【 比翼連理 11 】
―――――― !!! ―――――
( っくぅ…、な、何が起こったの…? )
宝子が玉藻の身を案じて用意してくれた守護結界の中を、稲妻のようなすさましい何かがその結界を貫き、玉藻の体をも貫いた。玉藻は今、まさに出産の時を迎えており、何かあったとしてももう動ける身ではない。
玉藻は自分の体を貫いたものの正体に気付いた瞬間、思わず細い悲鳴を上げざるにいられなかった。少し前から玉藻を襲っていた正体不明の女の念を弾き飛ばずほどに強く、禍々しい、憎悪という猛毒。
その想念の凶悪さは触れるもの全てを焼け爛れさせ、奈落の底に引き込まんと玉藻の身を目に見えない糸でぎりぎりと締め付けてくる。玉藻の目には、自分の体を蜘蛛が獲物を絡め獲り真っ白に包んでしまうように、一分の隙も無いほどに悪しき想念の糸が絡んでいるように見えた。
玉藻の白く柔らかい肌を、それも特に子が宿っている下腹を、その糸で切り刻まんと締め上げてくる。肌が裂け、血がしぶきだしていた。
そして、その糸を繰り出しているのは紛れもなく、闘牙の実妹・冴。
その眸は煉獄の炎のようでもあり、生々しい血色のよう。
釣りあがった眦(まなじり)から流れるのは、血の涙。
見る者の心を恐怖に落とす笑みを美しいその面に浮かべ、小さな口許から細く赤い糸を引き ―――
( これは、死霊…? まさか…、まさかっ!? 冴様っっ!!! )
冴の怨念の力に照らされたのか、今まで玉藻を苦しめていた正体不明の女の姿もおぼろげながら守護結界の中に浮かびだす。
見た事もない、黒髪の人間の女。
往時は妖艶さと淫美さでさぞ男達の心を弄んだであろう、そんな女。人の身でありながら、妖怪さえも呪い殺すほどの呪力を持つ黒巫女の頭領、夾華。
玉藻の目に映るその姿はその往時の姿を透かして、まるで餓鬼のような醜きモノに落ちぶれてしまった女の成れの果て。
そして、冴もまた ―――
宝子の式神達も、必死でそれらのモノから玉藻を護ろうと力を振り絞っている。そうでなければ、もっと早くに玉藻は決断せねばならなかっただろう。宝子自身がここにいたとしても、この状況をどれ程改善させる事が出来ただろうか。
( …わたくしの、この『妖力』。これを開放するのはこの子を産み落とした、その瞬間。そうでなくては、わたくし諸共この子まで滅びてしまうでしょう )
死霊たちの力を抑えるには、もう自分の『妖力』を開放するしかないところまできていた。しかし、その力は『滅びの力』。
滅びの力は、全てを巻き込む。
母の胎内に子があるうち、まだ身一つの状態で母胎が滅ぶと言う事はその子まで巻き込むと言う事。
もともとひ弱に生まれついた玉藻である。ひ弱とは言え、無理が利かぬ不遇な体ではあるが、『その時』が来るまでは生き永らえる事が出来る。そう、人間で言えば『寿命』。
それが他の妖怪達から比べれば、一寸のような短さであろうと。
その『寿命』を儚くさせるものが、玉藻が受け継いだ一族の全ての『妖力』。
玉藻の中でそれがどんな形で増大するか誰にも判らず、場合によっては生まれ落ちた瞬間にでも、その力に飲み込まれても仕方なかった。それから玉藻の身を護ったのが、吉宝の『呪』に他ならない。
( もう少し、もう少し、我慢しておくれ。吾子よ、この母に今 少しの力を与えておくれ )
玉藻の胎児は、生まれる前から壮絶な『妖力』を秘めた子である事は判っていた。それでも、この滅びへ向う力には逆らえまい。だから…
どこかで、覚悟はしていた。
『滅び』の運命(さだめ)は我が身、一身に引き受ける。
その代わり、この子は何としても、この世に送り出す。
この子は、新たな祖と成る子。滅び行く金毛九尾狐族ではなく、また行き詰まりつつある狛の血を凌駕して、唯一の者に。
「玉藻っっ!! 今の衝撃はなんだっっ!」
屋敷の外の護りを固めていた闘牙が、不穏な気を察知し産屋だからと締め出されていた玉藻の部屋に飛び込んできた。
闘牙の眸には、守護結界の中に横たわる玉藻は見えるがその周りを取り囲み、まとわり付く怨念の糸は見えない。まして、その糸の先に居る者の今の姿も。
「…いいえ、いいえ、何でもありませんわ」
「玉藻…」
男の身ゆえに、宝子が施した守護結界の中には入れない。これだけは、宝子とそれに繋がる代々の女妖達の神聖なる力。
男とは一線を画する、そう… 男の身では、天地の理(ことわり)を逆さにしても子を産む事が出来ないように、それだけは絶対であった。
宝子の大社を襲撃した闘鬼の凶行から、再び襲われるかもしれない西国に下る玉藻の身を護る為に。
「闘牙様…、もうじ…き、じき… ですわ。そのお手に……」
結界越しに、玉藻がその手を差し出す。触れる事は適わぬのは承知で闘牙もその手に自分の手を添わせた。
「…俺は、間違っていたのだろうか? 誰よりも愛しいお前をこんなに苦しめている。俺が、お前を娶ったばかりに ――― 」
「これは―、わたくしが負うた運命(さだめ)です。闘牙様の罪ではありませぬ。わたくしの母がそうであったように、愛しいお方の子をこの世に残す事が出来る幸せを頂いております」
「玉藻、俺は…」
「闘牙様が居らねば、わたくしは死んだように生きて、本当に滅びてお終いでした。今は、『終り』などと思ってはおりませぬ」
苦しい息の下、表情の変わらぬ怜悧な面に常にない汗がじっとりと浮かんでいる。陣痛の間隔が狭まり、大きな波が何度も玉藻の意識をかき乱す。
産まれさせじと、女達の怨念の糸もますます強く玉藻の体を締め上げる。
守護結界の中は、まさに女の戦場と化していた。
「うっ、くっっっ!! ああっっ〜!」
「玉藻っっ!!」
破水したのか、式神の一人が玉藻の足を立たせその上から衣をかけた。
力のろくにはいらぬ弱った体で、新たな命を産み落とす為に必死でいきむ。
苦しかろうに、玉藻の顔はどこかそれを突き抜けた聖なる色を浮かべている。
「はっはっはっ、くっ… この場に及んで、女とは欲張…りなものですね……」
「玉藻、喋るな! お前が苦しくなる!!」
「わたく…しが、話して…いた…いので…す……。今でも…、まだ…ゆ…めを…見て………」
「玉藻っっ!!」
「闘牙…さ…ま……、いつ…か… 話され…、対の……、狛………」
「玉藻っ! 玉藻!!」
「わたく…し、も… 欲し…しゅうごさ……いま……」
その絶え絶えな声の向こう側で、産声も上げず静かに生まれ落ちた者。
生まれ落ちたばかりのその赤子は、全てを承知しているような冴えた金の眸を見開き、泣く事もなく父母を見詰めていた。
静かな、静か過ぎるほど静かな誕生劇だった ―――
守護結界はその役目を終え、また生まれ落ちた者が男子であったのも加えて、速やかに解けてゆく。闘牙は、自分の分身を産んでくれた大切の者をしっかりとその腕に抱き締めた。
「玉藻、大儀であった!! もう、大丈夫だ! お前とこの子は、俺の全身全霊をかけて護り抜く!!」
腕に抱いた玉藻から、体が浮きそうになるほどの妖気の風を感じる。
「玉藻…?」
「…『呪』を…解きま…した。あ…の者達…の力を… に負けぬ……」
闘牙の腕の中で、玉藻の『命』が収縮してゆくのを感じた。
「…人間達の言葉に、二世を誓うと言う言葉が………」
大きく息を吸い、すこし落ち着いた口調で玉藻が言葉を続ける。
「ああ、知っている。夫婦の絆は来世まで続くと」
「夢を見て…、また、来世でも貴方に出遭いたいと……」
「勿論だ!! だが、今はそんな言葉は相応しくない。これからだ、俺とお前とこの子と三人で ―――」
それは、闘牙の必死の願い。微かに、首を横に振る玉藻。
「どうか…、わたく…しが、どのような姿……に、なっていよう…と……」
「ああ、必ず見つけてみせる! 例えお前が草木の一本、虫や蝶のひとひらに身を変えていようとも!!」
その答えを聞き、玉藻はこの上もなく幸せそうに微笑んだ。
怜悧な、孤高の美しさの影に潜ませていた、少女のような笑みで。
―――― 一瞬の、幻。
腕の中の玉藻の体はまるで光が弾ける様に、闘牙の腕をすり抜けていった。
髪の毛一条(すじ)も残さず、微かに残り香だけを漂わせて。
後々の禍の元となりそうな怨念の塊と化した二人の女をその光で包んで、永遠にその存在は消えてしまった。玉藻が言っていたように、生まれ落ちた我が子に乳を含ませる事もなく、一度たりとも腕に抱く事もなく。
「玉藻…?」
あまりの喪失感に現実とは思えず、闘牙は忘我の呟きを漏らす。
「闘牙様。立派なご嫡男にございます」
冥加の横には、玉藻が縫った産着を着た生まれ落ちた時から身奇麗な赤子を抱いて式神が控えている。
「この度は、ご健勝なるお子の誕生を寿ぎ、お祝いを言上いたしまする」
冥加が嫡子誕生の儀礼に従い、言上を奏する。それを、闘牙が途中で遮った。
「闘牙様…?」
「…まだ、今はその時期ではないようだ」
片膝ついた玉藻を抱えていた姿勢のまま、玉藻の部屋の扉の向こうを凝視する。
扉の向こうから、信じがたい者の血臭を嗅ぎ分け、火が出るような激しい怒りを燃え立たせた眸で、その方向を睨みつける。
「冥加。式神どもとその子を連れて、ここより安全な場所に控えていろ!」
「闘牙様っっ!!」
闘牙は、その場に冥加達を残し部屋を出てゆく。ぎりぎりに張り詰められた気配が相手の…、いやもう名を隠すまでもない。悪鬼と化した闘鬼の動きを読みつつ、闘牙は封印していた部屋へ足を踏み入れた。そこには更に二重三重の封印を施された、樹齢千年以上の樟(くすのき)から作られた細長い箱が一つ。
先代から密かに闘牙が受け継いだ魔剣・叢雲牙 ―――
「…ふっ、これだけは使いたくはなかったがな」
鞘を払い、眠っていた悪鬼悪霊どもを覚醒させる。毒を持って毒を制するように、闘鬼と言う悪鬼に対抗させる為に。
暴れ出し闘牙に取り付き、思うが侭に操ろうとする叢雲牙を強烈な意思の力で捻じ伏せる。禍々しい光を放つ刀身を、再び鞘に収めた。
これによって、叢雲牙は闘牙に屈した事になる。
――― 忌まわしくも、哀し過ぎる血の繋がった者同士の、死闘の烈風(かぜ)が吹き荒んでいた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「…そこを下がれ。紅邪鬼、斉天」
闘牙の屋敷の正門を護っていた二人は、主の声に後ろを振り返った。常と違う覇気とも闘気ともまた色を異にする、闘牙の気配。ともすれば禍々しいさと紙一重の、激しさ。
屋敷全体に、闘牙が張っている結界がびりびりと鳴動し、今にも破れそうだ。
「闘牙様っっ!!」
「相手は闘鬼様を筆頭に、一族の闇に潜んでいた有象無象共が大挙して迫っております! 微力なりと加勢を!」
主の身を慮って、臣下団の束ねを受け持つ両名が声を上げる。
「…お前たちには、護りを任せる。今より屋敷の建物そのものに強固な結界を張る。お前たちは屋敷内からそれを支えよ」
「闘牙様! それでは、ここはっ!?」
ぎらりと赤金色に闘牙の眸が燃える。
「ここは、俺一人だ十分だ。いや…、俺がこの手で決着をつけねば、な」
眸の激しさと相反する、口許に浮かぶ微かな哀笑。その笑みを掻き消すと、手にした叢雲牙を鞘から抜いた。斉天達にも感じられる、叢雲牙の絶大なる邪気。
「早く、行け!! …そして、中に居る者どもをお前達の命に代えても護り抜けっっ!!」
闘牙の体から、巨大な妖気の焔が立ち上る。その妖気の風に弾かれたように、斉天達は屋敷内に移動した。長の血筋にしては回廊や寝殿などを設えてはいない、むしろ質素な感の闘牙の館。
それに反し、広大な敷地を彩る庭は見事なものであった。その庭に、自分の他誰も出ては居ないのを感じ取ると、闘牙は更なる強固な結界を館のかけた。
それと同時に、敷地内に施していた結界を解く。
同時に闘牙の鼻を打つ、この血臭 ―――
「闘鬼…、貴様ぁぁぁ〜っっ!!!」
恫喝も込めて、一喝する。並外れて優れた視力を持っている闘牙の目に飛び込んできたもの…。
この血臭を嗅いだ時から、まさかという思いと最悪の結果になったという胸を掻き毟るほどの後悔。
「…久しいな、闘牙。これはお前への土産だ」
ここまで忌まわしく邪悪な生き物は見た事がない。妖怪が更に悪しく変化すると、こうなるのかと。闘鬼の左手には何かが掴み締められていた。それから滴り落ちるものが地を濡らし、あの臭いを更に強める。
薄ら笑いを浮かべ、闘鬼は手にしたものを闘牙に投げ寄越した。いや、投げ寄越したというよりは、投つけたと言う方が正しいか。
闘牙の足元でそれはぐしゃりと嫌な音をたてて地面にぶつかり、反動で一、二回転がって闘牙の爪先で止まった。
転がって止まったそれは、冴の生首 ―――
「お前も罪な男だな。お前が冴を抱いてやれば、冴もこんな姿にはならずに済んだものを」
「闘鬼…」
「深窓の姫君だったからな、冴は。手練手管に長けた女妖どもとは比べようもないが、それでも美味い体だったぞ」
「貴様、何を…」
「俺のような好きでもない男に抱かれて、悶え狂う様をお前にも見せてやりたかった」
「…………………」
「お前への当て付けでな。初花を散らし、そのまま三日三晩俺の上に跨っていたような女だ。食い千切られるかと…」
「黙れっっ!! それ以上、冴を穢すなっっ!」
闘牙は闘鬼の聞くに堪えない雑言を振り切るように、手にした叢雲牙を横一閃に振り切った。
叢雲牙の剣圧は、闘鬼の後ろに控えていた『キ』共を吹き飛ばす。しかし…
「なんだ、その剣圧は。まるでそよ風ほどにも堪えんな」
吹き荒む剣圧の風が収まった頃、闘鬼は舞い上がる砂埃や木っ端の陰から微動だにせぬ姿を現した。
「では…、こちらからも行くぞっっ!!」
にやりと、闘鬼の口許が邪悪に引き歪められる。闘鬼の『牙』が高々と振り上げられ、真一文字に振り下ろされた。空気が大きく鳴動し、振り下ろした剣筋にかまいたち(真空)が発生する。それは闘牙の庭を切り裂き、木々や花々を微塵に変えていった。
闘牙の纏う衣も引き千切られ、頬や手足に無数の裂傷が出来る。風に闘牙の血が飛沫(しぶ)く。その顎(あぎと)は闘牙の横を通り過ぎ、斉天や紅邪鬼に護らせた館を狙う。
――― 館の中にはまだ産まれたばかりの、玉藻の忘れ形見。
ずぅぅぅんと、重たい大地を揺さぶるような轟音が轟き、館が闘牙の結界ごと大きく揺らぐ。闘鬼の放った第一撃は、その目的を達する事は出来なかった。
ちらりと、館に損害の無い事を確かめ、もう一度叢雲牙を構え直す闘牙。
闘鬼からの剣圧を結界が撥ね帰した時、結界の内と外とで良く似た妖気の揺らめきがあった。闘牙の張った結界は、内からも支えられていた。
それを支えていた者は…。
( …頼もしいな。護られるまでもない、と言う事か )
結界の中にいる者への信頼のようなもの。
それは今の闘牙には何よりも心強かった。すぅと、心が鎮まってくる。もし…、万が一自分に何かあったとしても、後を憂える必要はなさそうだ。
相討ちになる可能性も飲み込んで、闘牙は一歩大きく闘鬼に向って踏み込んでいった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
黒龍破を使う事など、頭にも浮かばなかった。
確かに、それはこの叢雲牙の『奥義』。
使えば、少なくとも闘鬼の後ろに控えている『キ』共は滅する事が出来よう。
だが、この闘いは一族挙げての抗争ではなく、あくまでもこの『血』の繋がった者同士のおぞましいほどの因縁劇。指しで着けねばならぬ争いだった。闘鬼が一瞬遅れて剣を振るい、先程よりも威力をました剣圧が闘牙の身を切り刻む。それに臆する事もなく、闘牙はさらに闘鬼の懐へと飛び込んだ。
――― 肉を斬らせて、骨を断つ。
邪剣を握る闘鬼の右腕を狙ったが、瞬時に身をかわされ左腕を切り落としただけに留まる。その切り落とした闘鬼の左腕に足を取られ、体勢が崩れる。痛みも感じないのか、左肩から夥しい鮮血を溢れさせながら闘鬼が体勢を整え、上から闘牙の背中を狙う。それを横に転がり避けた際に、左足の腱を切られてしまった。
どちらが不利であろうか?
片腕を落とされ上体の安定さに欠く闘鬼と、足の腱を切られ俊敏さに翳りを帯びる闘牙とでは。
二人とも、己が流す血潮にも走る激痛にもすでに意識はない。あるのはただ目の前にある、倒すべき敵としての異母兄であり異母弟である。二人の振るう剣より発する剣圧で、闘鬼の後ろに控える者共も二人には近づくと事も出来ない。
闘牙と闘鬼。二人だけの戦場。
じりじりと、互いに構え直し、間合いを詰める。
それぞれが傷を負うた分、その構えには尚一層の壮絶さが滲む。
「…俺には、お前たちが憎くて溜まらなかった! どうしてか判るかっっ!! 闘牙!」
「知るものかっっ!! 我等母子・兄妹を一方的に疎外してきたのはそちらであろうがっっ!!!」
「お前は…、俺が欲しくても手に入らぬものをその手に握り締め、この俺に見せ付けてきた!!」
言い様、闘鬼は構えた剣を横に薙ぎ払った。剣の切っ先がかわした闘牙の頬を掠める。
「お前と違い、何の後ろ盾もない我等が何を手にしていたと言うのだ!!」
「…先代の長は、お前を可愛がっていた。妾腹であるにも関わらず! 正妻である俺の母よりもお前の母を寵愛し、二児まで設け…」
「闘鬼っっ!!」
「それがどれ程俺の母を傷付けたか、お前たちは知るまい!? 父を憎んだ母の憎しみを受けて育ったのだ、この俺は!!」
更にもう一閃、先の攻撃をかわしまだ体勢の整わぬ闘牙の横腹を狙い突き入れる。傷ついて僅かに反応の鈍い左足を庇い左手を地に突き、間合いを取り直すために大きくとんぼを切り距離を稼ぐ。
「逃げるか! 闘牙!!」
「何を! お前たち親子の迫害で心労のあまり身罷った母の為にも、何よりお前に殺された冴の仇を取る為にも、逃げはせぬっっ!!」
「ふふ、そうか。母の為、妹の為、か。ではもう一人、父の名も入れてやれ。この俺に殺されたのだからな、あの父は!!」
「…闘鬼、お前はっっ!!」
体をかわし、闘牙が取った距離を一挙に縮め闘鬼が前に出る。
「…誰からも望まれず生まれ育った者の思いなど、お前のような幸せ者には判るまい。俺がお前より優越感を得られたとしたら、それは母の出自が一族の上位の家の出であったという事のみ。しかし、それすらも意味の無い事。お前の母が現れ、お前たちが生まれた事で、俺はその母にも、母を裏切った父の血を引くという事で憎まれたのだからな!」
業深き、父母の罪。例え悪しき因子を含んだ子とて、情愛深く育まれていればここまでの悲劇にはなりはすまい。血の繋がる兄弟(あにおとうと)で生死をかける様な争いをするなどと。
先代の正妻であった血の濃い姫は、その血筋ゆえに先代の長と妻合わされたのだが、既に澱んだ血の弊害を持った姫であった。冷酷で無慈悲な、それは妖怪としては美徳でさえあったが、それ以上に己以外のものに心を掛ける事はなかった。
妖犬族は妖怪というよりも『妖−あやかし−』。
他を思う心を有する稀な一族であるのは、『狛』である故。
その『狛』の一族もいつしか澱んだ血脈に、古来よりの在り様を忘れただの妖怪と成り果てつつあった。その最たるものが、『キ』である。
この闘鬼だとて、もしその母が情愛深い性格のものであれば…。
そして、その父がこの闘鬼にも判るようにその愛情をかけてやっていれば…、いや、もう取り返しのつかない繰言である。
「子を思う母、兄を慕う妹。父の信頼篤い息子としてのお前。俺が何一つとして手に出来なかった物。あまつさえ想いを掛ける女さえ、この手に出来なかったっっ!!」
まだ、中腰のまま片手を地に付いたままの闘牙を一刀両断にせんと、逆唐竹割りで地から天へと剣先を奔らせる。それを避け、剣先の速さよりもより速く、振り上げた剣先の高さよりもより高く、飛鳥のように飛び上がる闘牙。
そのまま落ちれば、自重で闘鬼の牙の餌食になるのは火を見るよりも明らかな事。
切り捨てられる危険を承知で闘牙は傷ついた左足で闘鬼の剣の刃を上から押さえ、その不安定な足場のままに、叢雲牙を上から下へと突き立てた。
噴出す血潮はどちらの物か。上の者も下の者、真紅に濡れそぼっている。
時が止まり、風さえも凍りつく。
全てが ―――
やがて足場の悪かった闘牙の体が大きく傾ぎ、どうっと大地に倒れ込む。傷ついた左足は腱ばかりか、足の甲から脛の中半まで切り裂かれていた。左足を切り落とされなかっただけ、まだましか。
しかし、その傷から余りある闘鬼の瘴気・邪気を注がれ、全身を焼き尽くさんばかりの激痛が走り狂っている。何時、心の臓が止まってもおかしくないほどに。
闘牙の手に、叢雲牙はない。
闘牙が倒れ伏しても、まだ立っていた闘鬼の体をと見れば、左の肩口から斜めに深々と叢雲牙が突き刺さり、叢雲牙の鞘と成り果てている。大地に倒れ伏した闘牙が痛む左足を引き摺りながら立ち上がる頃、ゆっくりと闘鬼の体が崩折れた。
まだ息はあるのか、かすかに顔を闘牙に向ける。
「…何……時も、俺…の前…… はお前…た……」
「闘鬼…」
闘鬼の身に潜む邪気や瘴気が叢雲牙に呑み込まれてゆくのが目に見える。
その命の灯火も。
邪剣であった叢雲牙は、その力を得てますます禍々しくぎらぎらと輝き出していた。
「…これで、最後だ。闘鬼。お前が向こうで父や母、冴に会えるかどうか俺は知らぬが、お前のこの世での苦しみは、俺のこの手で決着(けり)をつけてやる!」
闘牙の眸がぎらりと爛(ひ)かる。それは叢雲牙の放つ邪光にも似て、またそれ以上に凄絶でもあった。よろめく足を踏みしめ、闘鬼の肩口に突き刺さった叢雲牙の柄に手を掛ける。
今にも倒れそうな体を気力で支え、渾身の力を振り絞り深々と突き刺さったそれを力任せに引き抜いた。
引き抜いた際に、新たに首筋近くの血管を切り裂いたのか、あるいは心の臓にまで達していた刃を抜いたが故に刃留めを無くした血流が奔流したのか、留めようのない勢いで闘鬼の体から血潮が溢れ出す。
闘牙の手にした叢雲牙から滴る血潮が大地に落ち、争いの後の土を嫌な臭いを立てて焼いてゆく。叢雲牙に封じられし邪悪な者どもの怨念・邪念を受け、闘鬼の体の中の血液はどす黒く腐り果てていた。
その様はまたある意味、今廻りつつある妖犬族の果てを端的に表しているようにも思え……
「………お…れの…、場……所… お…前が…… い……… 」
最後の言葉は闘牙の耳に届いたのかどうか。既に闘牙の意識も混濁していた。
闘鬼の邪気・怨念を糧にその力を増大させた叢雲牙が、闘牙をも取り込もうと、今 その牙を剥く。
闘牙の眸が、邪眼の禍々しい赤い色に染まっていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「冥加殿!! どちらに居られるかっっ!!」
配下の者を館の外近くに配し、館の奥へと飛び込む紅邪鬼・斉天。
堅固な結界を張られた館内を二人は命を懸けても守りぬけ、と命ぜられた者の元へと駆けつけるため大声で呼ばわりながら行方を捜す。
もとより闘牙の配下は一騎当千の兵(つわもの)ばかり集めた少数精鋭。屋敷に女官さえ置いてはいない質素な構え。それ故に、今この館の中に居る者を守る者は誰もいないのだ。
焦る気持ちに足が逸る。攻撃の第一陣はその時に来た。館内を走り回っていた二人の足が宙に浮く感じを得たと思った瞬間、外から物凄い音が轟いた。
「なっ! なんだ!! この揺れはっっ!」
それは、闘鬼が放った爆流破にも匹敵する真空の無数の刃。びりびりと振動する館の不穏な気。
ところがそれが、館内の奥まった一室からぴたりと治まってくる。
そこから感じる妖気は、主である闘牙にも良く似た、だがそれ以上に研ぎ澄まされた純粋な『力』。発する妖光さえ薄い白紫に金の煌きを揺らめかせる。
その光は闘牙と言うよりもむしろ玉藻の身の回りを包んでいた霊光と同じもの ―――。
「紅邪鬼、これは…」
「ああ、間違いない! こちらに我等のお守り申し上げるお方がおられるのだ、斉天!!」
震える手でその一室の扉を開けた二人は、そこに先の長に相応しい者の姿を見た。
冥加が扉近くに畏まり、その奥の座敷の上に鎮座する三人の式神たち。その中央の式神に抱かれた者こそが…。
生まれ落ちたばかりの赤子であろうに、その白皙の美貌はどうであろう?
母譲りの月の紋章を額に頂き、父譲りの妖犬族の証でもある妖紋を頬に刻む。
眸は澄み切った金の色。髪の色は母の色が勝ったか、月光の如く。
泣きもせず、静かに辺りを見ている様に例えようのない威圧感を覚え、平伏せずにはいられない。
収める術をまだ知らぬ赤子故か、放たれる妖力の強さは計り知れず。
それがこの館を守護していると気付くのに、然程の時を要しない。
( ああ、恐れ多い事だ。このお方に、我等がお守り申し上げるなどとの言葉は。このお方にはどのような護りも必要ではないであろう )
( …恐ろしい程のお方だ。このお方が我等の上に立つのであれば、我等はまだ活路を見出せる! )
闘牙の元に集った者どもの多くは、やはり闘牙と同じく澱んでゆく一族の在り様に心を痛める者ばかりであった。他を思いやり、健康な体と精神を持つ者をとした場合、先に挙げた少数精鋭に成らざるを得ないこの状況。
心を痛める者達でさえも、自分達の次の世代がどうなるかは大きな不安の中にあるのだ。
だからこそ、自分たちが信奉する闘牙の嫡子の、この在り様に心励まされる。
「紅邪鬼・斉天!! お前たちは無事じゃったのじゃな! 外の様子はどうなのじゃ!? 闘牙様は一体…」
「闘牙様は、お一人で闘鬼様方軍勢を抑えられるおつもりです!!」
「なんとっっ!! なんと…、無謀な……、ああ、闘牙様の身にまで何かあったら……」
冥加の悲憤は、端で見ていても同調を禁じえない。紅邪鬼・斉天の両名にしても、出来る事なら闘牙の傍らでせめてあの『キ』共の相手ぐらいは出来様ほどにと思っている。
ふと、何かに気付いたのか、紅邪鬼が小声で呟く。
「我等を館に引き篭もらせたのは、あの剣のせいであろうか?」
「あの剣?」
泣き腫らした冥加が、その言葉を聞き咎め、言葉を繰り返す。
「はい、冥加殿。我等がついぞ見た事のない剣でございました。大きな竜玉のついたどこか禍々しい剣でしたが…」
「な、なんじゃとっっ!? まさか、それは…、先代様が封じておられた叢雲牙ではあるまいな」
「叢雲牙…? その剣が、なんと?」
「古よりの邪念・怨念の凝り塊し恐ろしい邪剣じゃ。その威力は持つ者に取り付き意のままに操る事。冥府を開き生きとし生きる者を冥府に送り込み、また死者を生きる屍として配下にする事も出来る。何より恐ろしいのは、生ある者への怨みで出来た剣。全ての者を殺し、殺し尽くさねば留まる事のない破壊の剣なのじゃ」
「では、闘牙様はそれを承知で鞘を抜かれたと?」
「うむ…、おそらくは。噂に聞けば、闘鬼様がご自分の牙で打たせた剣も同じような性質の剣と聞き及ぶ。それに対抗しようとなされたのか…」
「闘牙様ほどのお方であれば、叢雲牙とて取り憑く事は出来ますまい」
「そうは信じたいのだが…、じゃが、闘鬼様との闘いで傷を負い気力の果てた状態であれば…」
「まさか…、それを怖れて……」
まさしく、背水の陣。闘鬼との闘いを勝ち抜く為に選んだ手段が叢雲牙であるのなら、そこにはまた己と叢雲牙との闘いが待っている。どちらにも負ける前には行かぬ闘い。
その為に、被害を最小限に抑えようと味方を館内に避難させた。自分の意識がしっかりしている内は、館の結界は維持出来よう。己が叢雲牙に取り憑かれたのなら、事情の判る冥加がいる。
信頼に値する臣下もいる。それらの者の手に掛かり、叢雲牙諸共葬ってもらうまで。後は…
何度か、ずうぅう ずうぅううんという鈍い音が響いた後は、館の中はしーんと静まり返り、不気味なほど。
外の様子が判らぬ息苦しさに、流れる時の長さのなんと長い事か。館に張られた結界の在り様で、闘牙の無事を測るのみ。
「…闘牙様の性格じゃ。おそらく、闘鬼様との差しでの勝負を挑まれたのじゃろう。双方がそれぞれ、奥義である爆流破や黒龍破を放てば、この辺りどころか西国そのものに大きな傷が残る。死なぬともよい者も多数死んでしまうであろう。それを避けようと…」
冥加の言葉に、館の外で繰り広げられている死闘を慮り、ただただ闘牙の無事を祈るばかりだった。
そして、それは突然訪れた。
館に張られていた結界の均衡が内から破れた。いや、正確に言うのなら、破れたというよりも内外で拮抗していた結界の力が、内からの力だけになったと言うべきだろう。だが、それが意味するものは…。
「「「 ――― !! ――― 」」」
三者が一斉に顔を見合わせる。たちまちのうちに、それが意味する事を察し、血の気が引いてゆくのを感じていた。
「…ま、まさか…、闘牙様が倒られた…?」
「闘鬼様に討たれたとっっ!!」
「いや…、もっと拙い事かも知れぬ。叢雲牙に闘牙様が ―――」
それは、考えるにあまりにも恐ろしい事だった。
あの闘牙が、殺す事・破壊しつくす事のみに狂喜する魔物に変じてしまった姿などは。
取り憑いたが最後、それが屍であっても生前のままの力で、いやあるいはすでに生者としての禁忌を超えたものとして、爆発的な破壊の力を振るおう。もしそうならば…
「冥加殿!!」
紅邪鬼・斉天、二人の声には悲痛な叫びが篭っている。
「…確かめねばなるまい。もし、そうであれば…」
「そうであれば…?」
部屋の中の空気が、痛いほどに張り詰める。
「…我等の手で、どんな事をしても闘牙様を討たねばなるまい。それが、『狛』としての勤めじゃっっ!!」
血を吐くような、冥加の叫び!!
それは、誰しも思う事。
他に、他に何か手はないのか ―――
悲嘆にくれる三人の目の前で、眩しい光が尽きせぬ泉のように溢れ出す。
その源は、物言わぬ式神の腕の中の、まだ名も無き赤子からであった。
その光は、強さも質量も量りようがないほどに増大して行き、影を焼き、闇を失し、ものの貌も色も全て飲み込み、一つにしてゆく。
館に張られた結界は光の箭で内から解け、辺りに燻っていた全てのものを光明の世界へと包み込んだ。
【12へ続く】
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