【 比翼連理 7 】



 夾華は鏡に映る自分の姿を見ながら、その変化に目を細めていた。

 そこに映った女の姿は、今までになく妖艶で凄絶な感じすら増している。もともと妖婦淫婦な性質の夾華であるが、己の胎内に宿ったモノの『妖力』の影響をこんな形で実感していた。悩ましげな肢体(からだ)の線はなお磨かれ、人間の女が孕んだ時のような崩れは一切見られない。
 蛇の腹のようなま白い肌はさらにぬめるような光沢を湛え、一睨みで竦(すく)ませるその眸の奥に赤く底光りする妖光(ひかり)がちらちらと瞬き始めていた。
 そして何よりも感じるのは、身の内に満ちてくるこの【力】。

( これが、闘鬼の言っていた事なのか。…悪くは、ないな )

 鏡に映った自分に蕩けたような視線を送りながら、触れてもまだ実感を伴わない自分の下腹部に手を置いた。その手に反応したのか、微かにぼうっとした熱を感じる。
 夾華が孕むまでは、三日と空けずに通っていた闘鬼がここ半月ばかり音沙汰がない。自分が抱いた男の消息など今まで気にも留めなかった夾華であったが、流石に自分の胎の仔の父となると無関心ではいられなくなっていた。

 そう、この時点で夾華は闘鬼の女に成り下がっていたのだ。初見の折、黒巫女の頭領として闘鬼と渡り合った夾華とは、また別ものに。

「おや?」

 ぴくりと、夾華が眉を動かし自室から庭に下りる。妖しく咲き乱れる毒の花園、花の香りは一層禍々しく。夾華の結界とその中に満ち始めた瘴気とで春霞のように霞む空を見上げる。夾華の視線の先には…

「胎の仔の具合はどうだ、夾華」

 来るも去るも周りに構わぬ傍若無人な闘鬼の事。唐突な訪れに、毒の花々が散り乱れる。

「…伝えるまでもない、と言う事か。お前が来たら、驚かせてやろうと思っていたのに」
「俺を誰だと思っている?」
「ふふっ、そうか…、そうだな。妖犬のお前なら匂いで判る、か」
「その様子だと、息災のようだな」
「ああ、確かにお前の言う事に間違いはないようだ。とても、良い」
「ならば、上々」

 闘鬼のその表情にも、確かな手応えを感じる。

「少し前までは夜も昼もなく私を抱いていたお前が、ふっつりと来なくなったものだから、もう私に飽きたのだなと思っていた。それならば、この仔は私だけのものだと喜んでいたのだが」

 闘鬼の仔を孕んだ女は自分が初めてだとの優越感。

 この仔がある限り、闘鬼が自分から離れる事はないだろうと。淫乱な女であっても夾華は黒巫女を統べる女。決して、馬鹿な訳ではなかった。
 闘鬼ほどの大妖が、いくら呪力に優れていてもやはり【人間】にしか過ぎない自分を、己の仔の母にしようとは努々(ゆめゆめ)思いはせぬだろう。
 なんと言っても上手く自分が妖怪に変化出来たとしても、それでも産まれ出た仔は妖怪達が最も忌み嫌う『半妖』の烙印を免れる事は出来ないだろう。
 それを承知でもこの自分を己の『女』にした、その意味は…。

( 抱かれてみて、判った。この牡(おとこ)も私と同じ。『強すぎる』のだ。同じ妖怪の女どもでは、この男の仔を孕む事が出来なかったのだろう )

 そんな思いが、優越感として声の端々に滲み出る。
 だが、そんな優越感などこの闘鬼には毛ほどの影響も与えなかった。
 与えなかったばかりではなく、次に放たれた闘鬼の言葉に夾華の心は凍りつく。

「…俺の女はお前だけではないのでな。それに、俺の仔も ―――」


 ―――― !!! ――――


 今まで生きてきて、これほど身を妬く様な情動を夾華は味わった事はなかった。

「…今、なんと…?」
「俺の仔は、お前の胎の仔だけではないと言ったのだ」
「どう…し…て…?」
「ふん、判りきった事。より良い者を後に据えるは、上に立つ者の常識。選びようのない嫡子を押し付けられては、一族の者が迷惑」
「では、私の産んだ仔より別の女が産んだ仔の方が上ならば…?」
「ああ、そうだ。お前はお役御免だ。人間からも妖怪からも忌み嫌われる、半妖の仔の母として生きてゆくが良い」
「そっ、それでは話が違うっっ!!」
「話が違う…? 俺は俺の仔を孕めば、上手く行けばお前も俺のような不老不死の体を手に入れる事が出来るやもしれぬと言ったまで。そう言った俺の言葉を呑んで、俺に抱かれたのはお前の裁量」
「闘鬼…」
「俺はお前だけを、俺の女にすると言った覚えはない」
「私を… 騙したのだな……」

 先ほどまで抱きかけていた優越感が、闘鬼に対しての憎悪にどす黒く染まってゆく。

「ならばこんな忌まわしいお前の仔など、この私の黒巫女の秘術で流してしまうおうぞ。そうすれば、どれほど清々する事か」
「早まるな、夾華。俺の話を良く聞け。お前が産んだ仔が他の女妖が産んだ仔より上ならば、何も不服はないのだろう?」
「私を馬鹿にするな! 妖怪の産んだ仔に私の産んだ…、そうどれほど完全な妖怪に近しい仔であれ『半妖』扱いされる仔が敵う訳はあるまい!!」
「…そう、産まれ出る事があれば、な」

 更に声を低く潜め、その言葉の裏に昏い企みを込める。

「なっ…?」
「産まれ出るまでも、闘いなのだ。胎の仔も守れぬような女の仔ならば、俺は要らぬ」
「それは…、どういう……」

 闘鬼は懐に手を入れると、良く磨き上げられた幅半尺ほどの銅鏡を取り出した。その鏡面を夾華に見せながら、言葉を続ける。
 その鏡面に映し出された影は ―――

「この女が、お前の仔を孕んでいるのか?」
「ああ、そうだ」

 その影は、未だ闘鬼も名を知らぬ玉藻の姿。

「訳あって、その妖力の全てを封じられているがその力はこの俺をも凌ぐやもしれぬ」
「だから…?」
「つまり、俺の女としてお前が上か、この女が上か確かめたいのだ。この女は結界の中に身を隠し、胎の仔を産み落とす時を待っている。その間に、もしお前が…」
「私が?」
「そう、お前がお前の持てる秘術の全てを駆使し、この女の胎の仔を流す事が出来れば、その時にはお前とお前の産んだ仔を俺の正式な妻と後継として一族に認めさせよう」
「…なるほど。この私の力が見たいのだな? その為には自分の仔でさえ犠牲にするのは厭わぬとは」
「…人の【欲】を核にした力は果てがないという。だからこそ、体力的にもひ弱な妖力もない虫けらのような人間どもがここまで蔓延るのだ。そんな人間の中でも夾華、お前の力は随一」

 ゆらりと、夾華の全身から仄暗い【気】が揺らめき立つ。

 妖怪でさえその呪力で呪い殺す事が出来る夾華の力。
 その力は今、胎に宿った闘鬼の仔の妖力の影響も受け、また闘鬼の『女』への嫉妬の炎に煽られ、今まででになく高められていた。
 闘鬼は玉藻の姿を焼き付けた銅鏡を、夾華に渡した。この銅鏡は魔鏡。映し出された者が何処にいようと、呪詛の対象とする事が出来る。

「俺は、お前に期待している。お前なら、我等妖犬族に新たな息吹を吹き込んでくれるかも知れぬとな」

 飄々と、そう嘯(うそぶ)く闘鬼。
 あの宝子の大社で繰り広げたような醜態は、二度は出来ない。あの一件でさらに守りは固くなっているだろうし、ましてやはり遠縁でもあり神域でもある宝子側と妖犬族との関係を険悪なものにしては、自分だとて一族内で何かと動きが取れ難くなる惧れがある。

 自分以外の者が、それも姿も形も判らぬ様、じわじわと攻め立てるにはこの方法は良い手であろう。女の嫉妬の念ほど強く、また禍々しいものはない。胎に仔があり、その仔の存続にも関わるならまたその念に輪をかける。岩をも通す念であれば、玉藻の胎の仔を流す事が出来るかも知れぬと。

 鏡面に映し出された玉藻の姿は夾華の邪眼にも、気高く静謐な美しさで己を圧倒してくる。その玉藻の姿を、夾華は狂赤の光を眸に点し凄艶な笑みを浮かべて見詰めていた。


 夾華の元を去りながら、闘鬼はまだ何をか考えていた。上手く行けば、玉藻親子は夾華が始末してくれるだろう。だが失敗した時の事も考えておかねばならない。
 あの玉藻を守ろうとした胎の仔の『妖力』の強さを思えば、是が非とも冴との婚姻は果たせねばと。しかも、相手が心を開いて自分を受け入れなければ良い結果は得られまい。

「そう…だな。ならば……」

 闘鬼の面にうかんだ笑みは、凶悪にして禍々しい。

「そう思い煩う事はないか。俺が見たありのままを話してやれば、夾華以上の嫉妬の念に駈られる事は必至だな。冴は夾華より純な分、その怒りにも似た嫉妬の思いを俺への共感へ転嫁させる事が出来るかもしれん」

 闘鬼の思いはすでに、その腕に冴を抱いた時の事を思い浮かべている。
 一族内では高嶺の花であり、何よりも清純そのものである冴の存在。あの闘牙にしても一番近しい者であり、『女』として愛する事は出来なかったが、間違いなく最愛の『妹』である事には間違いがない。

( くくくっ、さぞ見物だろうな。手中の珠とも思っていた妹を、己が最も忌み嫌っている俺のような男の女にされてはな。俺に抱かれて乱れる様を、水晶の勾玉に写し撮ってあいつの前で見せ付けてやるのも一興かもしれん )

 抑えきれぬ乾いた、どこか狂的な響きの哄笑を残し、一陣の疾風(かぜ)とともにその姿は掻き消えた。
 
 禍々しき運命の歯車が、大きく軋みながら轍を刻み始めていた。その歯車がどんな軌跡を描き、どんな世界を拓こうとしているのか、その歯車を押している闘鬼にも判ってはいない。それが自分を破滅に向わせるものだとしても、もう留めようとはしない闘鬼だった。

 狂乱と殺戮。
 何より強くありたいと思った、想い故。
 己が『何者であるか』を見つけ出せなかった、その罪を負い ―――


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「出来る事なら、お前の出産が済むまでこの場に留まりたかったのだが…」

 そう声を掛けながら、あの闘鬼を前に怯む事無く毅然と立ち向かった玉藻を労わる。話の流れから、もうここに留まる事は無理であると、玉藻も覚悟はしている。問題は…

「宝子、ここを出るに当たって玉藻に掛けられた吉宝様の『呪』を解いた方が良いのだろうか?」
「うむ…、それは、諸刃の剣。『呪』を解かれた途端、姫の体に今まで封じられていた『妖力』が満ち溢れる。器である姫の体を壊さん程に」
「……………………」
「だが、今の無力なままの姫をこの大社の結界から出すのもまた危険極まりない事。どうしたものか…」

 思案気な二人を制して、口を開いたのは他でもない当の本人である玉藻自身だった。

「…宝子様、わたくしは今のこのままで構いませぬ。わたくしを護って下さると仰って下さった闘牙様のお言葉を、わたくしは信じております」
「玉藻姫…」
「…それに、もしわたくしの【妖力−ちから】がどうしても必要であれば、わたくしは… もう、自分で『呪』を解く事が出来るのです」
「玉藻! それは…」

 そう、それは ――――

 玉藻の妖力が臨界点に達しようとしていると言う事。
 一度『呪』が放たれてしまえば、もうその以前の状態に戻る事は出来ない。場合によっては、解いた瞬間に玉藻の体が霧散してしまう事すら有り得るのだ。そこまでの覚悟を決めて、玉藻は闘牙に付き従う事を決めていた。

「…重い言葉だな、闘牙」
「構わん、俺がこうと決めた事だ。護るべき妻子を護れぬような者が、この先どう生きようとただただ無様なだけだろう。俺は、守護獣として【狛】でありたいと思うだけだ」

 ふっと、小さな笑みが宝子の口元に昇る。この男らしいなと、そうしてどうせ止めても聞きはしないのだろうと、その確信を思って。

「…判った。だが、今しばらくの猶予はあろう? 幾ら闘鬼が狂獣の如き性格であれ、昨日の今日でまたこの大社を襲うとも考え難い。姫の身柄を西国に移す前に、せねばならぬ事がある」
「ああ、冴の事だな。ますます面倒を掛ける」
「片手であればまだ闘いも出来ようが、両の手に珠を抱えては、闘う事もまま成らぬ。その為にもな」

 ここにもまた一つ。

 大きな流れの源流たらんと息づき出した者がある。
 その者の『親』として相応しくあろうと心に思う闘牙と玉藻。行く手がどれ程自分たちにとって、険しくとも逃げはせぬとその覚悟も新たに自分達の行く末を凝らし見る。
 まだ何処に行き着くか、定まらぬ大いなる旅であるが。

「闘牙様、闘牙様!」

 闘牙の足元で聞きなれた、小さな声がする。そこに視線を向けると、ぴょんぴょんと跳ねる蚤。

「冥加か。冴への渡りはついたのか?」
「はい、冴様より了解とのご返事をいただいております。それよりも、この荒れようは一体…」

 冥加はしきりと飛び跳ねながら辺りを観察している。この神域でもある大社をこのように荒らしてしまうような不届き者など、そうそう居はしない。まずはこの社の祭神である吉宝の結界に阻まれ、大抵の者はこの境内に入る事も出来ない。そう、出来るとしたら…。

「まさか、闘牙様。この狼藉は闘鬼様の仕業ではありますまいなっっ!!」
「その、まさかと申したら?」
「何とっ! そ、それではもしや、玉藻姫様の事が判ってしまったのでは…」

 冥加の言葉に、何も言わず顔を見合わせる三人。その様子に、事の次第を覚る冥加。

「…そう言う訳だ。ここに玉藻を置いて居ても、宝子達に迷惑がかかっては拙い。俺がここと西国とを行き来をしている間に、何かあっては取り返しもつかぬ」
「で、では、闘牙様…?」
「俺の妻として、西国に玉藻を連れ行く」
「ですが! 姫はその妖力を封じられた、言わば人間の姫と変わらぬ状態。そんな状態の姫を、今のご一族方の中に置かれるなど、斐紙(ひし−薄手の和紙の名前)を火の中に落とすようなもの!! そのような危険な事をなさっては…」
「なぁ、冥加。闘鬼に玉藻の事が知られてしまった以上、もうどこに隠しても安全な場所はないのではないか?」
「…それこそ、それこそでございます!! 女人方の思惑や何やらもありましょうが、ここは冴様同様沖ノ島のヒメ命様のご加護を仰いでは!?」

 すっ、と辺りの空気がきんと引き締まった感じがした。
 何時になく、闘牙の姿が大きく見える。

「己の分身も護れぬ程に、俺は無力か? 冥加。俺は俺の手で玉藻を、俺の子を護りたいのだ!!」


 ――― それは、これからの闘いへの宣誓のようにも聞こえた。


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 冥加が言った三日目を過ぎ、冴は母が闘牙と冴の兄妹に残してくれた揃いの守護の珠だけを握り締めて、闘牙からの使いを待っていた。
 冥加の言葉から、兄・闘牙がこの一族を離れる気でいると読んだ冴は、自分の屋敷にあるもの全てを置いてゆくつもりだった。母や幼かった頃の兄妹の思い出の詰まった諸々よりも、これからの自分と闘牙の生き様の方こそ大事。
 手に握り締めた珠こそ、二人の切っても切れぬ絆を象徴しており、これだけは持って行こうと。

( 闘牙お兄様は、本当にこれからどうなさるおつもりなのかしら…? )

 清楚な儚げな女人のように見えても、冴はこの一族随一の女妖。
 頼りなげに呟いたその言葉の端々に、人ではないモノの想いが揺れめいている。

( あの厭らしい男の追っ手がかかったら、お兄様はどうなさるのかしら。 私の為に、その手を一族の者の血潮で濡らして下さる…? )

 そう思った途端、今まで感じた事のない不思議な感覚が冴の背を駆け上る。
 ぞくりとした、まだ冴が体験した事のないような快感にも似たそれ。
 熱を帯び、潤んだ冴の眸が夢見るようにその様を見ている。

 ――― 本性を露にした闘牙の巨大な姿。

 どんな鋼や剣よりも鋭く硬い爪と牙で同胞を容赦なく屠り、、辺りは真っ赤な血の海。輝く白銀の姿も同族の流した夥しい血潮で濡れそぼり、その赫々とした色よりももっと紅い闘牙の狂眼。その眸に自分だけを映し出されたら…。

( そうだわ。どうせ潰える一族なら、お兄様の手で屠ってしまえばいい。そして…、誰も邪魔をする者が居なくなれば、私はお兄様と ――― )

 冴は幸せな夢を見ていた。狂恋ゆえの、血腥(なまぐさ)い夢。
 もう誰もいない、この世でたった二人だけになってしまえば…。

 同族の屍の上で実兄と結ばれる、そんな夢を。

 冴のそんな気配に同調したのか、またはその仄暗い恋心故の邪気なのか、その『気』に良く似た気配を発する者の進入に、冴は気付いていなかった。
 闘鬼が荒らしてから、未だ回復の兆候を見せない冴の庭。
 季節は爽やかな新緑の時を迎えたのに、今 ここに居る者の心象を映してか寒々とした廃園のままに。

「何を見ている、冴」

 唐突に掛けられた声にはっと我に返り、自分の心の隙を痛感する。

「闘鬼様…」

 堅苦しく、また明らかな距離感を醸し出してそう呟いた冴。闘鬼がここを訪れた冬の終り頃には、闘鬼への敵対心も強く警戒も怠らなかった冴なのに、今のこの様はどうだろう。

「…空から、迎えが来るのか? それとも、薄汚い企みを隠そうと夜の闇に紛れてお前を連れ出す算段か」
「…何のお話でしょうか、闘鬼様。私には何の事やら ―――」

 探りなのか、確とした裏の或る事なのか? 
 闘鬼の言葉は、先だってここを訪れた冥加の言葉を知っての事のように冴には思えた。だが、ここでそれを闘鬼に露見させてはいけない。

「哀れだな、冴。お前の想っている男は、もうお前を邪魔者としか見ては居おらぬ。もっともらしい理屈をつけて、お前をここより追い払おうとしておるのに」
「闘鬼様。日頃よりの貴方様の行いは、こんな屋敷に引き篭もっております私の耳にも届いております。貴方がどんなに非道な事をなさっているか…。いえ、それを責めようとは思いませぬ。妖怪とは確あるべきなのも存じておりますから」
「だから、なんだ?」
「こんな役にも立たぬ身ですが、それでも我が身の事は己が手で守らねばならぬ時もあります。実のない貴方様の言葉に惑わされてはならないと言う事ですわ」
「ほぅ、この俺の言葉が偽りだと言うのか」

 少しでも身動げば、その触れた側から血を飛沫そうな張り詰めピリピリとした緊張の糸。

「実のない…、か。では、お前の想う【実】のある者は、さぞやお前の想いに応えてくれる者なのだろうな」
「ええ! そうですわ。 そう、その時がくれば…」

 冴の答えに、闘鬼の顔に浮かんだ笑みは冷酷にして醜悪さを顰めた邪笑。

「…来るはずもないその【時】を待って、沖ノ島の神域に幽閉されに行くのか。愚かな女だな、冴」
「幽閉?」
「ああ、あそこは流石の俺でも手出しは出来ぬ場所。本来は何人も立ち入る事の出来ぬ神域であれば、入るも出るも祭神の赦しがいる。お前だとて、例外ではないぞ」

 微かな動揺が細波(さざなみ)のように、冴の心の奥底に広がる。今の闘鬼の言葉、かなり詳しい事情を知っているようだ。いや…、それだけではなく冴も知らない何かを知っている事が実のない言葉と切り捨てた筈の言葉に、重みを与える。

( もし…、もし、この男の言う事が本当だとしたら… )

 冴の胸に兆す、微かな途惑い。そうして思い出す、あの違和感。

( …そうだわ、どうしてこの事をお兄様は直接私に伝えては下さらなかった? 心細くて書き綴った文に、返事は頂けなかった。いえ ――― )

 どきん、と大きく冴の胸が動悸を打つ。
 そう、だ。このような身でも、自分はこの一族最強の女妖。風を読み、気を読む事に長けている自分が感じたあれ。

( 梅の花も咲かぬようなあの折より、お兄様がここへ立ち寄られなくなったのは、私の分を弁えぬ想いを告げた事でお兄様に避けれたのかとも思ったが… )

 ごくり、と息を呑む。

( あの頃より感じているこれは…、私を忌んでではなく他の何か ――― )
( あの後、お兄様に何かあったとしか…。私との約束を反故にする程の…… )


 ――― 俺は、妻は娶らぬ。この血は俺の代で終らせる ―――


 この言葉を反故にするほどの…。


「何を、知っているの…」
「お前の知らぬ、いや知らぬ方が良い事をだ」

 この時闘鬼の顔には明らかに、勝ちを確信した笑みが浮かんでいた。

「俺の言葉には実がないのだろう? 聞く気があるのなら、俺をお前の側に招いてくれ」

 それは常に冴が我が身を守る為に張っている、何者にもその身を触れさせない為に張っているもっとも強固な結界を解け、と言う要望であった。
 今まで、この結界の中に入れた者は父と母と、闘牙だけ

 激しく懊悩する冴の心を圧したのは、妬心に満ちた熱い【女】の思いだった。
 冴を守っていた結界が音もなく闘鬼の前で、解けてゆく。
 そこにはもう無防備な冴だけ。冴は自分の結界を解いて、初めて気が付いた。既に自分の屋敷が闘鬼の結界に包まれていた事に。
 そして…、おそらくこの屋敷に勤めて居た者は皆、物言わぬ者に成り果てているだろうと。毒々しい程の妖気と邪気に包まれながら、冴は何かが壊れて行くのを凍って行く心で感じていた。

「…これを、見ろ」

 そう言って、冴に手渡したのは夾華にも与えたあの銅鏡。夾華では判らなかったが流石に一族随一の女妖だけの事はある。銅鏡に仕込まれた物の正体に気が付いた。

「銅鏡に、死舞烏の眸…。姿写しの魔鏡?」
「ああ、そうだ。死舞烏が見た者の姿をそのまま映し出す事で、映し出された者の動向を探る事が出来る。小手先な妖術だがな」
「そう…、人間達の中にはこれを呪殺に使う者も居るとか。それだけに、偽りは映し出す事はない―――」
「ふん。闘う事も出来ぬ、成り損ないの低俗な妖怪どもの使う術だ」

 鼻で笑い、そう言い捨てる。
 闘鬼にすれば、妖術で相手を操る事や呪殺など本来軽蔑するだけのもの。他の者を圧倒的な力で押し拉(ひさ)ぐ事の出来る闘鬼であれば。
 玉藻の呪殺を夾華に任せたのも、人間如きの呪いで狂い死ぬ玉藻を嘲笑ってやろうと、引いては闘牙そのものを! 

 夾華に与えた魔鏡は死舞烏の眸から血を一適だけ注いだ、玉藻の姿だけを映し留まらせたもの。呪殺の対象にするならそれで十分、下手に動向が判るとそれはそれで厄介だ。
 鏡面を下に伏せたまま与えられた魔鏡を、冴は恐る恐る表に返した。
 映し出された光景に、冴の表情が一瞬にして凍りつく。

「こ、これ…は……」

 鏡を持つ手が、強く握り締めた事で血の気が失せ白蝋のようになっている。
 小刻みに震える手元が、心の動揺を伝える。鏡に中には ―――

「闘牙の女だ。胎(はら)の中にはもう既に闘牙の仔がいる」
「お兄…様の……?」
「どこの馬の骨とも知れぬ女だがな。まぁ、あの顔に誑かされたのかもしれん。どうだ? 冴。女のお前の眼で見て、どう思う?」

 闘鬼に促され、見たくない気持ちを押さえ再び鏡面に見入る。

 確かに、美しい女だ。

 線の細さは自分と同じか? 
 しかし、この凛々しいまでの存在感はなんだろう。

 夾華に渡した魔鏡と違い、鏡面の中の情景は今現実に流れ行く事象を正確に映し出す。鏡の中の玉藻の表情が動く。上げた顔が花が咲くように華やぎ、その瞳に情愛の色が濃く優しく溢れる。見上げた先には闘牙。闘牙の眸の中にも、同じ色。
 何を話しているのかは聞こえぬが、立ち上がろうとした玉藻を押し留め、自分から腰を折ると玉藻の衣の上から大きな掌を玉藻の下腹に添える。怜悧な美しさを湛える玉藻の白い頬に、すっと白桃の花より淡く色が上る。そのはっとするような美しさ。

「…………………」

 冴からの答えはない。血の気の失せた指先顔色に比べ、見入るその眸(め)には澄んだ金色に血の色が混じる。

「女は一人児持ちの時が一番美しいそうだな。孕んで醜くなる女もいるが、まだそう月も経たぬのに、これほど美しくなる女もそうは居るまい。闘牙には胎の仔ともども楽しみな事だな」
「ともども…?」

 凍てついた表情に血金の眸。
 呟き零れる声音はまるで幽鬼の如く。
 側で見ている闘鬼の背にもぞくっとした物が走る。
 嫉妬を糧に、冴の中の妖力が更に増幅する。

「この女、訳あってその妖力の全てを封じられている。それは多分 冴、お前にも等しいほどに。胎の仔もそんな母と父・闘牙の妖力を受け継ぎ、まだ形にもならぬ者ながらまこと【長】に相応しい力を持っている」
「…この女の仔が…… 」

 鏡を握り締める冴の手の震えは大きくなり、今にも鏡を外に投げ捨てそうな気配が漂う。

「良いのか? 冴。お前と闘牙がどんな約束を交わしたが知らぬが、裏切られたのであろう? お前を騙し、幽閉した暁にはこの女を自分の正妻としてここへ連れてくるつもりなのだろう」

 微かに、何かが軋む音がした。粘着質な、甘く毒を含んだ香りが冴の口元から漂う。
 手にした鏡は鏡面を内に半分に折り曲げられていた。
 どんな紅よりも紅く赤い、自らの血糊で彩った唇が薄く開き恐ろしい笑みを形作る。

「させぬ…」

 押し殺された声。その一言が全てを物語っていた。

「冴?」
「この女の産んだ仔などに、一族の長の座はやらぬ! それが例え、お兄様の仔であっても!!」
「…俺と来るか? 冴。俺がお前の無念さを晴らしてやるぞ」
 
 それが何を意味するのか、判らぬ冴ではなかった。
 今まで頑なに拒み、忌み嫌っていた闘鬼の手を…、冴は自ら取る。
 身の内を煉獄の炎に妬かれながら。その炎故に盲しいてしまった眸に玉藻への憎悪を浮かべて。

 握り締められていた母より授けられた守護の珠は、先ほどの鏡と同じく冴の手の中で粉々に砕けていた。


 それは冥加が冴を迎えに行くほんの数刻前の、まだ陽も高い頃の出来事であった。


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 


「闘牙様っっ!! 大変でございます〜〜っっ!!!」

 冴への渡りを付け、その報告に戻った冥加は闘鬼の神域荒しの跡を目の当たりにし、トンボ返りで西国に戻っていた。

 その冥加が小さな体に似合わぬ大声で、精一杯跳ねながら血相を変え宝子の大社に飛び込んで来た。玉藻の側に闘牙は全ての手配が済むまでと付き従っている。冥加の話では、冴も沖の島行きには同意したと聞いていた。
 後はヒメ命の差配下で庇護してもらえば、最悪の事態は避けられる。

 その後で一族との正面対決も致し方ないと、闘牙は考えていた。
 その結果によっては、一族を出る事も考えている。自分は長になりたい訳ではない。玉藻の腹にいる子を長にしようとも思ってはいない。
 【長】である前に【狛】で或る事を忘れたくない。
 その為には、何があろうと守り抜かねば成らない、妻子であり妹。

 全ては、それから。

「どうした、冥加!」
「冴様が、冴様が〜〜っっ!!」

 その名に含まれる、緊迫感。
 即座に、立膝をつき腰を浮かしかけながら、事の次第に思い至る。

「冴が、闘鬼の手に落ちたのかっっ!!」
「わ、判りませぬ〜っっ、お屋敷は無傷なまま仕えていた者達だけ、死に絶えておりました! もしやと思い、闘鬼様のお館にも探りを入れましたが、お姿はございませぬ!!」
「冴の姿が、消えた…?」

 闘牙は立ち上がりかけた腰を再び落とし、しばし考え込む。

( どう言う事だ? 闘鬼の奇襲を受け、冴だけ落ち延びたという事か? それならば、無理の出来ぬ体。早く探し出さねば!! )

 だが…

( 闘鬼は玉藻の事も、その腹の子の事も知っている。それを冴に告げたとしたら…、冴はどう出る? )

 冴が全てを承知で、闘鬼の手を取り自ら身を隠したとしたら…。

「闘牙様…」

 傍らの玉藻姫が、闘牙の心を慮って声をかける。

「大丈夫だ、お前と腹の子はこの俺が命にかけても守り抜いてみせる」
「ですが、冴姫様が…」

 心配そうな玉藻を手で制し、更に詳しい状況を冥加に尋ねる。

「冥加、闘鬼側に何か動きはないのか?」
「はい…、お館内には誰かを隠しているような気配はなく、その闘鬼様のお姿もありませなんだ。お館内にお姿がないのは常の事で、あちらこちらの女の元に通っているとの事でありますれば ――― 」

 ふうぅぅ、と今まで聞いた事もないような大きな溜息。思い図りかねたように、闘牙は冥加に問い掛ける。

「…冥加、冴が玉藻の事を知ったとしたらどう考えるだろうか?」
「どう、とは?」
「此度のヒメ命の許へ庇護を求めた事を」

 あわあわと口を開きかけては、言葉を選びかね、また閉じる冥加。

「腹蔵のない所で良い。言ってみろ」
「…申し訳御座いませぬ。しからば、下賎な口では御座いますが、やはり厄介払い、邪魔者扱いを受けたと思われるのではと……」
「…そうだろうな。冴と交わした約束を反故にしたのは俺だからな」
「闘牙様…」

 後に続く言葉もない冥加。
 まさかこんなにも早く闘鬼が動くとは思わなかった。
 それも陽も高いうちから、誰にも気付かれずに。

「闘牙様、これを冴様のお屋敷で見つけましてございます」

 そう言って、冥加が背中に背負っていた包みを解いた。
 
 そこには、砕けた珠の欠片。

 それが意味するものは ―――
 苦しげに顔を空(くう)に向け、ぽつりと呟く。

「絆が、切れたか…」

 その声には、言い知れぬ深い哀しみに満ちていた。


【8へ続く】

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