気なややを産みましょうぞ」

 答えを出せぬまま、邪見はまるで落ち着きのない熊のようにご母堂の前を歩き回り、女達はきたる女としての戦の為の準備に余念がない。
 りんには『産み』への不安はない。わが身に息づく命は慕って余りある殺生丸から授けられたもの。ひとと妖の違いや、孕んだ仔の潜存する妖力の大きさに、懐妊中のりんの身は酷く負担を強いられた。その度にりんの周りでりんの為に心を尽くしてくれる邪見の苦労やご母堂の助力、そして何より殺生丸のりんを『守る』と言う気持ちが、りんを強く支えていた。

( りん、本当に幸せ者。こんなに皆から大事にされて、お腹の仔も生まれてくるのを望まれて。幸せだよ、りん。ありがとう殺生丸様、ご母堂様 )

 結局なかなか殺生丸の元に走らぬ邪見に業を煮やし、一計を案じたご母堂はりん急変の知らせを立て、まんまと息子を天空の城に呼び寄せた。産屋に入っていたりんのたっての頼みと騙くらかし、なんとりんのお産にまで立ち合わせ……。

 それでりんの身を気遣い、その後殺生丸が身を慎んだかどうかは定かではない。


  * * * * * * * * * * *


 とある場所に古い神社がございます。

 そこを訪れるのは宝を身に宿した女性たち。霊験あらたかなその神社に詣でると、どんな難しい状況でも乗り越えられると密かに伝え知られています。
 この神社の縁起を紐解けば、遥か昔二柱の男神女神が天空で睦み産み落とした一神が天下り、側に仕えていた巫女を妻としたと言う下りがあります。その巫女は人間の娘であったため、神の子を身籠った際、その身に負うた荷の重さは計り知れなかったと縁起には記されています。そしてその娘を救い上げたのが天下った神の母神だったのです。

 その故事により、ここに祀られているのはその母神とその子と妻の三体。ご利益は、夫婦円満・病魔退散・安産祈願。特に安産祈願には、並外れた神通力を発揮します。ご神体を拝観すればその訳も納得、母神子神ともに犬のお姿。

 犬は安産の守り神、今は昔のお話です。


【終】

2007.12.14



= あとがき =

このSSは「君影荘」のえつ子さんが企画された、ご母堂様アンソロジーに投稿させていただいものです。
戦国最強にして最凶なご母堂様。犬夜叉連載中のゲストキャラの中でも、抜きん出た存在です。しかし、犬父同様その背景描写はこれっぽっちもありません。
100%妄想で織り上げた、若かりし日のご母堂様のエピソードです(笑)





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