【 春 遠からじ 】
邪見様と阿吽は、殺生丸様のお使いで留守。
殺生丸様も、夜明け前にはお出掛け。
りん、一人。
でも ――――
( ……殺生丸様、変わった )
あの恐ろしい『剣』を巡る闘いからこっち、なんだか殺生丸様のりんや邪見様を見る眼差しが優しくなったような……?
( りんの気のせいかな? )
だけど、これはきっと『特別』な事。
優しく笑う満月のような金の瞳、サラサラでくすぐったいような白銀の<髪。
綺麗な指が、りんの形をなぞってる。
ふわふわで柔らかくって気持<ちの良いもこもこの上で。
( まだ、熱いような痛いような感じが残ってる ―――― )
ほうぅ、とりんは溜息をついた。
あどけない少女の唇から洩れるにしては、あまりにも甘く艶めいて。
( 邪見様には、溜息はつくほど幸せが零れてゆく、って言ったけどそうじゃないのもあるんだね )
術(すべ)があるならば、今りんの零している溜息は、すべて綺麗な『花』に成る事だろう。
想うだけで、ドキドキの止まらない胸にそっと手を当て、そこに固い小さな『モノ』を見つける。
黒曜石の、念珠が一つ。
「あっ、これ…。そうだ、かごめ様に返さなくっちゃ」
―――― あの闘いの折り、かごめが見せた犬夜叉への『情』の深さに、自分もああなりたいと、望んだ。
こんな自分でも、何か出来る事があるのならばと。
完璧な主人であるが故、受け入れてもらえるとは思ってはみなかったけど。
今はここに一人だけど、不思議と寂しくない。
だって……。
空はすっかり明け切り、眩しいほどの青に染まる。
その青空の一点に胡麻のような影。その影はみるみる大きくなってくる。
「殺生丸様ー!! り〜んっっ!! 只今、戻りましたぞー!!!」
りんの目の前に、我が主人に長年付き従ってきた小妖怪、邪見の姿。
「おや? りん。殺生丸様は、どちらに?」
「うん、夜明け前にお出掛けになられたの。邪見様が戻られたら、ここで待っているように、って」
「うむ、そうか。殺生丸様のお言い付けの、解熱・鎮痛・止血・化膿止めにもなる万能の薬草を取ってきたのだが、はて? こんなもの、ワシらには用はないんじゃが……。りん、お前の為にかのう?」
邪見の言葉に、少し顔を赤くして ――――
「うん、殺生丸様、優しいから。あのね、りん、ちょっと行きたい所が<あるんだけど、阿吽貸してもらっていい?」
「行きたい所? ダメじゃダメじゃ!! 殺生丸様のお留守中に勝手な<事をしてはならん!」
「行って、すぐ帰ってくるから。ね、邪見様。お・ね・が・い・」
りんは下から見上げるように、大きな黒い瞳に邪見を映しながら、ちょっと甘えながらお願いする。
何故か、否を言わせぬその瞳。
「う、うむ。では、ほんっとうにすぐ! 帰ってくるんじゃぞ!! いいなっっ!!!」
「ありがとう! 邪見様!!」
そう言うが早いか、ひらりと阿吽に飛び乗り空に舞い上がる。
朝風に豊かな艶のある黒髪を靡かせ ――――
朝日に晒された幼い項(うなじ)には、うっすらと赤く ――――
「――― ん? こんな季節外れに、『虫』などに首をさされおって、りんめ。帰ってきたら、早速この薬草の出番じゃな」
……邪見は、この『虫』の正体を知らない。
―――― きっと、それは幸せな事だろう。
春、うらら。
あの大騒動から、半月ばかり。
かごめは向こうの世界に里帰りして、骨喰いの井戸の側にいるのは俺だけだ。
―――― ほんの一瞬だったが、初めて『親父』の顔を見た。
『大きい』と、そう思った。
全てを許容出来る大きさと、強さと優しさ。
皮肉や嫉みなしに、あの親父と話をした事のあるあいつを羨ましいと思った。
図らずも、親父の願いを『二人』で叶える事になったが、『心』の隙間がほんの少し、埋まったような気がする。
こんな親父に俺は、『望まれて』この世にあるのだと。
が、それにしても ――――
( ……犬夜叉。目、つぶって。『いいもの』あげる )
散々、期待だけさせやがって!! かごめの奴っっ!!!
忌々しげに、首に掛かった念珠を指で弾く。
そう、もう今更こんなもの、要らないのに。
俺とかごめの間には。
そんな俺の目の前の空を、ふいと意外な奴が通り過ぎた。
「あの〜、ここにかごめ様、います?」
楓の小屋の筵をほんの少しめくり上げ、ちょこんとりんが顔を覗かせ<る。阿吽の鼻を頼りにこの村まで飛んで来て、上空から阿吽が指し示した小屋を訪ねたのだ。
が、生憎とかごめは『現代』に戻っており、小屋の中には犬夜叉を除くいつもの面子。
「おや、あなたは確か殺生丸殿のお連れの……」
そう声を掛けたのは、弥勒。
「ん〜、かごめちゃんに何の用だい?」
退治屋の常で、飛来骨の手入れをしながら珊瑚が問う。
「かごめなら、今 自分の国に帰っておる。もう時期戻ってくるはずじ<ゃ。犬夜叉も骨食いの井戸の側で待っておる」
「骨食いの井戸?」
「ああ。村の外れの古井戸の事だよ。かごめちゃんに伝えたい事があるなら、代りに聞くよ」
「ううん。りん、直(じか)にかごめ様に伝えたいの。そこに行ってみるね」
「オラが案内しようか?」
「大丈夫! 知ってるから!!」
そう言うと、まるで鞠のようにあっと言う間に駈けて行く。
「……何なんだろうね、かごめちゃんに話って」
「まぁ、幼くともあの子もかごめ様と似たような立場ですからね。その辺りの話ではありませんか?」
珊瑚の頭の上にハテナ? マークが浮かんでいる。
( まぁ、珊瑚にはちょっと難しいですかね。 )
こーゆー色恋沙汰に関しては、珊瑚も犬夜叉と大差ない。
……いや、ふつーならそうは考えないだろう。
『あの』殺生丸の相手が、こんなにも年端も行かぬ少女だとは。
この弥勒と言う男。
伊達に場数は踏んでいない。
「お前……」
井戸の側で手持ち無沙汰気に待っている犬夜叉を横目に、りんは井戸に近付き中を覗き込んだ。
「かごめ様は、まだですか?」
犬夜叉に臆しもせず……、いやいや『あの』殺生丸の側でさえ、臆する事はないりんである。犬夜叉如きに、引くものではない。
「……お前、かごめに何の用だ?」
「……かごめ様に、お渡したいものがあるの」
「渡したいもの〜? 俺が預かっといてやる! さっさと渡しな」
「いや! りんが渡すの!!」
……かなり強情そうだ。
ちょっと憤ったように顔を赤くすると、井戸の側に座り込む。
余り長引かせて、『あいつ』が出てくるのはマズイな、と犬夜叉は考えていた。
暖かい春の風がふわっと吹き抜け、犬夜叉の鼻先をくすぐる。
その中に、信じられない匂いを見つけ、犬夜叉は目を丸くして足元のりんを見詰めた。
( ――― そんな馬鹿な! ……まさか、あいつ、が…? こんな、チビを……? )
じっと見詰める犬夜叉の視線に気付き、居心地悪そうにりんが顔をしか<める。
「……あたしの顔に、何かついてる?」
「あ、いや、その……、なんでもねぇ」
問い質したい気持ちをぐっと押さえ、慌ててそう言い繕う。
いつも、あいつの側にいるから、このチビからあいつの匂いがしても不思議じゃねぇ。
だけど、これは……。
りんの内理(うち)から立ち昇る、『花』のような甘やかな血の匂いと共に漂う、あいつの匂い。
まさか!
まさか!!
ま〜さ〜か〜っっ!!!!!
……犬夜叉とりん。
沈黙が支配する。
二人の間を吹く風は、春めいて暖かいはずなのに、ひゅるりら〜とどこかうそ寒く……。
その沈黙に耐え切れなくなったのは、犬夜叉の方だった。
「……なぁ、そこのチビ。お前、まさか…、あいつと……」
いくら無粋な犬夜叉でも、そうはっきりとは口に出来ない事である。
しどろもどろ、何故か自分の方が赤面しながらそう問い掛ける。
答えは……、聞くまでもなかった。
耳まで真っ赤になった、りんの姿。
そのせいか、一際強くあいつの匂いが香り立つ。
「…マジかよ、おい。まさか……」
尚も言い募ろうとした、その時!!
一陣の疾風(かぜ)。
突き刺さる冷たい視線。
「……そこで、何をしている」
その声は、今まで聞いた事もないほど険悪で……。
「…せ、せっ、殺生…丸……」
「あっ、殺生丸様っっ!!」
嬉しそうに、りんが殺生丸のもとに駈け寄って行く。
その殺生丸の後ろには、頭に山ほどコブを作った邪見。
「……帰るぞ、りん」
「あっ、待てよ、チビ! お前、かごめに用があるんだろ!!」
一瞬、りんは立ち止まり、殺生丸の顔を見た後、こう言い放つ。
「ううん、また今度にする。りん、聞きたい事もあるから」
「……おい、チビ!!」
尚も呼びかけようとした犬夜叉に、殺生丸はそれこそその眼光で射殺しそうな、冷たく鋭い視線を投げ付ける。
その眼光で、射竦められ石のようになっている間に、殺生丸一行はさっさっと引き上げてしまった。
後に残った犬夜叉は ――――
( ……間違いねぇ! 間違いねぇっっっ!!!! あんの〜、鬼畜野郎っっ〜〜〜!!!!! )
呆然自失。
あれが同じ親の血を分けた、己の『兄』の仕業とは信じられず……。
「どうしたの? 犬夜叉。そんな所で固まって?」
いつの間にか、『あちら』から戻ってきたかごめが目の前に立っている。
「……あ、いや、なんでもねぇ」
「そうお? なんだか、とんでもないものを見たような顔してるわよ?」
……とんでもないもの、そう、確かに。
だが、恐ろしくて誰にも言えはしない。
「変な犬夜叉。早く皆の所へ行きましょう」
いつもと異なり、荷物を抱え先に立って歩き出したかごめ。
その後ろを歩きながら ――――
( どこをどうしたら、そんな事になるのか判らねぇ! そりゃ、かごめくらい、いい女なら…… )
犬夜叉の目の前を、それは魅惑的な腰付きで歩いてゆくかごめ。
まるで、誘う様に ――――
( ああぁぁぁ〜っっっ!! もう、俺だって、俺だって、○○てぇ〜っっっ!!!!! )
……そんな事、出来っこないのは嫌というほど知っている。
そう、かごめがその気にならないうちは。
この念珠が、『本当』の意味で外れないうちは。
虚しい犬夜叉の心の叫びは、いつまでも谺(こだま)して ――――
春である。
とことん、春である。
それぞれに、『守りたいもの』を見つけた我が子を慈しむ様に、春の空が微笑んでいた。
【完】
2004.3.2
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