【 花 残 月 】
先の狛后の天空城。風の吹く先を我が領土と、空高く自由気ままに日々を過ごす。后の強大な妖力によるものか、その城は光のような結界に包まれ、全ての季節が不思議な折り合いをつけてそこに存在した。
東に青葉、西に紅葉。南に夏花、北に樹氷。それらの事象を、表情を浮かべない澄んだ金の眸に映し、狛の后は所在無げにその庭を歩く。庭の中央には四季を問わず咲き続ける蓮の池がある。その水は時に水鏡となり、后に自分の見たいものを映し出すのだ。
が、ここ最近その池を后は覗き込もうとはしなかった。形の良い手に持つ扇子を小さく開き閉じしている様が、后の胸の中を表していた。すべての憂さから解き放たれたような后だが、下界に唯一つだけ残してきた憂さがある。憂さと言うか、おもちゃと言うかは見る者次第ではあるが。
「ふん。まったく可愛げの無い奴よのぅ。嫌がらせか何か知らぬが、屋敷周りにこうも厳重な結界を張りおって。そのせいで水鏡が役に立たぬわ」
軽く憎まれ口を叩く后の真の想いに反応したのか、蓮池の水面が水底からの光で照らし出された。
「ん? なんだ」
優雅に召し物の裾を引き、柔らかな光を纏ったような妖毛をそよがせながら狛の后、つまり殺生丸の生母である女妖は蓮池の水面を覗き込んだ。そのご母堂の眸に映ったものは、ここしばらく殺生丸の結界のせいで靄がかかったように霞んで見る事のできなかった、殺生丸達が冬の宿りとした深山の屋敷の様子。
この屋敷には殺生丸とその連れ合いの人間の小娘、そして殺生丸の血を受けた半妖の双子が冬の間暮らしていた。あんな可愛げ無い殺生丸に懐くとは、物好きな人間もいたものと面白半分見物がてらその様子を見ていたが、見れば見るほどああなるほど、この娘だからこそ殺生丸の心も動いたのかもしれぬとそう思えた。
いつの間にか自分も気に入り、こんな彩(いろどり)の無い冬の山奥に篭っては面白みのない日々であろうと、人間の暦で言う所の正月にそれなりの華やかな宴を催してもやった。
その少し後でその娘に自分の『帯』も授けた。自分が贈られたのはその娘の連れ合いの父となる大妖からであったが、そんな物はこの后には無用の物。何よりも何かに縛られる事をもっとも忌む気性である。
その帯は人間であるりんには、殺生丸の抱擁や愛撫でさえ危険と判じた。その事にかなり腹を立てた殺生丸の意趣返し。覗き厳禁と張っていた結界の、その結界が解けていた。
「……まったく、誰に似たやら。一つ所に留まる事を知らぬ奴よのぅ」
水鏡越しに見たその屋敷には、既に息子主従の姿はなかった。自分の息子である殺生丸やあの小妖怪、それに二人の間に生まれた半妖の双子などは放っておいても構わぬ。どこをほっつき歩こうが、さして身に触るような者どもではない。しかし ―――
「あれは、りんの事には構わぬのか…? りんは儚き『人の子』であろうに」
確かに『生きてゆく事』は、旅に似ているやもしれぬ。だからと言って雨露をしのぎ、風や冬の寒さをしのげる場所を捨ててまで野から野へ、森の奥から奥へと流離うのがどれほどの負担をりんに負わせるか、判らぬほど殺生丸も愚かでもあるまい。屋敷を出れば、それだけ危険も増そうものを。
「一体何を考えておるのやら、あれは……」
ご母堂は、手にした扇子をぱちんと音を立てて閉じた。
「ふむ。まぁ、良い。かたつぶりのように殻に潜んで過ごすのも飽きたのであろうからの。あれの行くところであれば、りんはどこまでも付いてゆく。それも定めか」
ふと何か思いついたように蓮池の水鏡に違う情景を映し出させる。時折様子を見ていたかの者の事。我が息子と同じ男の血を引く者であれば、そうそう捨て置く訳にも行くまい。殺生丸ほどではないが、それはそれなりに遊べそうな相手でもあった。
「何はともあれ、最初に赴くのはあそこであろうな。それにそう言えば、そろそろ……。丁度良いかもしれん」
水面を覗き込んでいたご母堂は、軽やかに踵を返すと悪戯気な表情を浮かべて城内に戻って行った。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
山奥深い屋敷、深山ゆえに冬の寒さはなかなか去らずりんの眼に映る屋敷の庭は、未だ眠りについていた。そんな山奥でも確実に陽(ひ)は長くなり、大気に光が満ち始めている。それと同時に、殺生丸の中にも言いがたい衝動が蠢き始める。
あの母の血を引く因果か、またそう生まれついた性か?
どれほど優美な人間の貴族のような様を模していても、殺生丸は己の本性が『妖』であることを常に自覚していた。それ故になにものにも囚われずに今までの生を過ごしてきた。
人間のような家や一族、国などの『枠』は、殺生丸にとっては窮屈な枷にすぎない。殺生丸もその母同様、何かに縛られるのを忌む性格。どこまでも自由である存在を、自分に課していた。殺生丸を動かすものはその高き誇りに基づく思念だけ。それを妨げるものは例え身内であろうと容赦はせぬ。またそうでなくては、亡き父の言葉も果たせはしない。
―――― 生かす為に、弑せしめよ。
我が名に込められた、父の願い。上に立つ者として冷酷になれるのならば、同じ一族であろうと、その実(じつ)を踏み外しその名を穢す者を躊躇う事なく屠り去る事が出来るだろうと。それが例え血を分けた者であろうとも。犬夜叉を追ったのも、その手に鉄砕牙が渡らぬように図ろうとしたのも、その時はまだ『半妖』を穢らわしく思っていたからに他ならない。
そうして随分と長い間、血の粛清者として修羅を生きてきた。己自身が修羅だった。そんな自分に僅かな癒しを与えてくれたのが、虫けらの如く蔑んできた人間の子どもだったのは皮肉以外のなにものでもなかったが……。
「殺生丸様……」
空を見上げていた殺生丸の傍らに、幼さを残したままほんの少し娘らしさを増したりんが寄り添う。
「…………………」
「陽が高くなりましたね、殺生丸様」
「ああ……」
「……お出かけにはならないのですか?」
「りん……」
落ち着きを含んだりんの言葉に、殺生丸は驚きを隠しつつ平静な表情をりんに向けた。
「どこへだ?」
「どこへでも。殺生丸様のお心のままに」
微笑みながら殺生丸を見上げたりんの表情に、否応なく『時の流れ』を感じずにはいられない。まだ、十分子どもと言って良いほどの領分。しかし、同じに見えても去年の花と今年の花が違うように、目の前のりんも『今』のりん。野にあってこそ生きる花。
「また、旅に出るか。りん」
「お供いたします、殺生丸様」
まだ自分のせねばならない責務は残っている。自分一人、旅に出る事は容易い。昔はそうしていた。このまま邪見や阿吽を守りに残し、結界を張っておけばりんの身は安全だろう。ましてや、あの母の姦計で思うにならない事態でもある。このままりんの側にいるよりは、はるかに自分を納得させやすいのではあるが……。
だが、人の子の時間は短い。
あれほど忌み嫌った枷になるとしても危険な目にあわせる事になったとしても、共に在るこの時を無駄にしたくないと思う。
「お前は桜が好きだったな。見に行くか」
「はい! 殺生丸様!!」
らしくもない殺生丸のその一言に、陽が差しほころぶ花のような笑顔を見せる。先ほど感じた大人びた色は、あどけない声と表情にかき消されていた。
「天生丸、夜叉丸! 出かけますよ!!」
弾んだ声で、りんが屋敷の奥へと声をかける。あの正月の騒動以来…、いや、その後『ご母堂様』が来られてより一段と機嫌を悪くした殺生丸。そんな殺生丸に遠慮して、月に一度の楽しみだった犬夜叉達の住む村への訪れも控えていただけに、子ども達の喜びもまた一入(ひとしお)。
「父上、よろしいのですか?」
「り〜ん!! 俺、もう退屈で退屈で仕方がなかったんだ!」
一人は慎重に気まぐれな父の様子を伺いながら、もう一人は素直にその心中を吐き出している。
「ええ、桜を見に連れて行って下さると」
「じゃ、俺久しぶりに七宝達と遊びたい!!」
「夜叉丸……」
考えもなしに無邪気に自分の要望を述べる弟と、あまりあの村への道行きを良くは思ってない風な父の様子を比べながら、天生丸は言葉を控えた。
「良いですか? 殺生丸様。りんもかごめ様や他の皆様にも会いたいし ――― 」
おずおずと言葉を紡ぐりんの様子と、父・殺生丸の様子。明らかに父の表情が渋ったのを見逃さなかった天生丸だが、りんの言葉を無下にする事はないだろうとも思う。こんな父だが、りんが父に取って特別な存在である事は、自分たちが何より良く判っていた。そんな天生丸の視線に気付いたのか、殺生丸は常の表情を浮かべると一声長年の下僕を呼ばわった。
「邪見、阿吽を引け」
「はい、今すぐに!!」
やがて阿吽の背上に似た背格好の三人の姿。そしてりんを胸に抱いて春の霞んだような空をゆく殺生丸の姿が在った。冬を過ごした館は、つかの間の主達を見送りやがてひっそりと静寂の中眠りにつく。ここにまた、この主らが訪れる事があるのかどうかは誰も知らない。
空を行くほどに、木々の彩りの移り変わる様が面白いほどりんの瞳に飛び込んでくる。冬の色が濃かった屋敷周りの木々や草花に比べ、麓に近づけば近づくほど木々の枝は白茶色から薄緑、薄緑から早緑へと色を増し、大地の色も鮮やかな色味を増す。所々でほころび始めた野の花の暖かい色合いが、りんの微笑みを誘う。
( ……ふん。こういう時にはしたいようにさせるのだな。なんとも贈った者の性格を現して性質の悪い守りの帯だな )
りんの身を守る為との大義名分の上で、実の母から授けられた『貞』の帯。りんの身に障りそうな危険や妖気・邪気の類をはねつける力を持っていた。その結果、りんと言う妻を目の前に、殺生丸は侘しく寡夫(やもめ)をかこつ事になったのだ。
屋敷の夫婦の寝所でりんに触れようとすれば、たちまち帯の効力でしたたかにその手を弾かれる。その忌々しさにこの一冬、りんを子ども達と一緒にやすませていたくらいだ。それが今、こうして抱いているしか出来ない状態であれば、それを許すときている。
久しぶりに直に感じるりんの体温や芳しい匂い、その身の柔らかさに凍てついていた心も解けてくる。りんを喜ばせる為にそして少しでもこの時を長引かせる為にも、見かけによらず直情な行動を取る殺生丸が咲き始めた花の香りを追い遠回りをする。
春の暖かな日差しの中を、ありえないでもどこか幸せに満ちた者達の幻影(かげ)が過ぎて行った。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「随分片付いたね、かごめちゃん」
「うん、ありがとう珊瑚ちゃん。これで運び込みたいものは大体運び込んだかな?」
姉さん被りに着物の袖が邪魔にならないようたすきをかけ、片付けの終わったばかりの真新しい自分たちの新居内をかごめは見回した。こちらに来る時も必ず着ていた『制服』をあちらの世界に置いて来て、この時代に相応しい着物姿に改めたその姿。
自分の進路を決めたこの新年、きちんと家族にも自分の考えを伝えた。自分の選んだ道が家族との今生の別れとなる事も覚悟して、それでも犬夜叉と共に生きてゆきたいと、犬夜叉と二人揃ってそう伝えた。かごめの祖父は、今までどおりこちらとあちらを行き来する暮らしではだめなのかと目を潤ませながら訴えたが、かごめは静かに首を横に振る。それでは、『時の流れ』に歪みが出るはず。それは決して良い事ではない、もしかしたらあるべき未来を大きく変えてしまう危険性だってあるのだと説得する。
「……でも、かごめ。あなたが戦国時代に行く事も過去を変えてしまう事になるんじゃないの?」
母の問い掛けに、答えに詰まるかごめ。そのかごめの横で、犬夜叉が静かな声で答えた。
「難しい事は俺には判らない。だけどあの戦いの日々を共に過ごしてきて出会いは偶然ではなく必然だと、今なら俺も思えるようになった。本当なら出会う事のなかった俺とかごめ、もし一緒になれない運命なら、『時』は俺達の気持ちなんかお構いなしに俺達を引き裂いていたと思う」
「犬夜叉君……」
「どんな時代でも、どんな場所でも俺はかごめを守り切る! 絶対幸せになる!! だから、かごめが俺の時代に来る事を許して欲しい」
そう言って、犬夜叉はかごめの母の前で深く頭を下げた。
かごめの母がふぅ、とついた溜息はどんな意味を持つのだろう。
「……仕方がないわね」
「ママっっ!?」
「ママさん!!」
同時に上がる声は草太と祖父の声。
「だって…、こんなに真剣な二人の仲を裂くような真似、同じ女としてママ出来ないわ」
「ママ…」
かごめの母が座ったまま少し後ろに下がり、背筋をしゃんと伸ばしたあとで真っ直ぐな瞳で二人を見つめた。
「いい? かごめ。私たち家族の前で約束したんだから、絶対あなた達は幸せになるのよ。あなたはあなたの選んだ人と選んだ道を胸を張って歩いて行きなさい」
「おふくろさん…」
「犬夜叉君、こんな娘だけどどうかよろしくお願いします」
かごめの母は犬夜叉同様、頭を深く下げて二人を認め送り出してくれたのだ。地球の裏にでも嫁にやったと思えばいいじゃないのと、うっすらと瞳の端に涙を光らせ、それでも陽気さをなくさない母の心遣いに、かごめはその人の強さを見たような気がした。
それでもわたわたしている祖父や草太の為に、向こうの時代でも使えるようなものを花嫁道具として揃える間、少し時間を取ってくれと言う事も忘れてはなかった。心を決めたとは言え、互いの心の準備を整えるために、少しずつかごめの母が用意してくれた花嫁道具を戦国時代に運ぶ犬夜叉。新居での準備が整う間、かごめはその様子をポラロイドカメラで写真に取り家族に見せた。あちらの世界でかごめを待っていてくれる人達。親友の珊瑚は勿論、その配偶者である弥勒や七宝や楓や……。
( 本当ならもう一組、見せたい家族があるんだけどな )
冬の間はあの山奥の館に篭ってしまったのか、この村への訪れが絶えてしまったその家族。自分の行く道の少し先を歩いている少女の幸せそうな姿は、きっともう二度と会う事ない未来の家族への何に増しても心強い置き土産になると思っていた。
( 私たち、幸せだよ。だから安心してね、ママ )
ここでの役目を殆ど終えてしまったカメラに視線を向け、その呟きは胸にしまって ――――
「あら? さっきまでいた弥勒様や犬夜叉は?」
「細かい片付け事には男は邪魔だからね、気を利かして外に行ったんじゃないかな?」
「外?」
「ああ、なんだか外の方を見て、小声で話し合っていたみたいだからね」
やれやれ片付いたと、珊瑚も小屋の中を見回す。最後の花嫁道具として犬夜叉が運び込んだ真新しい布団と、それとは別に大きな包みと小さな包みが小屋の真ん中に置かれていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
その頃、犬夜叉と弥勒の姿は村はずれの骨喰いの井戸の側にあった。そこは少し開けた場所を囲むように原生の桜の木が見頃を迎えている。桜の色に辺りが染まって、薄紅の霞がかかったよう。犬夜叉がその『匂い』を感じたのは、ほんの一瞬。明らかになんらかの意図のもとに、犬夜叉に届けられた『匂い』。犬夜叉達は招かれたように今一歩、その霞の中へと足を進めた。ちりっと紫金の妖光が揺らめく。
「……やっぱり、あんたか! どうして、こんなところに!?」
「顔を会わせるなり吼える所は、あれと少しも変わらぬな。やはり同じ男の血を引くだけの事はある」
犬夜叉達の目の前には、優雅にして玲瓏な貴婦人の姿。額に頂く三日月の紋章がその貴婦人が何者であるが雄弁に物語っていた。犬夜叉がちらりと視線を走らせると、見頃な桜の木の下で白緑のお仕着せの女官達が緋毛氈やら塗りの器やら何やらを運び込んでいる。薄紅の霞に混じって、芳しい良酒の匂いも漂っている。
「今度は何の真似だ? 正月の時の騒ぎをここでやるつもりか!!」
「ほぅ、察しが良いな。人間の真似事も中々面白い」
「犬夜叉、貴婦人方の前で失礼ですよ。ご母堂様、ご尊顔を拝するのは正月の砌でございます。春になお麗しくご健勝なご様子、嬉しく思います」
仰々しい褒め言葉を嫌味にならない程度に控えて弥勒が再見の挨拶を述べる。ご母堂の思惑などは隠しもしないその様子で易々と察せられる。手際の良いご母堂付きの女官達の手で、桜の木の下にはいつでも始められるばかりに準備の整った宴の段取り。
「お前もなかなか肝の据わった男だな。人間の分際で妾の前に歩み出て怖れもせぬとは」
妖艶な笑みを浮かべ聞きようによっては高慢にも取れる台詞を、さらりと面白そうに口の端に上らせる。
「いえいえ、十分に畏れかしこまっております。わたくしの前では美しい女人は全て神仏にも等しくありますから」
「本当に面白い事を言う男じゃ。妾は妖だが、お前の眼には神や仏にも見えるのか?」
「はい、御意にございます。わたくしが愛妻家でなければ、いえもう少し早くお目にかかる事が出来ればと夢想する次第です」
「ほほう?」
「もしそうなればご母堂様をご本尊と崇め奉り、観音堂に篭りましてお勤め出来たかもと……」
真面目な口調で語るその内容は、珊瑚が聞けば顔を真っ赤にして飛来骨をお見舞いされる事間違いなしの話。側で聞いていた犬夜叉の眼がまん丸に見開かれている。神仏混合も甚だしく、正直この弥勒と言う男の守備範囲の広さには呆れて物も言えない。目の前の相手は、他の誰でもない【あの】殺生丸の生母に他ならないのだから。共に互いの腹を探りながらの会話に、先に折れたのはご母堂の方であった。
「くくく、ああ、負けた負けた。物好きな人間には瘋癲(ふうてん)な妾も敵わぬわ」
朗らかな、明らかに楽しげなその声の調子。それにつられ、弥勒も見せ掛けの固さを崩した。
「弥勒っっ!? お前、一体相手が誰か判って言ってんのか!!」
「はい? それは勿論、誉も高い殺生丸殿の御生母様でしょう」
しれっと、弥勒も調子にのって犬夜叉をからかう。
「そうじゃな、たまには普段食せぬものを嗜んでも楽しいかも知れぬな」
「人間に手を出すな!! あんたは殺生丸だけ構ってりゃいいだろ!? こんな人里近くに妖怪が繰り出して花見の真似かよ!?」
なおも吠え掛かる犬夜叉に、一寸ほどの気もやらずなにやら性質の悪そうな笑みを浮かべて空を見上げる。そうして、一言言い切った。
「悪い事ではあるまい? 何も人間どもに障る様な事をする訳ではなし。ただ、この花を愛でようと言うだけの事」
「だけどっっ……!!」
「うん、この場を我らだけで独占するつもりもないぞ? 興が向けば人間でも妖怪でも飛び入り歓迎じゃ」
そう言って、弥勒に魅惑的な目配せをする。
「そんな事を言っても、そう簡単に首を突っ込むような物好きな人間がいるものか。おまけに結界まで張って、人間を拒んでいるのはそっちじゃねぇか!」
「この結界は、一時しのぎ。人間を遠ざかるのが目的ではない」
「たいてい位の高い妖怪は人間嫌いだ。あんたみたいな大妖怪の言葉とも思ねぇな!」
視線を犬夜叉に戻しそう言った犬夜叉の表情を静かな、それでいて何か圧倒的な力を感じる金の眸で見つめた。
「妾は何事にも執着せぬでな。妖怪だとか人間だとかもどうでもよい」
「なに?」
「……人間を娶る酔狂な妖怪もおれば、妖怪を受け入れる物好きな人間もいる。互いが嫌悪しあい殺し合うよりは遥かにましじゃ」
「だけど…、昔から妖怪と人間は殺しあってきたじゃねぇか」
犬夜叉の言葉は、今まで自分が受けてきた凄惨な体験からのもの。
「では犬夜叉。お前は『変わらぬ』方が良いのか?」
「えっ?」
「淘汰、と言う事であろうな。昔に戻れぬものならば、新しきものになれば良い。消え行くものもあれば、新しく生まれてくるものもある。それが『変わってゆく』と言う事であろう?」
「あ……」
「その『種』としての岐路に、お前達が立っていると言う事は喜ばしい事だと妾は思うがな」
その時初めて犬夜叉は、先の狛の后にして殺生丸の生母の眸に深い慈愛の色を見る。その言葉に得心がいった風に弥勒が頷く。
「以前、あるお方に妖も神も人の心次第と言われた事がございます。今それを実感しております。良いと思った方に変われば良いと、わたくしもそう思います」
『ひと』とは違う次元で、それでも『ひと』を想ってくれる存在のありがたさを弥勒は思い返していた。
「法師よ、お前は物分りが良い。そんなお前の力を少し借りたい」
「わたくしの力の及ぶ事でしたら、なんなりとお申し付けください」
「そうか。では、妾達をお前の法力で隠しておくれ」
「隠す? 何からでございますか?」
弥勒の問い掛けにご母堂は空を見上げた。
「……あれが屋敷を出たのでな。時期ここにも寄るであろう。準備が整うまであれに気取られぬよう妾の結界を張っておったが、近くに来ればそれにも気付く。ここまで来て引き返す事になったら連れが可哀想じゃ」
謎掛けのようなご母堂の言葉。その言葉の意味を弥勒はしっかり読み解く。
「ははぁ、なるほど。大体の事は読めました。しかし犬夜叉の言葉ではないですが、何故この場で宴を開こうとお考えになられたのですか?」
「……妾は千里眼じゃ。丁度良い機会じゃろう。花も咲いたし、あの奇天烈な巫女もこちらに住まうようになった。花見ついでに犬夜叉、お前も祝言を挙げてしまえばよい」
「ご母堂様!?」
「あ、あんた…、それは……」
「気紛れよ、気紛れ。深い意味はない、楽しければ名目は何でも良いでな」
気紛れと言う言葉の裏に、弥勒は温かな想いを感じる。それならばと、弥勒は思った。
「では、後の段取りはわたくしが引き受けましょう。何気ない風を装って、ここに殺生丸殿をお連れし楽しい宴に致しましょう」
「良い。後は頼んだぞ」
緋毛氈の上に陣取りその背後に控えた女官達も一緒に小さな結界で保護するご母堂。その結界を弥勒の法力で隠す。実際にその目で見るまでは、ご母堂達の存在を察する事は出来ないだろう。その仕儀を終えると弥勒は、その場に犬夜叉を残し急ぎ足で戻る。村に戻りながらも、麗しい容姿に関わらずまたその力あるものの豪胆さの中の茶目っ気を思い返しては、くつくつとこみ上げてくる笑いを抑える事が出来なかった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「珊瑚、かごめ様! 一大事です!!」
ここは少し大げさに言ってみた方が乗りが良かろうと、陳腐ながらそんな声を上げながら犬夜叉達の新居に入ってゆく。
「あ、弥勒様!」
「一大事って、何ごと!?」
「祝言ですよ、祝言!!」
意外な言葉に、かごめも珊瑚も目を丸くする。
「祝言って、私と犬夜叉の?」
「ええ、そうですよ。もう準備は整っていますからね。後は主役と賓客を待つばかりです」
「誰がそんな準備を? そりゃ、ここが片付いたら内輪の祝いをするつもりではいたけどさ」
この時代、よほどの事がなければ祝言などは内輪で少しばかりの酒と膳を用意してそれで終わりである。そもそも『祝言』などなきに等しく、同じ屋根の下で男女が寝起きするようになれば、すなわち夫婦も同然。今更な事に、ここで主役だの賓客などと大事は……。
「ご母堂様ですよ。あのお方が骨喰いの井戸の桜樹の近くで花見の宴を催されるのです。その席で、犬夜叉とかごめ様の祝言をとの言葉です」
「ご母堂様が!? わざわざ私達の為に…?」
「……『為だけ』ではないのですが。冬の間山奥の屋敷に閉じ篭っていた殺生丸達が屋敷を出たらしいので」
「ああ、なるほど。りんちゃんなら、外に出たら真っ先にここを訪ねそうな感じだもんね」
「でも、あの正月の様子を見れば殺生丸の方はご母堂様の妖気を察して、方向を変えそうな気がするね。そうなっちゃ、りんや子ども達ががっかりだ」
自分も子の親だけに、幼い子どものがっかりした顔は見たくないと珊瑚は思う。
「はい、それで私の法力でご母堂様一行をお隠ししてきました。側に犬夜叉を付けているので、仮に兄上が近くに来られたとしても、距離を取られるでしょう」
「そうね、随分と兄弟仲は改善したけどお互い声を掛け合って慣れ合う事はしないものね」
それぞれの一大事にはあまり気乗りしない風でも助けに駆けつけるのに、なんでもない時であればお互い敬遠しあう仲が良いのか悪いのか良く判らない一族である。
「なので宴の席に兄上達が着かれるまで、その事を悟られてはなりません。やはり祝言と言う目出度い席ですからね、親族が揃うのは良い事ではないでしょうか」
「そうだね。りんやあの子達は喜びそうだね」
「でも……、大丈夫かしら? 今までも、りんちゃんを村に遊びに来させても自分は村はずれで待ってたでしょ? 私達の祝言だからって同席してくれるかしら?」
少し力無げなかごめの言葉を遮ったのは弥勒。
「あのご母堂様が仕組んだ事ですからね。その辺りは、何かお考えがあるのでしょう」
そう言いながら、弥勒はこの新居の中を眺めた。ここでの犬夜叉とかごめの新生活の準備が整ったら、あの骨喰いの井戸は封印する手筈。あちらからもかごめの祖父が封印するようになっていたが、かごめの話では祖父の霊力ははなはだ心許ない霊力なので、こちらからかごめ・楓・弥勒の三人で厳重に封印することになっていた。
そのくらいきっぱりと『時の流れ』を断絶させるのは、なによりもこの時代で犬夜叉と共に生きてゆきたいと言うかごめの自分なりのけじめ。その思いが、あの女妖にも伝わっていたのかと思う。
「すっかり片付きましたね、かごめ様」」
「本当にね、忙しい珊瑚ちゃんの手まで借りちゃって。ママがあれもこれも持ってゆけって用意してくれたから ――― 」
「いいよ、いいよ。ありがたい事じゃないか、遠くに嫁にやる娘の為にかごめちゃんの母上が用意してくれたもんだろ? うらやましいよ。それに……」
そう言いながら、珊瑚の視線は片付いた小屋の中の大小の包みに注がれていた。
「あたし達にまでこんな気遣いをしてもらってさ。あたしも早くに母上を亡くしたし、退治屋の里の皆も皆殺しにされちゃったから…、こんな風に誰かにしてもらえるなんて思わなかったから嬉しくて」
小屋の中の二つの包み。大きな包みは珊瑚達家族に、小さな包みは楓にとかごめの母が用意したお礼の品。この時代では貴重な木綿や使いでのある晒しなどの反物、また綿そのものもたくさん。それから珊瑚の姿を写真で見たかごめの母の見立てで何枚かの着物が入っていた。なにより珊瑚や楓を喜ばせたのは、やはりこの時代では大名でもないと持ってはいなかった組布団を贈った事だろう。他にもこの時代でも使えそうな品々が大量に運び込まれていた。
「かごめ様の母上様に、心からのお礼を申し上げます。『親』とは種を超え、時を越えてかように我が子の幸せを願うものなのですね」
「弥勒様……」
「私たちもそのように成長してゆきたいものですね」
その言葉は、これからこの時代で犬夜叉と暮らしてゆくかごめへの指標となる言葉でもあった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
弥勒にご母堂の側についているように言われた犬夜叉だが、いざ一人となるとその場の雰囲気の居心地の悪さに、ぶらりと桜林の外に出て行った。そんな半妖の犬夜叉を目で追いながら訳知りの女官がそっとご母堂の側に寄る。
「お方様……」
弥勒に施された法力の結界の中で、ご母堂付きの女官の一人が控え目がちに進言する。
「うん? なんじゃ」
「はい。こうして若君の到来を想定して宴席を設えましたが、もともとが人間嫌いな若の事。いくら人間の小娘を娶ったとは言え、こうした人間の真似事に興じましょうか。ましてや血が繋がるとはいえ、あの半妖の為に」
「半妖でもあれは殺生丸の異母弟じゃ。そこを弁えよ。それに人間の小娘、あの者の名は『りん』と言う。これからは覚えておけ」
女官に、自分の息子の連れ合いを人間の小娘呼ばわりされても、それは自分たち妖からすれば事実でそれ以上でもそれ以下でもない。さして気を悪くした風もなく、ご母堂はそう言い付けた。ただしご母堂がその名を口にした以上、余計な詮索や中傷はご法度となる。
「興じぬなら、興じるように踊らせるまで。そろそろ妾の使いが殺生丸の元に着く頃であろう」
ますます面白そうな色をその端麗な面に浮かべ、涼しげな視線で柔らかな太陽の光に透ける無数の桜の花びらを眺めていた。
そんな母の思惑に本能的に気付いていたのかどうかは判らぬが、出来ればある程度の距離を取っておきたい犬夜叉達との関係に、殺生丸はりんを喜ばせる名目で丁度桜の見頃な場所を巡って今だ犬夜叉達の住む村への道行きを遠回りしていた。
空の上から見る桜の見事さに、りんは後ろに続く阿吽の背に乗る子ども達と変わらぬように歓声を上げる。しかし、朝屋敷を出る前に食事を取ったりんと子ども達はそろそろ空腹になってきていた。時刻はそろそろ未の時、陽はまだ高いが犬夜叉達の村に寄った後、今宵の塒とりんたちの食糧を確保しておかねばならないとしたら、そろそろ潮時か。
「……犬夜叉達の村に向かう」
「はい! 殺生丸様!!」
りんの声が一際弾む。後ろに続く子ども達も同様だ。そんな一行の前に、透き通った紫色の羽に金の筋の入った美しい蝶がひらりと戯れかける。普通の蝶なら殺生丸の妖気に怯えて近づきもしないものを、ひらりひらりとその美しい蝶はまるでからかうように殺生丸の鼻先を掠める。
「あっ、綺麗な蝶!」
「ふん……」
その妖しげな蝶が殺生丸の耳元で羽ばたき、その耳にあの母の言伝を伝えてくる。曰く―――
―――― ちゃんと母の諌めを守っておるようじゃな。今日一日、お前がりんの願いを叶えてやるならば、お前の望みも叶うであろう。仲睦ましく過ごすが良い ――――
その言葉が何を意味するのか、こんな事にまで首を突っ込んでくる母を忌々しく思いながら、それでも久しぶりにこうしてりんの温もりを感じてしまうと、言われるまでもなく身体の芯に熱いものを感じずにはいられない。明らかにあの母のからかいであろうと判っているのに、りんを抱いて空を翔けている今は、この目の前の蝶一匹引き裂く事も出来ずにいる。しばらくなぶる様に二人の周りを羽ばたいていた蝶はすぃと一行から離れると、光の中に消えていった。
いつものとおり村はずれでりんと子ども達を下ろす。丁度昨年もこの桜の時期に、この桜の老木の根方でりんや子ども達の様子を気配で追いながら過ごした事があったと記憶の片隅で思いやる。妖の自分にとっては一年など瞬く間。この花の咲く季節を幾度か過ごせば、今この腕の中のりんはいなくなるのだろうかと思う。その時は、今はまだ子ども子どもしているりんが、背も伸び大人の姿でこの腕の中にいるのだろうかと。
あまり物事に頓着しない気質な為に、自分達が舞い降りた桜の木々のその向こうに妖しげな気配の揺らめく場所がある事を承知していても、さして気にしない殺生丸。それが骨喰いの井戸は発する『異なる時の気配』だとしても。
今もまた、その桜樹の根方に腰を落ち着ける。
「殺生丸様は、今日も……」
自分たちを村へやる事はあっても、殺生丸自身が村に足を踏み入れる事はない。りんにもそれは判っているのだが、つい口に出かける。せめてもう少し縁のある皆と触れ合う事があっても良いのにと思いながら。
「判っている事を聞くな、りん。殺生丸様は卑しき人間の村へなど足を踏み入れる事などなさらぬわ」
「邪見様……」
そう言われるのは、二人とも生粋の妖怪だから当たり前の事なのだけれども、人間のりんにはそれが少し寂しく感じられる。
「……早くゆけ。陽が暮れる」
ものを想う事を覚え始めた殺生丸には持て余しそうなその場の雰囲気を、そう言うことで向こうに押しやる。使いの蝶の囁きが少し気にはなったが、もうそれ以上りんも言葉を続ける事はなかった。
「邪見。お前は次の塒と糧を探して来い」
りん達を村へ送り出し、邪見にはそう次の仕事を言いつける。これは旅に出たならいつもの事。心得顔で邪見が阿吽を借り受け、春空に翔けて行く。
「………………」
りんと子ども達が村へと向かうのと入れ違いに、あまり好ましくない己と似通った気配が近づいてくるのに気付き、殺生丸はかすかに眉を顰めた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「ご無沙汰してました! かごめ様、皆様方!!」
「七宝!! 遊ぼうっっ!」
「…………邪魔いたす」
いつものように楓の小屋を覗いた三人は、いつもとは違うその様子に目を丸くした。秋までは満月の頃を選んで遊びに来ていたが、今日のこの訪れは本当に突然のもの。しかし前もってりん達の来訪をご母堂様に聞いていたかごめ達は、手ぶらで花見もおかしいだろうと大急ぎでそれらしくご馳走を用意し終えていた。その際は、かごめの母が持たせてくれたレトルト食品や缶詰などが大いに助けになった。美味しそうな匂いがりん達の胃袋を刺激する。
「まぁ! なんて良いタイミング!! 本当に久しぶりね、りんちゃん!」
予想していた事を気付かれぬよう、多少大仰に演技するかごめ。そのかごめの姿を、今度はりんが目を丸くして見つめる。
「かごめ様…、そのお姿は? あの、いつもの装束はどうされたのですか?」
「ふふふ、ちょっとね」
かごめが着物の袖を腕に絡め、姿(しな)を作ってくるりと回ってみせる。かごめの着物の着こなしは年若い娘のような着こなしではなく、既婚者のそれ。人里離れて暮らしているりんにはその違いは良く判らない。判らないけどりんが初めて見るかごめの着物姿は、まるでかごめがかごめではないような……。
「本当に丁度良い時に遊びに来てくれたわ、りんちゃん。冬の間はあのお屋敷に篭っていたんでしょう? どうして遊びに来てくれないのかな、とよく珊瑚ちゃんや七宝ちゃんとも話していたのよ」
「ええ、ちょっと……」
少し困ったような顔をしてりんが笑った。ご母堂のりんへの気遣いだとしても、殺生丸にとってははなはだ不本意な状況。明らかに機嫌を損ねている殺生丸を前に自分達だけ楽しむのも気が引けて、ここに来るのも控えていたから。
「あのね、今日はお花見も兼ねて私と犬夜叉、祝言を挙げるの。だから、本当にりんちゃん達が来てくれて嬉しいわ」
「本当ですか!? うわぁ、おめでとうございます!!」
「それでね、これからは私もこちらで暮らすの。よろしくね、りんお義姉さん」
「りんお義姉さん…? え、どうしてりんがお姉さん??」
ますます目を丸くしてりんが首を傾げる。くすくすとかごめの笑い声が抑え切れずに零れる。
「だって、そうでしょ? りんちゃんは犬夜叉のお兄さんのお嫁さんなんだから!」
「お嫁さん…。そんな風に考えた事もなかったや。りん、それじゃ殺生丸様のお嫁さんって事で良いのかな?」
二人の間には天生丸・夜叉丸と言う双子もおり、この正月には殺生丸の生母自らがりんを飾り立てて披露目の宴を催したというのに、その当の本人たちには今だ『夫婦』としての実感が伴ってないらしい。それと言うのも……。
「えっっと〜〜 それって……。つまり、あいつってば、変わってないって事?」
「はい? 殺生丸様はいつでも殺生丸様ですけど……」
りんにしてみれば意識する事もなく恋愛感覚以前の、あるいはもっと大きな意味での好きと言う信頼感の中で殺生丸に抱かれ、二人の仔を成したと言う事実があるだけ。今年の正月にはご母堂が祝言らしき事をしてくれたが、それがまた殺生丸の機嫌を損ねる一端にもなっていた。先ほどの何気ないりんの一言にかごめは殺生丸の朴念仁ぶりを思い知り、ある意味女性の扱いを弥勒に教えてもらった方がいいのかも知れないと思う。
若干不毛な会話が続き、間の悪い静寂が訪れる。そんなかごめとりんの横では、久しぶりに顔を合わせた七宝と天生丸・夜叉丸の三人が花見の支度にワクワクした表情で、ご馳走運びの手伝いを始めている。ようやく歩き始めた珊瑚の子も見よう見真似でお手伝い。
「かごめちゃんの準備はいいの? 今日はかごめちゃん達が主役なんだから、後の事はこっちに任せて」
「う〜ん、準備って準備もないけど…、そうだわ! 確かまだ一枚残っていたはずだし、あれを取ってこようかな」
珊瑚の言葉に甘え、いったんかごめは自分たちの新居に帰ったが直ぐに袂を膨らませて戻ってきた。
「おまたせ。もう子ども達が待ちきれないみたいよ」
「ここに来るのは本当に楽しみだから…。りんにもお手伝いさせてください」」
「そう? じゃ、そこの重箱を持ってきて。あっと、弥勒…、ととウチの人はどこかな?」
いつの間にか小屋から姿を消していた弥勒に気付き、珊瑚がきょろきょろと辺りを見回す。、小屋の中でこちら側の花見の段取りをしていた楓が声をかけた。
「法師殿なら、この花見の事を村の連中に伝えに行ったがのう」
「村の皆に? でも、それじゃ……。楓様は聞かれたのでしょう、あそこにいる方の事…」
「うむ、聞いた。ワシもこの年まで生きてきてそんな事があるとは信じられぬが、犬夜叉達を見ていると、そーゆー事があっても良いかも知れんと思えるようになったでな」
「あたしたちは良いけど、村の皆にはちょっと…。大丈夫かな」
「あの、何かあるんですか?」
りんが珊瑚や楓のはっきりと口にしない何かに気付き、少し不安げな表情を見せた。この村に遊びに来て自分や半妖の子ども達を蔑まされた事はないが、やはり自分たちは場違いなのかと顔を曇らせる。
「……やっぱり、りん達がご一緒すると嫌がられますよね。かごめ様は巫女様だし、犬夜叉はこの村の守り。だけどりん達は……」
「ああ、ごめんね。りんちゃん。そうじゃないのよ、むしろ嫌がりそうなのはあいつの方だとは思うけどね」
「あいつ? あいつって…?」
りんの表情は晴れぬまま、三人の顔を順に見つめている。
「あいつって言うのは、りんの亭主の事だよ。花見の宴を持ちかけて、ついでにかごめちゃん達に祝言を挙げろって言い出したのは、あのご母堂様なんだ」
「ご母堂様がっっ!?」
りんの顔がぱっと明るくなる。でも、それなら確かに ――――
「りんちゃんは本当に良いお姑さんに恵まれたわね。私もご母堂様、好きだわ。豪快で太っ腹で、今度の事も妖怪や人間の垣根なしのお祝いにしましょうって言ってくれたのよ」
「かごめ様……」
「だから、りんちゃん達には揃って出席して欲しいと思ってるの」
「まぁ、村の皆の方はね…。あのご母堂様と殺生丸の二人が並ぶんじゃ、怖気づいても仕方がないけどさ」
「無理強いはせぬよ。ただそう言う事があったと、そう言う場に立ち会う事が出来た人間もいた、それで良いのではないかな」
苦労の多い年月を経た、柔和な笑顔で楓は答える。五十年前、この村で今は亡き姉・桔梗と犬夜叉が出会った事から始まったこの不思議な巡り会わせ。それが五百年後の桔梗の生まれ変わりでもあり、またそれ以上の存在でも在るかごめをここに寄越し、そればかりか『種』の異なるものとの良い意味での交わりさえ目にする事が出来た。
変わらないものはない、変わってゆける可能性を楓は隻眼に愛しそうな光を宿して見ていた。そして、今話題になった弥勒はと言えば ――――
「さて、どの程度に声をかけたものかな? あまり騒々しくとも拙かろうし、かと言って我々だけではやはり浮くだろうしな」
村の辻に差し掛かるあたりまで歩いてきて、弥勒は考え込んでいた。犬夜叉や七宝はもうすっかりこの村に溶け込んでいる。後から来た蓬莱島の半妖の子達も、子どもならではの『力』で受け入れてもらえた。りんの子ども達も同様だ。ただ、さらにその一歩先に進もうとすれば……。
「……ご母堂様はああ言われたが、まぁ普通の村人では生半な事では同席する事など出来ぬだろうな。あれほど圧倒的なお方であれば。その上似たような御仁をもう一方(ひとかた)据えるつもりだしな」
村の四辻ぞいに広がる田畑は、芽吹きかけた野菜の若い緑や可憐な花の色、まだひょろりとして頼りない早苗の瑞々しさで彩られている。その彩りの中に響く元気な子ども達の声。その方向に目をやると、村の大人と一緒に田畑仕事に精を出す子ども達の姿が目に入った。
「ふむ。ここは無難な所で子どもをダシにするか」
にやりと性質の悪そうな笑みを浮かべると、田畑を手伝っている村の子・半妖の子のところへ近づいて行く。
「あっ、法師様!」
「こんにちは、法師様。良いお天気ですね」
口々に挨拶をしてくる子ども達。そんな子ども達の様子を慈愛深い笑顔で見回し、それからこう話かけた。
「お前たちも感心ですね、良く手伝いをしている。その褒美に手伝いが終わったら骨喰いの井戸の側の桜林に来なさい。花見を兼ねて犬夜叉とかごめ様が祝言を挙げます。ご馳走がありますよ」
ご馳走の言葉に、子ども達の顔がぱっと輝く。今までも良く手伝っていたその手の動きが一段と早くなる。
「どうですか? 村の衆も一緒に。仕事が早仕舞いしたら一緒に花見酒といきませんか?」
子ども達の側で聞いていた村の大人にも何気なく誘いの声をかけた。しつこくはなく何気にさり気無くそれだけ伝え、それからひとりあの場所に残した犬夜叉を心配して、先に骨喰いの井戸の側の桜林に弥勒は向かった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
ご母堂と弥勒の二重の結界は大した物だと、犬夜叉は思う。そこにいるのを知っているから気配を感じられるような気がするだけで、姿が見えない桜林の外に出てしまうとその気配も匂いもまったく感じられなくなる。ご母堂達の目論見が上手くゆくかどうかは犬夜叉には知った事ではないが、とにかく面倒な事にはなって欲しくはない。なって欲しくないと思っている、そんな自分の目の前に現れたのは ――――
「ちぇっ。俺が気付いたと言う事は、当然あいつも気が付いたって事だよな」
ぶつぶつ呟きながらどうしようかと考え、それでもここを離れる訳にも行かず他の面々が来るまでは、気まずいながらも場を繋いでおいた方が良いだろうと判断した。気乗りしないままに、その気配の元に近づけばそこには自分の異母兄・殺生丸の姿。
「よぉ、随分と久しぶりだな」
「……………………」
ぎこちなく声をかける犬夜叉に返事の代わりに鋭い視線を向けてくる。今までが争い事抜きで会う事が少なかったせいで、こんな平静時になんと言って話しかければいいか判らない。取り敢えず無難なところで ――――
「りんやガキどもは元気か?」
「……お前に教える必要はない」
相変わらずの取っ付きの悪さ。あの人懐こくおしゃべり好きで天真爛漫なりんが、こんな奴によく添う気になったものだと、めぐり合わせの不思議さを思う。そしてその不思議さが自分達にもあると思うと、自分とかごめとの事は自分の口でこの兄に伝えておこうと言う気持ちになった。
そして自分とかごめの事を思う時、漠然と胸の中に湧いてくる一抹の不安先にその道を歩みだしたこの二人に聞いてみたいとの思いも込めて。
「ったく、お前らしいな殺生丸。ああ、そう言えばお前には関係ない話だけど俺、かごめと所帯を持つ。お前は知らないだろうけど、かごめはこの時代の人間じゃない。ずっと先の時代に生きている。それなのに、自分の生まれた国や時代を捨てて俺の元に来てくれた」
「だから?」
「お前になら話しても分かってもらえるんじゃねぇかと……。俺もお前も『一番大事なもの』を手に入れた。だけど、いつまでも一緒に居られる訳じゃねぇ。俺達は人間じゃない、時の流れが違う」
「……何を今更」
「そう、今更だよな。だけどさ……」
この胸に湧く不安のような怖れのようなものを、うまく言葉に出来ずに詰まる犬夜叉。
「残される事が怖ろしいのか」
「今が幸せ、だからな。だから、それだけに……」
犬夜叉に向けていた視線を外し、殺生丸はその言葉を己の中で繰り返す。それはいつもりんを腕に抱く度に感じていた怖れ。いつか無くなるものだからこそ、『今』が愛おしい。むしろ犬夜叉の方がまだ、その想いは軽いだろう。生きる時間に差はあれど、その差を埋めるように互いを抱き締める事が許される。
邪気や妖気を浄化出来るかごめと、少なくともその身の内に『毒』を飼ってはいない犬夜叉。この二人の場合は、まさしく生きる時間の長さの違いだけ。
顧みて、己の場合はどうだろう? 愛しくて抱きたくともその行為が、りんの生きる時間を狭めてゆくのだ。かごめのような破魔の巫女と違い、あまりにもりんはただの人間の小娘。障らぬよう気を付けていても己の強大な妖気はりんの生気を殺ぎ、その身に情を注げば『毒』がりんを蝕んでゆく。『今』を取るのか、りんの生き長らえる『時』を選ぶのか、いつもその狭間で揺れている。
それでも、私たちは共にある事を選んだ ――――
「それは犬夜叉、お前が自分で出す答えだ」
感情のないいつものように冷たい響きの言葉だが、犬夜叉の耳にはなぜか血の通った言葉に聞こえた。
「それもそうだな。先でどちらが…、って言っても多分俺達の方だろうけど、一人で残されても一人じゃないと思えるような時間を積み上げて行く事が大事なんだよな」
「犬夜叉……」
出した答えは、きっと同じ。今はまだ、変わってゆくその途中。
「もう少ししたらさ、この先の桜の所で花見をするんだ。村に行ったりんたちも来るはずだから殺生丸、お前もどうだ?」
自分から、この兄を誘う意外さに驚いているのは犬夜叉自身。これもまたあのご母堂が言われた『変わってゆくこと』なのかもしれない。
「…………………」
「ついでにさ、俺たち祝言あげるんだ。俺にもかごめにも親類らしい親類はいないし…、お前がいてくれるだけで良い」
勢いで言ってしまって、顔を赤面させる。ここで殺生丸にそっぽを向かれたら、犬夜叉に二の句はない。
「……群れる気も、慣れ合うつもりもない」
「殺生丸……」
殺生丸の口から出た言葉は、予想していた答えのそのまま。そこに現れたのは弥勒であった。その姿を見て、犬夜叉が内心ほっとしたのは言うまでもない。弥勒の方もそんな犬夜叉の心中を察したのか、説得と言うのか言いくるめるというのか、その役目を犬夜叉と替わる。
「お久しぶりです、兄上。そのご様子では、犬夜叉から花見の宴での二人の祝言の事は聞かれたようですね」
「……………………」
「兄上が騒々しい騒ぎを好まれない事は、先だっての様子で判っております。が、ここは一つ! りんの為にもご同席願えませんか?」
「りんの…、為?」
「ええ、りんの為です。りんはかごめ様をそれこそ姉のように慕っております。此度、犬夜叉と祝言を挙げることで、続き柄でも義姉妹になられる訳ですから、その事をとても喜んでいます」
淡々と、道理を説く法師らしく言葉を続ける。犬夜叉にも殺生丸にも弥勒が『りん』の名を出した時点で、搦手をかけてきた事に気付いていた。
「しかし、ここで兄上が同席されないとなったら、この祝言に対し異がある事とりんは取るのではないのでしょうか? 半妖である犬夜叉や人間であるかごめ様を快く思ってないからと……」
ちらりと、弥勒は自分の背後に気をやった。そろそろ人間側の花見の支度を終えて、女子・子ども達の来る頃だ。この兄上を落とす最後の一押しは、やはりりんが適任だろう。
「……勝手にしろ。私には関係ない事だ」
煩わしくなりそうだと見て取り、自分からこの場を離れるのも不本意だが人間どもの下らぬ宴の目的がこの場での『花見』であるなら、疾く立ち去るだけと立ち上がりかけた。丁度そこへ ――――
「殺生丸様――っっ!!」
「父上〜!」
「花見だって!! ご馳走だ〜〜〜!!!」
元気良く駈けて来るのは子どものような…、いや、実際まだ子どもの領分な己の妻子。
「殺生丸様っっ! とてもおめでたい事です!! かごめ様達の祝言です!」
手に祝いのご馳走を抱えたまま、顔をにこやかに輝かせ殺生丸の前に立つりん。
「……知っている」
「それで、りん達にも一緒に祝言に立ち会って欲しいって」
「だから?」
そっけなさは、いつもの事。だけど今日だけはりんも譲れない気持ちになっていた。自分がご母堂から『帯』を貰って以来、殺生丸の機嫌が悪い。殺生丸の妻であり二人の子ども達の母でもあるりんではあるが、その本質はまだ幼いまま。殺生丸の機嫌の悪さの本当の意味に気付いてもいない。そんな心の幼いりんでも、いや幼いからこそ純粋に思うことがある。
それは、親兄弟に仲良くしてもらいたいと願う気持ち ――――
早くに父母兄弟を亡くしたりんだから。殺生丸もご母堂も、かごめもそしてきっと犬夜叉もりんは好きだから。
「……お正月の、りん達の披露宴の時には皆さん来て下さって、お祝いしてくれました。今度はかごめ様と犬夜叉の番。お祝いしたいです、りん」
「ならば、お前が祝えば良い」
「殺生丸様……」
あまりにつれない一言。一瞬、緊迫した雰囲気が漂う。りんの顔が困惑し、その後にくしゃっと泣き出しそうに変化する。心が、想いが通じない。そんな父母の姿を息を潜めて半妖の双子が、叔父の半妖が周りの人間たちが見つめている。
「……先ほどから聞いていれば、ほんに判らぬ奴よの」
華やかさに満ちた、玲瓏な声。辺りに妖気と花の陽気さが入り混じった薄紅のきらきらしたものが流れ込む。その中心には、神々しいばかりのご母堂の姿。
「――― !! ―――」
「ご母堂様! まだ、お出ましなられては……」
そう叫んだのは弥勒。
「済まぬな、法師よ。もう少しお前が施してくれた結界の中に隠れていようと思ったが、あまりにりんが憐れでな」
「お義母上様……」
ご母堂はりんの目尻に光る涙を見咎め、きつい視線で殺生丸を見据える。
「…まったく、お前という男はなんの掛け値もなしに真心だけで添うてくれたりんを泣かせても、何も感じない冷血漢の朴念仁なのだな」
「やはり裏で糸を引いていたのか、母上」
「なんじゃ、その物言いは。まるで憎っくき敵将に戦場で見(まみ)えたような挨拶じゃな」
「ふん。前にも言ったはず。母上が道楽で人間どもを構われるのに口を挟むつもりはないが、その茶番に付き合うつもりもないと」
今のこの場が自分にかなり居辛い場所である事を悟り、殺生丸は周りがこれ以上ごたごた言い出さぬうちに、この場から去る事にした。残したりんや子ども達は後で邪見にでも迎えに行かせればよい。注がれる痛いような視線を無視し空へ舞い上がる為、妖雲を湧かせ始めた。それを見て、ご母堂が一言言い放つ。
「また逃げるのか、殺生丸。正月の時と一緒だな」
「なにっ!?」
挑発的なご母堂の物言いに、殺生丸は実の親に向けるとは思えないような殺気の篭った視線を投げる。周りの犬夜叉を始めとした観客たちは、今にも始まりそうな壮大な母子喧嘩に身を竦ませ立ち尽くしていた。ぶつかる二人の妖気に満開の桜の花びらがびりびりと震え、音を立てて降りしきる。
「殺生丸様!! ご母堂様! どうか、喧嘩は止めてください!! 今日は…、今日はかごめ様と犬夜叉の祝言です。嬉しい日です、良い日なんです。だから、どうかもう喧嘩は止めて……」
ぽろぽろとりんの大きな瞳から涙が溢れ、誰も近づけないほど凶暴な妖気を渦巻かせている二人に向かって哀願する。
「りんちゃん……」
「すげぇな、あいつ…」
二人の子である天生丸・夜叉丸さえも父と祖母の剣幕に恐れをなし、かごめや犬夜叉の影で顔だけ出して様子を伺っている。そんなりんに先に声をかけたのはご母堂の方。
「おお、おお済まぬな、りん。お前を泣かせるつもりはなかったのじゃ。判った、お前の為にもうこれの事は構うまい。祝言を兼ねた折角の花見の宴じゃ、楽しまねば勿体無いのう。どうせあれの耳には、妾が伝えた言付けなど入ってはおらぬのだろうからな」
聞こえよがしに口にしたご母堂の台詞に、殺生丸の表情が僅かに動く。母からの言付け、あの妖蝶が囁いた言葉は ――――
ふっと、殺生丸の妖気の昂ぶりが鎮まったのか足元に湧き始めていた妖雲が掻き消えて行く。その様子に目ざとくご母堂が気付いた。
「……我を通すばかりが強さでもあるまい。何ごとにも動じず、寛容な心で物事を受け入れる事もまた強さであろう?」
「……何が言いたい」
「今までのお前なら到底出来ぬ事。りんの為にも、この宴に興じてみよ」
「……………………」
「されば、帯も解けようぞ」
鮮やかに、ご母堂の王手がかかる。詰まれたも同然の殺生丸が、物も言わずに一人先に桜林の中に入って行く。
「お義母上様……」
「面子は揃うたな。あのような仏頂面しか出来ぬ息子じゃが、これで良いか? りん」
「ありがとうございます、お義母上様」
「ふふ、あれの相手はりんが務めよ。まぁ、お前が側に居るだけで良かろうがな」
先に入った殺生丸の後をりんを側につけたご母堂が続き、追いかけるようにかごめ達の側で凍り付いていた双子が追う。それから ――――
「ねぇ、やっぱり村の皆は引くわよね。あんな殺生丸みたいな不機嫌達磨を供えていたんじゃ」
「多分…な。後は、なるようになれって感じだ」
本来ならこの場の主役である筈の二人の溜息に満ちた呟き。柔らかに陽が傾きかけた頃、ようやくこのありえないようなめぐり合わせの花見の宴は始まった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
せめてもの抵抗か、先に席に着いた殺生丸は先ほどまでご母堂が座っていた位置を占め、さっさと女官達に酌をさせて自棄酒を呷り始めていた。それに気付いたりんが、その側に侍る。かごめ達はどこに座ったものかと目をきょろきょろさせていたら、対懣(タイマン)を張るつもりなのかその向かいにご母堂が着席し、かごめ達を手招きして呼び寄せる。なんとも居心地の悪い晴れの席である。
向かいには殺生丸家族、こちら側には犬夜叉達とご母堂と。花見時期とも思えない冷ややかな空気が流れている。その中を、どちらの気配にも動じる事無く給仕や酌など立ち働く女官達は、かごめの眼にはサービス業のプロ中のプロに映った。そんな気まずい雰囲気の中で始まった花見の宴も、酒が入りご馳走に子ども達が舌鼓を打つ頃には、随分と砕けてきたものになってきた。
両方が用意したご馳走にお腹を空かせた七宝や夜叉丸達が歓声をあげる。つられたりんがご馳走を一つ食べ、二つ食べしているうちにだんだん笑顔が戻ってくる。にこにこと愛らしい笑顔を浮かべつつ稚い手つきで殺生丸に酌をし、その様子に凍てついたような殺生丸の様子が落ち着いてきた。
落ち着いてはきても、どうしてもこの嵌められたような宴が業腹なのか視線をこちらに合わせようとはせず、従ってりんばかりを眺めながら杯を重ねていた。
「ご母堂様、どうぞ一献」
女官の手から酒器を取り、弥勒がご母堂に酌をする。
「ふふふ。若い男の酌で飲む酒は、また格別じゃ」
「それは光栄でございます」
差(さ)しつ差されつ酒を酌み交わすその様子を見て、ぽつりと楓が隣に座る珊瑚に言葉をかけた。
「……珊瑚よ。手綱は緩めぬようにな」
「はい、楓様。今日はめでたい席ですからこうして笑っていますが、ね……」
珊瑚の口元には凍りついた笑みが張り付いていた。種の垣根を感じさせぬ妖と人間の酒盛りはまだ始まったばかりである。
「あら?」
ご馳走に箸をつけながら、かごめが小さく声を上げた。もともとあまり酒の匂いが好きではない犬夜叉はしかめっ面のまま、かごめの顔を見る。
「どうした? かごめ」
「うん、あのねりんちゃんの腰の辺り…、帯の上になんだか光るものが纏わりついているんだけど……」
そう言われはしたが、犬夜叉の眸には見えない。
「さすがは破魔の巫女だな、かごめ」
かごめの言葉に気付き、ご母堂が機嫌よく声をかけてくる。
「ご母堂様?」
「あれは、妾がりんに贈った『貞』の帯じゃ。りんの身をあらゆる厄災や妖気・邪気から守る為にな」
そう言いながら、くくくと人(?)の悪い忍び笑いを零す。それを聞いて、さきほどのご母堂の意味不明な言葉の真意に気付く弥勒。
「もしや、その帯が解けぬうちは、そーゆー意味でりんに触れる事が出来ない、とか…?」
「さすがその道の手練じゃな、法師」
道理でもともとそう仲の良い母子とも思えなかったが、それ以上にあの険悪さをもたらした原因がここにあったのかと思うと、同じ男としてそれこそ『殺生な』と殺生丸の肩を持ちたくなる。確かにりんの身を案ずればこそでもあろうが ――――
花見の宴はやがて夜桜の宴にと移り、子ども達はご馳走を食べようと、あちらとこちらを楽しげに行き来し始める。手の空いた女官がそれは見事な舞を舞い笛や琴を奏で、夜に散り行く桜の美しさを更に美しくする。
最初にこの『この世のものとも思えぬ花見の宴』に興味を持って飛び入りしてきたのは、村の子・半妖の子ども達だった。ご馳走の美味しそうな匂いに誘われて、いつも一緒に遊んでいる七宝や弥勒の子や天生丸・夜叉丸の姿に安心して。
冬の間屋敷に閉じ篭りだった夜叉丸達の楽しそうな顔を見て、りんも嬉しそうに微笑んでいる。その笑みがなぜか殺生丸の胸に沁み、向かいに座る己の母の仕打ちを忘れた。怜悧な美しさを湛えたままただただ酒を飲み、今この時だけの花を愛でる。不思議と心が和いでくるのを殺生丸は感じた。
酒の匂いが類を呼ぶのか次に寄ってきたのは、正月の時と同様に刀々斉と薬老毒仙、妖霊大聖や冥加といった年寄り勢。この少々騒がし屋な年寄り達が加わってますます宴は賑わい、宴の夜は更けてゆく。
最後にやってきたのは、村の大人達だった。帰ってこない子ども達を迎えに、興味半分おっかなびっくりで宴を覗き込む。如才ない弥勒の勧めで酒やご馳走の相伴に預かり、少し離れた場所でこの宴に加わった。
酒が足りなくなってきたのを見て、毒仙が自分の自酒を宴に供してくれた。ご母堂が用意してくれたご馳走やこの酒は、人間が飲み食せば疲れを取り病を消し去り力を与えてくれる。そこには、『人』と『人でないもの』の不思議な『和』があった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
いつの間にか戻ってきた邪見や阿吽も加わり、本当の意味でも無礼講となった花見の宴。戻ってきたばかりですぐさま子ども達のおもちゃにされている邪見は哀れだが、それもまた一興。
かごめは袂に忍ばせてきたものを上から軽く押さえ、言い出す機会を計っていた。
「かごめ」
声をいつ掛けようかとしていたところで、突然先方から声をかけられ内心びっくりする。
「はい、ご母堂様」
「のう、ああして子ども等がなんの分け隔てなく、仲むつまじく群れ遊ぶ様は心が和むな」
「ええ、そうですね。子狐妖怪の七宝ちゃんや半妖の天生丸と夜叉丸と蓬莱島の子達。珊瑚ちゃんの子どもや村の子ども達も、みんな仲良しだから」
「ふふ、いずれお前達の子もその仲間に入るのであろうな」
何気なく言われた言葉だけれど、その一言はなぜか嬉しくてそのくせくすぐったいような恥ずかしさもあった。
「……妖怪に人間の血が混じるのは、忌むべき事じゃないのか」
ぽつりと視線も合わせず、それだけを口にする犬夜叉。その『忌事』ゆえに人間からも妖怪からも阻害されてきたからこその、その言葉。
「だから、変わって行くのじゃ。もう、昔には戻れぬ。今が、これからが大事なのじゃからな」
そう言って見つめた先には、仲が悪いように見えてもこの偉大な母の想いを一身に集めている者の変わり行く姿があった。その慈しみ深い眼差しを見て、かごめは胸に秘めていた言葉を口にした。
「ご母堂様。一つお願いがあります。この不思議な縁で結ばれた私たち家族の絵姿を残したいと思います。どうか同席してくださいませんか?」
「うん? 絵姿とな。ここに絵師がおるのか?」
かごめは袂にしまっていたポラロイド写真機を取り出した。
「私の住んでいた国にある道具です。その場で、本物そっくりの絵姿を描き出す事が出来ます」
「ほぅ、それは面白いな。よし、描いてもらおう」
多分にそれは殺生丸の嫌がる事だろうと察していながら、それすらも余興にするご母堂。ぞろぞろと反対側へ移動してきたご母堂やかごめに引っ張られてきた犬夜叉、それからかごめにカメラマン役を仰せつかった弥勒などに殺生丸は怪訝気な視線を向ける。
「かごめ様?」
「あのね、りんちゃん。りんちゃん達家族と私達とご母堂様の絵姿を残したいんだけど良いかしら? 私のね、遠くに住んでいる家族に最後の便りとして送りたいの」
「最後、の?」
「そう、もう二度と会えないから…。でも、こんなに幸せな家族に囲まれてますって。りんちゃんが私のお手本だから」
「かごめ様……」
ご母堂に行く手を阻まれ逃げ出し損ねた殺生丸までフレームに収め、弥勒はポラロイドのシャッターを切った。一瞬、迸る閃光はまるで散り行く花の名残を惜しむように、過ぎ行く時を留めた。
「あらあら、天生丸も夜叉丸もすっかり眠り込んじゃったわね」
宴の幕引きは、遊び疲れた子ども達の無垢な寝顔。村の大人達も久しく快い酔いと明日への活力を得、ご馳走で満腹の子ども達を抱きかかえながらそれぞれの家に戻ってゆく。
「そろそろ妾も引き上げるとしよう。人間の真似事も面白いものだな」
引き際を弁えているご母堂があっさりとその場を引き上げると残ったのは、犬夜叉とかごめ・弥勒珊瑚夫婦に楓と七宝。それから殺生丸主従。
「りんちゃん達はどうするの? 今からどこかに移動するの?」
「えっと、それは……」
尋ねられ、答えを求めて殺生丸の顔を見る。
「そこは抜かりなく! ちゃぁぁんと、塒は見つけてあるわい!!」
さんざん子ども達のおもちゃになって、かなりくたびれた様子の邪見が小さな身体で精一杯胸を張ってそう答える。その様子を見て ――――
「そこって遠いの? 邪見」
「うむ。阿吽に乗って一時ほどか」
その答えに、今度はりんの側や殺生丸のもこもこの側で寝入っている子ども達の寝顔を見る。
「……良かったら、今夜はウチに泊まらない? こんなに良く寝ているのに起こして阿吽の背に一時もってちょっと可哀想だし、邪見あんたも疲れているでしょ」
「かごめ様……」
かごめからの申し出で。そう言えばこの村によく遊びには来たが、誰かの所に泊まったことはなかった。自分の村を出てから人里で夜を過ごした事がなかったなと、りんは思い返す。あの時、殺生丸の腕の中で目覚めてからずっと、自分は殺生丸の元に在るのが当たり前だと思うようになっていた。そして今、人恋しさよりももっと恋しいのは ――――。
そんなりんの心の動きに気付かず、それでもりんの事を思って殺生丸が答える。
「お前たちは泊めてもらえ」
「殺生丸様っっ!?」
誰もが思った、意外な答え。あの殺生丸が自らりん以外の『ひと』に関わろうとするとは……。これが『変わってゆく』ということ。その答えでりんの気持ちも決まった。
「では、かごめ様。子ども達と邪見様をよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げ、りんが挨拶をする。
「りんちゃんは?」
「りんは、殺生丸様の御側にいます」
「でも……」
なお言い募ろうとしたかごめの袖を弥勒が引き、意味深な目配せを送る。
「弥勒様?」
「かごめ様はまだ、お子がおられぬからお判りにならぬでしょうが、夫婦になったとはいえ時にはこういう二人だけの時も欲しいものですよ」
多くは語らずその場を纏め、自分は天生丸を、犬夜叉は夜叉丸を抱いてその場を離れる。あれほど賑やかだった桜林に残ったのは、殺生丸とりんの二人だけ。
「……桜の季節でも、夜風は冷たかろう」
「平気です。りんの側に殺生丸様がいらっしゃるから。それにりん……」
口ごもり、熱っぽい瞳で殺生丸を見つめる。
「りん……」
りんの熱っぽさを受けたのか妖の帯が光っている。普段目に見えぬ時はその力で殺生丸の手を拒むその帯。それが今、こうして姿を現している。試しに触れてみると指先には絹地の感触。そのまま殺生丸は帯を解いた。
初めてりんに触れた時は、冷たい骸(むくろ)だった。その骸を蘇らせたのは天生牙の導きだったのだろう。りんに触れて初めて、『心』が動いた。りんを抱いて、その熱さに命の愛しさと儚さを知る。そしてやがて来る未来を受け入れる覚悟をした。
だから、今だけは ――――
二人だけの空間を、殺生丸の結界が優しく包む。
降りしきる桜の花びらが、辺りを薄紅に染め上げてゆく。
今を限りの、花の命で。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
掃き清められた境内に、散り遅れた桜の花びらがひとひらふたひらと落ちてくる。花の季節は終わり、新たな命を育むように初々しい若葉が枝を染めてゆく。
その人はいつもと変わらぬように、箒を片手に封印を施された隠しの祠の所へとやってきた。ここがもう使われることはない事を知っていても、親の思いは変わらない。どこにあっても、どこに居ても。通り過ぎようとして、祠の格子から風が吹き抜けたように感じた。
そんな事があってはならないと思いつつ、そっと格子を開き中を覗く。あの時、かごめを過去の世界に送り出した後、その思いを尊重して涙の枯れることのない祖父にこの井戸を封印してもらった。向こうの世界で幸せになる事の誓いとして。
「あら?」
先日、そこを掃き清めた時にはなかったはずの小さな異変を見つける。しっかりと封印したはずの井戸の側に落ちている紙片のようなもの。祠の格子を開けた時に外から吹き込んだのに気付かなかったのかも知れない。
階段を下り、それを拾おうとかがみ込む。
それに手を伸ばして ――――
パタンと、祠の格子をしっかりと閉める。
かごめの母の手には、一枚のポラロイド写真。
「かごめ、この方たちがあなたの新しい家族なのね」
愛しそうに、その面を撫でる。写し出された画像には中央にかごめと笑顔が印象的なかごめより幼い少女。その前に少し眠たそうな表情の犬夜叉に似た子と幼いながらも怜悧な美しさを持った子達。その少女の背後にはそっぽを向いたこの世のものとは思えない美しい妖がおり、かごめの横には逃げ出したそうな無愛想な犬夜叉の姿。そしてその者らを包み込むような大きさを感じる美貌の妖。
「いつか、かごめもこの少女のように犬夜叉君との子どもを抱いて、幸せそうに笑うのでしょうね。そして……」
ぽとりと落ちる一滴。
はらりと落ちる、残りの桜花。
「……また、こうして会えましたね。偉大な方よ。どうか、私の子ども達に貴女の慈悲を賜らんことを ――― 」
―――― 時代を超え、種を越えても変わらぬものは、愛しきものへのこの想い。
花が咲き実を結び、その命を次の代に伝えながら。
その想い、花残月の空に ――――
【完】
2007.5.8
【 あとがき 】
このサイトも早丸4年が過ぎました。開設当初は犬一行寄りで始めたのですが、途中で視点が殺りん寄りになり、2年目・3年目は殺りん物を量産してきました。
4年目に入る頃からまた犬一行物も視野に含め、あまり偏りのないオールラウンドなスタンスでの創作に落ち着きました。
今後もこのスタイルで書きたい物を書いて行こうと思います。まずはサイト開設5年目の最初の一作として、この作品をUP致します。
これからも、どうぞよろしくお願い致します。
花紋茶寮亭主 杜 瑞生拝
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