【 Summer Vacation 】



 学校で習った温暖化の影響のせいなのか、今年はとても暑い。テレビのお天気ニュースを見ていても、びっくりするくらいに異常気象だと思う。南の地方のほうが、北の地方より涼しいなんて、本当にどうなっちゃたんだろうと思ってしまう。

 暑すぎるほど暑い夏休み。
 そう来れば、当然行きたくなるのは海!!

 お盆を過ぎるとクラゲが出ちゃうので、その前にあたし達は砂浜が白くてとても綺麗な海岸に、泊りがけで海水浴に来た。もちろん、ちゃんと保護者付で。
 あ、あたし達と言うのは一緒に共演している某子ども番組の仲間達の事。遠方の子や都合の悪い子も結構いて、結局一緒に来れたのは琥珀君とそのお姉さん、お姉さんの恋人の仏教大学の学生さんと、お姉さんの友人の巫女さんとそのボーイフレンド。
 でもね、あたしちゃんと知っているんだ。このメンバーは皆、昔のあたしがとてもお世話になった方々ばかりなんだって。

 あたしの今の名前は「みすず」って言うんだけど、昔はね「りん」って呼ばれてた。その「りん」って呼ばれていた頃に、お世話になった恩のある人達。皆もあたしの事を覚えていてくれた。うん、特別な方々を除いてはりん達は「転生組」。そう琥珀や珊瑚様や法師様、そしてどういう訳か妖怪だった邪見様まで。そして、この時代の人だったかごめ様はそのままで、半妖の犬夜叉様や殺生丸様は長い年月、人の世に紛れてこの現代まで生き永らえて来られた。

 ―――― もう一度、会いたい者に会うために。

 それだけで、りんは嬉しかった。
 
 まぁ、いろんな事があってりんは今、タレント活動をしている。そして恐れ多くもあの殺生丸様が、あたしのマネージャーなんだ。でも、もうそろそろタレント活動は止めさせたいみたいなんだけどね。


  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 開けてくれた大きな窓から、潮の匂いを含んだ海風がホテルの白い部屋の中に吹き込んでくる。その風を受けながらあたしは、ベッドの中からもぞもぞと起き上がった。

「ん〜、やっぱり汗で体がベタベタだ。シャワー浴びてこよっと」

 もう自分しかいない部屋で、誰に聞かせる訳でもないのにそう声に出すとスタスタとバスルームへと向かった。この部屋はあたし一人で使うには、ちょっと贅沢な一室。大きなベッドに二面のバルコニー、白い壁は職人のコテ捌きが伝わるような柔らかなニュアンスのある塗り壁で、落ち着いた色合いの腰板が涼しさと清潔感を与えれくれる。ベットにもバルコニーに面した大きな窓にも白いレースのカーテンとかわいらしいピンクの小花を散らしたドレープたっぷりなカーテンがさりげない優雅さを演出している。
 どうやらここがこのホテルで一番良い部屋らしんだけど、同行している人間関係からこーゆー事になった。お年頃で恋人同士でもあるかごめ様や犬夜叉様、それに珊瑚様と法師様がそれぞれ同室なのは当然として、まさか昔はそうだったとしても、現在でそれをやっちゃ犯罪者としての前科がついちゃう危険がある以上、あたしと殺生丸様が同室になるのは無理。
 世間の眼ってけっこう厳しいし、なにより厳しいのはかごめ様や珊瑚様の眼。あの頃も、先にそうなっちゃったから仕方なくって感じだったからね。

 マネージャー兼芸能プロダクションの社長としても手腕を振るいつつある殺生丸様。あたしがタレントを廃業したら、殺生丸様のマネージャー業務も終了って事になっている。新規プロダクションだけど、業績はとても良くて今回の海水浴という休暇旅行の全員の費用は全部事務所持ち。このホテルの1フロア6室全部を貸し切ってくれたんだ。
 南仏風の白い壁に赤い屋根のプチホテル。ゆったりとした丁字型の縦の廊下を挟んで3部屋ずつ並んいる。廊下の突き当たりはそのまま海岸に出られるポーチ付の裏玄関。この裏玄関を挟む左右の部屋が、このホテルのお奨めの部屋。あたしはその一室を使わせてもらっている。
 向かいの部屋が殺生丸様の部屋で、その隣がかごめ様と犬夜叉様、そのまた隣が珊瑚様と法師様。あたしの部屋の隣はそれぞれの部屋が邪見様と琥珀の部屋。横に伸びる廊下はエントランスやレストランやフロントに続いている。

 頭の中で、昨日の夕方に着いた時の事を思い返しながら、このホテルの構造を復習する。夕べはもう遅かったので、簡単な食事を取って休んだだけだった。きゅっとシャワーのハンドルを回し、温めのお湯を全身に浴びる。シャワーのお湯は肌に優しく当り、気持ちよく汗を流してくれる。もう少し水温を下げて火照った身体を冷やそうかと思ったけれど、その後の反動の様に体が熱くなる状態を思い出し、そのままぬるま湯を浴び続けた。

「ああ、良い気持ち。熱が篭っちゃってたし、ちょっと寝不足気味だったんだけどね。でも、元気になった! 今日は新しい水着でいっぱい泳いじゃうもんね!」

 もこもこの柔らかい上等のバスタオルで身体を拭きながら、これからの楽しい予定に思わず声が出る。ちらりと視線をバスルームの脱衣所にあるハンガー掛けにかけた、新しい水着に向けた。この水着だって、選ぶまでが大変だった。いつまでもスクール水着でOKなお子様ではなく、そこはやはりちょっとは背伸びしたいお年頃。ナイスバディなかごめ様や珊瑚様のように、とはいかなくても少しはそーゆー水着だって着てみたい。
 だけど、そういう面では以前と変わらず古風で硬い殺生丸様が絶対に許す訳がなく、あれこれ互いに譲歩しあった結果、ようやくりんが手に入れたのは、どこからどうみても街着にしか見えないワンピース型の水着。殺生丸様との約束で浜辺にいる時はパレオの代りにオーバースカート、上にはボレロを羽織る。泳ぐ時にはそれらを脱いでも、袖にフリル胸元にもフリル、腰周りにも三段フリル付きというセクシーと言うには程遠いデザイン。

「本当はもっとシンプルで、大胆な水着が良かったんだけどな。ちょっと大人っぽい奴。でも、これも可愛いから良いや」

 それから視線をドレッサーに移し、鏡に映った自分の姿を見て、あたしは気が付いた。

「あれ、これ……」

 それに気付いて、あたしはあれこれ考えた。

「まさかね。そんな訳ないよね? だって、すごくりんが楽しみにしていたのはご存知だったんだから」

 ぷるぷるとあたしは頭を振ると、今考え付く一番良いと思われる方法を取る事にした。


 朝食は皆と一緒にホテルのレストラン。あたしはチャイナカラーのシルクのブラウスに、ショートパンツスタイルで席に着いた。絞りたてのミルクにオレンジジュース、甘さ控え目なブルーベリーヨーグルトと、香りの良いベーコンをほど良く焼いたベーコンエッグと自家菜園で育てている摘み立てのベビーリーフのサラダ。パンも焼き立て全粒粉のロールパン。お腹もとても空いていたので、ミルクもサラダもお替りをして食べた。
 皆も美味しそうに食べている。不思議なのは、犬夜叉様。犬夜叉様も半分は妖怪だからか、食べなくても平気らしい。そこは殺生丸様と同じ。だけどかごめ様と一緒だと、何でも美味しそうに召し上がる。りんにはそれがちょっと羨ましくもあった。
 今もマッシュポテトに炒めた玉葱とミンチの和風ソースをかけたものを大盛でお替りした。それをかごめ様がにこにこしながら見ていらっしゃる。

「いいなぁ、そんな風に食べてくださると」
「どうしたの? りんちゃん」

 あたしの呟きに気付いたかごめ様が、さり気無く尋ねる。このメンバーでいる時は、あたしの呼び名は『りん』。

「うん。犬夜叉様の食べっぷりがとても美味しそうで、そんな風なのってなんだか嬉しいなぁって思っちゃって」
「いやねぇ、ただの大喰らいなだけよ。そんなに良いものじゃないわよ」

 まるでお母さんのような笑顔で、かごめ様が答える。そんな事でも褒められた事に気を良くしたのか、犬夜叉様も言葉を返してくれた。

「まぁ料理が美味いのもあるが、腹も減ってるからな。空きっ腹に不味い物無しとも言うし、夕べはちょっと頑張りすぎたしな」

 その一言で、かごめ様の顔が赤くなる。

「犬夜叉のバカ!」
「こらこら、犬夜叉。子どもの前ですよ。言葉に気をつけなさい」

 大人の風格で、法師様がそう犬夜叉様を嗜める。

「なんでぇ、お前の所だって夕べはっ…… 、痛っっ!!」

 犬夜叉様はテーブルの上にあった銀のお盆の縁で、思いっきり頭を珊瑚様に叩かれていた。

「気、気にしないでね、りんちゃん。なんでもないんだから……」
「そうそう。りんにはまだ早すぎる話だから、ね?」
「えっと、その、はい……」

 ちょっと焦ったようなかごめ様と珊瑚様。お互い顔を真っ赤にして、あたし達は言葉尻を小さくしながら気まずそうに手にした飲み物を飲み干した。直接会話に参加していなかった琥珀や邪見様まで、この熱さに中てられたような顔をしている。

「我々も大人として、自重せねばですね。いくら夏で開放的なバカンス先での事とは言え、こうして未成年者も同行している訳ですから」
「まぁ、な。わざわざりんだけ別の部屋を用意したあいつの手前もあるしな」
「当たり前ですよ、犬夜叉。この現代であの頃のような事をしようものなら、即警察行きです。流石にそんな危ない事はしないでしょう、あの兄上も。今では芸能プロダクションの社長と言う社会的地位もあるのですから、特にゴシップ関係はタブーです」

 法師様がそう言いながら、視線を窓際の席へと向ける。そんな小さな騒動など、まったく関心がないとばかりに一人離れた席で殺生丸様が、コーヒーを片手に数種の新聞に目を通していた。

 そんなあたしは、そっと胸の中で呟く。

( ……でも、殺生丸様は殺生丸様だよ。変わられる事などないんだよ )

 それだけに、やっぱりこれはマズいよねぇと、あたしは小さく溜息をついた。


  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 朝食を済ませ、各自水着に着替えてビーチに集合するように打ち合わせる。勿論、そんなお遊びに参加なさる訳はないけどね、殺生丸様は。あたしは新しい水着に着替え、その上からボレロではなく、紫外線対策兼エコ基準を無視したような温度設定の冷房対策用のジャケットを羽織り、ファスナーを一番上まで上げて首も完全の隠してしまう。鏡の前で右に左に動いてみて、大丈夫なのを確認する。

「ちょっと暑いけど、日焼けによる火傷対策でTシャツを着たままで泳ぐ人もいるから、そんなに可笑しくは無いよね?」

 そう自分に言い聞かせて、あたしはビーチに下りて行った。ビーチに着くと、もう先にビーチマットやチェア、パラソルなどの準備も出来ていて、後は遊ぶばかりになっている。そんなチェアの上には、あたしの眼にも眩しいかごめ様・珊瑚様の水着姿。かごめ様は夏らしい明るい花柄のホルターネックのワンピース。スタイルの良いかごめ様だから、そんなシンプルなデザインこそが、その素晴らしさを引き立てる。一方珊瑚様の方も、いたってシンプルなリング使いの黒のビキニ。豊かな胸元や引き締まったウエストのサイドに配置された銀のリングの中から覗く白い肌が大人の女の人なんだと思わせる。

「うわぁ〜っっ!! 凄いです! かごめ様、珊瑚様!! あたしでもクラクラしちゃいそうです!」

 思わず言葉を飾りもせずに、そんな感想を叫んでしまった。お二人は、にこやかに微笑んで、隣のチェアをあたしに勧めてくれた。

「りんちゃんも可愛い水着を買っていたでしょう? 今日は泳がないの?」

 浜辺には似つかわしくない、ジャケットとオーバースカートを着込んだあたしを見て、かごめ様がそう尋ねる。

「いいえ、もちろんいっぱい泳ぐつもりです。でも、泳ぐ時以外は、こうしていろって殺生丸様が……」
「あ〜、またあいつ? なんかあの頃より歳を取ったせいか、やたらとりんに過保護になったようだけど」
「過保護、ですかねぇ? むしろ、りんの肌を他の人間の目に触れさせたくないだけじゃありませんか?」

 珊瑚様の飲み物を取ってきた法師様が、そんな意味ありげな事を言う。
 もしそれがそうなら、あれはやっぱり……。

「あ、あたし泳いできます!」

 なんとなく、皆様の視線が痛く感じられてあたしはオーバースカートを脱ぎ捨てると、急いで波打ち際に走って行って、そのままザブンと海の中に入った。着たままのジャケットが波に濡れて、肌に纏わりつきちょっと動きにくかったけど、足も届くような水深なので溺れる心配もない。近くで邪見様と琥珀が潜りっこをしていたので、あたしも仲間に入る。とにかく楽しく遊んで、この場を誤魔化してしまおうと考えた。
 そんな風に暫く海の中で遊んで、浜辺に上がってきた。チェアの近くに戻ると、一泳ぎしてきたらしいかごめ様と珊瑚様が濡れた髪を、タオルで乾かしていた。

「りんちゃんも使う?」
「はい。ありがとうございます」

 可愛いピンクの柔らかく良い匂いのするタオルを手渡された。そのかごめ様があたしの姿をじっと見ていらっしゃる。あたしは、見つかってしまったのかとドキドキしていた。

「ねぇ、りんちゃん。そのジャケット、脱いだ方が良いんじゃない? 暑いでしょう?」

 心配そうに、優しくそう言ってくださる。そのお言葉はとても嬉しいのだけど、でも今は絶対に脱ぐ訳にはいかないんだ。

「大丈夫です、かごめ様。この後、仕事でスチールの撮影があるから水着焼けしちゃいけなくて……。強い日焼け止めは、りんの肌と合わないんです」

 子どもっぽい言い訳だなぁと自分でも思うけど、りんがタレント活動をしていることをご存知な二人には、それで十分だったみたい。

「そう…。それじゃ、無理だけは本当に気をつけてね」
「はい。かごめ様」

 あの頃も、そして今もこうしてりんの事を気にかけてくださる。りんの周りには、こんな優しさが溢れている。

「りん! さっきの潜りっこはワシが負けたが、今度はビーチバレーで勝負じゃ!! ワシは珊瑚、お前はかごめとチームを組め。琥珀は審判じゃ、勝ち逃げはさせぬぞ!!」

 りんに潜りっこで負けたのが余程悔しかったのか、そんな勝負を邪見様が持ちかけてきた。

「いいわ、その勝負受けてあげる! 珊瑚ちゃんもいいでしょう?」
「そうだね。かごめちゃんと勝負なんて、滅多にないから面白いかも」

 そんな流れで、真夏の太陽の下、あたし達の勝負は始まった。お二人がビーチバレーを始めると、すぐに沢山のギャラリーが集まってきた。それはそうだろうと、あたしは思う。こんなに美人でスタイルの良いお二人が、生き生きとビーチボールを追う姿なんて、それこそ海から生まれたビーナスの様に見えているのだろう。

( ……なんだかりん、グッピーになったみたいな気分になってきた )

「りんちゃん、そっち行ったわよ!!」
「あ、はい!」

 ちょっとぼぅとしていたのか、砂に足を取られてよろけてしまう。それでもどうにかして、ビーチボールをレシーブする。よろけたまま、焼けた砂の上に倒れ込む。

( あぁ、暑いな。なんだろう? 身体に力が入んないや )

 気持ちは元気なのに、体がついていかない感じ。すると急に息苦しくなって、頭痛がして、気持ち悪くなってきた。

( あ、ヤバイ!! これって…… )

 暑い砂の上に倒れたまま動かないあたしに気付いて、皆があたしを呼ぶ。

「りんちゃんっっ!!」
「りん!?」
「りんっっ!!!」

 皆があたしを呼ぶ声を遠くに聞きながら、あたしの意識は途切れてしまった。


   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「ねぇ、これって……」
「うん。熱中症だね、きっと! 早く身体を冷やさなくちゃ」

 かごめと珊瑚の二人は、砂の上に倒れたりんの様子を見て取ると、すぐにそう判断を下した。りんの顔は茹でたように真っ赤なのに、発汗量は少なく呼吸が浅い。

「こんなジャケットを着たまま泳いだり、炎天下で動いたりしたからだわ」
「どうしたんだ? かごめ」

 さっきまで弥勒と遠泳に興じていた犬夜叉が浜辺の異変を嗅ぎつけ、急ぎ戻ってきた。

「あ、犬夜叉! りんちゃんが倒れちゃったの。多分、熱中症だと思う」
「ああ、これはマズイですね。着ているジャケットが濡れて通気性が悪くなったまま、激しく動いたものだから、体の中に熱が篭ってしまったのでしょう」

 横から顔を出した弥勒もそう判断する。邪見はオロオロとするばかりで、琥珀は気を利かせて、ビーチチェアの横に置いていたクーラーボックスから冷たい飲み物を取ってきていた。

「やっぱり。じゃぁ、これは早く脱がせよう」

 さすがに女の子が着ている物を男手で脱がせるのには抵抗が有るだろうと、珊瑚が素早く首元まで上げられていたファスナーに手をかけようとしたその時、鮮やかな速さでりんの体は中空に抱きかかえられていた。

「殺生丸!!」

 この真夏のビーチに、これほど不似合いな格好もないだろうという男が軽々と水着姿の女の子を抱きかかえている。きちんと結ばれたネクタイに長袖の白のワイシャツ、アイロンの利いたスラックスと上質な革靴。都心のオフィスからそのまま出てきたようである。

「…………………」

 一言も発しはしないが、その機嫌が限りなく悪い事は誰の眼にも明らか。唐突に現れてりんを抱き上げた時と同じように他の者には一切目をくれず、早足でホテルに戻っていった。その速さは、まるで走っているかのような錯覚すら覚える。

「……怒ってたわよね、殺生丸」
「りんの事となると早いんだな、あいつ」
「りんが大事なら、こんな所まで来て仕事なんかせずに、側についていてやれば良いのに」

 そう残された面々がぶつくさ言うのを聞きながら、人の悪い笑みを浮かべた弥勒。

「……『仕事』と言う歯止めをかけていただけかも知れませんよ? 昔も今も、殺生丸の一番はりんでしょう。今生では、人間の倫理観に合わせようとしていますけどね」
「え? 何よ、それ?」

 含みの有る弥勒の言葉に、かごめが突っ込みを入れる。

「りんは本当に女の子らしく愛らしく成長しています。戦国の世であれば、今のりんなら十分嫁にも行けるお年頃。現代では許されませんがね。そして、あの兄上がたかだか五百年位でそうそう性格が変わる訳もありますまい」
「……言われてみれば、確かにそうかも」
「だから、りんの一人部屋も、バカンス先での仕事も、露出の少ない水着の着用も、兄上が自分の理性を保つ為と考えれば、その人知れぬ努力は汲んでやりたいと、同じ男としては思うんですよ」

 心はとっくに結ばれている二人である。今生で出逢った時から、もう6年の月日が経っている。いつ一線を越えても、おかしくない二人。でも ――――

「兄上は昔の様な急いた愛情ではなく、ゆっくり時間をかけて愛情を織り成して行こうと思っているのでしょう。そうですよね、犬夜叉」

 ふいっと、話の矛先を自分に向けられちょっと顔を赤らめながら、小さく犬夜叉は頷いた。

「犬夜叉?」
「……鼻が良すぎるから、分かっちまうんだよな。移り香と残り香りの違いって奴がさ。たまに強い移り香を感じる事もあるが、仕事柄四六時中一緒ならそれもそうだろうと思うし」
「移り香と残り香の違い…? もしかして、残り香って、あの……」

 言葉の意味に気がついて、かごめと珊瑚は二人とも顔を真っ赤にした。一線を越えれば、確実に残るであろうその匂い。それをまだ、犬夜叉が感知していないと言う事は ――――

「そっか……。本当にりんちゃんの事が大事なんだ」

 顔を真っ赤にしたままかごめと珊瑚は小さく呟き、もう姿が見えなくなった二人の気持ちをそっと思った。


  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 ビーチからそのままホテルのりんの部屋に戻り、バスルームへ直行する。バスタブの栓を抜いたままで、冷水のシャワーを頭から浴びせた。遅れてついてきた邪見には、振り返りもせずに指示を出す。

「スポーツ飲料を、70%程の濃度に薄めてたっぷり持って来い!! それから、フロントから扇風機があればそれも借りて来い!」

 そう言いながら、殺生丸の手はバスタブの中の壁にもたせ掛けたりんの全身にくまなく冷水のシャワーをかけ続けていた。

「は、はい!! ただちにっっ!」

 ぴゅ〜と言う擬音すら聞こえそうな勢いで邪見は、フロントへと吹っ飛んで行った。

「う、ううん……」

 冷水のシャワーが効を奏したのか、りんが気付いたようだった。殺生丸が手にしたシャワーヘッドをフックにかけ、濡れてりんの肌に張り付いたジャケットを脱がそうとファスナーに手をかけた。

「だ、ダメ!! 脱がしちゃ、ダメなんだからっっ!!」

 思いもかけぬ強い否定の声が、りんの口から飛び出した。

「りん…」

 その声に、りんは自分に触れようとした手が誰の物か、ようやく気付く。

「え…、殺生丸様……?」

 頭から降り注ぐシャワーの冷水の中、濡れ鼠の様な姿できょとんとした瞳を殺生丸に向けてくる。

「……泳ぐ時以外はボレロを羽織れと言ったが、そんなジャケットまでとは言っていないぞ」

 少し呆れたような顔で殺生丸は、バスタブに座り込むりんを見下ろした。

「……だって、他の誰かに見られたくなかったんだもん」

 口を尖らせたようにすぼめ、小さなそれは小さな声でりんが訴える。

「見られたくない…?」
「殺生丸様が付けたんだよ? まだ、誰にも内緒の事だから、だからりん……」

 そう言いながらりんは、きっちり着込んでいたジャケットをようやく脱いだ。脱いだりんの首元に、とても虫に刺されたとは言い訳出来ない鮮やかな赤い鬱血の痕。

「……みんな、りん達の過去世をご存知だから、これを見たらきっと殺生丸様が責められる。これ以上の事は何もなかったと言っても」

 それは、昨夜の事。
 ホテルに着いたのは、もう夕方。
 海で遊ぶのは明日と言う事にして、夕食を済ませみんな早めに部屋に戻って休んだ。
 そう、恋人と夏の夜を過ごす為に。

 りんもかごめや珊瑚達のような大人の夜とは違うが、それでも恋人との夏の夜を過ごしたのだ。周りへの関心など無くなっただろう同行者を横目で見ながら、りんの部屋を訪れた殺生丸。りんは優しく抱き締められて、小鳥が啄ばむ様な口付けを何度も交わして、一晩中お互いの鼓動に聞き入っていた。トロトロと浅い眠りに落ちては、柔らかな口付けで目覚めドキドキを募らせる、その心音を互いに聞きあって夜明けまで。
 朝日が射す頃、名残惜しそうに思いの丈を込めて殺生丸がりんの身体に唯一残したのが、この首元の赤い花びら。りんの気が遠くなるような、情熱的な口付けと一緒に。真綿の様な優しい愛撫から開放され、眠りに落ちたりんの上に殺生丸が開け放したベランダからの朝風が心地良くそよぐ。今日のりんの目覚めは、そんな熱い夜を過ごした後の事だったのだ。

「困るか」
「困るかって、りんが怒られるだけならりんは平気。でも殺生丸様が困った事になるのが、りんは嫌なの!!」

 昨今は不埒者が多く、守られるべき未成年者が見境の無い変態どもの歯牙にかかる痛ましい事件が多すぎる。そんな奴等と殺生丸が同列に見られる事が、りんに取ってはたまらなく嫌だった。

「りん……」

 そうして、そういう社会情勢は殺生丸も良く理解している。だからこそ、今生では『人としての倫理』に合わせようとしていた。そんな今生での殺生丸の抑制振りは、りんが一番良く知っている。それだけに ――――

「どうしてりんの首にキスマークをつけたの? 殺生丸様。今生では、こういう事はなさらなかったのに」
「………………」

 沈黙の殺生丸。りんは自分もそう思い、弥勒も指摘した事を思い切って尋ねてみた。

「……りんの水着姿を他の人に見られるのが嫌なの? 殺生丸様」

 りんの言葉に、ほんの僅か殺生丸の表情が動く。

「殺生丸様……」
「……かも知れぬ」

 それだけを口にする。

「それならそう仰って下されば、りんは海水浴に行きたいなんて言わなかった」
「……無理だ。見せたくないのお前の水着姿だけではない。今でも、昔の様にお前を私だけのものにしたい自分がいる。そして、それが出来ないことだと承知している私もいる」

 それは、今の二人の現実。
 りんは実力の有るキッズタレント。
 殺生丸は、そのりんのマネージャー。
 タレントは他者に『観られて』なんぼの商売。
 自由奔放に振舞えた過去との違いを、痛感させられる。

「……殺生丸様、分かってない! りんは、今もあの頃と同じだよ? りんの全ては殺生丸様のものなのに、それを信じてくれないの!?」
「りん……」

 りんはバスタブから立ち上がりながら、着ていた水着を脱ぎ落とした。頭から振り注ぐシャワーの冷水がりんの素肌に当り、光の水滴に変わって肌を転がり落ちてゆく。

「タレントとしてのりんを『観ている』人は沢山いるかもしれないけど、裸のりんを見てもらいたいのは殺生丸様にだけなんだよ。りんの心も身体も殺生丸様のものなんだから!!」

 海の波の泡立つ煌きの中から、完成された美としてビーナスは生まれたと言う。
 今、殺生丸の目の前で降り注ぐシャワーの水滴は、夏の光を受けて全て眩しい煌きに変わる。その煌きの中に立つりんは、伸びやかで瑞々しい未完成のビーナス。

 殺生丸だけの、愛の女神。

 水滴の煌きだけを身に纏ったりんの、濡れた大きな黒い瞳が強い光を宿している。依存するような受身な姿勢ではなく、自分の意思で自分の進む道を選んだ者の強さを映して。
 瞳の煌き、肌を転がる水滴の光のきららかさ、それらに魅せられ惹かれ、誘われるように殺生丸はりんの裸身を抱き締めていた。

 重なる唇、心臓の音。
 夏の煌きに包まれ、水滴の一粒一粒にその姿を映す、永遠の恋人たち。
 
 

 このまま、時が止まればいい ――――


  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 バターンっっ!!

「殺生丸様!! 飲み物と扇風機を持ってきました!! どこに置いたら……っっ!!!」

 ノックもせずにバスルームに飛び込んできた邪見様。
 あたしは久しぶりに、殺生丸様に蹴り飛ばされる邪見様を見た。邪見様は真昼の浜辺を飛び越えて、夏の青い海にドボンっっ!! と。空のお星様ならぬ、海底の海星(ひとで)になっちゃったみたい。

「……軽い熱中症だ。午後は安静にして過ごせ」

 せっかくの恋人気分を爆砕され、殺生丸様はりんの身体を力なく開放した。

「殺生丸様……」
「りん、お前も早く服を着ろ。その首筋の責任は取る」

 そう仰って殺生丸様は、りんの部屋を出て行った。殺生丸様もずぶ濡れだったし、邪見様を蹴り飛ばした後で、また続きをって気分にもならないしね。

「はい。午後は大人しくしています」

 それにあたしもまた、熱中症とは違う熱に浮かされて体がふわふわしていた。
 簡単なランチをルームサービスで届けてもらって、お昼からはトロトロとした午睡を楽しんだ。空がほんのり紫がかってきた頃、殺生丸様が大きな箱を抱えて入ってきた。

「殺生丸様?」
「具合はどうだ」
「もうすっかり元気です!」

 あたしの返事を聞き、大きな箱をあたしの前に置いた。

「それに着替えたら、食事に行く」
「二人でですか!?」

 きっとそう尋ねたあたしの声は、弾みに弾んでいたと思う。

「いや、他の者も一緒だ」
「あ…、ああ、そうですよね。あたしったら……」

 ちょっとしゅんとしたあたしの頭を軽くなでて、そっとあたしの耳元で殺生丸様が囁いた。

「今まで待ったのだ。その時まで、もう残る月日はそう長くは無い。今は、この遣る瀬無さを楽しむのも悪くは無かろう」
「殺生丸様……」
「こうして二人だけの秘密を作るのも悪くない」

 その声に、ゾクゾクしてしまってあたしの足元が崩れそうになる。耳元から、そっと唇が滑り落ち、またあの痣の上で止まる。つい、っと強く吸われた感じがして慌てて鏡を見ると、昼間冷水を浴びた後風邪を引かないようにと首元を温めたのが良かったのか、薄くなっていたキスマークがまた鮮やかになってしまった。

「殺生丸様、これっっ……」

 普段表情の無い殺生丸様の眸に浮かぶ笑み。

「気にするな」
「でも……」

 顔を赤らめもじもじしてしまうあたし。
 そんなあたしの首筋にそっと殺生丸様の手が触れる。首元に冷たく硬い物の感触を覚えた。

「えっ? これ……」
「そのデザインならば、普段使いが出来るだろう。その花に似合いの日の光だ」

 首の後ろで、かちゃと留具の止まる音。
 鏡の中のあたしの首は、殺生丸様の眸のような金色の宝石で出来たチョーカーで飾られていた。金色の宝石は中心の珠が直径が2センチくらいある半円球でその隣が1センチ5ミリ、その隣が1センチほどの珠。あつらえたようにぴったりとりんの首元を飾り、真紅のキスマークを完全にカバーしていた。

「どうだ? それならば、幾つ咲かせても大丈夫だろう。ゴールドサファイア、お前に似合いな石だ」
「殺生丸様……、ありがとうございますっっ!!」
「……お前を子ども扱いしすぎたからな」

 それからチョーカーに合わせたミニのイブニングドレスに着替え、みんなが待っているレストランに向かう。

 殺生丸様にエスコートされて。

 みんなからはお見舞いの言葉と、大人っぽくなったねと言う褒め言葉。癖の有る黒髪をアップにし、チョーカーを着けた事で首の細さが強調される。イブニングドレスのデザインは、身体のラインを美しく魅せるシンプルなもの。サイズをぴったりにあわせないと着こなせない、ベアトップにマーメイドラインのスカート。
 このドレスを下さった時に言われた言葉を思い出し、あたしは少しでも殺生丸様に相応しいように背筋を伸ばして綺麗な姿勢で歩く。

 少し大人っぽいムードでの夕食。
 かごめ様も珊瑚様も、こんな風な時間を何度も犬夜叉様や法師様と過ごされてきたんだろうなと思う。あたし達の雰囲気が落ち着かないのか、邪見様と琥珀はまた別のテーブルで食事をしている。

「へぇ珍しいな、殺生丸。お前が食事の席に着くなんてさ」
「……食べる真似事くらいなら出来る」

 洗練されたテーブルマナーで、食事をしているようにしか見えない殺生丸様。そう、本当なら食事をされなくても良いんだよね。それだけの妖力をお持ちの方だから。

「……あれって、りんちゃんの為にだよね?」
「かごめ様……」
「あの殺生丸に、あそこまで人間の真似をさせるんだから、りんの力ってすごいもんだね」

 珊瑚様も、感心したようにそう仰る。
 なんだかあたしはだんだん申し訳ないような気持ちになってきた。

 夕食も済み、みんなそれぞれに夏の夜の散歩を楽しむ。あたしは先を歩く殺生丸様の後姿を見ながら、あの頃の様についてゆく。

「疲れたのか、りん」

 歩みの遅いあたしに気付き、振り返った殺生丸様がそう声をかけてくださった。

「ううん、疲れてなんかいません。でも、あの……」
「りん?」

 いつの間にか、あたし達の周りから人影は消えていた。それを確かめ、小声であたしは謝る。

「済みません、殺生丸様。りんのせいで、殺生丸様に人間の真似なんかさせて……」
「真似?」
「お食事なんて、本当なら取る必要なんてないんですよね。なのに……」

 微かに湿った声。申し訳無さそうなりんの表情を読み、殺生丸はほんの少し口元を上げて笑みを浮かべた。

「いずれお前の手料理を食す。その練習だ」
「殺生丸様っっ!!」

 夏の夜、月の影。
 殺生丸様の背中に広がる、大きな月。
 潮風が殺生丸様の白銀の髪をそよがせて行く。

「じき晴れて、一緒に住まうようになる。その時には、お前の手料理を食べさせてくれるのだろう? りん」

 海面には月の光が描く、金色の真っ直ぐな道。
 バージンロードのようだと、あたしは思う。

「うん! りんも頑張る!! お料理だってお掃除やお洗濯だって!」

 りんが16歳になるまで、待ち長いのかあっという間なのか。
 その間に、りんが覚えなくてはならない事もたくさんある。

「殺生丸様のお嫁さんに相応しいようにね!」

 これからも殺生丸様の隣を歩いてゆけるように。
 ずっとずっと、お側にいられるように。


 あたしが、そう心に誓った夏の夜だった。


【おわり】

2010.8.18




= あとがき =

久しぶりの現代版パラレル芸能編(?)です。
こちらの設定はパラレルならではのライトさを意識して軽〜い感じで書いていますv
普段ならあまり書かないような定番的甘いフレーズも、あちらこちらに(笑)
まだまだ残暑厳しい今年の夏、涼しい屋内で夏バテ予防・熱中症予防に少しでも笑って楽しんでもらえたら幸いです。
 

 

 
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