【 胡蝶の夢 】
「おや、まだこんなものが残っていたのか」
今まで気づかずにいたそれを目にし、ふとその者の手が止まる。
「さて、これをどうしてやろうか……」
小さく呟きつつ、その頬には明らかに企みありげな笑みが浮かんでいた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「りん様、りん姫様! どうなさいました? 心ここにあらずなお顔をなさってましたよ」
釆女の香花が声をかけた。香花が仕えるりん姫は右大臣の幼い末の姫。姉姫達が父や兄の後押しをするように次々と宮中に入内するような、そんな格式高い貴族の姫でありながら、どこか素朴な風を漂わせる幼い姫であった。
幼いとは言え、高位の姫君。すでに今上帝の第三皇子の許に入内する運びになっていた。会った事も話したこともない相手、着々と進む入内の準備や運び込まれる婚礼の装備一式を前にしても、実感が伴わないのは仕方がない。
「ねぇ、香花。りんは入内して、何をすればいいの?」
「それは背の君であられる皇子様に恋のお歌を送り、綺麗に着飾って良い匂いの香を焚いて、皇子様が大好きだとお伝えする事です」
「どうして?」
「皇子様には他にもお妃様方がおられるからですね。その方々よりも、もっと可愛がっていただくために」
「……可愛がるって、りんは猫や小鳥じゃないけど」
「ええ、それはそうです。猫や小鳥じゃ皇子様の御子は望めませんからね。幸い先に入内されたお妃様方にはお子は未だですし、大きな声では申せませんが、どうやらあまり皇子様のお気に召すお妃様方ではないようなのです。どのお妃様も年の頃は十五を過ぎたばかりの、花の盛りの姫君ばかりなのですが」
言外にある含みを持たせたその言葉。もっと立ち入った情報も知ってはいるが、ここでそれを話しても姫の心象が良くなる訳はないだろう。今も昔も女性の情報伝達力の凄さは変らない。情報一つで政敵を葬る事も出来るのだ。
「……そんなにお好みに煩い皇子様なら、りんみたいな子どもなんて最初から相手にされないよ。うん、知ってるんだ。りんがみそかっすだっていうのは」
りん姫の素朴さの秘密はそこだった。
りん姫の生母は貴族の姫ではない、この屋敷に仕えていた下働きの娘。その娘は右大臣家当主のお手が付いて身籠った時に、わずかな供を付けられて都から追い払われた。婚姻政策華やかな今の世情だからこそ、「姫」は言わば切り札のような存在。やったりもらったりで、政治の勢力図が大きく動く。ならば切り札は多いほうが良いという訳で、本当なら母親ともども鄙びた田舎で暮らしていたほうがずっと幸せだったのに、いきなり都に呼び寄せられたのだ。
「……皇子様が、りん様を見初めたのですよ。どうやら当代流行の源氏の君に倣いたいようですけど」
てきぱきと片付け物をしながら、香花はくちさもなくそんな事を話して聞かせる。
「皇子様にすれば、りん姫様をお手元でお育てになりたかったようなのですが、こちらの右大臣様がそんなまどろっこしい真似は止めてくれと。養女にするならする、妻にするならするとはっきりして欲しいと言上したようです。向こうにしても養女とは言え、自分の娘に手を付けるような皇子との悪評は避けたいですしね」
せっかく伏せていた事をついしゃべってしまう香花は、あまり釆女向きではないかもしれない。
「……そんなぁ、りんの気持ちは?」
そう言うのも判らなくはない。しかし、ここは貴族の姫に生まれた不運と諦めてもらうしかないだろう。相手を選べる状況ではないのだから。
「酌んでもらえる訳はありません。今、りん姫様にお好きな殿方が居ないのなら、それを幸いとお思いなさいませ。りん姫様も皇子様にお会いになれば、お好きになるかもしれません」
りん姫の胸に湧きあがるのは、なんとも言いがたい違和感。
違う、違う! そうじゃないと叫び出したい。
別にりん姫も歳が違うとか身分が高貴なお方だからとかで、怖気ている訳ではない。なんと言うか…、『りん』と言う自分は二の次で『幼い姫』であれば手元で寵愛したいという、その皇子の気風に嫌なものを感じるのだ。
同じような条件でも、本当に互いが必要だと思える相手ならきっとこんな風には感じない。
「明日は宮中で初見の儀が執り行なわれます。りん姫様入内はその後の吉日を選んでの事になりますから、もうすぐですよ」
自分の知らない所でどんどん話が進んでゆく。それに自分に好きな人がいない訳じゃない。それが誰か今は『なぜか』思い出せないけど、でも確かに自分には物凄く好きで大切で、自分の全てを投げ出しても構わないほどの相手がいる事だけはずっしりと胸に感じていた。
そう、思うだけで胸が苦しくて体中が熱くなるような、『誰か』――――
翌日、宮中に上がる。
初めて拝謁した自分の夫になる皇子を見ても、りん姫の胸はときめかない。むしろここまできても、どうにかして逃げ出せないものかと顔を曇らせる。
「鷹狩りの折に見かけたあどけない鄙の姫君が、婚礼を前に憂いを深めてより美しくなられましたな。そんな顔をされると、入内まで待てそうにありません」
それはりん姫の父である右大臣への謎賭け。
変った性癖と好色の気がある皇子の。
大臣になるほどのタヌキならば、その謎賭けの意味も勿論明白。
「なに、憂いとな? あいや、これはこれは……。入内の準備に追われ、姫も疲れておるようじゃ。もしお許しが頂けるのであれば、本日は宮中の我が房にて休ませて帰りたいと思いまする」
そう申し出られてりん姫は、宮中の右大臣家の房に一人残されてしまった。夜は更け、本当に疲れからうとうととまどろむりん姫は、急に胸が苦しくなって目が覚めた。開いた瞳に映ったのは淫猥な笑みを浮かべた皇子の顔。押し倒され、緋袴の帯に手をかけられ ――――
「いやッっ―――!! せっ……!!!」
なぜか、その先の言葉が出てこない。
「……何をしている」
りん姫の耳に冷たく響くその声。
その声を聞いた瞬間、りん姫の胸は高鳴り体の奥の奥から熱いものが湧き出し迸る。目の前を白銀の光が遮り、りん姫の上に圧し掛かっていた皇子はその者の腕の一振りで吹き飛ばされていた。
「なっ、なに奴!! 私を皇子と知っての狼藉かっっ!」
「……人間のなにそれなど知ろうとは思わぬ。私の女に手を出す愚か者を葬るまで」
すらりと伸びた指の関節が、ばきりと不気味な音を立てる。余りにも高飛車なその台詞。殴られ吹き飛ばされた衝撃から覚めつつあった皇子は、自分の目の前にいる者の正体を、この時ようやく悟った。
煌く白銀の髪、金色の夜目に鋭い獣の眸。尖った耳と酷薄そうな薄い唇から覗く牙は肉食獣のそれ。長く伸びた爪は、刃のように肉を切り裂く。
「おのれ、妖か!! 姫に懸想して、宮中にまで乗り込んでくるとは! 姫は私の妃となる身、お前のような妖に穢させはせぬ!!」
「……穢す? 笑止な。これはすでに私のもの。そうだな、りん」
りん、と呼ばれてりん姫はその妖の差し出した手に縋る。
「いつまでもこんな所にいては馬鹿らしい。行くぞ、りん」
「はい、はい! 殺生丸様!!」
あの時、出てこなかったその名前がするりとりん姫の唇から零れ落ちた。愛しい妖の腕に抱かれ寝殿造りの渡り廊下の欄干から屋根に、屋根から月の美しい空へと飛翔する。しっかりと抱き寄せられた腕の感触は、りん姫も良く知っているもの。
―――― 愛しい想いと、狂おしい想い。自分の身を満たす、その熱さと一緒に。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
じじじっと妖しい薄紫の焔を発して、紙片が焼け落ちた。
さらさらさらと、筆が走る ――――
「りんちゃん! りんちゃん、大丈夫!?」
うっすらと目を開けると、そこには心配そうに覗き込むかごめ様の顔が見えた。
「あれ? あたし、夢を見ていたのかな? そうだよね、りんがお姫様なんておかしいよね」
「りんちゃん、急に倒れちゃうんだもん。びっくりしたわ」
いつの間にかあたしは楓様の小屋に寝かされていた。かごめ様がここに嫁いでこられて、早二年。今では犬夜叉様との間に可愛いお子まで設けられ、母上様となられている。幸せそうなそのお姿を見るたびに、りんもそうなりたいと願うばかり。
でも ――――
きっと、まだ早いのだろう。
時折村を訪ねてくださるだけで、決して留まろうとはなさらない殺生丸様。
いつまでこんな風なのだろう?
りんも、いつかは……
( あれ? そう言えば夢の中のりんは今よりも小さかったけど、でもあのりんは殺生丸様と…… )
思い出すと、ぼっと体中が熱くなる。
その感じがあまりにも実に迫っていて、本当はどうなのか判らなくなってきた。
夢に見たことなのか、実際に自分の身の上に起こったことなのか?
一度宿ったその熱さは、なかなか消え去ろうとはしなかった。
「おい、りんが倒れたって?」
山向こうの長者様の屋敷の妖怪退治に出かけられていた、犬夜叉様と弥勒様がお戻りになる。お二人ともりんの事をとてもよく可愛がってくださっていた。犬夜叉様は、あたしの身に何かあるとこの村が潰されると仰って。弥勒様はよくりんの事を凄い凄いと褒めてくださって、いつまでもそのままのりんでいなさいと仰ってくださる。
「どうした? 病気か怪我か?」
大きな声でそう言いながらりんに近付こうとして、ぴたりと犬夜叉様の足が止まった。まるで信じられないモノを見たかのように、殺生丸様と同じ金の眸を見開いて。
「……そんな、まさか。俺がここを出た時には、そんな匂いはしなかったのに ―――― 」
「どうしたのです? 犬夜叉」
犬夜叉様の只ならぬ様子に、弥勒様が声をかけられる。
「あ、うん、その……。おい、かごめ。ちょっとここに来い」
かごめ様も不思議そうなお顔で犬夜叉様のお側へ。犬夜叉様はお二人を、楓様の小屋の外へと連れ出した。
「どうしたのよ? 犬夜叉。鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をして」
「まさかりんが倒れたのは、何か悪い病のせいでとか?」
落ち着かぬげな犬夜叉の様子に、弥勒は薄暗い予感を胸に抱いた。
「なぁ、かごめ。俺達が妖怪退治に出たあとに、あいつがここに来たのか?」
「あいつって…、殺生丸?」
「ああ、そうだ」
犬夜叉がかごめを見つめる眸は真剣そのもの。かごめも何か重大な事が起きたのだと直感した。
「……いいえ、来てないわ。来たのは…、もう二月も前かしら?」
「二月前…、じゃぁその時か? 月計算は合うが、しかしそんな素振りも気配もまったくなかったぞっっ!?」
「犬夜叉、お前何を一人で判っているのですか?」
犬夜叉を見つめる四つの瞳。隠してそれで済むものでもない事は、今では一人児の親となった犬夜叉には良く判っている。
「……俺にも信じられない事だが、りんが孕んでる」
間違っても犬夜叉はこの手の冗談を口にするような事はない。何よりその驚いたような表情が、それが事実だと証明していた。殺生丸の名が出たのが気になって、そっと小屋の外を伺っていたりん。
「あ、あたしが?」
当事者であるりん自身も目をぱちくりとさせている。
「りんちゃん、いつの間に…。ううん、叱りはしないから本当の事を言ってね」
「かごめ様……」
何も判ってはないだろうりんには罪はない。
いや、この場合それを『罪』と言ってしまっては、自分達も立場がない。しかし、なんの準備も心積もりもないままに、そんな事態になってしまうのはやはり許せないと思ってしまう。
「本当にそうなの? りんちゃんのお腹の赤ちゃんの父親は殺生丸なの?」
「わ、判りません……。だってあたし、どうしたらややが出来るかなんて判らないし。でもそうなったらいいなって、ずっと思っていました」
「りんちゃん……」
りんの純朴さを思うと、時を待たずに手を出した殺生丸への怒りはさらに増す。
「判らねぇ…。どー考えても判らねぇっっ!! 俺達が村を留守にした二日前まではそんな様子はこれっぽっちもなかったのに、、それなのにどーしていきなり腹ボテになってんだっ!?」
「犬夜叉……」
「それは…、お前が気づかなかっただけでは?」
一番納得がいかない顔をして憤慨している犬夜叉に、かごめと弥勒はそれぞれ声をかけた。
「有り得ねぇっっ!! 俺の犬妖の鼻をみくびるな! かごめの時だって、俺の方が先に気づいたんだぞ?」
「いや、それはお前とかごめ様が夫婦だからで……」
「あいつがりんに手ぇ出せば、俺が気付かない訳がねぇ! あれだけの妖気を完全に消せる訳もなければ、あの高慢な匂いを消せるはずもない。外からなのか内裡(うち)からなのか、判断できないほどぼんくらじゃないからな」
「えっ? それって、じゃまだ… って事?」
ますます訳の判らなさに、そこに居た三人は互いの顔を見合わせた。
「え〜と、あまりにも荒唐無稽な事なのですが、もしや強大な力を持つ妖は直接女人の身に触れる事無く自分の子を宿らせる事が出来るとかは……」
「そんな馬鹿な! そんな話、聞いたこともねぇ……」
「でも、犬夜叉……」
かごめも半信半疑な顔で犬夜叉を見ている。
「俺、確かめてくる!!」
戻ってきたばかりではあったけど、そう言い置くと犬夜叉はその鼻の力を最大限に発揮して、この村に通える範囲にいるだろう自分の兄を捜しに飛び出していった。
その後ろ姿をどきどきした気持ちでりんが見送る。あの夢でみた小さな姫が感じていた身の内の仄かな熱さをりんは感じていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
小さな音を立てて、紙片が灰になる。
さらさらと筆の音。
犬夜叉は地を飛ぶような速さで駈けながら、殺生丸を捜した。その途中でぐにゃりと空間と風景が歪んだような気がしたが、それは自分の気が動転しているからだと思った。
とにかく、あいつを探し出さねば!! ――――
探し出して、それからどうする?
どう、切り出せばいい?
こんな事になって、これからりんをどう扱うつもりなのか、それを聞き出さねばとてもかごめ達の所へは戻れない。
どこだ!?
どこにいる!!
どうして、お前はりんを ――――
ぐるぐると混乱した犬夜叉の頭の中、不意にその匂いは犬夜叉の嗅覚に飛び込んできた。その匂いを手繰って犬夜叉が駈ける、駈ける。次第にその匂いの種類が増えてきた事に、犬夜叉は気づいた。殺生丸の匂いだけではない、その中には自分が良く知っている匂いも幾つも含まれていた。匂いの種類の多さは、その先にある物や生きている物の多さを物語る。
( ……? どうしてこの先からあいつ等の匂いがするんだ? それにこの雑多な匂い。まるでかごめの国に初めて行った時のようだな。まぁ、あれほど強烈ではないけど )
不思議な気持ちを抱えたまま、ひときわ明るい場所に躍り出るように犬夜叉は飛び込んでいった。目の前の開けた光景に一瞬、犬夜叉はたじろぐ。
にぎやかな声、行き交う人々。そこは自分が知る楓の村とも人が集まる市とも違い、城下町のような、それとも少し違う繁栄振り。人々の顔には笑顔があふれ、忙しさの中に力強さを感じる。
「ここは、どこだ?」
犬夜叉の風体を気にする者はない。台詞のない芝居の通行人のように犬夜叉の側を通り過ぎてゆくだけ。そして犬夜叉は、その視線の先に信じられないものを見た。
「かごめ…。それに、殺生丸?」
自分の視界の先には、自分が良く見知った顔ぶれが揃っている。
捜していた自分の兄、殺生丸だけでなく下僕の邪見やりん。その隣にはかごめや珊瑚、七宝に琥珀に弥勒まで顔を揃えている。何よりも違和感を覚えるのはその面々が茶店の前の長いすに腰をかけ、茶とみたらし団子を美味そうにぱくついている様にだった。茶店の横の路地から元気そうな子ども達が駈けて来て、その隣を通り抜けて行く。ちらりと犬夜叉の視界に入ったその様子は、楓の村の粗末な小屋よりはいくぶんかマシな作りの家が軒を並べていた。
「遅かったわね、犬夜叉。あんまり遅いから、先に食べちゃったわよ」
すました顔でかごめがお茶をすすりながらそう言う。見ると皿の上には団子の串が一本だけ残っていた。それを邪見と七宝が睨みあっている。いつの間にか少女姿に戻ったりんがちらちらと気になる素振りでそんな二人を見ていた。
殺生丸が有無を言わせぬ態度で皿から串を取り上げ、りんの手に渡す。相変わらず顔色一つ表情一つ動かさぬままに。りんはそんな無愛想な主にこれ以上はない飛び切りの笑顔を見せて、それからその団子を手に犬夜叉の前に立った。
「はい、犬夜叉様。とっても美味しいよ」
呆然としながらその団子を受け取る。そして、りんのその姿を見て思わず尋ねずにはいられなかった。
「りん、お前… 腹の中の赤ん坊はどうした? それに、その姿は……」
言った途端、物凄い勢いで殺生丸に張り倒された。びっくりする仲間達の顔と、小首をかしげるりんと明らかに不機嫌な色を浮かべている殺生丸と。
「……なんだかそんな夢を見たような気がするけど、りんはまだ子どもだし。犬夜叉様も夢を見たの?」
「夢? あれが夢なのか!? いや、でも…、俺には今のこの有様の方が夢のような気がする……」
狐につままれたような、いや確かにこの場には狐妖怪の七宝がいるが、そんな表情で犬夜叉は周りを見回した。ふと、殺生丸の表情の微かな変化に犬夜叉は気づく。
「……お前も気付いたか」
「なんだ? なんの事だ!?」
なにか思わせぶりなその言葉。不可解さは更に増す。
「……どういうつもりか知らぬが、ふざけた真似を ―――― 」
ぎらりと光る殺生丸の鋭い眸。その眸はあらぬ方向を怒りを込めて睨みつけていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
はらりと足元におちた紙片は細かな灰となって霧散した。
「ほぅ、気付きおったか。ならば少し事を急ぐか」
白魚のような指先には天竺渡りの象牙の軸にしなやかさと切れの良さが絶品な、最高品種の妖貂の穂先の細筆。それに薄墨を含ませ、さらりと書き出そうとして人の悪い笑みを浮かべた。
「そうじゃのぅ…、次はあれが言うたとおりふざけた真似にしよう」
さらさらさらと筆を走らせた。
「……今度はなんだ」
更に不機嫌さを増して殺生丸は呟いた。情景は一転し、そこは現在自分が住まいとしている屋敷。それには間違いないのだが、いるはずのりんが側にいない。それだけでもう、名前を出すのも忌まわしい相手の手の内に落ちた事を悟っていた。
立派なそして重厚な作りの自室にある鏡に自分の姿を映してみれば、幾分か自分の姿も若いような気がする。
「殺生丸様、朝食の支度が整いました。今日は生徒総会があるとの事でしたので、早めに用意させていただきました」
ドアの外から聞こえるのは邪見の声。
「にしても生徒会長の任もあと少しですな。殺生丸様の後任の会長が見劣りしそうで少々哀れですなぁ」
殺生丸命な邪見は、主自慢が過ぎて暴言を吐く事もある。そしてその言葉で殺生丸は、この『場』での自分の役回りを察した。
( ……だいぶ現実(リアル)に近付いたようだが、まだ何かあるな。どうにかして、あれの許へ行く算段をせねば )
暗転するたびに、時代は過去から順行してきてはいるがまだ現実ではない。誰が仕組んだ事かは見当がついている…、いや! あいつしかいないであろう!!
己の生母にして、最悪最凶の大女妖。
天空の城主、先の狛妃。
どうやら『場』が変るたびに、他の者たちはその筋書き通りに動くようだが、その書割の外を感知できる者もいるようだ。
自分とりんと犬夜叉。
それは『書き手』が熟知している登場人物だからかもしれない。
「り〜ん、学校行こう!」
日暮神社の一人娘のりんを迎えに来たのは、幼馴染で一学年上の琥珀。その琥珀をりんの父親であり、境内を掃除していた日暮神社の神主でもある草太が愛想よく迎え入れた。
「いつもりんが世話になるな、琥珀。どうかりんに悪い虫が付かぬよう学校でも見張っていて欲しい」
「悪い虫って…、大丈夫ですよ! 生徒会長の殺生丸様が睨みを利かせていますから、りんにちょっかいかけるような馬鹿はこの辺り一帯にはいないですよ」
そう、りんも次期生徒会役員で書記を務めることになっている。半ば生徒会長に引っ張り込まれるような形で。
「……ああ、殺生丸様、か。後で俺も学校の保護者会代表で学校の方に顔を出すからと会長に伝えておいてくれ。くれぐれもウチの娘に変な真似はするなと釘をさしておかないとな」
「会長は立派な方ですよ? りんも満更じゃないし、幼馴染の俺としては悔しいけど、良い組み合わせだと思うけどなぁ」
琥珀の言葉に、草太は手にしたシダ箒の柄を静かにへし折った。
二人を見送ると、すぐさま自分も着替えてこっそり後をついてゆく。直々自分も顔を出して釘をさしもするが、その前にどこまでの仲か確かめておいたほうがいいだろう。
男としての勘が殺生丸の本気を察知していたが、りんの方がどこまでか? そこが気になる点であった。そう気にしてないのに、周りが反対した事が逆効果でかえって煽ってしまう事もある。りんにそこまでの気がないのに、無理に迫るような奴なら父親の権利で排除してやる!!
……だけどりんが心底好きな相手なら、それはそれで考えてやりたい。
姉の、かごめの苦悩振りを知っている自分だから。
生徒総会の準備で、生徒会役員も忙しい。一年生でまだ良く仕事の内容も判ってないりんも見習いがてらよく生徒会室に顔を出していた。この高校の役員選挙は前任者の在任期間中に行われるのが伝統だった。前役員がそのまま留任する事もあれば、現役員の推薦を受けてそれが承認される形ですんなり決まる事もある。その結果、ロスの少ない選挙でスムーズな生徒会運営を行っていた。
今日の生徒総会は、旧役員から新役員への引継ぎのためのもの。今日を過ぎれば、旧役員達の出入りも少なくなる。それは現生徒会長の殺生丸にしてもそうだった。
ふっと生徒会室に人影が途切れ、気が付くとそこには殺生丸とりんだけが残っていた。手駒にされるのは腹立たしいが、それでもこんな場面を演出しなければ同じ視点で見ることは叶わなかったりんの学生服姿に満更ではない感慨を抱く。
「……今日の総会が終ったら、もうここへはあまり顔を出されないんですよね」
「前任者がのさばるのは、後任のためにならぬからな」
必要な書類を揃えながら、りんがぽつりと寂しそうにつぶやく。
「……寂しいな。ここでお会いできるのが、りんの楽しみだったから ―――― 」
「ここでしか会えぬ訳ではあるまい。お前が望むなら、私の屋敷にお前がくればいい」
「殺生丸様……」
りんの細い手首を取り、りんの体を引き寄せ ――――
「ちょっと、待ったっっ―――!!!!」
生徒会室のガラス戸を手荒く引き開け、鬼のような形相でその場を睨み付ける草太。
「りん、お前には言ってなかったがおとーさんには姉さんがいた。美人で自慢の姉さんだった。その姉さんが家族よりも大事と駆け落ちした相手が、そいつと同じ白銀髪の金瞳野郎だったんだっっ!!! それがねーちゃんにとっては幸せだと、弟だった俺は諦めることも出来た!」
「…お、お父さん……?」
「だけど! 娘となったら、話は別だっっ!! りんと結婚したかったら今自分が持っている何もかもを捨てて、俺の神社の跡を取れっっ! 話はそれからだ!!」
まだ何か言いかけているりんの手をがしっと取ると、そのまま日暮神社へと連れて帰ってしました。りんがびっくりしているのもそのままに、物置から大きなシャベルを持ち出すと封印を施している祠の横を物凄い勢いで掘り始める。
「な、何しているの? おとーさんっっ!?」
「ああ、あいつがお前と結婚したかったら、この神社の跡を取り婿養子になるか道はない。もしあいつがお前をここから連れ出そうものなら、この穴に埋めてやる!!」
娘馬鹿な父親のクソ力、穴はみるみる深くなってゆく。このままほっておいたら地球の裏側まで掘り抜いてしまうかもしれない。
後を追ってきた殺生丸がご神木の下で、忌々しげに呟いた。
「……茶番だ。茶番過ぎて……、いい加減にしろ! 母上っっ!!」
殺生丸は強く念じる。
自分の思惑とは違う自分を『演じ』させられる事に抗う為に。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「おお恐や。さて、そろそろこの遊びも仕舞いにするか。では最後はどうしてやろう」
愛すべき息子の怒りの波動を受けても、この泰然ぶり。きっと世界中の誰をもってしても、このご母堂の暴走を止める事は出来ないだろう。なにか閃いたのか、子どものように無邪気なと言いたい所だが、歳経た大妖だけに邪気たっぷりな笑みを浮かべてぽつりと次の課題を思いつく。
「そうじゃ、たまにはあれの焦った顔も見たいものよな」
明らかに度の過ぎた悪戯との自覚を持ちつつ、ご母堂は手にした妖之誓紙(あやしのせいし)に流麗な文字を書き付けた。
「うう〜ん、なんだか頭が痛い」
自分の傍らでりんが小さく呻く。
無理もないと思う。
薄々勘付いていた自分でさえ、この変異に振り回されてかなり頭に来ている。
「……もう少し休んでいろ」
「休んで? じゃ、やっぱり今までの色々あったことは『夢』なのかな?」
りんはかけてもらったその言葉に、いやその声の持ち主の存在にほっと気が緩むのを感じた。言葉の意味が少しずつ染みこんできて、今自分が広い寝台の上に横たわっている事にようやく気付いた。
「あれ、ここは一体……」
「……どうやら母上の城の中らしい」
怒りの焔を揺れめかせ、金の眸であたりを睨み付ける。平安時代から現代までの脈絡のない一幕芝居の戯作者は、間違いなく己の生母。それに気付き、場合によっては流血沙汰も致し方ないと思っていたその思いが届いたのか、それともこれも母の筋書きか? 舞台はその母の住まう城内に移っている。
「ご母堂様の? それならもう大丈夫だね。なんだかいっぺんに色んな夢を見すぎて車酔いしたみたいな気分」
「大丈夫、か。そんな甘い玉ではないだろう、あれは!」
「じゃ、これも夢? また何か起こるの?」
ぶるっとりんが身を震わせた。
見る夢がどんなに面白く楽しい夢でも、『夢』と自覚してそれから覚める事が出来ない不気味さは、上手く言葉にあらわせない。りんのそんな不安を感じ取り殺生丸はそっとりんの体を抱き寄せた。りんの今の姿は、丁度十五・六歳。ほんの少し前の夢の中のりんと変らない。それから判断するに、『現在』はかなり『現実(リアル)』に近いのだと感じていた。
あの夢の中と違うのは、自分がずっとこの現代まで生き抜いて来た事と、りんの父親は間違ってもあのかごめの弟ではない! という事実。孤児になっていたりんを探し出し、自分の屋敷に引き取って時が満ちるのを待っていた。それを今更邪魔しようというのか、あの母はっっ!!
戦国の世なら、とうの昔に妻にしていた。それを今生の、今の世に倣いりんが十六の歳を迎えるまで待っていたというのに。
「殺生丸様……」
腕の中のりんの温もりが心地よい。柔らかさと肉の薄さと骨の細さまで感じられて、もっと知りたいとそう思う。見上げるように顔を向けたりんの少し開いた小さな唇の赤さに、逆らう気持ちは微塵も湧かなかった。
「りん」
「殺生丸様、あたし……」
時が止まり、また動き出した時、りんの全身は真っ赤に染め上がっていた。昔、まだ幼すぎてなぜそんな事をするのか判らなかった時には、ただ嬉しいだけだった。大好きな妖に触れてもらえることが。
今は恥ずかしくて、でも嬉しい。
少女のまま時を止めてしまったあの時よりも、今生のりんは乙女の時を生きている。やがてそれは成熟した『女性』への時間に変るのだろう。
「ここで待っていろ、りん。話をつけてくる」
「はい」
念の為、部屋の扉に結界を施す。自分以上の妖力の持ち主でなければ解けないほどの強力な結界を。その後で殺生丸は、この人… いや妖騒がせの張本人であるこの城の主の元へと足音も荒く向かった。
りんが殺生丸の背を見送り、足音が聞こえなくなって暫く後、とんとんと落ち着いた調子でその扉が叩かれた。びくっとりんは身構え、扉を凝視する。もう一度、とんとんと扉が叩かれ、今度は控え目な丁寧な語調で声をかけられた。
「……主の命にてお伺いしました。こちらにりん様はおいででございますか?」
声の主は若いはっきりとした綺麗な声をしていた。りんは自分の名前を出されて、さらに身構える。
「主よりお届け物がございます。りん様ご在室でありますなら、どうぞここを開けてくださいませ」
殺生丸の声音とは違うが、扉の向こうの者の声も魅惑的な響きを持っていた。引き込まれるようにふっと、りんは返事を返していた。
「ごめんなさい。この扉は殺生丸様が封印をかけてしまわれたから、きっとりんでも開けられないと思うの。殺生丸様が戻ってこられるまで待っててください」
「ありがとうございます、りん様。りん様のそのお返事が、この扉の鍵でございます。では、主の命により入室いたします」
殺生丸かそれ以上の者でないと開くはずのない扉が、見えない手で左右に開かれた。開く扉の中央には目の高さに何かを捧げ持った、歳若い美貌の妖が微笑みながら立っていた。殺生丸よりも幾分か若く見えるが、その姿勢の良さ美しさは勝るとも劣らない。すらりとした体つき、この城の主の好みを知ってかどこか異国めいた服装が不思議な雰囲気を醸し出す。殺生丸との大きな違いは、殺生丸が輝くような白銀の長髪なのに対し、この妖は艶やかな漆黒の短髪であるというところか。魔力とも妖力ともつかないその眸に魅入られ、りんは意識に霞がかかるような気がした。
自分が施した結界が解かれたのも気付かず、殺生丸は母の居るこの城の執務室へと急ぐ。あまりこの城に足を運んだ事はないが、そんな事は殺生丸の能力からすればなんの障害にもならない。すぐにもこの馬鹿げた騒動の落とし前を着けさせるべく、親を親とも思わぬ気迫で先を進む。
が、進むうちに殺生丸は自分が迷路の中に誘い込まれた事に気付いた。行けども行けども、母の許に辿り着けない。自分の五感・六感を研ぎ澄ましても肝心な所ですぃとはぐらかされる。今自分の取っている行動そのものが母の罠だと気付いた瞬間、殺生丸は光の速さでりんの元へと駆け戻った。
案の定、自分が施した結界は解かれ扉は開いたままになっていた。りんの身に何かっ!? と焦る気持ちを抱えた殺生丸の眸に飛び込んできた情景は、頬を赤らめたりんの細く華奢な半裸姿とその背後に立つ若い妖の姿。
りーんっっ!! ―――――
殺生丸の怒気が、あたりの空間全てを鳴動させた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「ほほほっ、ああ面白いものを見せてもろうた。そうか、あれはあんな風に焼き餅をやくのか。強制的に『夢』を終了させおってそろそろ現実的にも血相を変えてここに乗り込んできそうじゃな」
ご母堂の足元には今まさに、大きな焔をあげて燃え尽きる妖之誓紙が落ちていた。ご母堂の手にはもう一枚、同じ誓紙が残っていた。それにさらさらさらと何事か書き付ける。
「母上っっ!! 一体、これはなんの悪ふざけだ!」
自分の屋敷で目覚め、今度こそ本当に夢ではないだろうと判断した殺生丸が、置いてきて何かあっては大変とりんまで同道して、ご母堂の言葉通りご母堂の屋敷に乗り込んできた。
ご母堂は物好きが嵩じて、今は人間の世界の神の住まわぬ鎮守の杜の中に屋敷を構えている。この屋敷と天空の城は特別の扉で繋がっていた。今でいうところのセレブ然とした風情でご母堂は、大理石張りの床の自分の部屋で悠然と構えて待っていた。
「折角地上にも住まいを設けたというに、顔も見せぬからこうして呼び出したまでの事」
「母上が人間の世界に興味を持たれる必要もなかろう! さっさと天空の城に帰られよ!!」
「いやじゃ。お前はからかい甲斐があるからのぅ。それにりんは愛らしいし、妾の退屈もしのげるというもの」
なぜかりんを気に入ったらしいご母堂が、りんには優しく微笑みかける。
「……ご母堂様、りんは恐かったです。夢の中でまた夢を見て。どれが本当か判らなくなるのはとっても恐いです」
りんも殺生丸ほどではないが、この一連の筋書きの主演を務めさせられてきてなにか変だとは思っていた。それの仕掛け人がこのご母堂様なら、やはり一言言っておきたい。
「それは恐がらせて済まなんだ。りんや、お前大事で『場』を作ってみたのだが、やはり『虚』は『虚』に過ぎぬな。足元のなさが、その恐ろしさの元であろうな」
「ご母堂様……」
りんは素直だからつい、ご母堂の口車に乗せられそうに見え、殺生丸が二人の間に入り込む。
「なぜ! こんな馬鹿げた真似を!?」
「ふふ。こちらに居を構えた折に、こんなモノを見つけてな。妖であれ人であれ、心悪しき者の手に落ちれば、どれほど大きな禍を呼ぶか判らぬゆえ妾の手で処分していたのじゃ」
そう言いながら、手にした一枚の紙を殺生丸の目の前でひらひらとさせる。
「それは、一体……?」
「お前もこれは知らぬと見える。これは『妖之誓紙』と言う。この誓紙は書かれた事柄を、どんな願いも誓いも必ず実現させるそれは恐ろしいモノなのじゃ」
「恐ろしい?」
りんが意味が飲み込めず、疑問をそのまま口にする。
「そう。例えばこの誓紙に誰かが空から星が降ってくるようにと願えばその通りになる。大きな地震が起こると願って書けばばそれもしかり。さらに志を立て、一角のものになる! と書き込み、それを行うものには望みは叶うが、行わざるものは報復を受ける。徒(あだ)や疎かに願いや誓いをかけてはならぬ妖の誓紙よ」
「……そんな物騒なもので、私たちを弄んだ訳か! 母上、その報いご自身の身で受ける覚悟があってのことだろうな!!」
「そんなに危ないモノなら、なんにもせずに破っちゃうとか燃やしてしまうとかすれば良かったのに」
当事者だから、この発言は当然の権利。
「これは白紙のままでは決して破く事も、燃やすことも出来ぬ。故に、あまり害のない願いを書いて処分していたのだ。願いが叶うたびにこれは燃え尽き灰になる」
しれ〜と、悪びれもせずにそう言い放つ。
「ご主人様。お言い付けのお衣装、お持ちしました」
全てはご母堂の思惑通り。扉の向こうからかけられた声に、びくっとりんが反応した。
「りん?」
目敏くそれに気付き、殺生丸が声をかける。
「……これも、また『夢』なのかも……」
りんの動揺を横目で見、ご母堂が声をかけた者に中へ入るようにと指示をする。かしこまった様子で中に入ってきたのは、あのりんに言い寄っていたように見えた若い妖。ざわりと殺生丸の気配が殺気立つ。
「……物騒なのは、いったいどっちじゃ。安心せよ、これはこう見えても女には妖であろうと人間であろうと興味を持たぬゆえ」
別の意味で、空気がざわりと蠢く。
「ご主人様、『男も』と言う言葉が抜けております」
こんな些細なことまでからかいの種にする。よほど退屈していたのだろう。
「おお、そうか。で、殺生丸。これが何か判るか?」
先ほどの、ひらひらとさせていた誓紙を猫に玉でも取らせるような仕草で、殺生丸の目の前でちらつかせる。動体視力に優れている殺生丸の眸は、その紙面にすでに何事か書き込まれている事を判別していた。
「母上! この上まだ、我等をからかわれるおつもりか!!」
今度こそ、殺生丸の爪に妖光がともる。
「りん、これはお前に授けよう。この花嫁衣裳と共にな」
「ご母堂様?」
そうしてりんは思い出す。
あの夢の中で、りんがあの妖の前で半裸状態だったその訳を。
そう、あの時りんはこのウェディングドレスを着せてもらうところだったのだ。
「何を、いったい……」
純白のシルクのドレスの上に置かれた、古式ゆかしい誓紙の文面に殺生丸は視線を走らせた。
そこには ――――
結婚許可証。
西国狛主殺生丸、人娘俗名りん。
両名の婚姻をここに末代まで許すものなり。
営々とその魂が続く限り、巡り逢い添い続けるものとする。
西国狛王妃記
「楽しませてもらったからな、その礼じゃ。その誓紙の力は身に染みてよう判っておるじゃろう」
りんが考え深そうな表情で、何か言おうとして口ごもる。
「りん? 何か言いたい事があるのか?」
「あ、あの…。お許しは嬉しいけど、でもそれも『夢』なのでしょう?」
「夢などではない、現実じゃ。今生ではこうして添うことが出来た。では、来世では? 来世での出逢いをも現実のものとするための誓紙。お前達が今生の出逢いだけでもう良い、果たされたと思えばこの誓紙は燃え尽きて灰になろう」
言わばこの誓紙は、未来でも殺生丸と出逢い結婚できるという確約の証。
その言葉を聞いても、りんの表情は冴えない。むしろもっと困惑気な風でさえある。りんの表情を見、その胸の中を酌んだ殺生丸が誓紙を花嫁衣裳の上から取り上げると気合を込めた。見ればたちまちのうちに誓紙は薄紫の焔を上げて、それこそ灰も残さず燃え尽きる。
「殺生丸!?」
「殺生丸様!!」
「……こういう事だろう、りん」
「はい、はい! そうです、そうです殺生丸様!!」
ウェディングドレスだけは気に入ったのかりんに持たせ、あとは何も言わずにさっさとその場を引き上げようとする。
「どういうつもりだ? 母が折角許可証を記したと言うに、それを妖気で燃やしてしまうとは…。今生の出逢いだけで、お前はもう良いのか?」
「……私とりんとの間に、どんな力も誰の介入も許しはしない! 私たちの事は、これからもこれより先も自分達の想いと力と、この手で掴み取る!!」
それは何に誓うよりも強い、二人の誓い。
ご母堂は、そんな二人を愛しげに見送る。
この二人ならば何度死別を繰り返そうとも、決して切れることはない絆がある事に安心して。
りんを見る殺生丸の眸のなんと雄々しく慈愛に満ちた光を湛える様になったことか。力なき人の子の身で妖に添うりんの笑顔のなんと眩しいことか。ご母堂は母らしい事はなにもしなかったが、自分の息子の側に在り続けてくれるりんを宝のように思うのであった。
心こそ、宝。
想いこそ、未来 ――――
ご母堂の心は十分に満たされていた。
【終】
2008.11.12脱稿
= あとがき =
30万HIT感謝&サイト開設5周年記念の企画作品、「お題であそぼ」です。
投稿頂いたお題はこちら ↓
それを一本のお話に無理やり(笑)まとめてみました。
こんなスタイルでSSを書いたのは初めての体験でした。頂いたお題ごとのお話ではありません。いつもと違う展開ですが楽しんでいただけたでしょうか?
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
花紋茶寮管理人 杜瑞生 拝
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