【 一期一会 】




 ここは骨喰いの井戸の側。

 何やら言い争う若い男女の声が響く。
 言い争う声の主は、言わずと知れた……。

「もう! どーしてあんたまで付いて来るのよっっ!!」
「どーしてって、かごめ。おめーだけ帰したら、何日でも戻って来ねーじゃねーか!」
「仕方ないでしょ。普段、欠席気味なんだから。帰った時に出席日数稼いどかなきゃ、受験浪人どころか中学生で留年よっっ!!」

 ……虚しさを感じながら、かごめは犬夜叉に言葉を投げつける。

 きっと、言ったって分かりはしないのだ。
 受験浪人や留年なんて言葉の意味は。

「いい? これ以上、付いて来るって言うなら、おす…」

 …わり、と言ってしまう前に犬夜叉の身はすでに井戸の中に投じられていた。

「…ん、もうっっ!! あんたが一緒だと、落ちついて勉強が出来ないのに。もう…、犬夜叉のバカ」

 バカ、と小さく呟いて、かごめも井戸へ身を投じる。

 自分の本来在るべき時代へ戻る為に。
 時の狭間を通り抜ける時に感じる、光の粒子と闇の階層の中でかごめは思う。

( 私は、あんたが側に居るとドキドキするのに、あんたは平気なの?
ねえ、犬夜叉 )


 そして ────

「いつもいつも思うんじゃが、どーしてああ大騒ぎせんとかごめは、国に帰れんのじゃろう?」
「七宝、あれはかごめちゃんのせいじゃないよ。誰かが、思いっきり、ガキっっ! って事さ」
「そうそう。後追いをして、母親を困らせる赤子のようなものですからね。かごめ様のお心が判ってはいない」

 面白い見せ物でも見るように弥勒を始め他の面々は物陰に見を潜め、事のやり取りを見守っていた。

「そうじゃな。かごめが勝手に、オラたちの側を離れる訳がないと言うに。なんで、こうどっしりと構えては居れんのじゃろう? 犬夜叉は」

 腕を組み考え込む七宝に、稚(おさ)ない者を見守る優しい光を注ぎながら、弥勒が小さな声で諭す。

「…七宝、お前にはまだまだ先の話でしょうが、結局、男は女子には敵わない、と言う事なのです。」

 その声は小さすぎて、届けたい者の耳には入りはしなかったのだけれども。やがてこの三人もその場を引き上げ、誰もいなくなる。


 が、しかし ────

( …確かに、見ましたぞ。あのかごめとやら言う奇天烈な形(なり)をした娘と、犬夜叉めが骨喰いの井戸に入るのを。これは早速、ご報告せねば )

 草陰を青黒い小さな影が、足早に走り去って行く。
 己が忠誠を誓う、冷酷な主の許へ。

 戦国時代の夜は早い。
 人工の明かりがないので、陽が暮れかければ人家から離れた井戸の辺りは一際暗さが増す。

 その妖しの井戸の側に立つ、一つの人影。

 自らが青白い冴え冴えとした、月のような妖光を発している。
 その足元に先程の青黒い影、邪見が控えている。

「間違いございませぬ、殺生丸様。あの犬夜叉めは、この井戸を通り、かごめとやら言う娘とどこへやら参っている様子。犬夜叉めが何かと力をつけてきているのは、そこに秘密があるのやも知れませぬ」

 邪見は得意満面で、そう報告する。

「…で、どこだ?」

 美しいが、聞く者を慄然とさせる声音。

「へっ? あ、ど、どこと申されましても…」
「確かめてないのか」

 邪見も長年殺生丸に仕えてきているが、声の調子で主の感情を図る事の難しさを痛感している。

「えっと、その〜、確かめると申されましてもこの井戸、別名『骨喰いの井戸』と申しまして、妖怪の亡骸を放り込んでおくと、いづこともなく運び去ってしまうという、げに恐ろしげな井戸にございますれば……」
「確かめろ」
「えっっ!! そ、そんな、わたくしが、でございますか?」
「他に誰が居る」

 この時になって邪見は、自分で自分の首を絞めていた事に気がついた。殺生丸のしなやかな指が邪見を事も無げに摘まみ上げ、無造作に井戸へ放り込む。

「せっ、殺生丸さまぁ〜」

 どんな所へ落ちてゆくのか判らず、恐怖で身を固くしていた邪見は強かに井戸の底に身体をぶつけ、きゅうと息を詰まらせる。
 その邪見の意識を取り戻させたのは、井戸の口から降ってくる冷たい殺生丸の声だった。

「何かあるか、邪見」

 その言葉に慌てて回りを見回し、そこが井戸の底に過ぎない事を確認する。

( …はて? 犬夜叉もあの娘も、常にここからどこぞに出入りしている風じゃったが、抜け道一つないとはどうした事じゃ? )

 そう理解ってはいても、足元に忍び寄る得体の知れぬ恐怖に、そそくさと蔦を頼りによじ登り、井戸の外へはい上がる。

「も、申し訳ございませぬ。殺生丸様。間違いなく、犬夜叉めがここに入るのを見たのでございますが…」
「……………」

 邪見が井戸に出入りして井戸の底の空気を動かした事で、殺生丸は全てを察していた。

 井戸の底に残る、犬夜叉とかごめの匂い。

 それがまだ、この井戸から出たものではない事を。
 何故その時、そんな気になったのか、殺生丸にも判らないだろう。
 井戸からはい上がった邪見と入れ違いで、殺生丸はその端麗な姿を妖しの井戸へと踊らせた。

「せっ、殺生丸様っっ!!」

 邪見の目は一瞬、不可思議な光に眩み、次に物が見えるようになった時、そこには殺生丸の姿はなかった。

「せ、殺生丸さま〜」

 暗い井戸の底へ、邪見の殺生丸を呼ばわる声が虚しく響く。

「邪見様。殺生丸様がどうしたの?」

 井戸に力なく取りすがる邪見の背後から、七つ・八つ程の少女が声をかける。

「ああ、りん、か」
「邪見様、殺生丸様は? 一緒じゃなかった?」

 小首を傾げ辺りを見回す少女、りん。

「そ、そうなのだ。りん、大変な事になってしまった。殺生丸様が消えてしまわれたのだ」

 一人、あたふたと井戸の回りを走り回る邪見。
 りんは井戸を覗き込み、それから邪見に言った。

「大丈夫だよ、邪見様。殺生丸様はきっとお戻りになる。それまでここで、待っていようよ」
「り…ん?」

 りんは井戸の側に腰を下ろすと綾糸を取り出し、一人綾取りを始める。
 小さく童歌を口ずさみながら。その様子は愛しい想い人を待つ、幼い恋娘のように邪見には見えた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 その頃、井戸の底に舞下りた筈の殺生丸は、自分の足が在るべきものを未だ踏みしめていない事に気付いていた。

 自分の回りを流れてゆく光の奔流、それが『時』の流れだとは知る由(よし)もないが、自分の棲む所と遙かに隔たった所で在る事は生来の鋭い感覚で察知していた。
 ようやく、いや、ほんの一瞬かも知れぬ。殺生丸の足先が、硬い何かを捉えた。

「……ここ、は?」

 同じ井戸の底である事は判っていた。だが、辺りを覆う風の匂いはほんのさっきまでと、全然違う。
 その中に、色濃く残る犬夜叉とかごめの匂いを探り当て、構える様子も見せずにふわりと地底より舞い上がる。
 井戸の外に出た途端、殺生丸の鋭い嗅覚を襲う異臭。眉を顰め、着物の袖で顔を覆う。

「…………ん?」

 異臭の中に犬夜叉でもない、もちろんかごめのものでもない、しかし確かにどこかで嗅いだ事のある匂いを見つけ出し、僅かに首を傾げる。殺生丸は、その匂いに導かれるように隠し井戸の祠(ほこら)の格子戸を開けた。

そして、二人は出逢う ────

「 ──── 殺生丸…」

 そこには箒で境内を掃き清めていた、かごめの ────

「…さん、ですね? 犬夜叉君のお兄さんの」

 犬夜叉の名を出され、必要以上に身構える。
 冷たい視線で睨(ね)めつけ、吐き捨てる。

「……あのような半妖の兄と呼ばれる筋合いはない。女、お前は誰だ?」

 その人は殺生丸の投げつける冷たい視線を柔らかく、ふうわりと受け止め微笑んだ。

「……母、です。かごめの」

 不思議な感覚だった。

( ……なぜ、この女は私を恐れぬ。なぜ…? )

 どう見てもただの人間にしか見えない、かごめの『母』と名乗るこの女。
 だが、本当にそうなのか?

 あのかごめの霊力を考えれば、何かそれに類する『力』を持っているのではないかと警戒を露にする。しかしそれには構わず、その女は言葉を続ける。

「御免なさいね。折角来て頂いたのに、犬夜叉君もかごめも出掛けちゃって…。もうじき帰ってくるとは思うので、どうぞ中で待っててくださいね」

 そう言いながら、無防備な背を見せ、奥へ案内しようとする。

( …私が何者か、理解ってないのか。この女は? )

 当然のような疑問が浮かぶが、あの犬夜叉の姿を見てその上であえて『兄』と呼ぶのなら、私が『人間』ではない事は理解っている筈。

「…女」
「はい?」

 振り向き、殺生丸を見つめるその瞳。
 優しさと慈しみと愛おしさ。
 それらが一つにないまぜになった、今まで見た事のない瞳の色。

「お前は…」
「どうぞ、いらして下さいな。折角、こうしてお逢い出来たのですから」

 …なぜか、女の言葉に逆らう事が出来ない。

 あれ程『他』と交わる事を、殊(こと)『人間』に関しては蔑み、見下してきた筈なのに。


 ──── 犬夜叉も、かごめが国に帰る時はあんなにも大騒ぎするくせに、『現代』(こちら)に来ればそれなりに、ちゃっかり楽しんでいたりもするのだ。

 勿論、全てを受け入れられる訳ではないのだが。

 初めてここへ来た時の、あまりにも大勢すぎる『人間』の匂い、胸が悪くなるような『四つ足の鉄の車』が出す臭い、そして圧倒的な圧力で迫って来る『食べ物』の匂い。
 はっきり言って、目が回りそうだった。
 もし、『匂い』に重さというものがあるのなら、あの時の衝撃は岩山一つ分とは言わないだろう。
 それでも、何度も通ううちに、『慣れ』てきた。町中を歩いても、目を回さない程度には。

「ねえ、犬夜叉。あんた、私が現代に帰るのあんなに嫌がるくせに、買い物に出て、一番喜んでるのはあんたじゃない」
「そ−かぁ? かごめが俺を荷物持ちにしてるだけじゃねーか」
「そりゃ、持ってもらわないと買い込めないもん。その分あんたの好きなものも買ったじゃない」

 夕日を背に、山ほどの荷物を抱えて引き上げてくる、かごめと犬夜叉。

 犬夜叉の腕には箱買いしたインスタント食品の数々。
 麺類は当然の事ながら、ペットボトル入りのお茶やジュースの類に大量の医薬品。他の皆の受けが良かったので、レトルトのカレーを選んだ時の犬夜叉の嫌そうな顔は中々の見物だった。
 以前、パン屋の前に張り付いていた事があるので、ただのパンより腹持ちのするハンバーガーを大量に買い込んでもいる。それからドーナッツも。
 それらの匂いに囲まれて、まんざらでもなさそうな表情の犬夜叉を見、これなら手にしたハンバーガーやドーナッツを七宝達への土産だと言って、戦国時代へ追い返せそうだとかごめは考えていた。

 長い神社の石段の下まで来て、ぴたりと犬夜叉の足が止まる。
 風上に顔を、つまり石段の上の方に向け、見えない何かを探るように索臭(さくしゅう)している。

「…どうしたの? 犬夜叉」

 その様子に気づき、かごめが声をかける。

「…胸糞悪い野郎の匂いがしやがる。まさかとは、思うがな」
「えっ? それって、まさか奈落…」
「いや、違う。まあ、俺にとっちゃ同じ位に嫌な相手だけどな」
「犬夜叉…」

 心配そうにかごめが犬夜叉を見つめる。
 この上にはかごめの家しかなく、今日は祖父は神社関係者の寄り合いに出掛け、弟の草太も友達の誕生会に招かれまだ帰ってはないはずだ。

 つまり、ママが一人で留守番をしているのだ。もし ────

「…俺の気のせいだろう。そんな事、ある訳ないからな。そう心配そうな顔すんな、かごめ」
「うん…」

 かごめを促し、石段を登る。
 一段登るごとにその『匂い』は強くなり、犬夜叉の不安は大きくなる。
 ただ、その匂いの他は異常な匂いは、そう恐怖に襲われた人間の出す汗の匂いや血の匂いなどがしないので、大丈夫だと自分に言い聞かせていた。

「…帰ってきたな」

 食卓の椅子に腰掛けていた殺生丸は呟いた。
 殺生丸の目の前に置かれた手つかずの茶器からは、ママが煎れた玉露の誉れ高い香りが漂っている。
 そこへ血相を変えた犬夜叉が飛び込んでくる。

「やっぱりお前か、殺生丸! どーしてお前がここに居るっっ!」

 殺生丸が口を開く前にぴしり、とママの一言。

「ダメでしょう、犬夜叉君! 折角、犬夜叉君の事を心配して来てくださったお兄さんに、そんな口をきいちゃ」

 一瞬、呆気に取られる犬夜叉。
 それは、かごめも同様だ。

「マ…マ?」

 そんな三人の様子を一瞥(いちべつ)すると、音もなく殺生丸は立ち上がった。

「おい、どこへ行く!!」
「…戻る」
「何っっ!」
「確かめに来ただけだ。お前がいつもどこへ逃げているのか」

 見る者を凍てつかせる、冷たい視線を投げかけそう吐き捨てた。
 ぴーん、と張った琴糸のような緊張感が辺りを覆う。

 しかし、それをものの見事に打ち崩したのは、ママの一言だった。

「まあ、そんな事を言わずお夕飯一緒に食べましょ。すぐ、支度も出来ますから」

 膝の力が抜けるような、その台詞。

「ママ〜」

 かごめもかける言葉が見つからない。

( …凄い、凄すぎるわ。ママ )

 ママのその言葉を無視し、家を出てゆく殺生丸。

「かごめ、ごめんね。ちょっとそれを貸して頂戴」

 そう言って、かごめが手にしていた大量のハンバーガーとドーナッツの紙袋をひったくると、殺生丸の後を追う。

「ママ! そんなもの、どーするのっっ?!」
「折角遠くから来て頂いたんですもの。お土産ぐらいお渡ししないと」

 外からママの声だけ、返ってくる。

「…お土産、あっ、そうだ」

 かごめも慌ててに二階の自分の部屋へ駆け込むと、母親同様外へ飛び出してゆく。

「おい! 何やってんだっっ!! かごめっっ!」
「ん〜、ちょっと、ね。すぐ戻るわ」

 二人とも殺生丸の後を追って行ってしまい、一人ぽつねんとする犬夜叉。

「…一体、どーなってんだ! この家の女どもはっっ!!」



 ママが殺生丸に追いついたのは、もう隠し井戸の祠(ほこら)の前だっ
た。

「はあ、はあ、お願い。ちょっと、待って。これを…」
「…要らぬ」

 にべも無く、断る殺生丸。

「…はあ、貴方は必要ないかもしれないけど、貴方を心配して待ってる連れの方がいるんでしょ。その方たちの為に、ね」

 半ば無理やり、殺生丸の手に紙袋を押しつける。
 常の殺生丸ならば、人間にその手を触れさせる事など絶対させはしない。
だが何故か、逆らいがたい『何か』があって、気がつくと見慣れぬ『モノ』を持たされていた。
 そこへ、かごめが追いついてくる。

「殺生丸! これを、あの子に」

 かごめの手には赤い艶やかな光沢を放つ、幅広の紐が握られていた。

「…りん、に?」
「きっと喜ぶわ。ものすごく心配していると思うから」

 不可解きわまる思いで、殺生丸は『時』の階層を駆け戻る。
 あの不可思議な母娘に見送られて。

「ねえ、ママ。怖くなかったの? 殺生丸って、物凄く強いし徹底した冷血漢なんだけど」
「ええ、だってあの犬夜叉君のお兄さんですもの。どんなに兄弟仲が悪くても、通じるものがあるのよ」

 ──── そう、通じるもの。

 それが今、殺生丸が連れているあの小さな人間の女の子なのだと、かごめには判っていた。

「…あのリボン、かごめの小さな頃の一番のお気に入りだったリボンでしょう? あげちゃってもよかったの?」
「うん、なんだか嬉しかったから。わたしね、殺生丸って犬夜叉が言う程、冷酷な奴じゃない気がするの。なんでだか判らないんだけどね」

 空はすっかり夜色に変わり、星々が瞬きはじめる。遠い昔から、遙か未来まで照らす静かな光。

「…綺麗な瞳(め)をしていたわ。冷たくて、情を無くした瞳だけれども。寂しい想いをさせてしまったのね」

 どこか遠くを見ているような、ママの声。

「ママ…?」
「ああ、ごめんなさいね。今夜はもう犬夜叉君には泊まってもらってね。明日、ママがお土産は用意してあげるから」

 ふうわりと、いつもの優しい笑顔のママ。
 だけどかごめには、なぜだか『別人』のように見えた。



 ──── もう一方の、『骨喰いの井戸』の側。

 星明りのもと、無心に綾取るりんの傍らに、邪見が心細げに座り込んでいる。

「……のう、りん。本当に殺生丸様はお帰りになるのだろうか?」
「大丈夫、邪見様。きっと、お戻りになる。りん、信じてるもん」

 どこか自信に満ちた、りんの言葉。

 りんがそう言い切った時だった。
 一瞬、辺りの闇を切り裂くように井戸から光が溢れ、その光が薄れた時、闇の中に待ちわびた大切な人の姿を見る。

「お帰りなさい、殺生丸様!」
「殺生丸様、よくお戻りに……」

 戻った殺生丸の足元に、小さな影が二つ、走り寄る。

「…ここで、待っていたのか」
「はい!」
「…殺生丸様が、井戸の中で消えた時にはどれほど心配申し上げた事か。ご無事でなによりでございます」

 ふと、あの女の言った言葉が頭をよぎる。

( …貴方を心配して待ってる方たちがいるんでしょ。その方たちの為に、ね )

 邪見が殺生丸が手に下げている見慣れぬ荷物に気づき、恐る恐る尋ねる。

「殺生丸様、そのお手にしている物は…?」

 殺生丸はそれを無造作に邪見に押しつけ、言い捨てる。

「好きにしろ」

 そう言い置いて井戸の側の大木、それは奇しくも犬夜叉が封印されていたあの『御神木』の根元に腰を据える。

「ねえぇ、邪見様。これ、なんだと思う?」
「ううむ、なんであろう? 茶色くて丸くて穴のあいた得体の知れぬものだが、なにやら甘い匂いがする。りん、お前、食べてみろ」
「え〜っっ、やだ。邪見様、食べてみて」

 言うが早いか、茶色くて丸くて穴のあいた得体の知れぬもの、つまり『ドーナッツ』を邪見の口に突っ込んだ。

「ううっっ、もごもご、こりゃ、りん!!」

 むせながら飲み込み、しばらくしてようやく味が判る。

「おおっ−、なんと美味いものじゃ。初めて食しましたぞ」

 邪見の目が、感激で潤んでいる。

「ねー、邪見様。こっちはどうかしら?」

 もう一つの紙袋に入っていた、やはり丸くて柔らかくて紙に包まれているものを差し出した。

「うん? こちらは肉のような、なんとも香ばしい良い匂いがするな。よし、味見じゃ」

 先程のドーナッツの味で安心したのか、今度は怖がりもせず進んで味見をする。

「う、美味い! このようなものがこの世にあるとは、ついぞ思いもしなかったわい」

 それから二人は井戸の側で、あれはどうだ、これはどうだと、楽しそうに食べ比べをしている。

 そんな様子を眺めつつ ────

「 ──── りん」

 涼やかな声でりんを呼ぶ。

「はい、殺生丸様」

 子ウサギのように元気に跳ねながら、殺生丸のもとへ駆け寄る。

「これを ────」

 りんの手に、かごめから預かったものを渡す。
 りんの目の前でひらめく艶やかな赤い綾布。

「これを、りんに?」
「…お節介が、私に持たせた。もう、向こうへ行け」

 嬉しそうに顔を輝かせ、毬のように弾みながらもと居た場所へと戻る。
 殺生丸は自分の身に起きた、有り得べがざる出来事を思い返していた。

( あの女は… )

 遙か昔、たった一度だけ出逢った事のある懐かしく優しい匂い。
 それが誰だか、薄々は気が付いていた。

 認めたくはなかったが。

 それでも、自分の回りの空気が変わって来ている事は認めない訳には行かないだろう。

「殺生丸様」

 弾んだ声でりんが呼ぶ。
 見ると、先程渡した赤い綾布を髪に結わえている。
 りんの黒髪によく映える、赤い色。

「殺生丸様も一緒に食べよ。とっても、美味しいよ」

 差し出された『それ』を受け取ってしまう、自分。

 ……『人間』のように、『糧』を得るのに『食』する必要はないのだが。


    ───── コトン コトン 回り続ける糸車
              新たな縁を結ぶ為
                   因果の糸を つむぎ出す ──────




 もう二度と、『あの女』に逢う事はないだろう ──────


【終】




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