【 美禄一献 】




 むかし、むかし。
 西国に、それはそれは大きくてとても強い化け犬がおりました。この化け犬には、この化け犬に相応しい大きくて美しいやはり化け犬のお妃がおりました。
 やがてこの二頭の間に、二親の血を色濃く受け継ぐ仔が生まれました ――――


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 殺生丸達は、冬の森の中を歩いていた。実りもたわわな秋ならば、この辺り一帯はそれはりんが目を輝かせるご馳走が山ほどあった事だろう。
 木の枝にある乾いた実だけでも、随分とその数が残っている。森の動物達でも食べ尽くせぬほどの豊穣さ。

「あ〜あ。残念だな。もう少し早くこの森に来ていれば、柿も栗も梨も野葡萄も柘榴も食べ放題だったのに」
「そういじましい事を言うな、りん! 乾いた木の実だけでも、十分にあるではないか。 旅の身であれば、よっぽどそちらの方がありがたい」

 確かに、それは邪見の言うとおりだ。
 生のままの実では、旅の間に腐らせもしようし荷にもなる。乾いた実であれば、そんな心配はない。

「うん、そうだね。それじゃ……、あれ?」

 乾いた野葡萄の実を取ろうと、葡萄の蔓が巻きついた大きな木の根元まで行った時、りんは鼻をひくひくとさせて、あたりをきょろきょろと見回した。

「どうしたんじゃ? りん。なにか、あるのか?」
「なんだか、物凄く良い匂いがするよ。これ、木の実の匂いかなぁ? なんだか、この匂いを嗅いでいると、ぽわんとした気分になってきた」
「なんじゃとっっ!? もしや、それは……」

 邪見の目付きが変わり、とととっとりんの言うその大木の下まで走ってきた。

「う〜む、この芳醇な香りは……」
「ね。良い匂いでしょ」

 りんの頬が、ほんのり桜色になっている。二人でその大木の周りを回ってみると、どうやらその匂いはこの木の根から一間半ばかり上の、枝が二股になっているあたりから漂ってくる。

「間違いない。この匂いは猿酒じゃ。でかしたぞ、りん!!」

 邪見はホクホク顔で近くの竹やぶに入ると、猿酒を汲むための竹筒を何本も切り出してきた。そして邪見が猿になったかのようにスルスルと木に登ると、二股枝の洞の中に切り出した竹筒を放り込み、中の猿酒を汲み上げはじめた。

「ほれ、りん。中身を零さぬように受け取れ」

 長めに切られた一節竹。上が開いたままなので、気をつけないと中身を零してしまう。

「邪見様ぁ、このままじゃ零れちゃうよ」

 りんが背伸びして腕を伸ばしても、届くか届かない程の高さから手渡される竹筒は、どうしても斜めに傾いで中身がぽとぽとと零れてしまう。

「そうか、それは勿体無いな。よし! ちょっと待ってろ!!」

 邪見はまたもスルスルと大木から下りると、今度は手近な真っ直ぐ伸びた木の枝を切り、小枝や葉を落として二寸ばかりの長さに刻む。それを懐にしまうと、またまたスススっと木に登った。

「……邪見様、こーゆー時だけ身軽だね。それに良く頭も回るし」
「何を言う! ワシはいつも身軽で気が利いておるぞ!!」

 ……それならば、どうしていつも殺生丸に足蹴にされたりするんだろうと、りんは胸の中で思った。

 こうして邪見は見つけた猿酒をどんどん汲み上げ、竹筒に木の枝で栓をしたものをりんに手渡す。十本ばかりりんが受け取った所で、りんが下から声をかけた。

「ねぇ、邪見様。これ、全部汲み上げて良いの? お酒を作った人が困るんじゃ……」
「馬鹿じゃな、りんは。これは猿酒と言うだけに、猿が集めた木の実が酒になったもの。集めた木の実を食べ忘れた猿如きに、文句を言われる筋合いはない」
「でも……」

 ああ、それでと、りんは納得した。
 実は、少し前から自分達を遠巻きにして、草薮からがさがさ音がしているのに気がついていた。小さくキィキィ言う声も聞こえるので、「猿かな?」とは思っていたのだ。

「あ。これ。りん! どこに行く!!」

 これ以上、猿の酒を勝手に持ち出すのは気が引けて、りんはその大木の下から離れて行った。下で受け取る者がいなくては、上で汲んでも下しようがない。投げ落とせば、木の枝の栓などすぐ外れてしまうだろうし、一本一本汲んでは木の上と下を行き来するのは面倒だ。

「ったく、勝手な事をしおって、りんの奴め!!」

 邪見も不満たらたらな態で、猿酒の木から下りていった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 
 りんは猿酒の入った竹筒を嬉しそうに殺生丸の元へ持っていった。これだけ良い香りのする酒だ。鼻の良い殺生丸が気付いていない訳はないだろう。この酒を自分達に汲ませる為に、ここに足を運んだのかも知れない。

「殺生丸様!! お酒です! 猿酒!!」

 そう言いながらりんは竹筒を殺生丸に差し出した。殺生丸が人間の食べ物を口にしないことは知っている。だけど、これは猿が作った猿の酒。こんなに美味しそうな良い香りがするお酒なら、殺生丸も飲んでくれるかとりんは思ったのだ。殺生丸は少し眉を潜め、それからそっけなく言った。

「……犬妖である私に、猿の酒をか」

 猿酒を殺生丸に勧めるりんを見て、慌てて邪見が飛んできた。

「申し訳ありません!! 殺生丸様! 殺生丸様が召し上がるのは、妖界でも名酒と名高い物ばかり。このような下賤なものを勧めるとは、失礼であろう! りん!!」

 へへぇ〜〜と、邪見は頭を下げ、隣にいるりんの頭まで一緒に下げさせた。

 犬猿の仲、という言葉がある。
 仲の悪い事の例えだ。
 猿酒が、どんなに甘くて美味い酒でも、我が主は絶対口にしないだろうと邪見は思った。実際、長年旅の供をしてきて、殺生丸が何か口にするところを見たことが無い。しかし、これだけの血筋の大妖怪。妖怪仲間の噂に聞けば、父である闘牙王は底なしのザルで、ご母堂様はそれに引けを取らぬ大うわばみ。この二親の血を引く殺生丸であれば、親をも凌ぐほどの大酒飲みに違いない。
 しかし、人間の世界には殺生丸が飲みたいと思うほどの美酒がない。そんな所に持ってきて、猿の酒を勧めるとは!! と邪見は思ったのだった。

「殺生丸様……」

 りんがしゅんとした顔で、殺生丸の様子を伺っている。

「猿の酒でも、寒さしのぎにはなる。お前達で飲め」

 ぽそっと、それだけ口に出す。
 りんにはその気持ちが嬉しくて、しょげた顔はたちまちにっこりとした笑顔に変わった。やっぱりりん達にこの猿酒を汲ませる為に、それもこれからの季節、寒さに震える自分達の為にここに連れて来てくださったのだと。気持ちを取り直したりんと邪見は、それから夕餉の食糧を集め始めた。乾いた木の実はりんが集め、邪見は近くの沢で川魚を捕る。阿吽は空から山鳩を追い、炎の息で軽く炙ってりんの目の前にぼとりと落とした。
 この夜の食事は、野宿にしては豪勢なものだった。捕れた川魚や山鳩を捌いて塩を振り、焚き火で丸焼きにする傍ら、竹筒を横に切った物の中にりんが集めた零余子(むかご)を水と少々の塩で炊く。零余子の蔓を手繰った先の土を掘り、山の芋も掘り出して、それは輪切りにして枝を刺し、焚き火にかざす。

「はぁ〜、良い匂いだねぇ、邪見様。りん、もうお腹がぐぅぐぅだよ」
「もうちっと待っておれ、りん。生焼けの肉を食うて腹を壊されては、ワシが殺生丸様からお叱りを受ける」

 支度が出来るまでりんは、先ほど集めてきた木の実を齧っていた。野葡萄の実はからからに乾いて甘さがぎゅっと濃くなっている。だけど、水気がない分、喉の渇きを癒すのには役に立たない。乾かずに枝に残っていた柿や梨は熟れ損ないなのか、硬く渋い水気しかなかった。焚き火の側にいてもこの季節、夜が更けると寒さが身に染む。喉が渇いても、沢の水を飲みに下りるのは億劫な気がした。ぶるっと震えて、くしゅんとくしゃみをしたりんに、邪見が声をかけた。

「寒いのか、りん? ならば、その猿の酒でも舐めていろ」
「これ、お酒でしょ? りん、子どもだよ?」
「構わん。寒さしのぎにと、殺生丸様が言っておったじゃろうが? ここで、もしお前に風邪でもひかせたら……」

 この先に続く言葉は、皆同じ。
 冬の寒さではないもので、邪見はぶるるっと身を震わせた。

「うん。じゃ……」

 飲みやすいようにと、竹を短く切った杯を邪見が差し出す。それに竹筒からほんの少し猿の酒を注ぎ、恐る恐るりんは舐めてみた。

「うわっ、これ、美味しいっっ!! 甘くて、とろりとして……」

 味が気に入ったのか、りんは杯をくいっと空けた。

「おお! 良い飲みっぷりじゃのぅ。猿酒は甘くて呑口は良いが、中々に強い酒じゃから、飲み過ぎないように気をつけるんじゃぞ」

 飲みっぷりの良さを褒められて、りんは乾いた喉を潤すために立て続けに杯を空けた。

「これこれ! 今、言うたばかりじゃろうがっっ!! そんなに急いて飲んでは、直ぐ酔いつぶれてしまうぞ。酒の毒は、後がキツイからのぅ」
「えっ、そうなの? これ、美味しいし、身体もポカポカして気持ち良いし、毒なんてないよ?」
「お前は酒を飲み初めの子どもだから、知らんのじゃ。酒の毒は、楽しさの後にやってくる。頭は割れるように痛いし、吐き気がして頭さえよう上げられん。身体も自分の物ではないように鉛の様に重くなるし、なにより怖いのは酔って、自分を無くす事じゃ」
「自分を無くす?」
「ああ。こう、日頃胸の中に収めている、言ってはならん、してはならん事を、つい…な。人生、棒に振る輩も多い」
「へぇ〜、そうなんだ。分かったよ、りんも気をつけるね」

 と、そう言いながらもお替りの杯を空けている。目元が潤み、頬もほんのり桜色に色づいてはいるが、話す言葉は明瞭で酔いが回っている風ではない。初めて酒を飲む子どもなら、それこそ顔を真っ赤にして、様子が変わってくる頃だ。だがりんは、あまり顔を赤くするような飲み口ではないようだ。

 ……もしかしたらりんは、酒豪なのかも知れない。

 そうして始まる小さな者同士の、ささやかな夜宴。
 猿酒が身に回るほどに身体の中から温かく、気持ちは陽気に、楽しくなってくる。ご馳走を食べ、調子っぱずれの歌を歌い、けらけらと笑いあっているうちにやがて二人とも気持ちよく寝入ってしまった。りんはよほど猿酒が気に入ったのか、酒の入った竹筒と竹の杯を抱えたままである。
 そんな様子を見るともなしに眺めていた殺生丸は、酔いが醒めたらりんの体が凍えるだろうと、腰を下ろしていた大木の根方からりんの側に寄り、その身を自分の妖毛に包み込む。その時、りんが手にしていた竹の杯がぽろりと落ちた。それを手に取り、殺生丸は一瞬躊躇うような眼をしたが、気持ち良さそうに寝入ったりんの顔を見、その杯にりんが手にしていた竹筒の酒を注ぎ呷った。

( 甘い…… )

 りんが一口飲んで気に入るのも無理ではないと納得する、甘い酒。
 もう一杯と、手酌で杯を重ねる。

 子どものりんでさえ、飲んでいた
 試してみるかと、口にした。
 竹筒半分ほどで、くらりと来た。

 酔ってはおらぬと自分で言い聞かせながらも、心地よい酔いが全身に広がるのを感じている。何年物の猿酒かは知らぬが、芳醇でこくのある香りが酔いを早める。

 いや。殺生丸を酔わせているのは、膝の上のりんの匂いかもしれない。
 酒に酔い、いつもより温かいりんの身体から立ち上る、甘く清々しい野の花のような匂い。

( よい匂いだな、りん )

 そう思った瞬間、顔を真っ赤にした殺生丸は、りんに覆いかぶさるようにして酔い潰れてしまった。

 殺生丸の腰の天生牙が、チリリリリっと小さく澄んだ音を立て、清らかな浄化の光が清水のせせらぎの様に溢れ出した。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「早く大きくなれ、殺生丸。俺はお前と酒を酌み交わす日が、今から待ち遠しくてたまらんぞ」

 二頭の大妖怪の間に生まれた、長男坊。
 二親譲りの容貌は、成長後の凛々しさ雄々しさを物語る。

「気の長い話よのぅ、闘牙。そんな先の話をせずとも、今からでも親子で飲めばよかろう」
「なに?」

 享楽さの権化のようなその妻が、かる〜くそう言い放つ。

「我等二人の間の仔ぞ? 乳の替わりに酒で育てても、なんら障りあるまい?」
「それも、そうだな。よし! 誰か、酒を持て!!」


 ……過ぎたるは、及ばざるが如し。


 赤子の時の大量飲酒が禍をなし、いつしか殺生丸の身体は酒を受け付けぬ身体になっていた。しかし、酒の美味さも、その酔い心地の甘美さも知っている。知ってはいても、無理をして飲んだ後の地獄を知っているだけに、そしてその間の無様な様子を知られるのは、霊峰並みに高い矜持を持っている殺生丸ゆえに、「口に合わぬ」と切り捨てて来たのだった。

 猿の酒で、酔い潰れたこの主従。

 天生牙の浄化の力が早いか、それともりん達が眼を覚ますのが早いか。
 それは天のみぞ知る話である。


【完】
2010.12.13



= あとがき =

先日の夜更かしチャットの際に、殺生丸はお酒に強いのか弱いのか? と言う話になりました。
「強い」という意見が多いなか、「弱い」とこんな萌シチュが拝めますよ〜♪ と殺生丸はお酒に弱い派支持の管理人さんの言葉。
それから、「もしも殺生丸がお酒に弱かったら」でチャットは大賑わいvvv
とても、楽しい話題でした。
その余韻が残っていたのか、突発でこのSSを書いてしまいました。
話題を振ってくださったモジャさん、ありがとうございました(^^♪



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