【 野分 − アラシノアトニ − 】



 吹く風に誘われて、高みを増した空を見上げる。
 少し残った夏の雲。その上に羽で刷いたような薄い雲。
 透明度の上がった青色にすっと一筋に伸びる飛行機雲。
 その横に白く浮かぶ真昼の月。

「いい天気じゃのう、天気予報ではまた台風が来とるらしいが……」

 邪見はスタジオの入っている建物の屋上で、伸びをしながら誰言うとなくそう呟いた。
 あれから……、もう三年。
 昨年の夏前にりんは邪見と一緒にやっていた幼児番組を卒業し、今は夕方の小中学生向けの番組のレギュラーで頑張っている。その後の邪見の番組はりんの後釜に入った『カンナ』の所為か、はたまた少子化の直撃を受けたのか、スタジオに遊びに来てくれる子ども達が激減し、邪見は寂しいばかり。

 ……いや、増えたものもあるのはあるが。

 邪見には良くは判らんのだが、あのカンナの追っかけが存在する。アシスタントの衣装をあのゴスロリとか言うのか、赤や黒の薄手の生地にしてフリルやレースで飾った物に変えたら、途端に視聴対象外なディープなファンが激増し、出待ちをしたり、デジカメ片手の若い男どもがスタジオに溢れるようになってしまった。しまいには一緒に番組に出たい! と言い出す奴らまで。

( ……世も末じゃな。言っておくが、この番組の対象年齢は三歳未満の子どもとその保護者対象じゃぞっっ!! まったく、赤ちゃんプレイでもあるまいし!! )

 と、邪見の心の声。
 空は秋晴れでも、邪見の心は曇天。
 せめて、空元気だけでもふかさねば、と。
 しかし、そう思っている側から……

「はあぁぁぁ〜〜〜」
「はは、大きな溜息だねぇ」

 その声にびっくりして、辺りを見回す。誰も居ないと思って油断をしたか。屋上にあるヘリポートに取材で使うヘリコプターが引き出されていたが、その影から……。

 髪をポニーテールを変形させたような、頭頂近くで髪を結わえそれを垂らさずに髪先を結わえた髪の根元で纏めた、立兵庫風な髪型の女。赤と白のコントラストの効いたカシュクールのブラウス・スーツを着ている。そのデザインの特性かそれがこの女の【売り】なのか、触ってくれと言わんばかりな豊満な胸を強調して。

「神楽、か。お前もこんな所で何をしておる?」
「ああ、今日はあたしも仕事が早く終ったんでね、カンナの迎えに来たのさ。ただ、あたしもああ言う連中は苦手でね。カンナが適当に切り上げてくるのを待ってるのさ」
「ふ〜ん、本当にそれだけか?」

 邪見は思惑ありげな視線を神楽に送った。神楽はすれてるのか顔色を変えることもなく……。

「まぁ、ね。ついでにあいつの顔でも見てゆこうかと、ね」

 吸っていたタバコを下に落とすと、ハイヒールの爪先で捻り消す。
 
( なんと言う、場所柄をわきまえない女か。ここはヘリポート。火気厳禁だぞ!! そんな女だから恐れ多い事に殺生丸様を掴まえて、あいつ呼ばわり! まったく、身の程を知らんわ!! )

 これも邪見、心の声。

「来てるんだろ、あいつ」
「うむ、今はそれが殺生丸様のお仕事であるからな」

 永の年月を渡って来た殺生丸と転生した邪見らが、この現代で巡り会って三年。その間に、これも『縁』なのかあの頃の者どもが人間に転生して、邪見らの周りに集まってくる。そうこの神楽しかり、神無しかり。

 殺生丸は邪見らと巡り会った当初こそは記憶も失くし、この現代での世捨て人の風情であったが、『りん』と巡り会い、邪見と再会し、今では邪見らのマネージメントを一人で切り回している。いや、このマネージャー稼業だけではなく、株式を初めとしたマネーゲームにも手腕を発揮し、そこで得た資金を元に近々一応邪見を代表とした芸能プロダクションを立ち上げる予定。
 人材を見抜く見識眼も超一流、歌わせずとも会話だけでその者の歌唱力を見抜き、殺生丸の前を歩かせるだけでダンスの才能を見抜く。またその的確な指摘で瞬く間に実力を身に付けてゆく、研修生達。まだプロダクションとしての組織は正式に稼動をしてない事になっているが、水面下ではもう蓋を開けるばかりの所にまで来ていた。

 
 ……邪見も薄々気付いてはいたが、殺生丸の思惑はりんを芸能界から一刻も早く卒業させる為と、気になる存在への牽制と監視の目的もあった。

 そう、神楽の義父にしてカンナの実父。
 そして、この二人の所属しているプロダクションの社長でもある、奈落。

「神楽、お前も芸能関係の仕事をしてるんだったな。女優か?」

 神楽の顔に冷笑めいた、やり切れない笑みが浮かぶ。

「そう…、女優なら良いよねぇ。でも、まぁあたしの柄じゃないさ。演技は下手でね、嘘が付けないからさ」
「ほう。じゃ、タレントか?」
「タレント、みたいなもんかな。やりたい事は別にあるんだけどね」

 そう言った神楽も何か思い悩んでいるように邪見の眼には映った。

「ふん! バカにしてるよねぇ、このあたしにあんなエロタレントの二番煎じな写真集を撮らせようなんてさ」
「神楽?」
「着物着て、M字開脚だって!! あんまり頭に来たから、現場の機材、蹴り飛ばして帰ってきてやったんだ」
「その仕事は……」
「奈落の差し金さ。あたしにはろくな仕事を回しやしない。血の繋がったカンナは可愛いみたいだけど」
「なんか複雑じゃのう……」

 これが神楽の本性だろうか? やるせない表情とどこか諦めてしまったような表情をない混ぜにした、哀しい顔。

「……夢見る夢子さんな母さんがバカなのさ。どこでどう道を踏み外したのか僅か十四であたしなんかを一人で生んで、歳ごまかして水商売であたしを育てて……」
「神楽……」
「幸せになりたくて、何にもなかった母さんにはお金しかなくて…。母さん、その道じゃ超一流の女だったんだよ。あんたなんかがビックリするくらいの金、持ってた」
「………………」
「それが仇になったんだろうねぇ、あんな奈落なんて奴に目ぇ付けられて。上手い事言われて、その気になってあたしの知らないうちに一緒になっちまったんだよ」
「……なぜに、そんな話をワシに聞かせる?」
「さぁ…? あんたって居ても居なくても構わないような感じだから、つい、ポロっとね。下らない話だから、さっさと忘れな。さて、いつまでもここで待ってても埒があかないね。迎えに行くとするか」

 殊更婀娜っぽく、腰を振りながらその場を後にする神楽。婀娜っぽいだけに、どこか言い知れぬ寂しさのようなものを感じさせた。



「あ〜あ、まだあんなに張り付いているよ」

 収録スタジオの前まで来て神楽は、その足を止めた。やたらと見える小さな閃光とパシャパシャと聞こえるシャッター音。お手軽な携帯のカメラ機能だけではなく、本格的に高画質のデジカメやビデオを構えている者、もっとマニアックに少し離れた所から高性能な一眼レフのファインダーを覗いている者まで。
たかが幼児番組のアシスタントの追っかけにしては、異様だ。
 なぜか知らないが神楽は、良い歳をした男が年端の行かない少女に執心する様が忌々しくてならない。犯罪性を含む危険性を感じてと言う事もあるが、これがもう少し上の年齢のそう、壮年の男たちが騒ぐ分にはそうまでない。一言バカ!!と胸の内に毒付いて、お終いである。むしろ、係わり合いになりたくない。しかし、この二十歳前後の人間に対しては……。

「……目障りだな」

 ふと考えに耽っていた神楽の直ぐ側で、その声が聞こえた。それはここで出会ってからと言うもの、神楽の心を騒がさせずにはいられない者の声。神楽には前世の記憶が鮮明にある訳ではない。自分がどんな生き方をして、どんな生を終えたか。それでもあの頃、何者にも勝って自分の心を占めていた存在はこの殺生丸だったのだ。転生しても『魂』が覚えている。

「あ…、ああ。カンナにも迷惑なんだけどね」

 知らず頬が染まり、声が小さく震える。

「ふん、時々こちらのスタジオまで来る奴がいるからな。ああいう下賎な奴らの好奇の的にされるのは迷惑だ」

 それが誰の事を指して言っているのか、神楽には判っていた。当然といえば当然かも知れない。自分がマネージメントしているタレントなのだから、その身辺に気を配るのは。そして、なぜか自分もその子の事は訳もなく好ましく思っているだけに、自分の気持ちの納めようがないのも事実。
 殺生丸は、今目の前に居るのがあの『神楽』の人間に転生した姿だとは気付いている。だがあの時もそうであったように、『りん』が側に居る以上、『神楽』がその場所に取って代わる事はない。その存在が何らかの影響を与えようとも。
 自分の上に止まる事はない金色の視線が冷たい色を滲ませて、カンナの周りに張り付いている者達を睨みつけている。神楽は自分が始末の悪い事をしているようで、急いでカンナをそんな連中から引き離そうとした。そこで起きたあるアクシデントが、嵐のような誤解を生む元になるのだった。


「は〜い、お疲れ様。今日はみんな良い出来だったわよ」

 ここはりんの仕事場、「天○レ」のスタジオ。少し気が早いように思われるかもしれないが、すでにりん達はクリスマス公演に合わせて、歌と踊り、それから芝居の稽古にと余念がない。それに併せて、スタジオでのレギュラー番組の録りもある。みんなの集まるレギュラー録りを優先させる為、公演の練習は今は時間の余裕のあるスタジオ近郊の子ども達が有志的に集まってやっている。
 もともと、りん以外はみなそれぞれに小さなうちから芸能スクールやプロダクション、ダンス教室などに所属してレッスンを積んでいるから、練習の場はそれなりに持っている訳だ。
 りんはそんな経験など皆無の状態でこの世界に飛び込んだから、最初はスタジオで振付けてもらったのが初体験だったりする。それでもやってこれたのはここの前の仕事が、三歳未満の幼児対象の番組だったから。対象年齢が上がった今、この世界で、いや 今一緒に仕事をしている仲間達の為にも遅れる訳にはいかないと、人一倍熱心だった。

「すごく上手になったね、りん」

 このメンバーではお姉さん格の浅葱が声をかけてきた。スタジオに残っているのは他に、橙と緑・萌黄と琥珀。このメンバーは都内在住という事もある。
 紫苑と藍はまだ遅くまで練習させるには小さいのと、家までの距離があるのでレギュラー番組の録りが終ると、もうスタジオを出ていた。同じ理由で関西圏から通勤していている紫織も。

「ううん、まだまだだよ。もっと練習しないと」

 汗を拭いながら、りんは上気させた顔にさらに強い意志を込めた瞳を煌かせる。現代でも華奢は華奢。汗で張り付いたTシャツに肉付き薄く、すんなりと伸びた手足が良く映える。そう、でも栄養状態が良い所為か華奢であっても、それなりの柔らかさを感じさせる心地よい発育を遂げていた。身長も、あの頃
よりは五〜六センチは高いだろうか?

「どうしてもね、あの場面のステップが決まらないのが悔しくて……」

 そう言ったのは、芝居の中に組み込まれたりんと琥珀の見せ場のシーン。悪者に捕まったりんが自力で脱出するシーン。踏み台を使ってジャンプして、助けに来た琥珀のサポートで無事着地するという、アクロバティックな場面。この場面の踏み切り、ステップが決まらなくて、琥珀の手に届かないうちに着地したり、勢い余って琥珀を押し倒したり。

「まだ練習するの? 台風が来てるから、天気も悪くなるわよ」

 りんたち子どもの出演者の面倒を見ているADの奏が腕時計を見ながら、そう言った。浅葱達も流石にもう帰り支度を始めている。

「うん、もう少し…。殺生丸様が迎えに来てくださるまで」
「あっ、じゃ、俺も残ります。俺の家、ここから一番近いし」

 そこへ、先にスタジオを出ていた橙・緑の双子が意味ありげな笑みを浮かべて駆け戻って来た。

「ああ、それがいいぜ。あっちはあっちで取り込んでたみたいだし」
「やっぱ良いよな〜。俺も大人になったら、あんな感じの胸がば〜んとデカイ彼女の方が良いな」
「……何の話してるのよ、橙・緑?」

 少し眉を顰めながら、姉さん格の浅葱が尋ねる。

「ホラ、りんのマネージャーとりんの後釜にはいった子の姉さんの事。向こうのスタジオの前で抱き合ってたぜ」
「どっちも大人だし、美男美女だし、すっげっっ〜〜〜って感じ」

 こんな世界にいるせいか、それともそんな年頃か。ませた口をききながら、その衝撃的な光景に興奮を隠せない橙と緑。

「あの子の姉さん、間違いなくりんのマネージャーに気があるよな?」
「うんうん、判る判る。大した用事もないのに、こっちのスタジオにも良く顔見せるもんな」
「……そう言えばあのマネージャー、あの人の事はちらちら見ているような気がする」

 そう言ったのは、琥珀。その正体ゆえに、他人と必要以上の接触をしない殺生丸は、りんと一緒に仕事をしているこの仲間達にも、そう親しげな表情は見せない。むしろ琥珀などは、度々突き刺さるような冷たい視線を感じる事さえある。それだけに、そう言うものを感じさせないで他人を見る事が珍しく何かあるのかと思ってしまうのだ。そして止めは、何気に口にした大人だけに重みのある奏の言葉だった。

「……相思相愛なのかしら? 大人の眼から見ても似合いのカップルよね」

 その一言は、深くりんの胸を抉った。りんはもうあの頃の『りん』とは違う。
 この現代で、色んな事を学んで知っている。そう、あの頃のような振る舞いをこの現代でしてはいけない事に。それはりんがまだ幼く、殺生丸が大人だからに他ならず、あの頃と気持ちも関係もちっとも変わってはいないのに、歴然と二人の間に立ちはだかる壁になっている。りんが十六になるまでは、この壁は存在し続けりんを不安にさせる。
 そして、『神楽』はその壁の向こうの住人。殺生丸の側に居てもなんの問題もない、似つかわしい相手なのだ。

「りん、顔色が悪いけど大丈夫?」

 顔色を変え、途端に元気をなくしたりんを気遣い、琥珀が声をかける。琥珀もりんの事をなぜかずっと以前から知っているような気がして、気がして…、そっと胸の中に住まわせていた。

「あ…? うん、大丈夫」

 そうは言うものの、先ほどまでの強い瞳の色はすでに翳っていた。りんも神楽の事は嫌いではない。あの頃、いつの間にか姿を見かけなくなっていたけど、
 あの頃から神楽が殺生丸の事を好きだと言う事に気付いていたから。
 今よりもりんはまだ幼くて、自分の好きなものを他の人も好きだと言う事の方が嬉しくて…、自分と仲間のような意識を持っていた。

 ―――― りんは殺生丸様の事が好き。
 ―――― 神楽も。

 でも、殺生丸様の側にいるのはりん。

 そんな危ういバランスが、今 りんの胸の中で崩れようとしていた。折りしも邪見が見上げていた秋空が、迫り来る台風に鉛色に塗り替えられて行くように。 


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 りんの胸の中に暗雲が立ちこめ、人前では泣かない性格だけに心のうちでは、堰を切りそうなものがある。
 そう、本当はずっとずっと思っていた事。


 ――― アタシミタイナコドモガ  殺生丸様ノオ側ニ居テモイイノ?


 りんは自分がちっぽけな子どもだって知っている。
 ううん、りんが大人になっても絶対、殺生丸様みたいにはなれない。

 だって…

 殺生丸様は、妖怪。
 りんは、人間。

 今も、前世(むかし)も ――――

 りんじゃ、きっと殺生丸様の為には何一つお役に立たないだろう。
 ご迷惑を掛けるばかりで、こんな力のない手じゃ殺生丸様を支える事なんて……


 スタジオの入っている建物に、とうとう大きな雨粒が落ちて来た。車道や歩道に落ちている紙くずや木の葉などが時折吹き抜ける強風に螺旋模様を描く。

 『神楽』は、あの頃から私よりずっと大人で……
 妖力(ちから)もあった。風に乗れるから、空を行かれる殺生丸様のお側にいてもちっとも邪魔にはならない。今はりんと同じ人間みたいだけど、でも きっと子どものりんよりずっとお似合いだよね。

 神楽がりんと同じで今生(いま)でも殺生丸様の事が好きなんだっていうのは、りんにも良く判るんだ。だって一緒だもん、りんと神楽は。
 あの頃の神楽は奈落の手先だったから、どんなに殺生丸様の事が好きでも言えなかったんだよね。
 殺生丸様も、神楽を奈落の手先としか見てなかったみたいだから……

 神楽の気持ちはどこにも行けなかったんだ。

 でも、今なら?
 今なら、神楽は言えるんだよね。
 殺生丸様の事を好きだって。
 今の神楽は現代人だから、まさか殺生丸様とりんがそんな関係だなんて夢にも思わないだろうし、りんも殺生丸様も言える訳がない。

 ……だって、『犯罪』だから。

 後、五年。
 そう、最低りんが十六歳になるまで待ってもらわないと……

 りんが殺生丸様と再会したのが三年前。
 過ぎてしまえばあっという間なのに、これからの五年はなんて長いんだろう。
 殺生丸様はその百倍もの時間を一人で越えて来られたんだよね。記憶を失くして仕舞われる程の長い時間を。
 
 「ほら、その衝撃的シーン!! なかなか良く撮れているだろう?」

 橙が携帯の写メで撮った画像をいきなりりんの目の前に突き出した。
 そこには、頬を上気させた神楽を胸に抱く殺生丸の姿。
 その眸はいつにない光を浮かべて ―――

 「待てよっ、りん!! どこに行くんだっっ!!!」

 呼び止める琥珀の声を振り切り、りんは椅子の上に置いていた自分のスポーツバックを掴むと、スタジオの入っている建物の外へ飛び出していった。外の天気は今のりんの心中をそのまま映したよう。重く黒い雲が低く垂れ込め、風はますます強くなり、大きな雨粒を人だろうが車だろうが建物であろうが、礫(つぶて)のように叩き付けてくる。

 りんの心の中の嵐―――


 ――― そう、そこに写っていたのはりんの目から見てもお似合いな『大人の男と女』。


 子どもなりんなど、寄り付ける訳も無い。
 今まで気付かなかった神楽の想いを知ったら、殺生丸様の気持ちも変わるかもしれないと思ってしまうくらいに、りんはあの頃より物が判るようになっていた。

 本当に、あの頃は『殺生丸様とりん』しかいなかったのだから―――


    * * * * * * * * * * * * * * * * * * 


 ……殺生丸は、もしここがりんや邪見の仕事場でなければ、数百年ぶりに爪先から妖鞭を繰り出してやろうかと思った程だった。

 神楽の異父妹・カンナに群がる若い男達。その連中は、カンナばかりではなくりんが仕事をしているスタジオにさえも姿を見せる。そしてその不躾であからさまな欲望に濁った視線を、りんやその仲間の女の子達に浴びせるのだ。
 本来の欲求の、代替行為のように。

 カンナという娘は幼い割には、どこか魔性めいたものを持っている。妖艶な姉と比べると、その異質さは顕著だ。魔性と言うより廃頽的と言うか虚無的と言った方が正確か。家族間の不仲なせいで、義父にエロタレント活動をさせられてる神楽の方がよほど健全だ。

 マネージャーと言う職業柄、どんな些細な情報でも素早く嗅ぎ付け分析しておくのは常識。いや、どんな場面でも対するものがあるのなら、それは一種の戦いである。戦国時代の戦でも、最終的な勝利をもたらしたのは、やはり『情報』の力であった。それを殺生丸は間近で見てきた。

 今ではその情報そのものが『武器』になる。

 そして多分これはこの娘、カンナの一種の能力かも知れない。カンナと波長の合う人間を、ある程度自分の思うように動かす事が出来るようなのだ。

( ……いやな娘だな )

 自分の幼い肢体をそんな男達の視線に犯させて、その快感でもって男達を操るような、そんないやらしさを感じる。それがこのカンナとその取り巻き達だけの間でなら、鼻にもかけない。
 もともと、人間どものする事には冷淡なほど無関心な殺生丸。
 そう、その忌まわしい人間どもの悦楽の対象に、『りん』の姿が入ってなければ!!

 思わず漏れた、『目障りだ』という言葉の意味はそれ。
 それを ―――

 「カンナっっ!! 帰るよ、ほら!」

 神楽が、そんな男達をかき分け異父妹の所へ近づこうとする。カンナの『気』が動いた。そんな事を感じられるのは殺生丸だからだが、それにしてもこの異父妹も神楽の事はあまり良くは思っていないようだ。
 その証拠に、カンナに心酔している男達から不穏な気が立ち上る。カンナに影響されているのだ。

「ちぇっ、うっせーぞっっ!! オバサン! あんたは引っ込んでな!!」
「何、言ってんだい! あたしはカンナの姉だよ!! 異父妹(いもうと)を連れて帰ってどこが悪いっっ!!」

 ざわっ、と更に険悪さが増す。

「あんたみたいな、汚らわしい女がカンナちゃんに触るなっっ!!」
「なっ、なんだって!?」
「カンナちゃんも可哀想だよな。こんなエロタレントが姉なんてさ!」

 ……好きでやっている訳ではないのだろう。見かけの豊満さや妖艶さに比べ、その実はずっと純なよう。ましてやすぐ側には、殺生丸の姿。

「ふん! そっちだって人の事は言えないじゃないかっっ!! カンナだけじゃなく、可愛いローティーンの女の子のお尻ばっかり追いかけているロリコン野郎!!!」

 その一言が、その辺りにいた男達の怒りを買った。どこか後ろ暗く、そのくせ『真実』をあからさまに晒されると、人間は逆ギレするもののようだ。

「俺達はなぁ! カンナちゃんをお前みたいないやらしい大人からの影響を受けないよう守ってるんだ!! お前なんかはそこの男とラブホでも行ってろっっ!!!」
「な、何て事をっっ!! さぁ、いい加減にしな!」

 ……これだけ恵まれた生活をしていながら、ひどくひねこびた気性に育つものがいる事が殺生丸には不思議だった。戦(いくさ)も無く、病(やまい)も怪我もそうは恐くないこの時代。飢えている者が見れば怒りで涙を流しそうな程無駄に捨てられている食料、娯楽に溢れ、堅牢な住まいに住み、それなのに―――

 己を確立出来ず、引け目を感じるせいか同年齢の異性との接触を嫌がり、うちに募る衝動のままにまだ己の支配下に置けそうな幼女をその対象とする輩。また、自己確立出来た、いわば『大人の女』には激しい憎悪の念すら抱く。

 逆上して真っ赤な顔でそんな男達の中に割り込んでいった神楽も馬鹿な部類だろうが、それでもまだずっとまともに思える。男達の罵声や揶揄を、冷たい視線で聞き流していた殺生丸の気配が、きっと引き締まったものになった。
 一種の群集心理。もとから理性の歯止めの利きにくい連中だったのも禍して、その騒動は神楽をターゲットにした集団暴行の様相を呈してきた。頭に血が上った大馬鹿野郎があろう事か、カメラの三脚を神楽の頭目掛けて振り下ろしてきたのだ。

「きゃっっ!!」

 思わず顔を手で覆い、神楽はその場で蹲った。
 しかし、神楽が思ったような衝撃は襲っては来なかった。恐る恐る目を開けてみると、目の前にはスタジオのライトを反射して煌く、白銀(ぎん)の髪 ―――

 それは、一瞬の事。

 三脚を振りかざした男と神楽の間に、殺生丸がいた。神楽を殴りつけた三脚は殺生丸の右腕で防御され、それどころかくにゃりともう三脚の役には立たないほどに折れ曲がっている。
 そして、低い姿勢から愚かな男達を睨みつける鋭い視線!

「……次にこうなるのは、誰だ」

 何でもないように腕を振り払い、さらに相手を視線で射殺す。それを感じたのか、ようやくカンナがその場を取り繕いだした。

「皆、やめて。神楽に乱暴しないで。あたし……」

 そう言うと、悲しんでいるポーズを取りながら控え室の通路へと歩き出す。神楽を『姉』とも思っていないのだろう、言葉一つかけようとはしない。カンナの後を取り巻きの男達がゾロゾロとついてゆく様は、まるで高慢な女帝とその臣下のようで虫唾が走りそうになる。

「…あ、ありがとう。えっと……」
「…殺生丸だ」

 まだスタジオ前の床に座り込んだまま、どうお礼を述べたものかと口篭った神楽に、一言そう声をかける。神楽はもちろん殺生丸の名は知っている。知ってはいても、どう呼びかけて良いかさえ分からず躊躇ってしまうような、そんな女心。

 殺生丸はカンナの取り巻きの男達がりん達のスタジオに流れてこない事を確認して、その場を離れようとした。その後を追おうとしたのか、取り合えず立ち上がろうとしたのか慌てた神楽がよろけ体勢を崩す。三脚を防いだ殺生丸の右腕は今度は神楽の体を受け止めた。

「ご、ごめん…、何度も……」
「…足首が弱いな。その道で独り立ちしたければ、もっと基礎レッスンを増やせ。筋トレもな」
「えっ? あの、それって……」
「お前にはその方が向いている」

 見ていないと思っていたのに、神楽は誰よりも自分の事を分かってくれている殺生丸にさらに気持ちが募って行くのを感じていた。こんな機会はきっと、これから先あるかどうか分からない。そんな想いが表情にも出たのだろう。それは、子どもの目から見ても、『恋する女』のそれでしかなかった。

 その現場を、橙と緑の二人に目撃されたのだった。


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 発作的に外に飛び出したりんは、とにかくどこか一人になれる場所に行きたいと思った。

 降り始めた雨を避けるように、りんはすぐ側のバス停に丁度止まったバスに行く先も見ず飛び乗った。バスの乗客も台風が近づいているのを知ってか疎らで、りんは一番人目につき難い最後尾の端の席に座る。外の景色は、台風の雨に流され溶けてゆくよう。

 まるで、殺生丸の中のりんの存在のように ――――

「うっ、うううぅぅ…、どうしてあたし、子どもなんだろう……」

 あの頃、りんにとって『子ども』であると言う事は、然程の障害ではなかった。確かに人の『倫−みち−』に外れた事であったかも知れないが、その頃のりんは『人の世』から隔たった暮らしをしていた。でも、今は……。

 そう、家族が居る。友達も、仕事も。
 何よりも、もうあの頃のような人と隔たった暮らしなど望めない世界に生きている。棲むべき野は、遥か遠い。

 ごぉぉぉ、と物凄い横風を受けバスは停止した。
 運転手が、これ以上の運行は危険ですからここに停車しますとアナウンスしている。疎らな乗客たちが風や雨が少し収まった時を見計らって、バスを降り近くの建物に入ったり別の交通手段で移動したりし始めている。
 りんも行あては無いけれど、つられるようにその動きについて行った。バスを降りてみて、初めて気付いた。その場所があの夏の日、殺生丸が連れて来てくれた山の入り口の近くだと言う事に。

「殺生丸様……」

 ふらふらと、りんはその思い出を確かめるように山への登山道を上り始めていた。


 その頃、りんがいたスタジオは大騒ぎだった。嵐の中に飛び出したりんを追って、琥珀も建物の外に駆け出していた。上手く琥珀がりんを見つけて連れ戻してくれば良いけどそうでない場合、未成年者のりんの身にもし万が一怪我でもさせては、それこそ一大事。

 ちゃんとりんのマネージャーである殺生丸に連絡をしておくのが筋だろうと、こんな大事になってしまった責任を感じて建物内を走る橙と緑の二人。

「大変だ! りんが台風なのに外に飛び出した!!」

「りん、が?」

 何の躊躇いもなく神楽の体を支えていた殺生丸の腕が抜かれ、ぐらっと来た体を今度は自分で支える神楽。その間にも殺生丸は既に立ち上がり、二人の話を上から聞いている。

「琥珀が急いでその後を追っかけているけど……」
「りん、随分ショクを受けたみたいな顔していたから……」

「……りんに、何をした」

 二人の話を聞き、一拍置いて殺生丸の口から漏れた声には、子どもに向ける年長者としての優しさは欠片もなかった。

「あ、あの…、ちょっと、写メを……」

 有無を言わさぬ視線でそれを促し、殺生丸の前で画像を提示させる。
 冷ややかな眸でその画像を見つめると、他人の携帯であるのに当然の如くその画像を消去した。

「……二度とこんな下らぬものを写すな」

 そこに、息せき切って琥珀が戻ってくる。

「はぁ、はぁ、はぁ…。すみません、マネージャーさん。途中まで追いかけたんだけど、りん 丁度そこに来たバスに飛び乗ってしまって…。一応バスの路線番号で行き先は確かめたんですが、こんな天気だからどこまで行けるか分からないし……」

「何処だ?」

 必要最小限な言葉しか口にしないのは、今も昔も変わらない。

「西の山手の方に出来た新興住宅地行きのバスでした」
「あそこ、か」

 一瞬、険しい眸に浮かぶ波長の違う色。そこまで聞けば、もう後の事はなにも殺生丸には関係ない話だった。そのまま、地下の駐車場に降りると自分の愛車に乗り込む。今も昔も変わらないのは、その後をちょこまかと付き従う邪見の姿か。

「殺生丸様っっ!!」
「……後は任せた」

 そう一言だけ残し、殺生丸の愛車は台風の暴風雨の中に駆け出して行った。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 酷くなる風雨の中、どうにか去年連れてきてもらった場所までたどり着いたりん。
 あの時、殺生丸と二人で見た景色はどこにも見えない。厚い雨のカーテンで覆い隠され、あの時はっきり感じた『想い』さえ、迷子になりそう。大きな木の下で、膝を抱えながらりんは顔を伏せて泣いていた。

 今の自分ではどうしようもない事があるのだと……。

 辺りの木々が大きくざわめき、激しい雨がその風に煽られて強弱をつけながらりんの体を叩く。りんの耳には、嵐の音しか聞こえなかった。
 そのりんの耳に ――――


「……こんな時に、こんな所へ来て如何するつもりだ」


 激しい風雨の音にかき消される事なく、その声がりんの耳に届く。
 信じられないような思いで、顔を上げるとそこには……

「殺生丸様……」
「帰るぞ、りん」

 りんは滅多に見せない泣き顔を殺生丸に見せながら、頭を横に振る。その様子に、幾分機嫌を損ねかけた殺生丸の眉を顰めた顔。

「……りんじゃ、ダメだと思う。りんは子どもで、まだ殺生丸様を待たせなきゃいけないから……」
「馬鹿な事を……」
「りんじゃ、殺生丸様のお相手に相応しくないって今なら分かるの!! りんは、りんはっっ…」

 怒号のような一際激しい風雨の叫び。
 それを遮るように、殺生丸はりんの体を抱き寄せた。胸にある想いを、言葉に出来ない己の性格こそ苦々しく思いながら。

「……知恵が付くのも考えものだな。昔のお前は無知な分、一途であった」
「殺生丸様……」

 抱き寄せられて、濡れた衣類越しに伝わる温かさ。

「……私は今も昔も、お前が子どもであろうと大人であろうと一向に構わぬのだ」
「でも……」
「りん、お前がお前で在る事。それだけで良い」

 温かさが優しさに変わる。りんにだけ見せる、その優しさ。

「……待つ、と決めたのは私だ。お前と出遭うために五百年待ったのだ。今更であろう?」
「殺生丸様っっ!!」

 今、りんが流す涙はこの雨や風にも負けない嬉しい涙。
 見上げたりんの顔に、台風の雨を遮るように殺生丸の白銀の髪が流れ落ち、温かさがりんの小さな唇の上にも伝わってくる。温かさはそれだけではなく ――――

 車内に戻ったりんを包み込んだのは、あの懐かしいもこもこ。

 濡れた着衣を脱ぎ捨て、そのもこもこに台風が通り過ぎるまで二人包まる。
 人間らしくあろうと、かつての妖の力を殆ど封じてしまった殺生丸が、りんの為に。


 今はまだ、これ以上進めぬ二人だが、それでもこの激しい風雨を隠れ蓑に、懐かしい時を紡ぎ直す ――――



 台風は激しさの分、通り過ぎるのも早かった。

 嵐の後の空は、激しい雨に洗われ抜けるような青空。
 それは今、殺生丸の腕で眠るりんの笑顔のように。

 後日りんは、あの頃より神楽の想いを知っていたと殺生丸から聞き、殺生丸の変わらぬ『想い』の強さを知った。それに応える為に、また自分も強くなりたいと思うりんでもあった。


【終】
2006.9.25

= あとがき =

現代版パラレルって難しいですね^_^;
原作要素も混ぜ込みたくてあれこれ弄った結果、琥珀君と神楽がなんだか当て馬っぽくて
自分の腕の無さが恨めしいです。
どちらのキャラも好きなので、シリーズを続けるうちにきちんと進むお話の中で
修正していきたいと思います。
  



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