【 比翼連理 10 】



 …潜(ひそか)に、秘めやかに事は深まりつつあった。


 夏が過ぎ、秋も行過ぎた。今はもう、鉛色の空に低く雪雲が掛かる、冬の空。
 白琳に冴の真意を伝えられた時より、闘鬼は冴の前から姿を消した。いや、冴の前からだけではなく、彪兒を代表とする闘鬼の肩を持つ一部の長老連の前にも姿を見せなくなっていた。

 その一方で、産み月を間近に迎えつつある三人の女妖達は、更に緊迫の感を強めていた。

 既に人間の域を出てしまった夾華の狂った憎念は己の命も体も蝕みながら、焼けた錐のように玉藻の体を侵して行く。それよりももっと凶悪で強大な力で玉藻を苦しめるのは、闘牙の実妹・冴の怨念。
 玉藻自身の妖力から、玉藻の身を守るために施された『呪』のせいで限りなく『人間』に近い今の玉藻。闘牙の張った結界もこの女達の悪しき想念を断つ事は出来ず、また玉藻の胎内に宿る、後に殺生丸と名付けられる胎児もこの脅威から母を守る事は出来なかった。内からその甚大なる妖力を開放すれば、もとより薄造りの白磁ような華奢な体をしている母を壊してしまう事を本能的に覚っていただろう。

 玉藻の身の回りは、宝子から遣わされた三体の式神達が一分の隙も無いほど整え、守りを固めていた。それとても、ほんの僅かな障壁にしかならないが。
 ここに、闘牙は『男の念』と『女の念』の質の違いをまざまざと見せ付けられていた。式神達を遣わしたのが、力ある大巫女の宝子であるからこそ薄皮一枚の所の護り。

「…具合はどうだ? 玉藻。俺に何か出来る事はないか?」
「大丈夫です、あなた。あなたがこうして側に居てくださるだけで…」

 か細い声で答え、細い指先を闘牙の大きな手に添わせる。春霞のような暖かく儚い笑みを見せて。女妖達の怨念を一身に受ける玉藻の身には常に目に見えぬ重圧が圧しかかり、体中を幻の激痛が駆け巡る。
 か細い声を紡がせるその肺腑や心臓は冴や夾華の怨念が凝って形になったような禍爪の付いた手で握り締められていた。

「いっその事、あやつらを討つか」

 重く沈んだ声で、そう闘牙が零した。それを静かに留めたのは、玉藻。

「…それは、なりませぬ。この子の誕生を、血塗られたものにしては」
「玉藻…」
「ここまで凝ってしまった念ならば、その実体がなくとも禍を振りまくことでしょう。もし討つとしても、心優しいあなたに実の妹は討てますまい」
「だが、それでは…」

 静かに玉藻は頭(かぶり)を振り、白く華奢な指を添わせた闘牙の手を自分の下腹に導いた。

「…わたくしはこの子の母です。わたくしには判ります。この子は長ずれば、あなたをも凌ぐ者になりましょう。ならば、わたくしもそれに相応しくあらねばと」
「済まぬ、玉藻。お前一人に重荷を背負わせてしまう」
「重荷? いいえ、あなた。わたくしにとっては『希望−みらい−』ですわ。あなたに逢わなければ、一人儚くなる身でした。今、こうしてこの身には、わたくしとあなたの『血』を受けた我が子が宿っております」

 玉藻は自ら導いた闘牙の手とともに、己の下腹の膨らみを愛しそうに撫で擦る。

「こんな幸せを享受出来るとは、このわたくしが子を産む事が出来るなんて、夢のようです」

 そう言った玉藻の手が、強く闘牙の手を握り締めた。

「…わたくしに『念』を送っている者は冴様だけではないようです。人とも妖怪とも言えぬ異様な気に満ちた念も感じます」
「なんと!!」
「この気も孕み女の気…。どうしてでしょうね? わたくしを妬まなくとも、その身には愛しい我が子が宿っておりましょうに」

 闘牙は玉藻の言葉に、裏で糸を引いているのは闘鬼だろうと見当をつける。自分の女達を使って、玉藻に『怨呪』をかけさせているのだと。それでも冴の存在は闘牙にも判るが、その異様な気を放つもう一人の女については皆目見当がつかなかった。

「玉藻…?」

 自分の手を握り締めている玉藻の『気』の色が変わったのに、闘牙は気付く。

 ――― それは、例えて言えば氷炎。

 激しく燃え盛っても、熱さもなく他を燃やし尽くす事もなく、ただ静かに醒めた青い炎で闇を照らし燃え尽きてゆく。留める事の出来ぬ激情を感じさせて。

「…負けは致しませぬ。いえ、負ける訳には行きませぬ。この子の為にも、あなたの為にも」
「玉藻…」
「そして、わたくしの為にも ――― 」

 闘牙の手を添え、愛しそうに新たな命の宿る我が身を撫で擦っていた玉藻がその手を離し、しゃんと姿勢を正す。
 すっ、と辺りの気が引き締まり、清冽なまでに澄み渡る。妖力を開放できぬ玉藻の周りから、月の影に隠された黒い太陽の周りに煌く光環のような彩光が揺らめき立つ。

 その様に、闘牙は玉藻がこの一事に己の命を懸けている事を知る。

 …そう、確かに玉藻は言ったのだ。必要であらば、今まで封印してきたその妖力を解き放つ事も厭わぬと。その意味するところは ―――


 ――― 己の命と引き換えに、玉藻をこの世に産み落とした玉藻の母と同じ道を選ぶという事。


 退く事も、今ではもう出来ぬ。出来る事なら今のままで、出産の刻(とき)を迎えたかった。吉宝に妖力こそは封印されてはいても、共に在れる時は妖と同じ。そう、願わくばこの父と母と、産まれ来る我が子と。
 闘牙はこれほどに、何かを『護りたい』と思った事はなかった。

 そして、その思いの厳しさもまた…。

「玉藻、今の俺に出来る事はもう…」

 姿勢を正した玉藻の背後からそっと玉藻を、その身に宿る我が子を抱き締める。
 そう、男の闘牙には立ち入れぬ、母と子だけで立ち向かわねば成らぬ闘いがあるのだ。だから玉藻を抱き締めたその手を我が子の上に置き、その胎動を確かめながら、願わずにはいられなかった。

 この子が一刻も早く、この世に生まれ出る事を!

( まだ、名も無い我が子よ。お前次第なのだ、この母を生かすも殺すも。お前の力で、玉藻を護ってくれ!! )

 父の願いに応えたのか、玉藻の身に添えた掌に熱く力強い波動を感じた。


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「お加減は如何でございますか? 冴様」

 白琳の手篤い世話を受け、虚弱な体で危ぶまれたいた冴の懐妊期間もそろそろ終ろうとしていた。ほっそりとした体つきに、産み月を迎えた事で下腹だけ別人のように膨らんだ体を気怠げに寝椅子に横たえていた。

「何とも息苦しくて…、まるで自分の体ではないようね」
「お腹は痛みませぬか? 張るような感じとかは?」
「まだ、それは…。背中が腰が痛くて、胸に大きな石を乗せられた様」
「もう暫くの辛抱で御座いますよ。時期、お子が下りて参りますからね、そうなれば胸のつかえだけは取れますわ」

 甲斐甲斐しく冴の身の回りのものを新しいものと取り替えながら、経験者の余裕を見せてそう言葉を続ける。

「白琳、あの女はどうなったかしら?」

 色彩のない…、いや、『生』あるものの影一つない荒れ果てた庭を遠い眸で見遣りながら、ぽつりと冴が言葉を零す。

「あの女と申しますと、闘牙様の奥方であられる玉藻様の事ですか?」

 判っていながら、敢えて玉藻の事を闘牙の妻であると強調する。

「白琳…」
「玉藻様も、もう産み月に入っておられます。ただ、玉藻様も冴様同様、お体の弱いお方。その衰弱ぶりは痛々しい程だとか」

 玉藻の身の安全を図る為、身元の怪しげな者は闘牙の結界で阻んでいても、こういう噂はどこからともなく漏れ聞こえるもの。少しでも玉藻に滋養をつけさせようと、楽にしてやろうと闘牙や冥加が手を尽くせば、その先から漏れてくる。

「そう…、まだ死んでも流れてもないのね」
「冴様…」

 億劫気に冴は体を起こすと、大きく膨らんだ自分の下腹を撫でた。

「ああ、億劫だこと。早く楽になりたいわ。ねぇ、白琳。もうこんなに大きくなった仔なら、この腹を割いて引き出しては駄目かしらね?」
「冴様っっ!!」
「そんな事をしたら、私も危ないのかしら? どちらも私にはあまり変わりないように思えるのだけど」
「……………………」

 投げやりな態度は、今から産もうとしている仔が本来自分の望んだ仔ではないから。自分を裏切った闘牙への当て付け、またその妻・玉藻への敵愾心から。
 冴の胎の仔は、その為の道具でしかなかった。

「…ねぇ、闘鬼様は?」
 
 珍しい事に、冴の口から闘鬼の名が出る。

「闘鬼様、でございますか? そう言えば、ここ暫くはお見かけも致しておりませんわね。もとより、何を考えているか良く判らぬお方ですもの。また別の女妖の所かも知れませんわ」
「そう…。私にはどうでも良い事ね」
「はい。私どもにとってもそうですわ。私たち、一族の重鎮方の耳目の中心は冴様とそのお子でございますから」
「ふふ、嬉しい言葉ね。こんな仔でも期待されているなら」
「冴様のお子ですから。さぁ、少しお休み下さいませ」

 冴の母らしからぬ言葉に、闘鬼を主君とも思わぬ白琳の言葉。
 冴の房を整え、汚れ物を抱えて部屋を出た白琳の頬には薄い笑みが浮かんでいた。白琳にとっては、冴すらも主ではない。一族の長老達の手前、冴が産む子は一族の次代の長にと望まれた存在になるのだが、白琳もその夫である彪兒もそんな考えは毛ほどもない。願わくば、双方共に共倒れになってくれたほうがありがたいのだ。

 自分たちから距離を取っている闘牙達には、余程の事でもないと手が出せないが、冴程の女妖がその私怨から玉藻とその胎の子を呪い殺そうとする分には、なんら問題はない。ついでに虚弱な冴も子を産む前に身罷ってしまえば良いとすら思っている。
 そうでなければ…、側付きであればいつでもその機会には恵まれよう。ただこの企みは、他の長老達には悟られるなと、重々彪兒から言い含められていた。

「…本当に、どんなお子が産まれるのやら。楽しみだこと」

 冴の結界の中、誰も居ない回廊を巡りながら白琳は細く甲高い嘲笑を響かせていた。


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 荒涼とした冬の景色よりももっと重苦しく暗鬱さと陰惨な気に満ち満ちて、その場はあった。
 
 その場に、これ以上似つかわしい者はあるまいと思わせる荒んだ気をその身に孕ませた者が降り立つ。そろそろ頃合かと最後の様子を見に来た、それは闘鬼。
 誰の前からも姿を消していた闘鬼は、その間にかなりその姿を変容させていた。一族の長の血族を顕す白銀の髪は黒くくすみ冷たい鋼(はがね)のような色に変わり、眸の色はその辺りの妖怪のような血色に染まっていた。荒ぶる気が闘鬼の体を内裡から大きく強靭にしている。

 その手には、一口(ひとふり)の刀剣。

 闘鬼が自分の牙から打ち起こさせた、魔剣。その牙の持つあまりの禍々しさ妖気の強さに、一口の剣を鍛え上げるまでに五人の妖怪の刀鍛治を犠牲にした。
 打ち上げるまでにその『気』に中てられ、まだなまくらな剣で自ら首を撥ね、腹を裂き、最後に打ち上げたそれなりに名の通った刀鍛治は、打ち上げた瞬間に手にした剣から流れ込んだ邪気と妖気とで体の中から張り裂け、元の姿も判らぬ肉片に成り果てた。

 ほんの半年程前の爛熟した毒華な風情は一欠けらもなく、冥獄の風景を切り取ったような禍々しさ。

 そこには邪気と瘴気、それから自分と良く似た妖気を発するモノだけがその場で蠢いていた。闘鬼が見越したとおり、夾華の胎の仔は自らが十分だと本能的に判断すると容赦なく母胎である夾華の腹を食い破り、この世に生まれ出てきた。
 夾華だったものは自分の仔に食い荒らされ、僅かな骨片を残すのみ。
 だが夾華がこの世に残した怨念は、今も玉藻を苦しめている。

「これが俺の仔か。よくぞここまで育ったものだが、所詮は薄汚い半妖。目障りだ」

 闘鬼を父と悟ったのか、それは人と獣を混ぜ合わせたような醜悪な姿で擦り寄ってきた。
 その赤く濁った眸には知性の光はなく、禍々しい表情には獣(けだもの)としての精神しか宿っていない事を如実に顕していた。擦り寄ってきたそれを闘鬼は何の躊躇いもなく、手した己の牙で刺し貫いた。闘鬼と夾華の仔は牙の切っ先が触れた途端、微塵に弾けとんだ。

「…待ってろ。時期、お前の兄弟も冥土に送ってやるからな」

 そう言い捨てると足元に残った己の仔の残骸を踏み散らし、振り返ることもなかった。


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 ――― 月に叢雲。

 冬枯れで突き刺さるような木々、重苦しいものを孕んだ黒い雲が圧迫感を与える高さまで下りてきている。少し前から夜空に懸かる月が禍々しい程に赤く染まり、その雲の切れ間から雲の端を薄赤く縁取って、不穏な気が渦巻く西国を空の高みから不気味に見下ろしていた。

 その不穏な気、不気味な動きの元凶は、もう既に自分の館にすら立ち寄らなくなった闘鬼にあった。表に出る事無く、闇から闇へと徘徊している。垣間その姿を見た者は、その闘鬼の変容振りに心臓を冷たい手で握り潰されそうになるほどの慄きを感じた。
 白銀の髪はどす黒い灰色に変わり果て邪気を帯びて怒髪天を突き、目は濁った血色。溢れる妖力を収める事もせず、それを上回る怒りを加えて大きくその身が膨らんでいる。

 手にした「牙」は、常に犠牲者の血潮で濡れそぼり乾く暇(いとま)もない。剣先を向けられただけでその剣圧を受け、無理やり膨らませられた蛙の腹を踏み潰して破裂させるように血肉も骨も弾け飛ぶ。殺戮の鬼と化した闘鬼が夜な夜な一族内の者を手当たり次第殺し始めた頃、皮肉な現象が起き始めた。

 一族の中での『キ』と呼ばれ、忌まわしい存在と蔑まされ決して表に出る事を許されなかったモノ達が、その殺戮の『気』に同調し、闘鬼の周りに集まり出したのだ。
 血の澱みの果てに生まれてきた明らかに畸形なモノや知力の劣ったモノ達の多くはその場で処分されたが、稀に…、そう多くはそんな仔でも愛しいと産んだ母親の哀願で命だけは助けられ、生まれて直ぐに日の目も当たらぬような場所に幽閉され生き延びたモノ達。
 それも、何時殺されるか判らぬ怖れの中で時を過ごし、外の者に深い恨みを抱く。『キ』が『気』を呼ぶのか、闘鬼は知らぬうちにそんなモノどもが幽閉されている場所を荒らし、見張り役を切り殺してそれらのモノを解き放っていた。
 
 また、或いは ―――

 外見も知力も傍目は通常の一族の者と変わらぬが、その心が「ケダモノ」な者も。本来の己の性分を小狡く隠し、内裡(うち)に秘めた劣悪狂猛な欲望の炎にじりじりと身を焦がしていた者も、闘鬼に同調した。
 一族の陰に棲まうモノたちは、この闘鬼こそを自分たちの『長』として受け入れたのだ。

 闘鬼が初めて得た、己たらんとする『居場所』…

 血塗られ、殺し殺される者どもが上げる阿鼻叫喚の地獄絵図。その中でこそ、その中でしか…、闘鬼の棲める場所はなかった。闘鬼は自分について来てくれるモノなどに心を払うつもりはなかった。
 今更どんな形であろうと、『長』の座ももういらぬ。邪魔をする者から、血祭りにあげてやる。大人しくついてくるなら、その時が来るまでは生かしておいてやると言うだけの事。

 今もまた、西国の外れの館を一つ焼き払った。ここは他の一族から託されて、密かに幾人もの「キ」を幽閉していた。そこからの戻る道すがら。

「…そろそろ、か。さて、我が仔の顔でも見てこようか。見る事が出来るのならな」

 暗い声でそう呟くと、赤い眸をぎらりと光らせた。その眸の先には、もう暫く立ち寄りもしなかった自分の館の影が浮かんでいた。


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 さらに、玉藻の容態が悪化していた。
 
 ほんの少し前から、冴とは違う女の『念』の質が変わった。この女が闘鬼と縁(ゆかり)のある女である事は薄々察せられるのだが、何処の誰だか、闘鬼に何と言い含められて玉藻に呪詛の念を送りつけているのか、当の玉藻にも判らぬ事であった。
 ただこの女の念が、冴の呪詛の念よりももっと禍々しく忌まわしいものに変わった事だけは事実。尽きる事のない欲望を抱える人間だからこそ、その生身の言わば『肉の枷』を解き放たれた『怨念』は留まる事無く増大してゆく。人はその想念で、何にでも変化出来る恐ろしい生き物。

 細く華奢な玉藻の体を、首と言わず、手足と言わず、また子が宿るふくよかさを増した下腹をも目に見えぬ巨大な蛇が、夜も昼も問わずに締め付けてくるのだ。口を開けば、ざらりとした幻の蛇の感触が喉を侵し、息をつく事もままならぬ有り様。腹の子ともども握り潰そうという、凶悪なまでの憎悪を感じる。

( …まだ、まだ… 早い。今、ここで『呪』を解いては、この子まで、道連れにしてしまう……… )

 苦しい息の下、宝子が遣わした式神達の張った守護結界の中で身じろぎもせず、『その時』を待っていた。この謎の女と共に玉藻を苦しめていた冴の『念』は、この二・三日乱れがちになっており、冴にもその時が迫っているのを、遠くなりそうな意識な中で玉藻は感じていた。

( 冴様…、闘牙様の御妹君。きっとわたくし達は良く似た者同士だったのでしょう。同じ御方に、心魅かれ我が身を厭わぬ程に想いを寄せる――― )

 守護結界は玉藻の真の意味での産屋でもあった。その神聖なる産屋ですら、この謎の女の念が忍び込めるのは、この女が産女(うぶめ)であるせいもあろう。
 いや…、この女の胎の仔はもうこの世に生まれ落ち、実の父の手で殺されてしまったのだが、我が子に胎を食い破られて死したこの女には仔を生んだ思いはなく、未だに孕み女のままの念を玉藻に送り続けている。

( この子を無事、産み落とさねば。もとより、そう長く生き永らえる事などかなわぬ身であったのが、吉宝様のご厚情を賜り今まで生き永らえてきた。ましてや、この世に自分の血を、いえ『命』を分けた者を残す事が出来る日がこようとは……。早く、お前に逢いたい  )

 愛しげに、玉藻はその手で自分の下腹をそっと撫でた。

( …この子はわたくしとは違う。闘牙様から受けた血で、二親から受け継ぐであろう『妖力』の全てを収めても、砕けぬほどの強靭な身を持つ。二つが一つに…、新たな祖となるべく子 )

 端麗な美しい玉藻の横顔に、一筋 涙が零れ落ちる。泣く事も笑う事も、玉藻の生きてきた長い時間の中で、数える程しかない。それらの全てが、闘牙に繋がる思い出の中にある。玉藻が真に『生きた』その時の形見。

( まだ名も無いお前を、わたくしは母として抱く事が出来るのでしょうか。お前にも、わたくしのように母を想い寂しい思いをさせてしまうのでしょうね… )

 ――― それでも。

 玉藻は、今まで生きてきた意味がここにあると、そう言い切れる。
 この子の存在が、そして、闘牙と出会えた事が。

 一刻も早く我が子に逢いたいと言う母の想いを受けたのか、我が身に宿る闘牙との子は『時』が至った事を玉藻に伝えた。守護結界がその変化を読み取り、式神達にいよいよその時が来た事を知らしめる。
 今まで、姿勢を正して身じろぎもしなかった玉藻が、式神達の指導で体勢を変えた。

 
 この世に新たな『存在ーもの』が、誕生する ―――


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 時、同じくして冴の住居である闘鬼の館も、冴の出産の時を迎え騒然としていた。半数は次代の長の誕生を期待して、或いは今までの女妖達を食い殺してきた闘鬼の仔をまともに冴が産み落とせるかと危惧して。
 そして或いは、産褥の肥立ちの悪さから母子共に身罷るかも知れぬという冥い期待も混ざっていた。

「冴様、どのような感じでございますか?」
「ああ、白琳。体が二つに裂けそうよ。腰から下の骨が砕けてしまいそう…」
「お子が下りて来ているのでございますよ。初産ですから、まだ口が開くまで時がかかりましょう。産みの痛みも弱いようでございますし…」
「こんなにも痛いのに!!」

 望まぬ相手の仔の出産だけに、産んだ仔も闘牙や玉藻への対抗心からのものであれば、「母」としての情愛よりも、道具としての思いの方が強い。
 自分の持っているものが相手より優位であれば、それで良いと。そんな思いで挑む出産が辛いものになるのは仕方がない。

 一つの命を生み出すという行為は、母子ともにそれこそ一心にならねば難しい事。冴もまた、玉藻同様決して丈夫とは言いがたい身体をしているのだ。

「…ふふ、女がこんなに苦しんでいるのに、胤を撒いた男は気楽なものね」
「冴様…」
「この痛みに比べれば、破瓜の痛みなんてどれ程の事。でもその因果がこれなら、男に抱かれようという女は減るでしょうね」
「………………」

 冴の言葉に、仔を産もうとしていても、その心はまだ本当の意味で『女』になっていないと推し量る。虚弱な身故、屋敷の奥深くで暮らしてきた。世間も知らず、ましてや男女間の心の機微も判ろう筈もない。ただただ実兄・闘牙を慕うのみ。それは、きっと今も変わっていないだろう。

 ふっと、白琳は産屋となった冴の自室の扉の向こう側に不穏な気を感じ取った。微弱な陣痛が始まってからこちら、流石の冴も何時ものように結界を張る事も、玉藻に邪念を送る事もそう出来なくなっていた。玉藻に送っていた邪念は時として、自分の胎の仔に向けられる事すらある。
 そのせいか、冴の自室に向う回廊に張り巡らされていた結界は解け、その中を満たしていた邪気や瘴気はかなり薄らいでいた。
 それは白琳には都合の良い事でもあった。冴の出産を取り仕切ると言っても、自分以外の女手も必要。少し前の状態では、手が足りなくなる所だったのだ。

( …なんだか、とても危険な予感がするわ。取りあえず、この場を離れた方が良いわね )

 冴の側に付くだけに、白琳とてそうそう下級の女妖ではない。むしろ上級の部類に入るだろう。ましてや、一族の女妖の中では随一の冴の側に居たのだ。その妖力は更に強くなっていた。

「冴様、お産を軽くする薬を煎じて参りますわ」
「白琳…」

 何か感じたのか、冴の表情が心細そうな少女の顔になる。今となったら冴が頼れそうなのは、この白琳ただ一人なのだ。

「…すぐ戻って参りますわ。他の女官達も慣れた者たちばかりです。お心安らかになさいませ」

 そう言いながら白琳は部屋の扉の方へは向わず、冴の邪気・瘴気で枯れ果てた殺風景な庭に降り立つ。

「白琳?」
「ほほほ、行儀が悪うございますが、こちらの方が近こうございますので。では、すぐ薬師のもとへ行って参りますわ」

 何気ない風を装いながら白琳は、冴の自室から遠ざかった。

 白琳のこの判断が、彼女の身を危険から守る事になる。
 後々白琳はこの時の事を思い返しては、自分の運の強さと賢明さを誇りに思うのだった。


 白琳が冴の前から下がって、間もなく。常にない状態で事態に気付くのが遅れた冴も、その場の雰囲気が不穏な気を孕んでいる事に気が付いた。冴や白琳が呼ぶまでは、隣の控えの間に詰めている女官た達の気配が立ち消えている。いや、立ち消えているばかりではなく、辺りに漂うこれは…

( 血、の臭い? それも、一人や二人じゃない… )

 ぴくりと、冴は身を竦めた。扉の向こうに居る『何者』かに。知っている気配や匂い、それ以上に冴の身を竦めさせる、『憎悪』。
 冴の眸が、締め切られた扉を凝視する。冴が見詰める中、扉は重たい軋んだ音を立てて、少しずつ開いた。

「…闘鬼…、様?」

 びくりと身体を震わせながら、冴の唇からその名が零れる。
 後手に血の滴る剣を携えて冴の前に現れた闘鬼の顔貌は、今までは亡き父や実兄とも良く似た風貌をしていたのだが、内包する精神を顕すのか粗暴な感じは否めなかった。それが更に変容し、冴でさえ怖れを抱くようなモノになってしまっていた。

「…随分と久しいな、冴。ずっと門前払いを喰らっていたからな」

 地底を這うような、陰に篭った声音。眸(め)がぎらぎらと暗赤色に燃え光っている。

「何故…、ここ…に……?」
「我が仔の誕生に立ち会っても、悪くはなかろう。それに、今のお前の様を見てやろうとな」
「私の様…?」

 不審気にいぶかる冴の言葉に被せるように、闘鬼が次の言葉を放つ。

「ああ、そうだ。孕み女にも二種あるようだな。美しさが増す女もいれば、恐ろしく醜くなる女もいる。お前はその後者だな」
「なっ、なんですってっっ!!」

 あからさまな侮辱に冴は体調の悪さも、出産を間近に控えている事も瞬時忘れて、激昂した。女が出産前後に気が昂ぶるのは良くある話。冴も例外ではない。

「…闘牙がお前を捨てた訳が判るようだ。今のお前の醜さに比べ、あの玉藻の美しさは光り輝かんばかり。産まれる子も、お前の胎の仔が逆立ちをしても叶わぬだろうな」
「…よく、よく…も、そんな事が言えますわね。この仔は闘鬼様、貴方のお子でもあるのですよ」
「ふ…ん、『お前』の仔だろう? お前は『俺』の仔が欲しかった訳じゃないからな」

 険悪な雰囲気は、そのまま毒を含み尚一層の険悪さを生み出してゆく。

「私が… 今、私がどれ程苦しんでいるかも、お解かりにならない。所詮、男は種付け役ですものね」
 ぎらりと、闘鬼の眸が強く光る。

「…そうだな。では、俺が楽にしてやる」
 
 闘鬼の手が、抜き身にしていた『牙』を構えなおす。

「えっ?」

 冴が身構える間もなかった。控えの間で息絶えた女官達と同じく、闘鬼の牙をその身に受ける。それも闘鬼との仔が宿る下腹を横一文字に切り裂かれた。力のない女妖なら、剣圧で吹き飛びバラバラになるところを、冴だからこそ刀傷になる。
 大きく切り裂かれた傷を手を血塗れにしながら押さえ、よろばう足で少しでも闘鬼から逃れようと庭へ下りようとする。

「醜く惨めなものだな、冴。好きでもない男の仔を孕んで、その上、こうしてこの俺に切り刻まれて死んでゆく。お前には煮え湯を飲まされたからな、ようやく溜飲が下がったぞ」

 必死で逃れようとする冴の背後から、猫が鼠を甚振る様にゆっくりと闘鬼の声が追いかけてくる。

「…どうせ手に入らぬものならば、ここで壊してしまえ。お前を殺し、闘牙も殺す。玉藻は…、そうだな。お前の代わりに、嬲って、嬲って、嬲り殺してやろう」
「あ…、ああっ……」
「お前も、玉藻は憎かろう? 玉藻が闘牙の前に現れなければ、こんな事にはならなかったかも知れぬ。少なくともこの俺に身を任せるような真似はな」
「と、闘鬼…、闘…鬼……」
 
 どきどきと冴の心臓が激しく動悸を打つ。闘鬼の言葉に、今のこの状況の全てを呼び込んだ玉藻の存在そのものへの、今までにないほどの激しい憎悪。本当の意味での、一命を賭して。

「苦しいだろう? 痛みと慙愧の念と。もう楽になれ、冴」

 闘鬼の顔に、背筋が凍るような笑みが浮かぶ。どこか心を喪失させた虚ろで凶悪な表情のまま、手にした牙を冴の背中目掛けて袈裟懸けに振り下ろした。返す手で、冴の首を刎ねる。

 下腹と、背中と、首からと、溢れる鮮血が彩りのない冴の庭を赤く染め上げた ―――



「…良い顔だな、冴。今、お前の思いを独り占めしているのは何だろうな? 玉藻への恨みか? それとも俺への怒りか? どちらでも良いさ。少なくとも闘牙を恋うる顔ではないからな、なぁ、冴?」

 刎ね飛ばし、蹴鞠のように闘鬼の足元に転がってきた冴の生首を拾い上げ、そう囁く。


 その声は、どこか悲しく、甘く響いた―――


 誰も聞いている者は居なかったが。


【11へ続く】

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