【 夜来香 】



*原作要素を織り交ぜた現代版パラレルです。パラレルの為現代設定での登場キャラには固有名称がありません。
死にネタが苦手、ハッピーエンドじゃないと後味が悪くて… という傾向の方は避けた方がいいかも知れません。



 あたりはうっそうと茂った木々。夏でもその輝くような太陽の光は、葉脈を通した緑の雨のようにしか地に射さず、夜ともなればなぜか急激に下がる気温に霧が湧き月の光が幽遠な陰を遊ばせる。
 その霧越しに見える、古びた洋館。白い夜花が微かな燐光を発し、その庭を望むサンルーム。ラタン製のチェストとガラスのテーブル、そしてカウチの上で絡む白い影が二つ。

 小さな影と大きな影。

 大きな影は夕刻、この辺りに迷い込んだ旅行者のもの。
 山中で明かりもない夜半、ふと目にした光と庭に咲く花の香りに導かれた。
 何もかもが曖昧な妖光のなか、誘蛾灯に招かれたように。


 ―――― こんな山の中だから、なんのおもてなしも出来ないの。

 ―――― だから……


 山の中、古びた洋館に住む少女。
 白い質素なワンピースとクセのある髪を一束括っただけの飾り気の無い様子。
 少女の背後には生活感のない室内、この少女の他に人の気配は無い。
 それだけでもう、只者ではないと旅行者の男は気付いた。

 気付いたが、体はその少女の黒い潤んだような瞳に呪縛され、招かれるままにサンルームへと案内された。カウチの側に連れて行かれ、衣服を脱がされる。少女も全て脱ぐと自分からカウチに横たわり、男を差し招いた。甘い不思議な香りがサンルームいっぱいに立ち込め、さらに男の意識は遠くなる。少女の肌にはしっとりとした滑らかさと、肉の薄い華奢な骨の存在を感じさせる柔らかさがあった。触れたら離したくなくなるような、引き込まれるような、そんな少女の体に男がのめりこむのはあっと言う間だった。

 ―――― ごめんなさい。

 ―――― あたし、ずっとずっと待っている方がいるの。その方にもう一度逢えるまで、あたしはここにいなくてはならないの。

 ―――― でもその方かどうかは、触れてもらわないとあたしにも判らない。

 ―――― あなたは違う、ごめんなさい。あなたをこんな目に合わせてしまって……


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 年々暑さが酷くなる都心に、いい加減嫌気がさしてくる。
 
 夏休み初日、朝から焼け付くような日差しと都心にある割には広い敷地を持つ庭から聞こえる蝉の大合唱に辟易しながら、リビングで気だるげに朝の新聞を広げた。新聞の地方版の記事の片隅に、山で遭難したらしき男の記事が載っていた。なぜか全裸でひどく衰弱した状態で発見され、病院に運ばれたが回復する事無くそのまま死亡とある。冬山で全裸の凍死体というのは寒さの中で錯乱した場合ありえる事だが、夏山でそれもそう高山ともいえない場所でのそんな状態が不可解だなと、少し気になった。記事ではその事には触れず、登山の際には十分の準備と無理のない計画でと締めていた。

「兄貴〜、もう大学は休みに入ったんだろ? なら、親父の別荘に出かけようぜ!」

 高校生の弟が分不相応にも彼女が出来たらしく、この夏休みはどこかに出かけたくて仕方がないらしい。両親共に世界を相手に渡り合う実業家であるため、別荘がいくつあっても家族でゆっくり楽しんだ事などない。自立心を養うためと言うお題目で、放任主義がまかり通っていた。

「……女連れか、お前は。高校生の分際でいいご身分だな」
「なっ!? そんな事、高校生でも大学生でも変らないだろっ!? 悔しかったらお前も、彼女を連れてくりゃいいじゃねーか!」
「興味ない」

 と、心底興味無げに言い捨てる。その返事に、弟が眉を顰めた。

「きょーみないってさぁ、お前ほんっとうに大丈夫か? 俺の彼女がさぁ、お前の事心配してたぜ。もしかして、アレの方じゃないのかって」

 言葉を濁した『アレ』が何を意味しているのか察し、はなはだ不愉快になってくる。

「今までに私にそんな素振りがあったというのか。お前のような盛りの付いたガキに言われたくはない。煩わしいからお前達だけで行けと言う所だったが、大人として監視の必要がありそうだな」
「な、ななんだよ! その言い草!! 俺とあいつがまるで、その…、あれみたいじゃないかっっ!」
「ふ…ん。下心なしと言い切れるのか」

 図星だったのか言われた方はぐっと詰まったまま、う〜う〜と赤くなっている。

「ははは、朝っぱらからとんだ兄弟ゲンカだな。まぁその彼女がそーゆー疑いをかけたくなるのも判るさ。こいつは口は悪いが見た目が眉目秀麗頭脳明晰を絵に描いたような奴だからな。そんな奴にいつまでも決まった彼女がいないときたら、な」
「そう! そうだよなっっ!! いい年して彼女の一人や二人いないって方が絶対おかしいよな!?」

 幼稚舎以来の腐れ縁、大学も同期の悪友の参戦で一気にこちらの分が悪くなる。付き合いが長いせいで、人の家でさえ我が物顔で闊歩する。

「俺の彼女もこいつの彼女に誘われてたからな、俺からも話を通しておこうと思ったて訳で」

 つまり、ダブルデートの場所を提供しろと言う訳だ。それこそ面白くも無い、成人済みの保護者もいるなら勝手に行けばよい。

「でもマジな話、男に興味が無いのは当然でも女にも興味が無いって、どんだけ淡白なんだ? なぁ、あんたもそう思うよな?」
「ん〜、まぁ女に興味が無い訳じゃなさそうだぞ? ただ、その対象が物凄く狭いってだけでな」
「対象が狭いって、なんだその自分と釣り合うほどの美人で才女じゃなきゃ見向きもしないってのか?」

 あらためて、私の姿を頭の天辺から足の先までまじまじと眺めまわす。自分の弟ながら、その不躾さが癇に障る。弟の美人で才女、の言葉に悪友が苦笑いを浮かべている。

「狭いのはその、『年齢』だ。なぜか知らんがこいつは幼稚園の頃からある一定年齢の子にしか興味を示さないんだ。今となっては、犯罪になるからな」

 ちっ、と舌打ちする。
 そこらあたりの変態と一緒にされたくはない。その『年齢』であれば誰でも良い訳ではない。自分の中の勘のようなものに反応するのが、その『年齢』と言う事に過ぎないのだ。そして今まで誰もが、自分が探していた誰でもなかった。

「俺、身内からその手の犯罪者を出すのは嫌だぜ。彼女からドン引きされっちまう!!」

 そこまで言われて、こいつらの監視をするのも馬鹿らしい。夏らしく盛るだけ盛ってくれば良いだろう。私は別荘の鍵を一つリビングの壁から取り外し、無造作にテーブルの上に投げ出した。鍵は丁度先ほどまで読んでいた新聞の上に落ちた。

「別荘の鍵はそれだ。勝手に使え」
「お前は来ないのか」
「馬鹿らしい、付き合いきれん」
「来ないなら来なくても良いけどさ。それよりこの鍵、どこの別荘の鍵だ?」

 と問われて、そう言えば先ほど読んだ記事の場所とあまり離れていない事に思い至った。

「山で遭難した場合、冬なら錯乱の挙句の全裸の凍死体も判らん訳じゃないが、夏の場合だと……」

 不可解に思ったその問いが、ふと口から漏れる。その言葉を聞きつけたのか、悪友がざっと新聞紙面に目を通す。

「ああ、この記事か。あれ? この場所は確か昔からの言い伝えで、人間の命を奪う魔物の話がある所だな。民俗学の講義の時にそんな話を聞いたが」
「魔物?」
「ああ。まぁ雪女みたいなものだと思うが、なんでも見た目十二歳くらいの少女の姿をした魔物らしい」

 ぴくりと自分の中の何かが囁く。
 何かに急かされる様な、そんな不安めいたものが胸に湧く。

「…………………………」
「どうした? お前はそんな非科学的な事には興味ないだろ?」
「非科学的な事にはな。だが、その辺りを科学的に解明するのも暇つぶしになるか」
「そーゆーところは物好きだよな、お前って。まぁ、お互いそれぞれこの夏を楽しめりゃ構わない訳だし」

 別荘の鍵のキーホルダーに指を入れ、くるくる回していたのを横からすっと取り上げる。

「あっ! 何するんだよ!!」
「……いつ出発だ? それまで預かっておく。用意ができたら声をかけろ」

 それだけ言い置いて、私は自分の部屋へ戻った。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 私の運転する四駆車はナビ席にあの悪友を乗せ、後部座席に弟と彼女たちを乗せて山道を走っている。

「ねぇねぇ、別荘を使う為に形式上お兄さんも誘ってみる、って話だったでしょ? 多分、自分たちだけで勝手にいけってことになるからって。引率者なら成人済みの適任者がいるしって」

 そう小声で話しかける弟の彼女。私がいては、そう羽目もはずせないという訳か。

「ああ、物好きの虫が騒いだらしい。これも、あの新聞記事のせいだ」

 実の兄の手前、そうそう自分の彼女だからと恋愛モードになれないイライラさが声に滲んでいる。そんなことには一切構わず、私は別荘についてからの行動を頭の中で整理していた。
 別荘に着き、二組のカップルを下ろすとその足で近在の交番まで車を走らせる。途中の村落の店で、別荘への野菜や果物などの配達を頼んでゆく。別荘番には出かけると決めた時に連絡を入れているから、掃除や部屋の支度は出来ている。食糧も自宅から用意して持ち込んだものもあるが、日時を指定して届けさせるようにしたものもある。材料さえあれば女が二人もいるのだ、食事の支度ぐらいはどうとでもするだろう。

「おっ? あの事故の事を詳しく知りたいと?」

 交番所内には初老の人の良さそうな警察官が一人。

「山岳関係のサイトを運営しています。そこで夏山でも起こる遭難を予防するための記事として載せたいと思いまして」

 こんな嘘なら平気でつける。誰に迷惑がかかる訳でもない。無理に聞き出す訳でも、脅しているつもりもない。見た目の真面目さと、生れつき持っている有無を言わせない雰囲気とでその警察官は職務規定違反にならない範囲で、新聞記事には書かれていなかった事実を色々教えてくれた。

「この事故の被害者は全裸だとありましたが、やはり遭難の末の錯乱の結果ですか?」
「まぁ、あの状態で発見されたので遭難と言えば遭難だろうな。じゃが錯乱してかどうかは……」
「それは、なぜ?」
「……発見された近辺に纏まって衣服が落ちていた。そう、まるでそこでちゃんと脱いだような感じで。普通錯乱した状態であれば、脱いだ衣服も散乱しているのが相場なんでな」
「ふむ……」
「外傷も無しで全裸。普通遭難してと言うなら、どこかに擦り傷の一つでもあるもの」
「やはり普通ではない、と?」

 そこでこの初老の警察官は、少し声を潜めた。それから、内緒話でも聞かせるような身振りで付け加えた。

「……ここの土地の者は、花鬼に食われたとか言うておるが」
「花鬼?」
「この辺りの山中を夜彷徨うと、どこからともなく花の良い香りが漂ってくるらしい。その香りに惹かれて元を探してみると、古い屋敷があっての。そこの庭には月の光を受けて真っ白い花が咲き誇っている。花の香りで夢現になっていると、屋敷の中から白い服を着た一人の娘が手招いている」
「……………………」
「見つかった男達が裸なのは、まぁ、そう言う訳らしい。何でも男の精気を食う鬼と言う事だ。嘘か本当かは判らん」

 ぴく、とこの警察官の言った言葉に引っかかりを感じた。

「その詳しい話はどこから?」
「ああ、もうずっと昔からこの辺りでは、そんな行き倒れの記録が残っている。見つけた時には既に仏になっていた者もおるが、かろうじてまだ口の聞ける状態だった者もいたようだ。そんな者達の話を集めると、そうなるらしい」
「あなたはその話を信じているのですか?」
「まさか! 現職の警察官がそんな迷信めいた話を信じていたら、本当の事故や事件の真相を見落としてしまう」

 その警察官の答えに、私は満足する。

「では事件事故の発生する間隔と、被害にあう男達の共通点のようなものは?」

 夏場の怪談や都市伝説のようなホラーめいた話に惑わされて、本質を見失っては科学的解明など出来はしない。むしろ今の警察官の話に出てきた『花鬼』、いやその花そのものがこの事件の鍵かもしれない。

( 魔物とか鬼など、この現代に居る訳がない。むしろ新種の毒性植物かもしれないその花を、科学的に解明したほうが事件の解決になりそうだ )

 事件・事故の起きる間隔がある程度決まっていれば、その間隔でその花は咲くのだろう。花の香りに幻覚作用と催淫作用が含まれていれば、幻のその少女を相手に……。その花の咲いている時期に山に迷い込んだ者が被害に遭うのなら共通点はないか、あればそれをさらに解明することでここでのそんな事故を防げるかもしれない。

「事故の間隔と共通点、ですか? ちょっと待っといてください」

 交番の奥の資料ロッカーからなにやらごそごそと探し出し、二〜三冊のファイルを持ってきた。

「あ〜、事故の間隔はまちまちですな。十年以上ない時もあれば、一年で三人くらい被害に遭う事もある。それに季節も夏ばかりか、冬でもありますな」
「冬も?」
「被害者の共通点は…。おや、これは……」

 ファイルを繰っていた警察官が、ファイルから顔をあげて私の様子を改めてながめる。

「……不思議ですな。被害者はちょうど貴方のような年代の若い男性、体格も良く似ていますな」
「私が……」
「この花鬼に魅入られれると、必ず命を落とすとこの辺りの古老たちは言うとりますな。見つかった時には息のあった者も、みるみる枯れた花のように干からびて死んでしまうのじゃと」
「………………」
「あんたも、夜の山歩きは気をつけた方がいい。魅入られたら大変な事になるかもしれん」
「警察官である者が、そんな迷信めいた話を信じているとか?」

 先ほどの言葉を否定すような、警察官のその言葉。

「迷信でも迷信でなくとも、事故は起きらんほうがいい」

 私の言葉を皮肉と取ったのか、その警察官の口調が少しきつくなる。私はそろそろ引き上げ時だと、そう見計っていた。

「最後に一つ、お聞きしたい。その被害者が発見された近辺に普段見かけない草花のようなものが咲いていた、と言う事はないんだな?」
「ああ、ないね。男の裸の瀕死体があるだけでいつもとかわらん。そう、いつもの山の中とな」

 ここで聞きだせる情報は聞き出したと、私は交番を後にする。聞き出した内容がとても山岳事故防止に繋がるような内容ではないと苦笑いを浮かべながら、それはそれでまた筋が通るなと四駆車のハンドルを握った。

( ふ…ん、その村の古老とやらの話も聞いたほうが良さそうだな。しかし、被害者のまわりに花は無かったのか。とすると、次の可能性はなんだ? )

 別荘に戻ってみるとこちらに来る道すがら注文していた物が届いたようで、庭でバーべキューの準備が整いつつあった。その手伝いをしている小さな子どもは交番に行く途中で野菜などを頼んだ店の子のようだ。

「どうだった? なにか収穫はあったか」

 バーべキューの火熾しは私の弟に任せ、悪友は器用に食材を切り分け串を作っている。彼女たちはその悪友の指示の元、てきぱきとテーブルのセッティングをしていた。氷のたっぷり入った大理石のワインクーラーに赤ワインが二本、未成年者の為の百パーセント果汁のジュースなどと一緒に突っ込まれていた。ワイングラスとタンブラーも並べられている。
 私は赤ワインの一本に手を伸ばしコルク栓を抜くと、タンブラーにワインを注いだ。ほど良い冷たさが喉を潤し、その後で赤ワイン独特の渋さを味わう。

「お前が飲むとまるで水かジュースだな。足りなくなりそうだから別荘のワインセラーからもう一・二本追加のワインを出しておこう」
「収穫か。まぁ、魔物の名前が判ったのが収穫と言えば言えるか」
「ほう、魔物に名前があるとは。この辺りに結構根付いた話みたいだな」
「ああ、『花鬼』と言うらしい。少女の姿で花の香りで犠牲者を呼び寄せ食い殺す」

 私の横で持ってきた野菜の後片付けをしていた村の子が、そう言った私の顔を見上げてきた。

「……ご主人様は花鬼の事を調べてるんか? ならオラの家の婆ちゃんがよう知っているぞ?」
「お前の祖母が?」
「オラの家の婆ちゃんの先祖は巫女だったんだ。その巫女が花鬼の事を書き残した書付が神社に奉納されていたって」
「ああ、それは助かる。その文書を調べさせてもらえば、いつからその話がこの辺りに伝わり、もとはどんな内容だったのかがな」

 意外に身近な所での手がかりに、軽い脱力感のようなものを感じた。

「……焼けたよ、その書付。前の戦争の時に神社ごと。だから婆ちゃんの頭の中にしかもうないんだ」
「そうか。ならお前から明日にでも話を聞かせて欲しいと私が言っていたと伝えてくれないか」
「それは、いいけど。でも婆ちゃん、明日には遠くの病院に入院するんだ。もう歳だし、この暑さでずいぶん体が弱ったし」

 少し間を置き、考える。

「判った。今夜、もし時間が許すなら話してもらえないか、それだけ伝えておいてくれ」
「ああ、良いよ。婆ちゃん、話好きだからきっと喜ぶよ」

 小遣いにと、数枚の千円札を握らせる。ふっと気になり横を見てみると、自分があけたワインの残りを悪友が飲んでいた。軽く溜息をつく。食事の後の運転手をさせられぬよう、抜け目なく先手を打ったのだ。

( ……まぁ、歩いて行けない距離でない。夜更けの山歩きは、とあの警官は言っていたが )

 幾分かの自分への過信と、一人ではないという油断。


 ……いや、それもそう運命(さだめ)られていた事だったのかもしれない。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 食事を終え、庭のベーベキュー道具を片付けようとしたら時計は夜九時を回っていた。

「年寄りは夜が早い。お前は先に行け」

 先ほどの遣り取りを聞いていたのか、手際よく後片付けをしながらそう声をかけられた。

「こちらが片付いたら、俺達もすぐ行くさ。夏の夜話にうってつけの話のようだからな」
「肝試しのつもりか、お前は」
「ははは、それもまた夏の楽しみだろう」

 運転手にされるのを逃げるだけではなく、そこまで考えての事。怪談まがいの話を聞いた後に、それぞれの彼女をエスコートして夜の散歩を楽しもうという訳だ。

「……彼女たちはどうか判らぬが、お前も気をつけた方がいい。花鬼の好みは私たち年代の男らしいからな」

 一人先に送り出され、別荘からその村落までの二キロ足らずの山道を懐中電灯で照らしながら歩いてゆく。この道は昼間、車で二度往復した道。土地勘は良い方だ、初めての場所でも地図を見せられれば間違いなく目的地に着ける。いや、地図無しでも大抵はそうなる。まして一度通った道ならば、間違えることはない。

「 ―― !! ―― 」

 手にした懐中電灯の光の輪の外側で、何かが白く揺れた。低い草むらの中、ぽぅっと滲むように。最初ホタルの光かと思ったが、それは揺れはしても動いてはいなかった。風にあわせて草むらと一緒にそよぐのを見れば……。

( 花、か? 昼間通った時にはなかったはずだが…… )

 確認するために、道の脇に寄り草むらの中へ一歩足を踏み入れる。足元で星の形をした小さな白い花が一輪、震えるように咲いていた。

( もしやこれが、あの警官の言っていた花なのか? しかし、人を取り殺しそうなそんな妖艶な花とはとても思えん )

 花などにそう興味がある訳ではないから、花の種類は良く判らない。それでもこの目の前の小さな花はむしろ雑草と呼ばれる種類に近いものだろう。犠牲者を誘き寄せる花の香りも殆どしない。しばらくその花を見ていたがそれ以上の詮索は止め、その場から離れようとした時、ふっと懐中電灯の明かりが消えた。辺りは民家のない山道の途中。たちまち夏の夜の闇に包まれる。光が消えたおかげでその花が淡く発光していることに気付いた。
 暗闇に慣れ、闇の中でも感覚が働くようになってきた。ゆっくりと元の道へ戻ろうと、背を伸ばして辺りを見回す。足元の光と似た光を少し先で見つけた。固まっているその光、それを一つ見つけたら、さらにその奥にそんな光の塊がいくつもある事に気が付いた。

「……まるで誘導灯だな。さて、どうしたものか」

 その暗闇に加えて、ぽつりと雨まで落ちてきた。その雨に打たれて二つ三つ先の白い塊がごそりと動く。それと同時に小さな幼い声が聞こえた。

「あ、あの…、そこに誰かいますか?」

 白い花の塊が、まるで蝶の羽化のように一人の少女の姿に変る。あの警察官の話に聞いた年恰好の少女、着ているものまで同じような白いワンピース。私の中で激しく警鐘が鳴り響く。

「誰だ!」

 鋭い誰何の声に、その白い影がびくりと震えた。

「あ、あたし、迷ってしまって……。ここから動けなくなっています」

 夏の雨は突然強く降り出す。そんな遣り取りをしている間に、山の草木を叩く雨音に声などろくに聞こえなくなる。大きな稲光が一瞬、夜の闇を切り裂き雨に濡れた捨て猫のような少女の姿を浮かび上がらせた。雨に濡れて震えてはいるが、どこか芯のありそうな意思の強さを感じさせる。

( ……あの警察官の話だと鬼は男を銜え込んで食い殺す、か。まさか、この少女がそんな真似を? )

 野の花のような可憐さはあっても、男を惑わすような妖艶さとは程遠い。むしろ……

( 自分から面倒な事になると判っていてもそう決めたらやってしまいそうな、そんな感じの少女だな )

 また近くに雷が落ちたのか、先程よりもその辺りの様子がモノクロ画像のようにはっきりと浮かび上がった。白い花の塊の幾つか奥に、別荘か何かの建物の影をはっきりと捉える。さっき落ちた雷の音がごろごろと遠ざかる中、降る雨はさらに叩きつけるように大粒になってきた。

「怪我をしている訳じゃないな?」
「は、はい。迷っただけなので――― 」
「ならば私のあとを付いて来い」

 そう言うと、夜の暗闇と大雨の帳に隠されてしまった先ほどの建物らしき影に向かって私は歩きだした。
 雨が木々の枝や下草を叩く音が響く中、その少女が後からついてくる足音に耳をそばだてる。

 遠い遠い昔、こんな事がなかっただろうか?
 人のいない深い森の中、昼と言わず夜と言わずこうして歩いていたことが。
 野に棲み、獣のように ――――

 私のあとを付いてきた小さな足音。


 アレハ、誰ダ? ――――


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「よし! 後片付けも終ったし、煩い奴は先に行かせたし」

 未成年者の中の成年者、場を取り仕切るのに申し分のないこの男。

「お前さ、あいつを煙たがってとっとと追い出したんだな?」
「ん〜、まぁ大人の気遣いって奴だ。俺たちにはそれぞれ彼女がいるからな、それを独り身のあいつに見せ付けるのは品がないだろう」

 別荘の戸締りをして懐中電灯を持ち、あの野菜を届けてきてくれた子の家に向かう。時間的な差は三十分くらいか、そろそろあいつはあの子の家に着いた頃だろう。

「あいつは俺達が着くのを待っているような性格じゃないから、最初の方は聞き損なったな」
「大丈夫だろ? 相手はお年寄りだからなぁ、きっと二回でも三回でも話してくれるさ」

 まったく夏の夜の余興の一環としてしか、受け止めていなかった。

「あの、その話って怖い話ですか?」

 彼女の一人が、そう小さな声で尋ねた。

「怖い話というか、ん〜 昔話に近いと思う。流行の都市伝説よりはロマンがありそうだけどな」
「ロマン?」
「雪女の少女版、みたいな感じだから。その少女と一夜を共にした男はみんな死んでしまうオカルト系ロマン」
「そんなネタバレしちゃ、面白くねーじゃん」

 賑やかに言葉を交わしながら山道を通り過ぎてゆく。通り過ぎた山道の脇の草むらに、消えた懐中電灯が落ちていた事には気付かないままに。


「夜分すみません、大勢で押し掛けまして」

 野菜を届けに来た子の家の玄関で、そう挨拶をする。玄関先で迎えてくれたのは、あの子の母親と思われる女性だった。

「はいはい、話は聞いてます。おばあちゃんもまだ起きてますから、どうぞこちらへ」
「あれ? あの子は」
「昼間遊びすぎたせいか、夕飯を食べたらもうぐっすり眠ってしまって」

 離れに続く渡り廊下の薄暗い灯かりの下で和やかに笑みを浮かべその母親はそう言った。

「おばあちゃん、お客様ですよ。花鬼の話を聞きに来られましたよ」

 廊下の突き当たりの離れの障子に向かって、そう声をかける。中から良く聞き取れないしわがれた声が返ってきた。障子が開かれ、中には一人の老婆。居るはずのもう一人の姿を四人は探した。

「すみません、私たちの他に先に一人、こちらに伺ってませんか?」
「えっ? いいえ、あなた方だけですよ、今夜のお客様は」

 首を傾げられ、そう答えられる。それから付け足すようにその母親が言う。

「あの、うちのおばあちゃん、明日の朝入院なんです。なのであまり遅くまでは……」

 話好きなこの老婆の為に、一夜の観客代わりに訪れる事を許してもらったと言う事か。

「おい、どうする? あいつが来てないなんて……」
「うむ、迷いようもない道なんだがなぁ。でもこの貴重な話が聞けるのは今だけのようだし、あいつの替わりにしっかり聞いて帰ろう」

 未成年者の保護者代わりの悪友が、人当たりの良い笑顔を浮かべ、老婆の話を聞くために他の者を座らせ頭を下げさせた。



 いきなりの荒天、明かりは厚い雲の隙間から漏れる雷光のなんともいえない光と、時折落ちるフラッシュのような閃光。その僅かな明かりを頼りに、そこにどうにか辿り着く。先ほどの雷光の中に浮かび上がった、古びた洋館に。自分の後ろからあの少女の小さな足音がついてくるのを確認しながら。
 指先に硬く冷たい感触が伝わる。暗闇の中で入り口を探していると、すっと自分の横をすり抜けてあの少女がどこかの扉を開く蝶番の軋んだ音がした。

「ここが入り口です」

 自分の中に抑えようのない警戒心が湧いてくる。しかし、それ以上にこの少女そのものに強い関心が湧いていた。

( 一体何者なのだ、この少女は。やはりこの少女が、花鬼なのか? しかし ―――― )

 しかし、そう、なぜかこの場を離れられない自分がいる。
 もっと、この少女の事を知りたいと思う自分に気付く。

 この少女は自分がずっと探していた、『誰か』なのか ――――

「まだ雨は止みません。どうか、雨が上がるまではここに」

 そう言いながら少女は私を誘うように自分が先にたってその入り口を潜った。それを目で追っていた私は、この釈然としない疑問を抱えたまま雨の中を立ち尽くす。そして思い切ったようにその入り口を潜った。この疑問をそのままにして、元の場所へ引き返すのは自分の性分として許せなかった。
 少女は暗闇の中、勝手知るように壁際に近付き何かを引き出した。それを手に私の前に立つ。

「これをどうぞ。古い物ですが、濡れた体を拭くくらいの役にはたちます」

 その少女が渡したものは暗闇の中では何か判らなかったが、手触りは洗い晒した厚手の綿素材のような感じだった。

「ここは、お前の住まいか」

 私の問いは、その直後に近くに落ちた雷鳴に掻き消された。溢れる雷光に晒されて、自分のいる場所を把握した。荒れた庭とサンルーム、逆光で表情の見えない少女の体の輪郭が淡く光を発し、その光と同じものがそのサンルームの中にも庭にも溢れていた。
 私の眼を引き、気を引いたあの白い星の欠片のような野の花。

 サンルーム内に満ちる匂いに気付いたのはその時だった。あの時は感じなかった花の匂い…、いや、この匂いは ――――

「この匂いは、知っている……」

 思わず口から漏れる。
 少女は私から二・三歩距離を取り、そんな私の様子を大きな黒い瞳でじっと見ている。

「花が騒いで、あたしの心が騒いで……。だから、ここを出て森を歩いてみたの。そして、貴方にあった」
「何を言っている…?」
「貴方があたしの待っているあの方なら触れて欲しい。でも、そうじゃなかったら二度とここへ来てはダメ」
「………………」
「あたしは…、毒の花だから ―――― 」

 小さな体を雨に濡れた寒さとは別の理由で震わせ、ぎゅっとワンピースの裾を握り締め、私の次の言葉を怖れるように待っている。

 ああ、この瞳も知っている。
 私をいつも見つめていた、あの瞳。

 夏の太陽のような笑顔と、冬の雪のような儚さをこの『私』に教えて。
 手にした古布が足元に落ちる。稲光に照らされ、それが色あせた紅と白の市松格子の着物地だと知る。

 お前は ――――



 ほう、珍しい事もあるもんじゃ。
 花鬼の話を聞きに来なさったのか?

 そうじゃのう…、鬼は鬼でも、もとは人間の娘。
 余りにも長く生きてきたために元の名を知る者は居らぬ様になり、いつしか花鬼と呼ばれるようになったのじゃ。

 ん? なんで花鬼じゃと?
 白い花が咲くと、男が取って食われるようになったからじゃ。
 花は娘の分身のようなもの。
 人間であった時も、野の花のような娘であったという。

 娘はな、自分を残して逝ってしまった連れ合いを待って居るのじゃ。 
 人でないモノであった自分の夫をのぅ。
 娘の、その連れ合いに逢いたいと願う気持ちが花を咲かせる。
 娘の連れ合いは犬の物の怪。
 その香りで見つけて欲しかったんじゃろう。


 物の怪も娘も、それぞれが自分の住む世界の倫理(みち)を踏み外した者。
 

 ……天罰かもしれんな。

 人間の娘と懇ろになったとは言え、物の怪は物の怪。
 もとより冷酷非情、残虐非道な奴であった。
 殺戮欲が止まらずに、近在遠来の物の怪妖怪魑魅魍魎を殺しまわった挙句に自分も相打ちで死んでしもうたのじゃ。

 残された娘も悲惨であった。
 後を追うと何度自分の首に匕首を突き立ててても、死ぬ事もできぬ。
 物の怪の、娘を守りたい気持ちがそうさせていた。
 
 しかし、『ひと』としての暮らしも娘には出来なかった。
 笑顔が愛らしい娘であった。
 物の怪と死に別れた時、娘はまだ十分若かった。ようやく『娘』と言える年頃になったばかりであった。
 独り身になった娘に夜這いした男がいた。

 ……その男は朝には、どす黒く変わり果てた死体になっておった。娘の『毒』に中ったのじゃ。娘の毒は物の怪から注がれたもの。何度かそんな事があり、娘は山奥に隠れ棲むようになった。

 そうして、長い長い年月が過ぎて行った ――――


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「りん、か? お前は…、りんなのか?」

 自分の魂の奥の奥、ずっと封印されていたその名が口をつく。
 ああ、そうだ。
 私がずっと探していた『誰か』は、これだったのだ。

 判る――――

 私の奥底から湧き上がる衝動がなによりも『りん』を欲していた事を。
 判るのは、ただそれだけ。
 いつ『りん』と出会いどうして判れたのか、『りん』を前にした時に胸に湧きあがる衝動とは別に胸に落ちるこの影はなんなのか?

 欲しいと思う、この目の前の幼い少女を。
 それを理性と良識が、最大限の警鐘を打ち鳴らして押し留めようとしている。

「あぁぁぁ…、せ、殺生丸様っっ!!」

 そんな私の想いを突き崩すように、『りん』が私の胸に飛び込んでくる。殺生丸、それがりんお前に取っての私の名なのだな。
 無意識にりんの細い体を抱き締める。触れてしまえば私の五感の全てが『りん』の存在をはっきりと焼き付けていた。

「やっと、やっと逢える事ができました。りんはずっと信じていました。きっともう一度逢える! それだけを信じて今まで生きてきました」

 りんの小さな手が私の背中にしがみつく。
 濡れた互いの服地越しに伝わる体温が、服地の感触を溶かしてゆく。

「……今まで、生きて…?」

 りんの言葉に、不意に疑問を覚える。
 今までとは、一体……

「……殺生丸様は、今は人間になっておられるのですね。りんが昔殺生丸様と一緒だった頃は、殺生丸様はそれは立派な大妖怪でした。とても強くて優しくて」
「妖怪?」

 つきん、と記憶の片隅が錐で突かれた様に痛む。
 そして、そう言えばとおぼろげな記憶を意識の表層に滲ませる。

 腕の中のりんを、思いきり抱き締めたいと想っていた。
 妖怪の自分がそうすれば、なんの力もない人の子であるりんを壊し殺してしまうだろうと、怖れにも似た暗い愉悦じみた欲求。そう思うと同時に心にざらつくような感じを覚えたあれは、妖怪にあるまじき『罪悪感』か。

「はい、そしてりんをお嫁さんにしてくれました。りん、とっても嬉しくてもうそれだけで十分だったんです。それ以上は、人間だったりんには過ぎた事でした」
「お前はあの時のままのりん、か?」

 りんが私の胸元で、小さく頷くのを感じた。

「……邪見様が教えてくださいました。殺生丸様がりんの為に『蟲毒の術』を行ったのだと。そうして ―――― 」

 ―――― ああ、思い出した。

 私がりんを抱くたびに思うこと。
 この想いはりんの命を削るということ。
 どれほど愛しく思いその想いを互いに満たそうとも、その結果はりんの人の身に己の情と妖気と毒気を注ぐことに他ならない事を。

 一度目は天生牙で、二度目は母の持つ冥道石で、その命を繋いだりん。
 三度目はない、と釘をさされ ――――

 果てた命を繋ぐ術がないのであれば、果てないようにすれば良い。
 自分の持つ全ての妖力を注ぎ込んでも!

「お前の為に、数多の妖怪どもを血祭りにあげたのだったな」
「長かったです、もう気が遠くなるほどに長かった。こうしてお会いできる日までは、りんは死にたくても死ねませんでした」

 胸の下、りんが顔を押し付けた辺りが熱く濡れてくる。
 今こそ過去の憂いを投げ捨て、思いっきりりんの細い体を抱き締めた。



 なにもかもが、あの頃のままに。
 りんの華奢な体の線も、滑らかな肌も、胎内(なか)の熱さも。
 私の肌に零れる吐息と涙の熱さが、私の中の衝動を更に燃え上がらせる。

 今でも、この行為は罪だろう。

 幼いりんを抱く私は、きっと未来永劫罪人の烙印を押されている。
 それでも構わない。
 お前と共に在れるのであれば!!

「せ、せっ…しょ……まる、さまぁぁ…!!」

 甘い、甘いりんの声。
 あの花の香りは、お前の甘い蜜の香りと同じもの。
 私を蕩かせ、引きずり込む。

「りん、りんっっ!」

 ……愚かにも、私はこのりんを連れ、現実世界でこれからどう暮らしてゆこうかなどと甘い夢を見ていた。罪さえもねじ伏せ、倫理(みち)を曲げても、お前と共に ――――

「い、いか…せ……て…。お願…いっっ!! りんを、いかせ…てっっ!」

 私を包むりんの胎内が、腕の中のりんの体が灼熱の炎をあげるように熱くなる。小さな体のどこからこの力が出ているのかと思うほど、りんの小さな腕は私を力いっぱい抱き締め、胎内を締め付ける。
 りんから与えられた熱さに、自分の中の熱さが溶岩のように溢れ出す。
 全てが焼き尽くされて真っ白に、意識さえ飛ぶほどに。


 いつしか夜の雷雨は通り過ぎていた。
 雷雲が晴れ、庭の上に青い月が出ていた。
 その月の光に照らされて、庭にも、今自分たちがいるサンルームの中にも星のような白い野花が満開を迎えていた。花の香りにりんの濃密な香りが溶け込み、甘やかさに眩暈がしそうだ。人間の身になったとは言え、体格的にも差のある幼いりんを責めすぎた。りんが傍らで、息も絶え絶えで横たわっている。

「……もう少し、加減を覚えよう。りん、お前を壊してしまっては元も子もない」

 疲れの浮かんだ頬にそっと手を当て、汗なのか雨の名残りなのか濡れた前髪を払う。その私の手にりんが手を添え、指先をぎゅっと握る。

「ありがとうございます、殺生丸様。殺生丸様のお陰でりんは本当に幸せでした。殺生丸様が『りん』の名を呼んでくれたから、りんは人間に戻れました」
「りん?」
「……五百年は、長かったです。殺生丸様にお会いする前に、りんは何人もの男の人を殺してしまいました。誰もりんの名前を呼んでくれなかったから、抱かれるまでりんには判らなかったのです」
「りん……」
「りんを抱けるのは、殺生丸様だけです。りんの中に殺生丸様の毒があるから…」
「……………」
「ごめんなさい、殺生丸様。りんには、本当に判らなかったんです。花達が連れて来てくれた男の人が、転生された殺生丸様なのかどうなのかが ―――― 」

 何か冷たいものが喉の奥から込み上げてくる。

「最初に殺してしまった人は、無理やりりんを抱いた村の人でした。それで村には住めなくなって、邪見様と阿吽と一緒に山の奥に篭りました」

 何か恐ろしい気持ちを抱えながら身を起こし、上からりんの姿を見つめる。

「殺生丸様が今際の際だったから『蟲毒の術』が効いたのだと邪見様は仰いました。殺生丸様がりんに望んでくださったこと、共に永い時を渡ってゆける『命』をと」
「り…ん……」
「りんはいつか殺生丸様がまた、りんを見つけて下さる事を信じてずっと待っていました。それだけを念じていたある日、自分の足元にこの花が生えてきたのに気がつきました」
「殺生丸様がりんを抱くたびにりんの事を『野の花のようだ』と言っていたのを思い出しました。りんにはこの花がりんの分身のように思えたのです。この花に気付いて、この花の香りに誘われてきてくれる人こそ殺生丸様かもしれないと」

 もう、言葉がなかった。
 りんを、伝説の花鬼に変化させてしまったのが過去世の自分の想い故だったと知った今は……。
 ましてやその身を、他の男達に投じさせたのも ――――

 どれほどの失望と嫌悪感を、この無垢なりんに味あわせてきたのか。

「……だからもう逝かせてください、殺生丸様。りんにかけた『呪』を解いてください」
「りん……」
「人間に転生した殺生丸様、そのお姿を見てりんも安心してあの世に逝けます。今のりんは、人間の世界には棲めないモノ。殺してしまった罪も償わなくてはなりません」
「……そのままで、そのままでも構わん。私の側にいろっっ!!」

 りんはゆっくりと身を起こし、私を真正面から見つめた。

「それは、できません。今のあたしは不老不死のバケモノです。殺生丸様は今では人間として生きておられます。またあたしは置いてゆかれるのですか? 一人にならないといけないのですか?」
「りん、りんっ、りんっっ!!」

 今にも消えそうな、そんな儚い気をりんの姿から感じた。サンルームの庭の花々が一斉に淡い光を発し、あたりを薄青白い幽玄な色合いに染め上げる。その光がりんの体を包み、輪郭を曖昧にさせてゆく。

「もっと、りんの名前を呼んでください。呼ばれるたびに『呪』が解けて、五百年前のりんに人間だったりんに戻ってゆきます」

 死別を間近にりんの瞳に涙が浮かぶ。

「ゆくな、りん! どうしてっっ……!?」
「歪めてしまった理(ことわり)は正さねばなりません。でも、りんは怖くありません。今、りんの目の前に殺生丸様がいらっしゃるから。今生か来世か、またきっとりんは殺生丸様に出会います。今夜、こうして出会えたように。今度は同じ時を一緒に生きていられる者として」

 涙を浮かべたまま、りんが微笑んだ。
 深い深い愛ゆえの、美しい笑みだった。

 月が雲に翳り、光が途切れた。風に揺れるようにりんの姿がふっと揺れて…、雲が払われた時には、もうそこにはりんの姿はなかった。
 突風がサンルームの扉を開け放ち、花びらを巻き上げる。風が月にかかる雲を薙ぎ払ったのか、今までよりももっと鮮明な光が差してくる。突風と舞い散る花びらに視界を遮られていた自分の目に、今の周りの様子が映る。どこにも雨が降ったような様子はなく、今自分がいるサンルームも洋館もとうの昔に廃屋と化していた。窓ガラスは破れ床も朽ち、花は枯れ果て ――――

 庭も、枯れた花の塊が幾つも月影に点在している。

「夢、だったのか?」

 呆然としたまま、自分の手の中を見る。
 手の中には名も知らぬ、白い花の亡骸一つ。
 夜が来るたび香り、私を待っていた野の花一輪。

「りん、お前は逝ってしまったんだな」

 ずっと探していた『誰か』。
 それを手に入れた途端、永遠に失ってしまった。
 次にめぐり合えるのはいつなのか ――――


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「……ねぇ、さっき聞いた花鬼の話って、なんだか考えちゃうわね」
「うん、なんかたまらないよね。好きになった相手が物の怪だからって、そこまでひどい運命じゃなくてもさ」
「大好きなその物の怪を待ち続けて、たった一人で生きてって…。私なら寂しすぎて気が変になりそう」
「最初から一人ならある程度は耐えられるけど、途中で一人になっちゃたんだよね、その子。死ぬことも出来ないって、辛すぎるよ」

 彼女たちを先に行かせ、後ろを男二人で言葉もなく歩く。

「……結局、兄貴の奴来なかったな」
「ああ、どこへいったやら」

 沈黙が重苦しくて、そう声をかける。

「あの話、本当の事じゃないよな? 伝説なんてもんは大抵悲劇性があるもんだし」
「そう思った方が、気持ち的には救われるな。だけど、そうだな……」

 何か考えていることがあるのか、言葉を選び選び話を続けた。

「逢えればいいな、その待ち人に」
「逢って、どうするんだ? それでハッピーエンドになれるのか?」
「そして、その花鬼の伝説を終らせる。元の人間になるかもしれんし、やっと死ぬことが出来るかもしれん。どんな形でも終らなければ、次は始まらない」
「次?」

 首を傾げる、この兄の悪友は時々ものすごくロマンチストな事を言い出す。

「ああ、そうして初めからやり直せばいい。それだけの想いを持った二人だ、きっとまた逢える!」

 その声が前の二人にも聞こえたのか、こちらを振り返り頷く。

「そう、そうよね! やり直せばいいんだわ!」
「その二人が、早く出逢えることを祈りたいね」



 月の美しい夜に、荒れ果てた洋館の枯れた庭に佇む。

 どこにも雨が降ったような形跡はなく、先ほどまで自分がいたサンルームやそれに続く洋館を月光の下で眺める。ほんの少し前までの様子とはひどく異なり、ほんの一瞬で随分と時間が経ったのかと思うほど全体が朽ちていた。

 りんが去ってしまった今、この『殺生丸』としての記憶もこの庭に埋めてしまおう。
 時の果ての、この庭に。

 月の光が庭の片隅、朽ちた花の山から何かの光を反射させた。不思議に思い、そちらに足を向ける。草葉の陰から細長いものが突き出ていた。見たことのある巻き飾り、鍔の文様。引き抜くと、それは ――――

 天生牙 ――――

 見ている目の前で、それは刀身がほろほろと水晶の砂で出来たように崩れ枯れた花の上に零れ落ちた。

「……そうか、お前が今までりんを守っていたのか。その役目を終え、お前もまた ―――― 」

 全てが終ったと、感じていた。
 これから先、もう何も探すものはないと。


 ―――― 今生か来世か、またきっとりんは殺生丸様に出会います。


 皮肉めいた苦笑を浮かべ、一人呟く。

「そうだな。お前のその言葉を信じ、せめて今生では後ろ指を差されることのない生き方をしてみるか。お前に出会うためにな」

 手の中の枯れた花を天生牙の砂の上にそっと置き、その場を後にする。
 今生でのりんとの逢瀬を与えてくれた愛刀天生牙に感謝し、自分の手から去ってしまったりんをまた委ねて。

 
 誰ももう、いなかった。

 水晶の砂から、きらきらと光の珠が零れ落ちた。その光の珠がその枯れた花を包むと、枯れたはずの花が時を巻き戻すように蘇ってくる。ふっと落ちた砂が中空に向かって逆流し、それと同時に朽ちていた別荘やサンルームが復旧してゆく。

 どのくらい時を遡ったのかは定かではない。

 花が微笑むように揺れると一瞬光が瞬き、そして花も水晶の砂も消えた。
 消える瞬間、サンルームの中には二人の人影。


 りんと殺生丸 ――――


 時空を越えたあの逢瀬の、想いの残像。
 何もなくなったその場には、疾うの昔に朽ち果てた洋館の瓦礫が積まれているだけだった。


【終】
2008.8.12




= あとがき =

ようやく終りました。ちょっとした思い付きで書き始めたSSだったので、書いている途中で話の流れを整えるのに苦労しました。と言うか、かなりイミフな話かも^_^;
好きなんですね、こーゆーテイストの話。ノベルチェッカーに放り込むと、大抵ホラー判定をもらうので、今回はちょっとそのあたり意識しました。真夏の納涼系SSって事でv
 


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