【 比翼連理 9 】



 ――― 西国の上空、その色は今来し東の色と比べれば、嵐の前の不穏な気配を映したように暗く不吉な赤を交えていた。その空の高みで闘牙を歩を留め、背の玉藻を気遣い声を掛ける。

「…身に障りはないか、玉藻。ここは『気』が悪すぎる」
「大丈夫ですわ、わたくしもこの子も」

 背に乗せている事を感じさせないほどその身は軽く、華奢である。か弱い女の身に余りある妖力。その力の不均衡さ故に、正一位神である吉宝の『呪』でその妖力を封じられている今、玉藻は女妖であっても人間の女性(にょしょう)と変わらない。今までは吉宝の在する大社の清浄な結界に守られていたのだが、それもない。

 闘牙の言った『気』とは、この西国に満ち満ちている妖気と邪気の事だった。凛とした気丈さで、物静かに答えた玉藻は闘牙の背の上で居住いを正す。その姿は、護神獣を従えた貴神のように見えた。

「俺の屋敷についたら、直ぐにでも結界を張ろう。ここまで酷くなっているとは俺も思わなかった」
「はい、仰せのままに」

 苦い思いを噛み潰し、闘牙は目の下の様子を伺った。闘牙達の足元には、かつて闘牙が母や妹・冴と過ごした屋敷がある。ここを最後に訪れたのは、宝子の大社で初めて玉藻の会った直ぐ後の事。
その時は、まさかこうなるなどとは思わなかった。懐かしい思い出のある屋敷は、今では生在る者の気配の絶えた死の館。冴が使っていた部屋からは、主が居なくなった今でも消しがたい邪気が死の館を蝕んでいた。


    * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「冴様、お加減はいかがで御座いますか?」

 冴にとっては馬鹿馬鹿しい茶番な婚礼披露の宴。彪兒の言葉に乗り、さっさとその宴を後にして自室に篭り、体を休めていた。侍女長の白琳が手に妖用の薬湯を持って現れる。

「…疲れない訳はないわ。あれだけの思いをしたのだもの、実にならなくてはね」
「冴様…」

白琳の差し出した薬湯を少し喉に流し込みながら、自嘲気味に言葉を紡ぐ。

「好きでもない男にでも、その気になれば女は躰を投げ出す事が出来る…、浅ましい限りね」
「最初はそうでございますよ、冴様。肌を合わせる度に、情も湧くという物。闘鬼様は冴様にもう夢中でございますよ」

 白琳は自分の時の事を思い返しながら、そう言った。自分と彪兒だとて、彪兒が白琳を望んだから一緒になったまででそうでなければ、いくら長老蓮の中では一番の若手と言え実際には祖父と孫ほど関係は離れている。その頃の白琳の視野外であったのだ、彪兒は。

 だが人間の貴族の風習に染まり出していた一族内では、それも当たり前の話。公的な立場を確保するのに、女妖は一族内で地位の高い者にその躰を与え妻の座を得、男妖は少しでも健康で見目良く賢い女妖を求めた。そう、全てが計算づくの事であった。

「…おぞましい事。あんな下品で卑しい男! 吐き気がしそうだったわ」
「冴様、お言葉が…」
「本当の事だわ。あの女に負けない子を得る方法がそれしかなかったから、身を任せただけの事。もし、あの時の胤が着床(つい)てなくて、もう一度なんて事になるようなら、気が遠くなりそうよ」
「冴様……」

 白琳には言葉もなかった。冴がとことん闘鬼を嫌い抜いている事が良く判ったからだ。宴の席上で、夫である彪兒と闘鬼の会話を横で聞いていて、所詮深窓の姫君といえ、牝は牝。牡を銜え込んで悶え狂えば、高貴も下賎もないとせせら笑った己の判断の甘さを痛感する。そして、その言葉にまた闘牙とその妻に対する底知れない憎しみも感じたのだ。

「ねぇ、白琳。お前は既に子を産んでるわね。確実に胤を付ける方法を知っている?」
「それは、どう言う事でしょうか?」
「先程も言ったでしょう。私はもう二度と闘鬼には抱かれたくないの。これ一度きりだと思ったから、三日三晩もあの男の精をこの身に受け続けた。肉を引き裂かれ抉られ、折れてしまいそうな骨の痛みに耐えてね」
「…………………」
「自ら腰を振って、あの男のモノを躰の奥の奥まで銜え込んで、絞り上げたわ。それだけの事をしたのだもの、判るわよね? 白琳」
 
 世間を知らぬ、深窓の姫君だった冴のまるで淫売婦のようなその台詞。白琳は自分も『女』だから判るのだ。女の体と心は切り離せる事に。大抵の男はそれに気付いていないのか、女の体を征服すれば、それで女を自分の物にしたつもりでいる。自分の躰の下で、悶え狂えば、己の支配下に落ちた思うのだ。

 だが、そうではない女もいる。男に抱かれて熱くその肉を蕩かせ、言いなりに成りながらも、その心を暗く冷たく凍てつかせている女も居ると。改めて冴の表情を伺う。
 先程の台詞が嘘のように、楚々とした可憐で高貴な風情が漂っている。だが、白琳を見る冴の眸の奥に燃え盛る暗い炎。白琳は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

( …狂っておられる、冴様は ――― )

 ごくりと白琳は、訳の判らぬ不吉なものをその気とともに飲み下した。

( 良いでしょう、冴様。貴女様がそこまでの想いを抱いていらっしゃるのなら、この白琳。出来うる全ての手段を講じて、貴女様のその腕に、切望されているお子を抱かせて差し上げましょう )
( 貴女様のその冥い想いを受けてどんなお子が産まれるか…、この両の目で見定めましょうぞ )

 暗い笑みは、白琳もまた同様であった。


 宴から数日間、冴は体調が優れぬからと自室から一歩も出ようとはせず、また白琳以外の何者も立ち入らせようとはしなかった。
闘鬼が様子を窺いに来た時も、ぴしゃりと追い返してしまった。白琳は冴の命を受け、妖の薬を調合する事に長けた者の下に密かに通い、目的の物を手に入れてきた。
胎の肉を柔らかく、熱く熟させる薬。夥しい程の精を注がれた冴の胎内に胤を根付かせる為の。

「何か、御体変わった様な感じはございませぬか? 冴様」
「…躰が、熱っぽい。下腹が痛くて敵わない。ふふ、やはり無理をしすぎたのかしら」
「冴様…」
「自分の体が、ひ弱なのがこんなに恨めしいなんて思わなかった。私を裏切った闘牙お兄様やお兄様を誑かせた女に一矢報いてやりたいと、そう思っただけなのにね」

 元々が病弱な冴の躰。闘鬼に真相を知らされ、闘牙への怒りから闘鬼の手を取り、今に至る。その間、ずっと張りっぱなしだった気が少し緩んだのか、緩んだ分、加えられた陵辱での体への負担が今になって冴の全身を重く押しつぶしそうに覆いかぶさっていた。

「もしこれで懐妊したとしても、ちゃんと産めるのかしら…」
「…お子を産もうと言われる方が、情けない事。どんなに体の弱い女でも、自分の命と引き換えにするつもりぐらいの強い意志があれば、子は産めます。女とはそう言うものです」

 ことりと次の薬を調合し、冴の前に差し出す。

「次はこのお薬を。体が熱いのは良い兆候ですわ。下腹が痛いのは…、まぁ時が立てば楽になりましょう。闘鬼様に可愛がって頂いた者の多くはそうですから。突き殺されなかっただけ、冴様は立派ですわ」
「…ろくでもない男ね、あれは。出来る事なら、私は…」

 そう言って、冴は自分の下腹をそっと撫でた。

「…言ってはなりませんぬよ、冴様。今では殺したいほど憎い男なのでしょう、その男は。その男の子を孕むなどと、もとから許されぬ事だったのですよ」

 同母兄妹での婚姻は、その『血』の濃さ故に特に忌事(いみじ)とされている事は冴も知っている。知っていて、止めようのない思いだったのだ。

「気弱になっている冴様へ、丁度好いお知らせがございますわ」
「良い知らせ…?」
「はい」

 意味ありげに、白琳の眸が光る。

「…闘牙様が奥方を連れて、お国入りをなさいました」
「 ――― !!! ――― 」
「冴様がご希望でしたら、ご面談の手筈を整えます」

「そう…、そう、ね。白琳、頼みます」
「御意」

冴の前で、頭を垂れて礼を示す白琳。床に向けたその表情には邪悪な笑みが刷かれていた。



   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 誰も迎える者もないままに、闘牙達は西国に入った。もともとが独り身を通そうと、あまり諸事に構わなかった闘牙だけに、屋敷はあってもそう使役の者を置いている訳ではなし、せいぜい割りと気に入っている庭の手入れをさせるくらいなもの。たまに寝に帰るくらいの場所ならば、それで十分だった。

「すまんな、玉藻。何もない屋敷で」
「いいえ、わたくしは貴方のお側に居られるだけで十分でございます」

 少し疲れの見える顔に、うっすらと笑みを浮かべ闘牙を見る。本当に何もない殺風景な座敷が、玉藻が座っているだけで高貴に華やぐ。体の弱さはおそらく冴と変わらぬだろう。それだけに、闘牙は玉藻に接する時は細心の注意を払っていた。愛しい思いに力いっぱい抱き締めたい衝動を抑え、そっと手を取り共に歩くに留める。

闘牙のような暴れん坊が、玉藻だけは壊さぬよう傷付けぬよう、それはそれは大事に扱ってきた。玉藻の身をその優しさが包み、熱い想いと共にその身を満たした。玉藻もまたその想いに応える様に寄り添い、優しく無骨な夫を尊敬と全てを受け入れ生み出す大いなる愛情で抱き締めた。
 浄化された二人の想いの結晶が、今 玉藻の身に宿っている。

 かえって誰も居ない方が心安らかに過ごせよう、今の西国では。
 何もかも承知でこの屋敷の事も熟知している冥加が差配して、宝子が餞別に贈ってくれた式神が慌しく屋敷内をそれらしく、設えなおしている。

「呆れただろう、屋敷に誰一人家人(けにん)の居ない主などと」

 苦笑いを浮かべながら、玉藻に語る。その側をちょこまかと走り抜けながら、冥加が付け加える。

「ご心配めさるな、奥方様。闘牙様の風来坊な気質が闘牙様を慕う者どもにもうつりましてな、主の居ない館は貧乏くじを引いた誰ぞに任せ、お留守の間は自らも武者修行とか申して旅に出ている者が多いのです」
「まぁ…」
「本来なら、野に棲み天(あま)翔けるが妖(あやかし)。人間のように屋敷を構えるのが笑止千万、と」
「いやか、玉藻。俺はいずれ、ここを出ようと思っている。どんな出方になるかはまだ判らぬが」

 遥か遠くを見詰めた眸で、玉藻を気遣うようにそう闘牙は言った。

「貴方の行かれる道ですもの、どうぞわたくしも一緒にお連れくださいませ」

 
 ――― 「天に在らば比翼の鳥、地に在らば連理の枝」


 冥加は先ごろ、都で流行っているこの詩の一節をふと、思い出した。
闘牙に判ればまた、人間なぞにかぶれおってと苦笑いされよう。互いを支えあって雌雄同体一対の羽根で飛ぶ鳥のように、また別個の木が互いに寄り添ううちに木目も溶け合い、一本の木になるように…。
 今の二人の姿は、冥加の目にはその様に映ったのだ。

 …ただこの詩に謳われた、皇帝とその愛妃のような運命にだけはなってくれるなと思いながら。

「…いつまでそこで呆けのように突っ立っている、冥加。気を利かせろ」
「はっ、これは無粋な真似を…。しかしながら、時期でございましょうぞ。闘牙様御帰館の報を受けて、旅に出ていた者どもがこぞって帰って参りましょう程に」
「紅邪鬼や斉天どもか…、うむ、あやつらが戻ってくると少々騒がしくなるか」
「きっと喜びましょう、あの者どもも闘牙様が独り身なのを気に揉んでおりましたからな。かように美しい奥方を娶られたとあっては、戻り次第大宴会ですな」


「その宴には、私も招いて頂けるのでしょうか? お兄様」

 帰って直ぐ闘牙が張った館の結界を事もなく潜り抜け、気配を消していたのか直ぐ側に来るまで闘牙にも悟らせず…、そこに居たのは白琳を連れた冴姫であった。

「冴…」
「冴様、あの、その…」

 冥加に向けた視線は、それは突き刺さるほどに鋭くまた魂の底まで凍えるように冷たかった。

「…冥加、この方は『宝子様』ではないのですね? 話に聞けばあの方は東の大社の束ねの巫女とか。こちらの方は、そうは見えませんものね」

 冥加に向けていた突き刺さる視線を今度は玉藻の下腹に、そして顔に向けた。美しくも凍てついた表情で。

「誰も、私の事を紹介しては下さらないのですね。初めまして、まだお名前も知らぬお義姉(ねえ)様」

 玉藻は微笑みを絶やさぬまま、冴と対峙した。

「…冴姫様、ですね。闘牙様の御妹君の。わたくし、金毛九尾狐族の玉藻と申します」
「九尾狐? まぁ、あの傾国の!! 道理でお美しいと思いましたわ、玉藻様」

 冴の言葉は丁寧だが、その端々に毒が含まれている。

「そうそう、お兄様にはまだお知らせ致しておりませんでしたわね。私、異母兄の闘鬼様の妻になりましたの。一族の者皆、喜んでくれましたわ」
「…そうか」
「ええ、父上から受け継いだこの『血』を、得体の知れぬ者の血で濁らせる訳には参りませぬものね」

 ちらりと玉藻に侮蔑の視線を投げ掛け、玉藻の様子を窺う。玉藻はまるで深い森の奥で、こんこんと清水を湧かせ静かに澄んでいる湖面のように静謐であった。

「私にお祝いの言葉は頂けませんの? お兄様」

 今までの冴からは考えられぬほどに、挑発的。

「…冴、お前は本当にそれで良いのか? 本当に、お前が望んだ結果なのか?」
「…違う、ともし私が言ったなら、お兄様はどうして下さるんです? この私に、また沖ノ島へゆけと?」
「冴!!」

 闘牙は目の前の冴が、まるで別物のような見た事もない、恐ろしい力を秘めた女妖に見えた。

 くすり、と邪気に塗れた笑みを零す。

「でも、もう無理ですわ。もとより沖ノ島は清浄なるヒメ命が祀られている聖域。私のような孕み女が足を踏み入れられる所ではありませんもの」

 その事実を強調するかのように、殊更に自分の下腹を撫で擦る。そして、それこそ殺気の篭った視線を、玉藻の下腹部に投げ寄越した。

「お義姉様もそうですわね。楽しみですこと、産まれて来る時が待ち遠しいですわ」
「冴! いい加減にしろっっ!!」

 冴の視線から玉藻を庇うように、自分の背に匿うと闘牙は冴にその顔を向けた。苦渋に満ちた、どこか哀しげな顔。

「…お兄様、きっともう私がここを訪れる事はないでしょう。それでは、ごきげんよう」

 倫(みち)ならぬ恋の、自分から兄を奪った女の生の姿を、その名をしっかり胸に刻み込み、冴は闘牙の屋敷を後にした。仲良く今まで共に歩いてきた道を大きく違えた瞬間でもあり、また『女』として玉藻に宣戦布告した瞬間でもあった。

 胸元から、闘鬼に貰った魔鏡を取り出す。
 そこに映し出された玉藻の姿は、名前を知り生の姿を知った冴の目にはより一層、鮮明に生き生きと映し出されていた。その姿を見つめる冴の眸が、凶悪な禍々しい赤い色に染まる。妖力が増した事で凄絶な美しさを醸し出していた冴の表情が、悪鬼のそれのように歪んでいた。


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 冴が闘牙と決別をしたのは、この西国でもまだ梅雨に入る前の事だった。今は暑さの厳しい、夏の盛り。照りつける太陽の光とむせ返るような灼熱の大気。光が強烈なほど、生まれる影も濃く深い。


 闘牙と玉藻がその光であるのなら、闘鬼と冴はこの二人の後ろに潜む、切り離す事の出来ぬ『影』であった。


 ――― 闘牙の許を訪ねた時はまだ定かではなかった冴の懐妊も、冴の執念が実ったのかその兆候を露にし始めた。またそれは、闘鬼を遠ざけるにも格好の理由。事実、ひ弱な冴の体は常ならぬ状態ゆえに安静を強いられている。全ては、闘牙と玉藻の間に産まれるであろう子を凌ぐ子を得る為に。

 それと同時に冴は、その憎悪と邪念のありったけで玉藻とその胎の子に呪詛をかけていた。闘牙の屋敷は、闘牙自身が結界を張っている。妖力やそれに伴う物理的な攻撃はそれで十分凌げるのだが、『念』のような目に見えぬ、精神そのものに影響する『力』に対しては、十分とはいえない。ましてや、それが女の『情念』から発するものであらば。

 冴の妖力は一族随一、その力を後ろ盾に玉藻への嫉妬心で増幅された『邪念』が、闘牙の張った結界の隙から染み込み、玉藻の周りにねっとりと絡みつく。その邪悪さに息苦しくなるほどに。玉藻自身、吉宝の護りの為の呪詛を受けた身であるから、妖力そのものは使えない。ひたすらその高潔な精神力のみで応じていた。

 …だが、玉藻に邪念を送りつけている者は冴だけではなかった。



「冴様、闘鬼様がお見舞いを寄越して下さいましたわ」

 今ではすっかり冴の信を得、身の回りの事一切を任せている白琳が、手に夏の山野草を持って現れた。絢爛な花々ではなく、可憐で清楚な野の花。冴が好んで自分の庭に植えさせていたものと同じものを、白琳は冴の前に捧げた。それを見る冴の、凍てついた眼差し。すっと、透き通るような細い指先を花の上に翳した。花は冴の邪気を受け、たちまちの内に枯れ果てる。

「…枯れてしまったわ。白琳、下げておくれ」
「………………」

 無言で白琳は、その場を辞した。
 あれから ―――

 あれほど荒んでいた闘鬼の変貌振りが白琳には滑稽で…、哀れに思えた。

 闘鬼は本当に、冴を愛しいと思っているようなのだ。
男と女、抱いてみるまでその結果は判らぬものだ。闘鬼は冴を抱いて初めて、自分の求めていた者に巡り会った。それがあまりにも身近すぎ自分の母親からの因縁もあり、蔑み虐げてきた相手であったのは皮肉な事ではあったが。

 この屋敷に冴を迎えてからは、何かと気遣いを見せる。こうして花を贈り、珍しい木の実・果物を届けさせ、気鬱にならぬようにと美しい声で鳴く金糸雀や艶やかさよりも繊細な羽根を持つ白孔雀を冴の房前に設えさせた庭に放ち…。

しかし、当の闘鬼自身はろくに冴にも会えぬ状態が続いていた。頑なに冴がこの部屋に闘鬼が入る事を拒んだからだ。間に入る白琳の一番気重な仕事は、この闘鬼に門前払いを食わせる事だった。

 受け取る事もなく、白琳の手の中で枯れ果ててしまった野の花を白琳は鬱陶しげに眺めた。

( ああ、気鬱だこと。いい加減、闘鬼様もお気付きになればよいものを! 冴様のお心にあるのは、今でもただあの方のみと。闘鬼様では代わりになれぬと )

 胸で毒づく白琳と、憎むよりももっと冷酷の仕打ちを与えている冴と。
 闘鬼の知らぬ事ではあったが…

 闘鬼が冴に贈ったものはことごとく、この花のような憂き目に合っていた。
 木の実や果物は白琳の手の中で腐り果て、冴の好みで設えられた庭に花が咲く事はなく、放された鳥たちはその場で死んでしまった。冴の放つ邪気の強さは辺りの空気を毒のように変え、冴の張った結界の中を生あるもののない世界にしていた。
そんな邪悪な空間で、今も清楚な風を漂わせている冴こそがこのうえもない毒の花。冴の身の回りの世話が出来るのは、徐々にこの『毒』に慣れ親しんだ白琳だけなのだ。白琳の世話を受け、冴は胎の子ともども今は無事に、そして更に念を凝らす日々を送っている。

「白琳! 冴の具合はどうだ?」

 そう声をかけてきたのは、その闘鬼。どうしても逢えぬのなら、せめてその様子なりとも白琳から聞き出そうと、冴の房に続く回廊の入り口で待っていたのだろう。
ここまでは、冴が結界を張っている。冴の許しのない者は、ここより一歩も先に進む事も出る事も出来ない。闘鬼ほどの大妖ならば無理にでも破る事も出来ようが、それをしようとしないところに冴への執心ぶりが見て取れた。

「闘鬼様…」

 …一途とも言えようか。闘鬼ほどの荒くれ者が、妾腹の子と蔑んでいた者の身を気遣い、未練がましくこの場に佇んでいるなどは。だがそれは、白琳の心に言いようのない嗜虐な気持ちを芽生えさせた。胸の内でちろりと蛇のように舌なめずりをし、そのくせその白皙な面に上辺だけの憂いを浮かべ、闘鬼に向き合う。

「…無理こそ出来ませぬが、そろそろお腹のお子も落ち着いて参りました。今は、大事ないかと」
「そうか、もう随分と冴の顔を見てはおらぬ。体に差し障りがないのなら、すこしあれと話しをしたい」

 白琳の答えに勢いを得、そう言う闘鬼。これがあの披露の宴の折、胎の子を流してでも冴を性欲の対象として抱きたがっていた男の姿かと思うと、ここまで変えてしまう『女』とは怖いものだと白琳は思う。その反面、自分も同じ女として愉快な気持ちも沸いてくる。その思いが、そんな言葉になったのだろう。

「お話は、無理かと。冴様のお気が進みませぬでしょうから」
「…女は孕むと、気鬱になったり気が立つと聞くが、その類であれば俺は気にせぬ」

 ここまで冴に骨抜きにされているのかと、半ば呆れる。それもたった一度、冴が望みの子を得るのに胤を付けさせた、あの享楽奔放な三日三晩の余韻に未だ酔いしれている愚かしさを、思い切り嘲りたくなったのだ。

「いえ、そう言うものでもございませんわ。闘鬼様には真に申し上げ難いことなのですが…」

 そう言いながら、白琳は手にした枯れた花々を掲げて見せた。

「これは…」
「闘鬼様が冴様へお届けになったものですわ。冴様は手に取ることも為さらず、枯らしておしまいになりました。他に届けさせたものも同じような憂き目にあっております」
「!! 何故…!?」

 すぅぅ、と白琳は静かに息を飲んだ。この悪意に満ちた一言を告げる事の出来る嬉しさに。

「…手したくないからですわ、闘鬼様。この結界よりこちらは冴様の邪気で並の妖怪では、一歩足を踏み入れただけで悶え死ぬでしょう。そこまでの邪念を闘牙様の奥方に向けておられます」
「それは…、俺がそう仕向けたからで ――― 」
「本当にそれだけの理由だとお思いですの? 闘鬼様。闘鬼様から贈られたものを手にしたくない、その答えは簡単ですわ。冴様は今でも闘牙様を慕っておいでなんです。ただその形は『憎悪』、という形で」
「………………」
「愛情の裏返しが、憎悪。どちらも深く暗く熱い。冴様には、もうそれだけなんです。闘鬼様に肌を許したからと、闘鬼様を受け入れた訳ではないのですよ?」
「白琳!!」

 ぞくぞくとした快感が白琳の体を満たしてゆく。

「冴様の中に、男としての『夫』としての闘鬼様はいないのですよ。今でも冴様にとっては、幼い頃自分を虐げた嗜虐者としての闘鬼様しかいないのです。いえ、それすらも、もう希薄で…」

 ぶるぶると闘鬼の手が震えている。己の存在そのものを否定された、いや、抹消しようとしている冴への怒り。ぐわっと、妖気が渦を巻く。

「白琳、きさま…」
「わたくしは何も知らぬ闘鬼様が哀れで、何も言わぬ冴様の代わりにお伝えしたまでの事。差し出がましい口を挟みました。お手打ちになさりますか?」
「して欲しいのか、白琳。きさまがそのつもりならば、今 この場で引き裂いてやる!」
「わたくしを引き裂き、その血塗られた手で冴様もお手にかけまするか。そのような事をなされば金輪際、闘鬼様が『長』になられる道は閉ざされましょうね」

 慇懃に、しかし確実に悪意を込めて言葉を紡ぐ。

「…もう少し、賢くなられませ。今は氷のようなお心の冴様でも、お子が産まれれば変わられる事もありましょう。闘鬼様もお子の父君としてその責任を果たせば、冴様の闘鬼様を御覧になる目も変わります。それまで、辛抱なさいませ」
「くっ…!!」

 忌々しげに舌打ちをすると、足音も荒く闘鬼はその場を後にした。

 ここで、闘鬼と女達の力関係が逆転した。
 闘牙が『狛』として一族内で孤立していたように、闘鬼もまた孤独であった。


    * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 主君である自分に、悪びれずもせず生意気にも取れる口を叩いた白琳を殺す事も出来ない闘鬼。当然冴にも指一本触れる事も出来ず、自尊心を傷付けられた闘鬼は自分の居場所を探していた。心は冴を求めている。そう闘鬼が今まで生きてきて、かつてなかったほど純粋に。

 それを否定された闘鬼の心の向った先は……

 この場に最後に足を運んだのは、もう三月(みつき)前ばかりになろうか。爛熟した春の庭を後にして、振り返りもしなかった己なのに。
 その庭に降り立って、闘牙は身震いした。今は夏も盛り、ここの主の性(さが)を映して、美しくも毒々しい花々を絢爛と咲かせている筈のこの場所さえ、闘鬼の知っている場所ではなくなっていた。
 夾華の結界に守られた、その場。一歩中に立ち入ると、そこは全てのものが腐り爛れ枯れ果てていた。空気すらも瘴気と邪気で重く澱み、さしもの闘鬼でさえ胸が悪くなる。
 
 枯れ果てた花園の影に、夾華の配下の者であった黒巫女の骸が幾つも転がっている。

「夾華…」

 この場をこんな風に変えてしまった者が誰なのか、闘鬼には判っていた。この女は人間ではあったが、気が合っていた。抱き心地も悪くは無かったし、並の女妖よりはよほど強靭な体をしていた。妖怪すらも呪い殺せる程の力を有している女。己を欲して、狂ってもくれた。

 …もしかしたら、ここが闘鬼の『居場所』になれたのかもしれない。

 艶やかな毒々しさを失い、更に凄惨で無彩色な幽界のような庭に立ち込める邪気と瘴気の霧を掻き分けながら、かつて夾華と睦み合い狂態を演じた夾華の部屋に一歩足を踏み入れた。

「夾華…」
「………………」

 どのくらいそうしていたのか、着ていた物が襤褸になっているのも構わずに、夾華は部屋に設えられた祭壇に向かい、掲げた魔鏡に向って呪詛の呪言を地を這うような声で呟き続けていた。

 一心不乱に、闘鬼がかけた声さえ気付いてはいない。部屋の中は夾華から…、いやその胎の子からもか、直接手に触れる事が出来そうなほど濃密でねっとりとした邪気と瘴気と妖気が溢れ出て部屋を満たし、外へと流れ出ていた。その気は、触れたものを片端から腐らせ爛れさせてゆく。

 目に見えぬものでありながら、ここまで『気』を高める事が出来るものなのか、これが『人間の欲』と言うものなのかと、闘鬼はおぞましさで眉を潜めた。

「夾華、お前……」

 もう一度、そのおぞましさを堪えつつ声を掛ける。ようやく夾華はその呪詛の言葉を呟くのを止め、ゆっくりと振り返った。

 ――― その姿はもう、『人間』ではなかった。

 冷ややかで夜の闇のようだった長い黒髪は、艶を失いばさばさと毛羽立ったような蓬髪然。もう長い事外に出ていないのだろう、もともと蛇の腹の様に白くぬめやかだった肌は、一層幽鬼めいた青白さ。

 飲みも喰いもしなくなってどの位か? 痩せ細った手足はかさかさと乾き、ひび割れた肌が直接骨の上に張り付いている。闘鬼との仔が宿っている下腹だけが異様に大きく膨らんでいた。
 それが、その美しさ妖艶さと性の奥義とで何人もの男達を食い殺し破滅に導いた黒巫女の頭領、夾華の成れの果て。
 
 …確かにあの時闘鬼は、夾華にこう言った。


 ―――  俺の仔がお前の躰を胎内から、自分に相応しいモノに作り変えてゆく。


 不老不死を望んだ夾華。不死、ではあろう。人間ならば、不眠不休・飲まず喰わずで生き永らえる事は出来ない。夾華の玉藻を呪う呪詛の念、邪気や瘴気を糧に胎の仔は肥え太り、増大させた妖力でもって母胎を支える。
 しかし…、夾華のこの餓鬼のような姿が胎の仔に相応しい『母』の姿であるのなら、夾華が孕んだモノの正体も、さぞおぞましいものであろう。瞼がやせ細り、魚の目のようにぎょろりとむき出され、黄色く濁った夾華の眸が闘鬼の姿を捉える。

「おおぉ、闘鬼…。もう見向きもされぬかと思ったが、お前がここに来たという事は、この女は胎の仔ともども死に果てたかっ!!」

 魂を蕩かすような蠱惑的な声は、ひしゃ枯れて老婆のよう。その声の調子には狂人めいた、どこか人外な響き。

「いや、まだだ…」
「何と! まだ、しぶとく生き延びておるのか!! この黒巫女・夾華の名にかけて、必ず冥府の底の底まで引き摺り込んでやろうぞ! 例えこの身が果て、共に堕ちようともな…」

 夾華の言葉に、闘鬼は玉藻を呪い殺せといった事を思い出していた。自分がそう仕向けたとは言え、闘鬼の周りの誰もかれもが闘鬼の存在を『見て』いない。
 唯一、夾華だけは闘鬼を見ていてくれるかと思っていたが、夾華の念は女としての意地から、玉藻の上から外れない。もう、他のものは何も見えてないのだ。

( この女も、もう駄目だな。胎に仔があるうちはこうしていられるが、時期 胎の仔は外に出てこよう。その折には、この女の体は胎の仔に引き裂かれ喰われてしまうだろう )

 ちらり、と祭壇に祀られた魔鏡に目をやる。映し出された姿は、闘牙の妻・玉藻。臈長けた美しさ、気品の高さと封印された妖力の強さ。おそらくその強さは妖全体から見ても一位・二位を争うほどであろう。初見の折は、自分の女にしてやろうかと思ったが、今ではもうそうは思わない。この女はではなかったからだ、自分に相応しい相手は。それだけに……

( 映し変える事が出来るなら、あの姿を別の女の姿にしたいものだな。そう…、この手に入らぬものならば )

 苦々しい思いを噛み締めながら、闘鬼はそこを離れた。次にここを訪れる時は、夾華の胎の仔を握り潰す時だと胸のうちに呟きながら。また、こうも思う。

( そう…だ。全ては闘牙、お前のせいだ!! お前が俺の前にいなければ、こんな事にはならなかった。この手にかけた父も、幼い頃からお前しか見ていなかった!! )
( 一族の者も、お前を褒め称える。許されぬ相手でありながら、実の妹でさえお前に恋焦がれて…… )


 闘鬼の胸の奥に、今まで蟠っていた諸々が留めようのない激情となって溢れ出す。

 
 ――― もう一族の長の座など、どうでも良い。


 女達の胎の仔も、どちらもこの手で縊り殺してやる!!
 この俺を認めなかった一族の者どもすべて、皆殺しだ!

 闘牙……

 お前だけは必ずこの手で、この俺の力の全てで殺してやる。
 
 一族など、もうどうなっても構わない。
 滅びるのなら、滅びてしまえ……


 長い間、闘鬼の胸のうちで燻り続けていたものは今、『狂気』という名の感情のもと、外へと向って開放される。微かに残っていた狛の証である人型時における眸の金色はどす黒い血赤に変化し、もう戻る事はなかった。


【10へ続く】

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