【 比翼連理 6 】
…古(いにしえ)よりの【狛】の命脈を保ってきた闘牙達妖犬族も、あまりの時の長さにその性質が徐々に徐々に変質し、一族の主だった者達が気付いた時にはもう既に波打ち際で波頭を浴びる砂の城のように、留めようもなく崩れ去る様だった。
その中でも極々稀に、往時を偲ばせる者もいる。そう、先代の次男に当たるこの闘牙のように。
しかし、長男闘鬼のような異常さはないものの、一族の行く末をどう考えているのか長老達にも掴めていない。豪胆で闊達な、陽性な気質ではあるが、それと同時に指導者に相応しい醒めた眸(め)もしていた。
その醒めた、時には背中にうそ寒いものが走る視線を、自分たちにも向けている事に長老達の一部は酷く不快がっていた。そう言う長老達の一部が今、闘鬼の言葉に乗り冴との縁組を推し進めている勢力になっている。
自分達の体に流れる、この【血】こそが尊く、それを穢す様な真似をする者は何人(なんびと)であろうと容赦すまじとの蒙昧な感情に支配されていた。そんな考え方に則れば、それこそ闘鬼と異母妹である冴との婚礼は聖婚に他ならず、この二人の交わりで生まれ出るモノの危険性はなんら配慮されてはいなかった。
闘鬼が数多に孕ませた女妖達の悲惨な末路は、全て身に負えぬ闘鬼の寵を受けた為と、つまり闘鬼が強すぎるからだと、長老達は信じて疑ってはいない。そう言う意味でも、力的に釣り合いの取れる冴をおいて、闘鬼の相手はいないと。
その一方で同腹での兄妹姉弟婚には、病的なほどに嫌悪感と絶対の罪悪感と断罪を持って接している。もし冴が闘鬼の妻の座に座ったとしても、一度でも闘牙と通じる事があれば、例え闘鬼がそれを許し冴の助命を請うてもその場に二人を引き据え、一族の長老達の名にかけて両名ともに引き裂き四肢をバラバラにした挙句、知性の欠片も無いような下等な妖怪どもの餌として、投げ与えられる事だろう。それは不可避の決定事項として。
「おや、これは闘鬼様。しばらくお姿をお見かけしませなんだが…」
久しぶりに西国の館に戻った闘鬼を、長老の中では一番歳若いにも関わらず、長老連を束ねる彪兒(ひょうこ)がそう言いながら声をかけた。
彪兒も闘鬼の性(さが)を長の器に非ずと見てはいるが、明らかに自分達と距離を取っている闘牙よりは組しやすいと相手と互いが思っている。闘鬼より冴との婚姻を整えよと言い付かった時にも、さして反対しようとは思わなかった。
このまま余りにも【長】が不在な状態が続くには、一族の統制を欠くばかりではなく、先代が道をつけ闘鬼・闘牙の力で押し平らげた西国の敵対する有象無象が蠢き出さぬとも限らぬ。それが判っていながら、闘牙には長に就く意思はないもののように思われ、あまつさえ妻さえ娶る気持ちもないように見受けられた。
…つまり、闘牙には既に一族を見捨てているような感すら感じられるのだ。そんな相手に肩入れする云われはない。長に不適格であっても次に繋ぐ者であるとみれば、一族全体から見ればそれはそれでも良い。良き次代を一族に授けてくれるのであれば、と。
「ふん…、嫌味か。彪兒?」
「いえ、決してそう言う訳では…。ただ、近頃は闘鬼様ばかりではなく、闘牙様までよく館を抜け出されるものですので…」
「一族の者に示しがつかん、か?」
「それもありますが…、冴様との話が進みませぬので、その事をご相談したくとも、こう度々館を抜け出されては、打つ手が打てませぬ」
「そう…か。冴を落とす算段か」
「はい、それには闘牙様の不在は、むしろ好都合」
「甘いな、それが油断と言うものだ。彼奴め、東の神狐族の巫女とつるんでおるぞ」
「東の神狐族…、確か我等とは遠縁関係になりますな。もしや、闘牙様はそこに通っておいでと?」
「…この場合、もし闘牙がその巫女を妻として連れてきたとして、お前たちはどう評するのだ? その婚姻は是か非か、どうだ?」
「お相手次第でございますが…、あの社の巫女であればそれなりの妖力を持ってはありましょう。本来、特に長の血統に他の種族の【血】を交えるのは芳しくはないのですが例外もあり得る、と」
「時には、是と言う事だな。これは何としても冴を娶らねばな」
彪兒の表情が不審気に微かに歪む。何度も一族を代表して冴に文を送り、使者を送り此度の闘鬼との婚姻の件を推し進めてはいるが、当の冴からは何の音沙汰も無い。むしろ兄・闘牙と歩調を合わせるかのようにますます自分の館に篭り、一族からは距離を取ろうとしている。
そんな冴の様子を、この闘鬼も知らぬ訳ではあるまい。それでも今の言葉の意味を解するなら、それは…。
( …冴様の合意は要らぬ、と。しかし、無理やり事に及んだ上での懐妊となれば、冴様がその腹の子にどれ程の憎しみを込める事か。そうなった場合、無事に生まれ落ちる事が出来るか、または生まれ落ちたモノは如何様なモノであろうか? )
純血種に拘りがあっても、彪兒とて馬鹿ではない。純粋な【種】を得るのに、どれ程の数の【畸種】が闇に葬られてきたかを知っている。むしろ雑種の方が健全で、能力・体力ともに劣っても数多く繁栄出来る力を持っている事を知っている。
並べて【生き物】は天より授かった理(ことわり)の中に、淘汰と言う名の種の進化の可能性を託されていた。純血を尊び血族婚を繰り返す事は、この理に逆らう事でもあった。
―――― 守りにくいからこそ、遵守せなばならぬ。【長】の純血を濁してはならぬ、絶やしてはならぬ、と。
他にもう縋るものの無い、末期的な一族の悲願。【血】の濃さ故に生まれ出るモノの危険性に目を背け、得られるかも知れない可能性を求めて、闘鬼と冴の婚姻を謀る。
…判っているのだ。同腹の兄弟姉妹の婚姻が許されない理由が、それに他ならないのだから。何時からこの大きな矛盾に飲み込まれ行く末を見誤ったのか、もう誰にも判らない。
調和を乱した要因は、大いなる淘汰の時を迎えようとしていた。
「…冴様の件は、このまま推し進めても宜しいのですな? ですが闘牙様が一族外の者と婚姻を結ぶのであれば、それは自ら長の座を放棄したものと取っても良いのでは? 混血種を次代の長に据えるつもりは長老連には毛頭ありませぬからな」
「純血種でも、外にも出せぬバケモノのようなモノでは話にはなるまい? 混血種でも、闘牙の子を凌駕するような者が必要かも知れぬな」
「闘鬼様…?」
「打つべき手は打っておいて、悪くはあるまい。お前とて、こんな状態が長引くのは面白くなかろう?」
「その為、でございますか? 度々のご不在は…」
「まぁ、それもある。が、何よりも未だ俺の子をまともに産み落とせた女がいない、と言う事が一番の重要事。出来の悪い俺が長になるには、次代の確保は絶対必要事項であろう」
「闘鬼様…」
…【長】になる。
自分だとて、それにどれだけの意味があるのか闘鬼にも判ってはいない。物心付いて気が付けば、自分の前に父である先代の長がおり、傍らを見れば異母弟の闘牙がいた。
今、自分の在る場所より【先】に行きたいと思っただけの事。
…そう、意味など無いのかも知れない。
自分がそう思い、そうしようと思った、ただそれだけの事。ただそれだけの為に ――――
( 長の座が空座なのは俺のせいだな。俺がこの手で… )
これもまた、【血】のなせる業(わざ)かも知れぬ。
己が『何者であるか?』との内裡(うち)なる声無き問いの、答えを求め…。
そこに昇ったとしても、見つからぬかも知れぬものを。
「彪兒、お前ももう気付いていると思うが、冴が俺に靡かぬもう一つの訳。その事をお前、どう対処する?」
「絶対にそうあってはなりませぬ。この後の一族の事を思うのであれば、元凶である闘牙様のお命も…」
「ふふん、闘牙にはその気はないようだが、それでもか?」
「致し方ありますまい。冴様の想い人が実兄の闘牙様だなどと言う事が外に漏れましては、他の一族の者に対して示しが付きませぬ。実際、一族の中のそう言う不埒な者どもは有無を言わせず両名ともに断罪してきましたからな」
「…多いのか、冴のような性向を持つものは?」
「拡がったそれぞれのものが始源の一点に還るかのように、父が実娘を、兄が妹を、弟が姉を、と…。血に血を重ねてゆきまする。その結果、生まれ出るモノの浅ましさおぞましさ。そうでなければ、袋小路の突き当たりで絶えてゆく血脈…」
「袋小路?」
奇妙な例えに、闘鬼が怪訝な顔をする。
「…闘鬼様方を以降に、殆ど正常な形(なり)・気質・知性を保った者は生まれなくなりました。畸形だったり、言葉すら理解できなかったりと…。そうでない場合は酷く虚弱な体質で、ほとんど子を成す事が出来ませぬ」
闘鬼の頬に、嘲笑めいた冷たく投げやりな表情が浮かぶ。
「何をしても悪あがき、だな」
「はい。だからこそ、でございます。闘鬼様と冴様の間にお子が出来ますれば、そのお子は我が狛の一族の正統後継者。これほどお血筋の正しきお方は、もうこの一族内の何処を捜しても見つけられぬでしょう。長じてはこのお子を中興の祖として、一族全体を立て直したいと考えております」
「…立て直す、か。その子の代にはもう一族内はバケモノばかりだろう。そんな一族をどう立て直すか、それはなかなかの見物だな」
ぎらり、と彪兒の眸が底冷えするように冷たく光る。ゆらりと瘴気のような気が揺らぐ。
「…その折には、一族の粛清をも考えております。多くは要りませぬ、残す者は。現在、異常のない子を増やせる者だけを選別致しますから」
「それで?」
「幸い我が一族は長命。闘鬼様のお子が成人なさって新たにお子を設ける時に、その時こそお相手をよくよく吟味し、血筋の正しい我が一族に近しい種族の血を迎えましょう。新たに生まれたお子達と粛清の折に選別した者とを娶わせる。一代置きにこれを繰り返せば、血が澱む事はありますまい」
そこにはもうすでに、【狛】としての在るべき姿はなかった。
「判った。お前に一存する。今、暫くは冴の身辺を厳重に警戒しておれ。闘牙が何やら企んで、冴をこの西国から連れ出そうとしておる。絶対にさせるな」
そう言いおくと、闘鬼は踵を返し落ち着く間も見せずに館を後にする。
「闘鬼様、どちらへ!」
「闘牙の女の顔を見に行く。気に入れば、俺の女にする。お前も言ったな? 他種族であっても、場合によっては是、と。俺と冴の子の代まで待たぬとも良いかもしれんしな」
言い捨て、乾いた哄笑を残し黒雲に身を変えて東の空を行く。
その声には、狂気の響きが含まれていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「おや、どうされました? 玉藻姫」
春の花の時期は過ぎ、今は新緑の鮮やかな季節。華やかさとは打って変わった瑞々しい『生命の息吹』を感じさせる、爽やかな季節の到来。
空は光の粒を煌かせながら晴れ渡り、白い雲が気持ち良さそうに風に遊んでいる。その空を、闘牙の妻である玉藻がたおやかな手を腹の上に置き、見上げている。
以前のようにひっそりと息を潜めてという感じは大分薄らいだが、それでも人目に立たぬよう日々を送る毎日には変わりは無い。時折、こうして社の庭園をそぞろ歩く事もあるが、大抵それは闘牙がここを訪れた時の事。声をかけた宝子を玉藻が優雅に振り返る。
「宝子様…」
「ほほほ、ほんに仲睦まじい事。そんなに闘牙殿の訪れが待ち長ごうございますか」
空を見上げていた玉藻の姿に感じるものがあり、この縁を取り持ったと自負している宝子だけに、かける言葉も腹蔵がない。
頬をほんのり染めたその姿は同じ女の眼で見ても初々しく、また一段と美しくもあった。果てた一族の長であり、妖力の全てを宝子の父に封じられても尚、闘牙の強大な妖力を受けても引けを取らぬだけの力を秘めた女妖。
どこか寂しげな、しかし毅然とした高潔怜悧な姿しか知らなかった宝子も驚くほど、その姿は幸せそうである。
「少し気になるものを感じましたので、出て参りました」
「うん? 気になるもの?」
「はい。闘牙様の『気』にも似ているのですが、何か禍々しい感じがして…。もしや闘牙様のお身に何かあったのではないかと」
闘牙は冥加を先に西国に帰した後、もう数日ここに滞在していたが一昨日の朝、行く先も告げずにこの社を立ち去った。真っ直ぐ西国に帰るとも思えない宝子である。自分の領土でありながら、居場所のない闘牙。
今までなら、妹君の冴姫の許が唯一の居場所であったのだろうが、今ではそこにも立ち寄れぬ。一族の中で一番【狛】らしくありながら、それ故に交われぬ孤高を舐める。
玉藻の言葉に、宝子も空を見上げた。空の一点、西よりに絹針で突いたような黒点を見つけた。確かに、宝子でも何やら善くないものを感じる。
「姫、房に戻っておられませ。あれは、もしかすると…」
「宝子様……」
「闘牙の身より、姫の身の方が危ないかも知れませぬ。わたくしが捌きますゆえ、房の戻られましたらしっかりと中から印を結んで、気配を気取られませぬようお願いいたします」
そう言った宝子の顔はもう臨戦態勢に入っており、凛々しさが漲っている。
もともとが男勝り、見てくれの美しさに騙されてはいけない。
大の男を相手にしての荒事でも怯む事なくこなし、叩き伏せるだけの力を持つ。
本当に、女に生まれついたのが間違いのようだ。
玉藻が自房に下がり、宝子が術で玉藻の気配を消し終えた時、闘牙の来訪に負けぬ程の荒々しさで黒雲が襲来した。闘牙のは雄々しさ故の荒々しさだが、これは確かに玉藻が感知したような禍々しさに溢れた、もの全て破壊したいという欲を感じさせるような荒々しさだった。宝子には、この凶暴な襲来者に心当たりがあった。そう、闘牙の義母兄・闘鬼であろうと。
気質の違いか、遠縁に当たるにも関わらず闘鬼はこの大社を訪れた事はなかった。他の禍(わざわい)成す者もこの大社に張られた吉宝の結界により、近づく事も適わぬ。
邪気の塊のような闘鬼がこの場に足を踏み入れる事が出来るのも、遠縁という血の力。黒雲が引き、そこに現れたのは闘牙と良く似た背格好の犬妖。違うのは闘牙よりくすんだ色合いの髪色と、赤味の強い金の眸。犬妖族の長の直系を顕す頬の文様の色もまた、暗赤色のまるで生傷のような色合い。
そう思ったように、闘鬼の全身からは今まで無惨にも意味なく屠って来た者どもの、血と腐肉の臭いが纏わり付いていた。
「…これは西国の闘鬼様、とお見受け致しまするが」
相手より先に声をかけ、己が決して闘鬼の『気』に飲まれてはいないと誇示する。
その声は常と変わらず自信に満ち、冷静で、それだけにこの無頼な侵入者を諫めるだけの力を持っていた。
「…お前が宝子か。なるほど、闘牙の気に入りそうな美丈夫だな。確かに…、悪くない」
「幾ら遠縁のお身内であるとは言え、ここは神域。不埒な真似は許されませぬ」
闘鬼の目的が何であるか、その妖しい眸の奥に揺らめく淫火が雄弁に物語っていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「…女の身で粋がってどうする? クソ面白くも無い巫女なんざさっさと辞めて、面白おかしく生きた方がマシと言うもの」
「何を持って面白くないと言うか私にはわからんな。そう言うお前は、『面白おかしく』日々を満ち足りて過ごしていると言えるのか?」
辺りがしんと静まり返り、風さえそよぐのを止める。肌を撫でる嫌な『気』に、闘鬼の強力な結界の中に取り込まれたのを宝子は察知した。
お互いに気迫負けしてはいないが、道理の通らぬ闘鬼を相手にする宝子の方が分が悪い。何しろ相手は『それ』が目的なのだから、必然的に宝子は守勢に回るしかない。
「そう、お前の言うとおりだ、宝子。面白くないのだ、こんな日々はな。それでも…」
と声を潜めさらに眸の中の淫火を燃え立たせ、宝子の姿に頭の天辺から足の先まで、舐めるような視線を送る。まるでその視線で犯されているような、それほどに圧迫感のあるいやらし気な視線。
並のいや、かなり気丈夫な女でもこんな視線に晒されたら、悪寒とおぞましさで鳥肌立たせ身を竦ませる事だろう。
「お前のような上玉と遊べるなら、それもまた一興。闘牙よりよほど良い思いをさせてやるぞ? どうだ、宝子」
「ふん、言っている意味が判らんな。言っておくが私と闘牙は只の呑み友達のようなものだ。いや…、むしろ『同士』のようなものかも知れぬ。下衆な勘繰りは止めるが良い」
「ほう…、笑わせるな。まだ手付かずと言うなら、それに越した事は無い。俺がお前を女にしてやろう」
妖力を蓄えた掌に凶悪さを感じさせる禍爪を光らせ、宝子の白い腕(かいな)を掴み占めようと腕を伸ばしてくる。その腕を手の甲で強く弾く宝子。
身に纏った衣装が妖気の炸裂で大きく膨れ上がりはためく。
すべらかな宝子の黒髪がその妖風に舞って逆立ち、きつく眇められたその眸からは闘鬼を射抜くような視線が放たれる。
「…いいぞ、宝子。逆らう相手を無理やりに捻じ伏せ、征服する快感は何者にも変えがたい。相手が強ければ強いほどな。お前をどんな風に犯してやろうか? 巫女などと取り澄ました仮面を引き剥がし、一匹の雌に変えてやる! そう…」
言い終わるか終らぬ内に、激しい風が闘鬼の顔面を襲い次の言葉を奪った。
「聞くに絶えん!! お前の様な男があの闘牙の異母兄とはなっっ! 闘牙の衷心の程が良く判るわっっ!! 身内のこの様のうそ寒さはな!」
「口の減らぬ女だな。戦(いくさ)にしろ閨事(ねやごと)にしろ、力の強い者が弱い者を引き従えるもの! お前が大人しく従わぬと言うなら、俺は力づくで構わぬ。その方が楽しめるからな」
きっとした表情で宝子は空を睨むと、高く手を上げ何をかを呼んだ。形の良い指先を天の一点に据るのと、その指先に白紫の光が宿るのはほぼ同時。
その掲げた手を鋭く闘鬼の頭上に振り下ろした。
雷雲の欠片さえなかった天頂より、幾筋もの神鳴(かみなり)が闘鬼目掛けて落ちてくる。
まともに神鳴を受けた闘鬼は身じろぐ事もなく、その神聖な光で体中を貫かれながら立ち尽くしていた。
「…己が何者かを捨て去った者に、相応しい神罰よ。お前の自慢の獲物で私を貫く前に、そうやって神光に貫かれた気分はどうだ? お前が無慈悲にも殺めてきた女達の恨みの程は」
神鳴の光が衰えだした時、今まで立ち尽くしていた闘鬼の体がゆらりと動いた。
手を肩まで上げ、宝子がそうしたように宝子目掛けて手を振り下ろす。まだ闘鬼の体を取り巻いていた神鳴の一部がその勢いで、宝子に向かって光の箭(や)のように飛び出した。
それを舞を舞うように優雅な仕草でかわし、相手を睨みつける。
「流石だな、そのような性根でも【狛】の血は健在なのか。では、暴れ狂う神馬・神牛を捕らえ押さえる私の腕を見せねばなるまい」
言うが早いか宝子は、闘鬼の体を逆に掴みにかかった。
典麗優雅な美女に見えて、その妖力とともに腕力そのものもずば抜けて強い。女であって女でないような宝子なのだ。
この結界の中では、そしてこの男相手では妖力での攻撃は無駄と悟ると、その切り替えも見事。掴みかけた手をかわし、今度はその手を取りに来る闘鬼。細い手首は闘鬼の手に掴まれれば、外す事はかなわぬだろうと思われたのに、その手首を支点に地を蹴り大きく反転して闘鬼の背を狙う。
暴れる神牛の角を掴み同じように大地を後ろに蹴って牛の背に飛び乗る、その技を応用しきらりと光る足の爪を長く伸ばして闘鬼の背の上、頭の付け根にある『ぼんのくぼ』に狙いを定める。
それを察したのか、掴んでいた手首を振り解くと姿勢を低くし宝子の攻撃をかわし、こちらも低い姿勢のまま宝子に正面から向き直る。
「問答無用か…。面白い、面白いぞ、宝子。久しぶりに俺の血が騒ぐわ!」
宝子の蹴り出した爪先をやり過ごし、引き締まった足首をむんずと掴み、そのまま掴んだ手を上に上げる。大きく体勢を崩した宝子が背中から、嫌と言う程大地に叩きつけられ形の良い唇から細く血の筋が落ちた。
上代の巫女衣装の裳裾が膝までめくれる程に乱れ、陽に晒される事の無い青白い肉付きの良い脚が闘鬼の目の前に曝け出される。その脚をさらに大きく割り裂こうと、中腰で構えていた姿勢から立ち上がる闘鬼。足首は掴んだまま、立って肩の高さまで持ち上げる。
「…良い眺めだな、宝子。お前が隠しているのかと思っていたが、確かにお前からは闘牙の匂いはせぬ。お前がまだ、闘牙と通じていなかったのはこれ幸い。お前ほどの女なら、我等の次代の長になる仔を産み落とす事が出来るだろう」
「ああ、そうかも知れんな。だが、お前のような男の仔なら、真っ平御免だっっ!!」
宝子はまだ足首を掴まれたままの体勢でありながら、無防備にも仰向けになり両手を頭の上に投げ出した。
「生意気な口を叩きながら、その姿勢はなんだ? まるで、お前から誘っているようではないか!!」
「どこまで下衆な男だっっ!! この宝子を馬鹿にするでないっっ!」
頭の上に投げ出した両腕を勢い良く振り下ろし、その反動と強靭な腹筋とで無理な体勢から体を宙に浮かせると、まだ自由な方の足を曲げ、闘鬼の顔面目掛けて膝蹴りを喰らわせる。
間一髪で、掴んでいた宝子の足首を離し、飛び退る闘鬼。
「…そうか、どこまでも俺を拒むと言うのだな。よかろう、お前ほどの女がこの後(のち)、闘牙と通じて仔を設ける前に、お前の体をズタズタに引き裂いておこう。後の憂いの種は早々に潰しておいた方が良いからな」
「闘鬼、お前の目的はっっ!!」
体勢を整えなおした宝子が、いつでも飛びかかれるよう低く腰を引いた姿勢のまま詰問する。闘鬼が冷酷なと言うか、厭らしげな笑みを口の端に浮かべ、見下すように言い捨てる。
「なに、もし闘牙の仔がこの世に存在するのなら、生まれ出るその前に捻り潰してやろうと思ったまでの事。好みに合わぬ女なら、その女の腹ごとな」
「な、なんと言う非道な事をっ…」
「…好みの女なら、命だけはしばし助けてやろうと。勿論、腹に仔が居れば俺の獲物で突き上げて流してやろうとな」
「お前のような男になんと言うか、もう言葉にもならぬっっ!!」
「何とでも吼えろっっ!! 闘牙の仔などこの世に存在させぬ! この俺がなっ!!」
そう闘鬼が言い捨てた時だった。
闘鬼の強力な結界を貫いて、物凄い光が飛び込んできた。その光は闘鬼に対して押さえる事のない敵意を剥き出しにし、今にも光の獣に変化しそうな爆発的な妖力を感じさせた。
( まっ、まさか! この『妖気』は…っ!? )
宝子が気付くと同時に、闘鬼にも気付かれてしまった。
そう、この『妖気』の持ち主が誰であるかと。光が到来した方角へと顔を向け、何をか風を読んでいる闘鬼。にやりと、闘鬼の眸が光る。
「…やはり、隠していたのだな。闘牙の本命はこちらの方か。どれ、見参つかまつろうか。その腹の仔ともどもな!」
迂闊といえば迂闊だったのかもしれない。玉藻の『妖力』そのものは宝子の父・吉宝に封じられているので、玉藻自身の気配を隠すのはそう難しい事ではない。
自房に戻り、結界の印をしっかりと施しておけば、いくら鼻の利く妖犬の闘鬼とて、闘牙の残り香を手繰って玉藻の存在を覚られる事はなかろうと。
見落としていたのは、玉藻の胎内に宿った新しき『命』。
この命の、まだ形容(かたち)にもならぬ者の、あまりにも強大烈火なその気質。
それは父・闘牙の気質にも良く似ており、また今まで封じられていたが為、宝子さえ知らなかった母・玉藻の怜悧峻烈な妖力も受け継いでいた。
吉宝の『呪』は玉藻には有効であっても、玉藻の胎(はら)にいる子には、なんら拘束力はなかったのだ。
自分に向けられた敵意・殺意に、このまだ形容にもならぬ胎児は怯む事さえせず真っ向から、牙を剥いた。その力は、大社の吉宝が施した結界の印を事も無く突き抜け、その存在を闘鬼に知らしめてしまう。
「やめろっ!! 闘鬼! それ以上の狼藉(ろうぜき)は…っ!!」
止める宝子の声など聞く訳もなく、闘鬼はその力を感じた方角へとそれこそ黒い旋風のように一瞬にして駆け去った。最悪の事態を予感して、宝子が今一度空を見上げる。闘鬼が張っていた結界も、今は霧散していた。
思わぬ程の力を秘めた我が子の存在に、玉藻は毅然と頭を保ち、その子の母に相応しく結界を解いた状態で、闘鬼を迎えた。
玉藻は依然、吉宝の『呪』を受けたまま。つまり、妖怪としての力は発揮出来ぬのは承知で、逃げも隠れもせぬと、襟を正して対峙する。
「お前が、闘牙の…」
その玉藻の姿に、らしくもなく闘鬼の殺気が瞬時殺がれる。
闘鬼もまた闘牙同様、そんな玉藻の姿に一目で魅せられた。宝子とはまた別種の強さ、美しさ。その毛並みの良さも、血筋の正しさも一瞬にして嗅ぎ取る。
掛け守りに込められた呪でその力を封じられているようだが、その妖力の強さももしかしたら己を上回るかも知れぬと。そう感じた時、闘鬼の背筋を形容しがたい何かが駆け上った。
闘鬼が女妖を前にして、身震いしたのはこの玉藻が初めてであった。
それほどに、目の前にいる玉藻は圧倒的な存在として、闘鬼の前に姿を現した。己が望んだ理想そのままが具現したかのような、玉藻。
先ほどの自分の言葉に発露した玉藻の胎の仔の妖力の在り方を見れば、これこそ次代の『長』に相応しい力の持ち主。
そう思う、それと同時に闘鬼の身を今迄感じた事のない、ジリジリと炙られ嬲られるような熱いものが這い舐めずり、息苦しい程の嫉妬感が襲う。
自分の欲しいと思っていたものを、すでに手にしていた闘牙への憎悪はさらに膨れ上がる。凛と佇む玉藻にその手を触れようとして、何者かの強烈な拒否の意思に弾かれ、掌を焼かれた。
( 胎の仔が、母を守っているのか…? )
今まで自分が孕ませたモノたちが、己の母を食い殺してこの世に出てこようとした事を考え合わせれば、『狛』の血脈も正しく顕われている。それだけに ―――
未だ形容(かたち)にもならぬ者であろうが、今ここでこの者を殺してしまわねば先々己に取って、どれほどの障害になるか判り切っている。
発露し始めた妖力の鱗片でさえ、己の手を跳ね除けるだけの力を持つ者。
闘鬼は躊躇いも無く人型(じんけい)を解き、本性を顕(あらわ)にした。
くぐもった、獰猛な獣の唸り声のような喉声で玉藻を恫喝する。
「胎の仔は、この俺が食い殺してくれる!! もしそれで、お前の命がまだあるようなら、お前は俺の女になれ!」
赤く猛り狂った眸を玉藻に向け、ほっそりとしたそのなおやかな肢体の更に柔らかな下腹目掛けて、牙を閃かせる。
人型を解き、持てる力の全てを解き放った闘鬼を相手に回しては、玉藻の胎の子の妖力が無尽蔵なものであれ今は未だ敵うまい。狂った牙が胎の子の抵抗を受けながら、それでも玉藻の柔らかな肉に突き刺さりそうなその刹那! 闘鬼と玉藻の間に白銀の閃光が稲妻走った!!
「闘鬼っっ!!」
良く似た二頭の妖犬。
所々に入る黒い筋が刃に打たれた刃紋のような、研ぎ澄まされた冷たい刀剣の色合いの毛並みを纏う闘鬼。冴え冴えとした月の光、白雪の輝きに太陽の白光を加えた、光そのものの毛並みの闘牙。
守るべき妻子を後方に、自分に取っては異母兄である闘鬼に真っ向から立ち向かう。
「…闘牙、か。俺の匂いを嗅ぎ付けたか。少し長居をしたな」
「ここをどこだと心得るっ! お前も『狛』ならば、場所柄を弁えろっっ!!」
「ふん、俺を動かすものは俺だけだ。必要ならば羽犬の塚(代々の長の墓所)を荒らそうとも、大御神の祭殿を焼こうとも厭わぬわっ!!」
猛々しい異なる二つの気がぶつかり合い、渦を巻く。
神聖なる大社の神域に、対極な力が今にも限界を超えて暴れ出しそうな不穏な臭いがますます満ちる。
「闘鬼! お前の軽はずみな行為でここを穢す事は、この俺が許さぬ!! 力尽くでもお前をここから引き摺り出してやるっっ!」
闘牙としてもここで闘うのは不本意だが、このまま闘鬼の思う様にさせる訳にもゆかぬ。
この場をきちんと収めねば、この後『狛』として、宝子達に顔向けが出来ぬ。
引いては、闘鬼の後ろに控えている一族の長老連との関係も悪くなろう、『神狐族』との不仲は避けたい闘牙である。
「鎮まれなされ、闘鬼殿、闘牙殿」
シャランと神鈴が鳴って、歳経た重みのある落ち着いた声が二人の耳に届く。
その声は決して大きくも無く、強い調子のものでもなかったが、ふたりはピクリとも動けなくなった。そこには宝子を従え、宝子の父でありこの大社の祭神でもある吉宝。
手には石上(いそがみ)の社殿より賜った神剣の七支刀を握っている。
元々が荒ぶる性質ではない吉宝だが、その力はやはりこの二人よりは数段上なのである。もしこの神域を侵す様な事があらば、その七支刀で両名ともに一刀の元に切り捨てるだけの実力を擁していた。
それこそ、必要であらば微塵の躊躇もなく。
吉宝の威厳に気圧され、まだ何か言い捨てようとした闘鬼であったが、そのまま黒雲を纏ってその場を疾く立ち去る。その黒雲が視界から消え去るのを待って、闘牙を本性の姿である妖犬の形態を解いた。
「申し訳ございませぬ、吉宝様。責めは全てこの闘牙に」
「いや、元々は遠縁同士の我等。少し悪戯が過ぎた悪ガキ供に親戚の爺が灸を据えたまでじゃ。我等に仇なすつもりではなく、ただの兄弟喧嘩じゃからな」
「吉宝様のご厚情、痛み入りまする。しかし、玉藻の事、胎の子の事が闘鬼に露見してしまいました。このまま、ここにあれを置いていては、何時またもや吉宝様や宝子に迷惑をかけるやも知れませぬ」
「…どうするつもりなのだ? 闘牙」
吉宝の傍らで、事の成り行きを見ていた宝子が問い掛ける。
「…あれを、俺の屋敷に連れ帰る」
「しかし、それはっ…!!」
「ああ、お前が思うようにそれこそ闘鬼の思う壺かも知れぬ。あれの身の事、胎の子の事、今日のように命を狙われる事だろう。しかし、ここに至ってはもう逃げも隠れもすまい。胎の子の力量に相応しい振る舞いをせねば、親としても恥ずかしかろう」
「闘牙…」
「俺達の事、この子の事…。全ては一族の裁量に任せようと思う。俺は全ての決着が付くまで、俺の全力で玉藻とこの子を守り抜く!」
「一波乱ありそうだな、闘牙よ」
「致し方ありますまい。荒療治でも、一族内の膿は出してしまわねばなりますまい。それが我が身を切る事になろうとも」
「その子を一族の長老連が認めたら…?」
「それはこの子の持って生まれた『運命(さだめ)』。長となるべき子であったと」
「では、お前も長になるつもりなのだな?」
宝子の重ねての問い掛けに、闘牙は頭を横に振る。
「前にも言った筈。俺は長にはならぬ。だが、この子がそう運命付けられているのなら、そう導くまでの事。俺が長であるかどうかは別の話」
「…もう一つ、聞きたい。お前は…、冴殿の事はどうするのだ?」
しばしの、間があった。
「…判ってもらうしかあるまい。今でも、冴を大事に思っている事には変わりはない。だが、俺は…」
そう言って、自分の後ろに控えていた玉藻に視線を投げ掛ける。
小さく玉藻が頷いた。
「もう、決めたのだ」
それは、闘牙らしい答え。
しかし ―――
( 闘牙よ、私も女らしい感情は希薄な方だが、それでも判る事がある。冴殿が、判っていても判る事はないと言う、その想いに。お前は、大事な妹にとても残酷な仕打ちを与えるのだと言う事が )
『狛』の一族内に渦巻く暗澹たるものに心を潰されそうな宝子は、それでも闘牙達の子が希望の光になればと、そう願わずにはいられなかった。
風雲は急を告げ始めていた。
【7へ続く】
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