【 比翼連理 12 】



 ――― 闘鬼に切り裂かれた左足の痛みも、握り締めた叢雲牙の感触も、全ての感覚が酷く間遠く、まるで幾重にも巻き込まれた繭の中に閉じ込められたようにしか感じられない。
 感覚だけではなく、意識まで朦朧とし『己』というものが掴めないのだ。

( くぅぅ…、闘鬼の瘴気を浴びすぎたか。体が泥のようで言う事を利かん )

 闘牙に意識らしい意識があったのは、闘鬼の体に突き刺さった叢雲牙の柄に手をかけた所までだった。叢雲牙の柄に手を掛けたのも実感を伴わず、ますます意識は遠くなる。ただ、柄を握り締めた右手に絡むなにものかを途切れそうな意識の片隅で感じただけだった。


 ( くくくっ、いいぞ、闘牙。お前ならば、この世の覇者に相応しい。この儂、叢雲牙を手にする者にな! )

 悪意に満ちた叢雲牙の意思が、柄にかけた右手から流れ込む。闘牙と叢雲牙の良く似た、だが根本的には違う『破』への想いが、闘牙の中の混濁した意識をどす黒い色に染めてゆく。
 
( 我に従え、闘牙。従うならば、今、お前の中に溢れ荒れ狂う、その凶暴な獣を満足させるに足りる贄を与えてやろう )

「…あっ、がっっ!!」

( …血の繋がった兄一人、殺したくらいでは収まるまい。もっとだ!! もっと、お前は殺したくてたまらぬのだ! その心を、抑えるな!! )

 闘牙の覇気が邪気に塗れ、黒紫の忌まわしげな妖光をちろちろと瞬かせる。叢雲牙は闘牙を自分の傀儡に堕そうと、柄を掴んだ右手に厭らしげな触手のようなものを巻き付かせ、皮膚を破り肉にまで食い込ませた。

 闘牙の心のどこかで強い制止の声が響くが、その声を掻き消すように闘牙の中の獣が殺戮の咆哮を上げている。もとより、『妖』。『人』より残虐さに対し、禁忌はない。闘牙がそうしないのは、ただ闘牙の性格ゆえ。根にあるものはそう変わりはせぬ。
 朦朧とした視界が、赤い色に覆われてゆく。叢雲牙の鼓動と己の胸の鼓動が同調し、共鳴を始める。その咆哮とともに、闘牙は闘鬼に突き刺さっていた叢雲牙を引き抜いた。

 噴出す闘鬼の血潮を浴び、歓喜に震える闘牙の姿 ―――


 『キ』の中でも、聡い者・生き延びるに値した者は、闘牙の変化を敏感に感じ取り、その場からあっという間に逃げ去った。残された者と逃げ去った者の差は、まさしく紙一重。
 嬉々とした表情で闘牙の腕が高々と振り上げられ、叢雲牙は舌なめずりをしながら情け容赦なく残された者たちを黒龍破の餌食にしていった。
 図らずも、闘牙が玉藻に語った言葉。

( …一族に禍なすものは、この手で粛清しても ――― )

 結果としてはそうなったとしても、あまりにもその状況は最悪であった。爆風が収まり、闘牙の目の前には、木っ端に引き千切られた『キ』どもの肉片が、命穢くまだもぞもぞと蠢いていた。しかしそれも、あまりに強力な邪気や瘴気に腐り果ててゆく。こうなっては叢雲牙で殺されても、『生きる屍』として闘牙に付き従う事は出来ぬだろう。

 …いや、闘牙がこの者らを望まなかっただけかも知れない。

 闘牙の前方に立ち塞がるものは誰もいなくなった。腐ってゆく肉片の、吐き気を及ぼす臭気と、黒龍破で引き裂かれ、砕かれた大地。生命溢れる色彩が、一瞬でくすんだ黒茶けた泥土のように塗り替えられていた。
 ゆっくりと、闘牙が視線を己の後方へと転じた。そこには ―――

 
 闘牙がそれに赤く盲た眸を向けた瞬間、物凄い光の奔流が闘牙の体を貫いた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「闘牙様! 闘牙様っっ!!」
「闘牙様っっ〜〜!! どうか、目を開けて下されっっ!! 若君を一人、残されますなっっ!」

 深い、深い、光の届かぬ深海に沈んでいたような意識が、針で突いたような光に刺激され微かに覚醒してゆく。体は砕けたように勝手にならず、痛いのか重いのかそれすら分からぬ。
 指一つ、瞼を僅かに開けるだけでも、磐石な巌(いわお)を持ち上げるようなそんな努力を要する。

( …何が、起きた? )

 闘牙がそう思うのと、今まで自分が息をしていなかった事に気付くのはほぼ同時。咳き込むように息を吹きかえすと、闘牙の体を縛めていた重さが少し軽くなった。

「…誰……、手…を………」

 掠れ、硬直した唇を震わせそれだけの事をようやく声にする。

「闘牙様っっ!!」
「お館様っっ〜!!!」

 そう呼んだのは誰であったか…。
 今、闘牙は誰憚る事無く、妖犬族の『長』としてそこに存在(あ)った。

「大丈夫ですか、闘牙様!」

 左側からは紅邪鬼。右側からは斉天。屋敷を守らせて居た者が、闘牙の両脇から闘牙の身を支える。その者らに体を支えられながら、ようやくの事で首をめぐらし改めて周囲の様子を検分する。生臭い、強い腐臭が大気に満ち、腐り溶けた肉片がどろりと満身創痍な大地を穢している。

 自分からそう離れてはいない所の瓦礫の角に元は白銀だった一握りの髪束が、その主の心色を吸ってか鈍い鉛色に変化し、更に腐肉に塗れ、張り付いている。闘牙に斃(たお)された闘鬼の、それが唯一この世に残したもの。

 闘鬼に止めを刺す為、叢雲牙を引き抜いた闘牙。

 その闘牙の心根の中に、ほんの僅かでも邪悪な叢雲牙に繋がるものがあったのか、闘鬼に刺さった叢雲牙の柄に手をかけた闘牙はあろう事か、その叢雲牙に取り憑かれてしまった。薄れる意識の下で見た光景は、闘鬼に従っていた『キ』共に向って黒龍破を放つ悪鬼の如き己の姿であった。

( …いや、最後に見た物は ――― )

 闘鬼との闘いの被害を最小限に抑える為、屋敷内に避難させた信篤い臣下とこの世でたった一つの宝物である、玉藻の忘れ形見。その者らの居る屋敷に、闘牙は赤く染まった邪眼を向けたのだった。
 恐ろしい予感に、剛毅な闘牙の背に冷たいものが走る。

( 俺は、まさか……!? )

 まだ疲労と出血過多な体では通常の視力さえ回復しきってはなく、砂塵の収まらぬ戦場を霞んだ眼(まなこ)で見つめても、見たいものは良く見えない。

「…冥加。そこに…、冥加は居るか!?」
「は、はい〜っっ! ここに控えております」

 闘牙の良くは見えない目の前、その真下で冥加の声がする。

「…皆、無事なのか? 俺は、まさか……」
「大丈夫でございます、闘牙様。闘牙様の結界が解けた後は、若君が我等を護ってくださいました!!」

 冥加が答えるよりも早く、斉天がそう答えた。
 その答えに、我知らずほうぅと安堵の息が漏れる。

「そう…か、あれが…」
「はい、まだ生まれたばかりの若君であられながらあれ程の『妖力』、未だ見た事はございませぬ!」
「闘牙様、若君は立派な『狛』の継承者に御座います。闘牙様の跡を継ぐに相応しいお方で御座います!」

 感極まった声は冥加のものか。

 ふぅぅと遠くなる意識は、安堵感から。
 闘牙の意識はふわりと、光の中に落ちていった。
 闘牙の手には、封印の鞘に納まった叢雲牙がしっかりと握り締められていた。


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 ふわりと暖かく、柔らかな光に包まれたその世界に闘牙は疲れた体と心を休ませる。心が落ち着くほどに、あの意識が無くなる前の叢雲牙と対峙していた様子の事を思い出す。

 叢雲牙の邪悪な意思は、闘牙の精神(こころ)の奥深くに封印していた荒れ狂う獣を解き放そうとしていた。
 …いや、そのままでも絶命しただろう闘鬼の体から叢雲牙を引き抜いたあの時点で、すでにその獣は解き放たれていた。

 それが、あの惨状だ。

 どうにかして、それを押し留めようとしていたいつもの自分を圧し、消し去ろうとする叢雲牙の意思。叢雲牙を鞘に収めればこの呪縛から開放されるのに、それが出来ない。それどころか叢雲牙そのものが闘牙の体を侵食し始めてさえいた。
 闘鬼との闘いで負った傷の痛み、夥(おびただ)しく落ちてしまった体力そのもの。並み居る剛の者でも意識を保つのは困難であろう。それでも闘牙は、最後の一線で踏み止まっていた。

( …流石にしぶといな、闘牙よ。だが、所詮は負け犬の悪あがき。今のお前では、このワシに逆らう事は出来ぬ )
( うっ、がぅっっ、誰が… お…前…… 従うっ……!! )
( ふふ、まだ言うか。だが、たった今、お前はその手で、お前の血族どもを血祭りにあげたのだぞ。黒龍破の一振りでな )
( あっ…、ぐぅぅ…… )
( まぁ、あやつらは生かしておいても役には立たぬ連中。生ける屍として、従順な下僕として使っても良いが、それならばもっとマシな者どもが居るからな。 なぁ、闘牙? )

 永年の封印を解かれた叢雲牙の、悪意に満ち喜悦に塗れた意思が闘牙の心に流れ込む。そう思っているのは己なのか叢雲牙なのか、混濁した闘牙の意識では判らなくなっていた。
 ただ、赤い視界の向こうに見える物に叢雲牙の切っ先を向けた己に心底、恐怖した。


( やめろっっ!! やめてくれっっ!!! )


 誰に向って言ったのか。
 己の内裡(うち)と手にした叢雲牙の両方から、狂喜の高笑いが響く。
 じりじりと構えを黒龍破を放つ為に動かす。その動きを留める力は、闘牙にはもうなかった。
 薄れ行く意識、体さえ本来の自分の物ではなくなりつつあり、叢雲牙と一体化しようとしたその刹那、あの『光』が闘牙の体を満たしたのだ。



  ――――  お諦めなさいますな、闘牙様  ――――



 『声』が先だったのか、『光』が体を満たすのが先だったのか…?

 優しい、何時までも聞いていたい、愛しい者の声。
 あえやかな象(かたち)のない光が叢雲牙を握り締めている闘牙の手に触れる。それは良く知っている者の華奢な手と同じ。
 互いに手を取り、絆を結んだ。未来永劫、己が取る手はこの者の手だけと心に決めて。

( なっ、何をする!! お前は、何者ぞっっ!? )

 手にした叢雲牙から、驚愕の感情が伝わってくる。
 その問いに答えるかのように、闘牙の手に触れていた光は収縮し、小さな、だがしっかりと『存在』する者の手に変わる。闘牙を満たした光が、闘牙の体を浸食した叢雲牙の邪悪な意思の触手を焼き尽くしてゆく。

 力強く小さな手に支えられた闘牙の手によって、叢雲牙は再び封印の鞘の中に収められたのだ。


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 …『主』が滅する前に、既にその先触れのような様を呈していた屋敷内。

 至る所に屍が散乱し、そこここに邪気の揺らめきが残っている。『主』の異変に気付いた目先の利く者は早々にこの場から逃げ出したのだろう。回廊の中よりは、その屍も少なかった。

「まぁ、何と命冥加な事。賢い女とは、こうあらねばね」

 あの時、口実を設けて冴の自室を退出していた白琳は、惨劇の嵐が吹き止んだ後、またその場所に舞い戻っていた。出産間近だった冴の為、普段なら詰めてはいないはずの妖医やその助手達、薬師や取り上げた赤子の世話をする為の産婆や乳母、女官達。
 多くの者が闘鬼の振るった凶刃のもと、回廊の奥、冴の産屋近くで物言わぬ者に成り果てていた。

 その惨状を見ている白琳の美しい面には、くすくすと邪笑が浮かんでいる。

「この様子なら、きっと闘鬼様はその足で闘牙様のお屋敷に乗り込んだ事でしょうね。憎い恋敵、討たずにはおれぬでしょう」

 白琳の足取りはまるで、春の野花の咲く草原を歩むが如く軽やかであった。

「闘鬼様と闘牙様。ふふん、どちらも相打ちになられると良いのだけれど。でも…、そうね。そうでなければ、闘鬼様が勝たれる方が、後がやり易いわ」
「闘鬼様のご乱行、もう隠す事も無い訳だし。まして何の落ち度も無い異母弟である闘牙様を討たれたとあっては、自分たちにその刃が向って来る前に、長老達も闘鬼様討伐を命ずるしかないでしょう。皆、我が身は可愛いものですもの」

 誰、聞く者もないその呟きは、楽しくて堪らぬという響きを隠そうともしていない。

「…先代の、いえ、営々と続いてきた一族の『長』の血脈はそこでお終い。だけど、『一族』は存続させねばね。そう、新しい『長』を立てて」

 白琳の頭の中には、その者の姿が浮かんでいる。
 行き詰った一族の中で、数少ない選択肢の一つである我が子の姿を。
 白琳の歩みは凶行の行われた冴の自室を軽やかに進み、やがて冴の邪気と瘴気で無彩色な有り様の中庭へと移動する。
 彩りのなかった中庭に、一際鮮やかな色が零れている。それは ―――

 彩りの中心に沈むもののもとへと白琳は足を向けた。


「…愚かでしたわね、冴様。所詮は世間知らずの深窓のお姫様だったのですもの、仕方が無かったのでしょう。ねぇ、冴様? 一途さはちっとも良い事ではありませんのよ」

 これもまた、物言わぬ者と成り果てている。
 それを承知で続ける白琳の言葉は、ただただ死者を冒涜せんが為。

「男など、手玉に取れば良い事なのに。あの闘鬼様が、あれほど冴様に執心しておられたのに勿体無い事。女の体など、欲しいと言う男にくれてやれば良いものを。勿論、見返りの無い男は例外だけど」
「体の代わりに、自分の欲しいものを手に入れる。そう言うものなのですよ、冴様。ああ、でも…、そうですわね。冴様の欲しい闘牙様は、他の女妖のもの。腹いせに、闘鬼様に討たせるのもまた一興」

 愉しくて堪らなくなったのだろう、くすくすと潜めていた笑い声は、誰憚る事の無い高笑いへと変じてゆく。

「本当に闘鬼様は、冴様を愛しておられたんですわね。ご自分だけを見つめて欲しくて、ほら! 冴様の首だけ持って行かれたのですね」
「…わたくしね、本当の事を言いますと冴様に嫉妬していたんですのよ。いえ、闘鬼様にではなく闘牙様の事で」

 自分の流した血の海に横たわる、首のない骸。その骸に向かい、白琳は尚も語り続ける。

「わたくしもね、闘牙様に魅かれてましたの。でもあの方、あんな感じでしょ。脈がないから、今の主人に乗り換えたんですわ。あの頃、闘牙様の妹、と言うだけで闘牙様を独り占めしていた貴女をどれほど羨んだか、貴女は知りもしないでしょうね」
「賢いでしょう、わたくし。そして冴様、貴女は救いようの無い愚か者です」

 闘鬼に斬られた骸を、更に白琳が足蹴にする。その時 ―――

 ぴくり、と冴の骸の下腹が何やら蠢いた。そう、丁度闘鬼に斬り付けられた、その切り口辺り。

「何?」

 白琳の薄い赤金色の眸が眇められる。そこには…

 先代の『長』の直系を表す、白銀の髪。ここ暫くの一族の中では稀な、五体満足なその姿。赤い、赫い眸の、冴の子ども。あれほど望みもし、また疎ましくも思っていた闘鬼との間の子。
 瞬時、白琳はその足を赤子の上に下ろそうとした。誰も知らぬうちに、踏み潰し抹殺しようと。
 
 が、しかし ―――

「…そうね。何かの時の『切り札』になるかも知れない。お前の命、このわたくしが預かりましょう」


 その後、西国から白琳の姿は消えた。
 人知れず生まれ落ちた、闘鬼と冴の子とともに。


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 再び闘牙が目覚めた時は、辺りの状況は一変していた。闘牙の身柄は、先代の長の屋敷であった闘鬼の屋敷に移されていた。勿論、闘鬼が残した殺戮の残滓は、彪兒の手によって全て拭われた後である。
 屋敷に在った夥しい骸は、冴の分も含めて全てが一纏めにされ西国の果てにある大火山の火口に投げ込まれ処分された後だった。 

 闘鬼の部屋の寝台の上で目覚めた闘牙は、その場に居並ぶ長老達と対面した。

「闘牙様、兼ねてよりの懸案であった我が一族の長の件。一族の者、皆 闘牙様にと推しておられます。この声、聞き入れぬ訳には参りませぬでしょう」

 そう言ったのは、他ならぬ彪兒。

「…だが、俺は一族の嫡子である兄・闘鬼を討った者。加えてそれに付き従う一族の者までこの手にかけた。制裁を受けてもおかしくはない身」
「いいえ、それは違います。闘牙様。闘牙様は一族の者を護られたのです。闘牙様の兄君・闘鬼様は狂っておいででした。妻である冴様をそのお腹の子ともども手にかけ、屋敷の使用人も皆殺しにしました。私の妻も…」
「彪兒…」
「それ以前より、この西国内で不穏な動きが御座いました。闘牙様もご存知の事と思いますが、我が一族内には、『陰』の部分がございます。由緒ある血統にはどうしても生まれてしまうものですが…」
「…………………」

 …言わずとも知っている。
 種は違えど、高潔な魂と抜きん出た『妖力』とを持っていた玉藻もまた、その暗闇の住人であったのだから。

「その凶暴さ、害の大きさに幽閉されていた者どもをどうした事か闘鬼様は従えられて、あろう事か我等にその刃を向けてきたのです」
「闘鬼様の妖力は甚大。誰かが討たねば、我が一族は滅ぶばかりだったのです」
「我が妖犬族の長には、闘牙様をおいて誰もおりませぬ。これは我等からの嘆願であり、また一族としての厳命でもありまする!」
 
 彪兒以下の各長老達も、口々に声を揃える。
 
「…判った。お前達の声、聞き入れよう。だが、俺は俺だ! 長になったとて、変わりはせぬぞ」

 ここに、先の長が闘鬼の手にかかり死した後、長らく空座だった『長』の座は埋まった。
 さらに波乱に満ちた舞台の幕を開ける為に ―――

 
 変わりはせぬ、と言ったその言葉通り闘牙はまず、代々のしきたりである『長』の屋敷を出て、もともとの自分の屋敷を住まいとした。
 闘鬼との闘いで荒れ果てた庭園は、国中から腕利きの庭師を集め元の様に復元されている途中。この住まいは、この庭の眺めは西国で短い日々ではあったが玉藻と満ち足りて過ごした思い出のある場所。

 生まれたばかりの我が子に、何一つとして母の面影を伝えるものもない自分には、せめて母・玉藻が好んだこの眺めだけでも与えてやりたいと願ったのだ。

「お舘様。この度の騒動につきましての調べ、あらかた済みましてございます」
「うむ…、そうか。闘鬼と俺とで…、どれほどの一族の者を殺めたのであろうな」
「お舘様、我等はそうは思ってはおりませぬ。臣下の身で、苦言を呈するは甚だ不遜に当たりましょうが、あの時、闘牙様が闘鬼様を始め、『キ』の者等を討って下さらねば、今の我等はありませぬ。どうか、もうお心痛めなさいますな」

 お気に入りの縁側で、庭師の作業ぶりを眺めながら零した言葉に、闘牙の右腕を担う斉天が言葉を返す。その忠信篤き表情に心は慰められるが、それでもこの者もあの時の自分を知らないのだと、胸の奥に言葉を隠す。この者らに向けても、叢雲牙の刃を向けた事を。 

 ふと、東の空に薄い紫金の光が揺らめき、真冬の空気に神妙な香気が漂う。伽羅や白檀、普通なら『魔除け』とされる清浄な香り。その、空の高みから ―――

「宝子…」

 無理をして西国に下ってきたのだろう。大社の束ねの巫女である宝子は、まだ祭事の衣装のまま駆けつけてきた。闘牙はもう随分と逢ってはいない旧友に巡り逢ったような、懐かしさと切ないような色を混ぜた表情を宝子に見せる。何をか言おうと口を開きかけた闘牙を制したのは、宝子だった。

「…式神から、話は聞いている。これは、玉藻姫の運命(さだめ)であったのだ」
「ああ、そうかも知れぬ。そうであったとしても、せめて一日、一刻、一刹那でも我が子と、過ごさせてやりたかった」
「闘牙…」
「あれも数奇な運命を背負う事になろう。あれほど我が子を愛しんだ、母を知らずに長じてゆくのだから」
「…その分も、お前が愛しんでやればよい」
「俺があれにやれるのは、この重荷すぎる血族と言う名の『業』かも知れん」
「闘牙…?」

 闘牙の手元にある書き付けには、斉天らが調べたこの一件の顛末が記されている。
 そこには、この度の闘牙と闘鬼との闘争で、一族内の『膿』が一掃されたように記されていた。

『キ』として陰に棲む者どもの抹殺と、跡目争いの元になりそうな闘鬼と冴の子の末路。今の闘牙の地位を脅かす事柄はないと、結ばれて。

「…誰かが早手回しにして、『何か』を隠してしまったような気がするのだ。重大な何かを」

 そう、闘牙が気が付いた時には、惨状の痕は全て綺麗に払拭された後だった。
 そのやり方もかなり乱暴で、いくら『妖』と言えど、全ての屍や残骸・持ち物に至るまで火を噴き上げている火山の火口に投げ入れて始末してしまうと言う事があるだろうか?

「何を疑っているのだ? 闘牙」
「ふん。今のこの西国の有り様が、あまりに俺に都合よく整いすぎている、という事だ」
「そう思わせる何かがあるのだな?」

 宝子の問いかけには、もう闘牙は答えなかった。
 気になるのは…、脈絡も無く一族の中から姿を消した者がかなりの数いると言う事。冴に付いていた女官長の白琳も、またしかり。冴の身に起きた惨劇を知れば、またこの白琳も同じ目にあったとしてもおかしくは無い。だが…

( …もし、そうなら、その遺体を無造作に火口に投げ入れるなどという事を、あの彪兒がするのか? 冴を庇って闘鬼の刃に倒れたのなら、それこそ忠義の鑑と手厚く葬りさえすれ )
( いや、白琳。あの女妖は、目先の利く女妖だった。我が身を危険に晒すほど、馬鹿ではないな。ならば、故意に姿を隠したのか? )

 どれほど惨たらしくても、冴の遺体はきちんと葬ってやりたかった。彪兒は、それをさせまいとしたのではないか? それは、何故?
 闘牙の胸には、尽きる事の無い暗雲が垂れ込めてくる。その思いを抱いて、これからを生きてゆかねばならぬのだ。玉藻の残した子と二人で。

「…誕生の祝いになるかどうかは判らぬが、せめて母を偲ぶ縁(よすが)になればと ―――」

 沈黙しかけたその場の気を変えようと、宝子は手にした水晶の念珠を取り出した。念珠の胡桃ほどの大きさの飾り珠の一つを掌にかざす。すると宝子の手には、美しい衣が現れていた。

「これは…?」
「玉藻姫がまだ幼い頃に身に着けていた物。この念珠の中に仕舞っていたのだ」
「…似合いそうだな、あれには」

 闘牙の口許に浮かぶ笑みは何だろうか?
 複雑な、遣る瀬無いような、皮肉めいたようなそんな笑みだった。

「名は付けたのか?」
「ああ」
「なんと?」

 ふうっ、と闘牙は遥か空の高みに視線を投げる。

「生かす為に、弑(しい)せしめよ。場合に寄っては、この俺であっても」
「何?」

 聞き返す宝子の声を無視して、言葉を続ける。

「…殺生丸。この子の名は、殺生丸だ」



 殺生丸 ―――


 余りにも重い運命を持つ、名であった。


【完】
2006.5.9脱稿


【 あとがき 】

終わりました〜っっ!! (…一旦は^^; まだシリーズは続きます。)
この話、連載開始は2005年1月17日から始めたものでした。途中色々あって連載を半年程、休載した時期もあります。
また、その時の経験を参考に自分に無理をさせない為に、その後も小休載はちょこちょこしました。
足掛け1年4ヶ月、どうにか【完】マークを打つ事が出来ました。
こんな本編にはかすりもしない自己満足な物語だったのに、沢山の方から応援していただきました(*^。^*)
やる気と元気をいっぱいもらって、最後まで楽しく書き通す事が出来ました。

この場を借りて、篤くお礼申し上げますv
 




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