【 比翼連理 5 】
――― 春の息吹は闘鬼に荒らされた冴の庭も優しく包み、枯れた草木の陰から小さな緑芽が芽生え始めていた。冴がその気になれば闘鬼の残した邪気や妖気はすぐさま濯ぐ事も出来るのだが、冴自身、心に蟠っている想いがある。
その所為か、冴の庭は未だ混沌とした気が渦巻ている。そう、まるで冴の心の様に。
数日前から、実兄・闘牙の気配を感じない。いや、それだけではなく側用人と言うには任が重いかも知れないが、冥加の些少な気も感じない。
…つまり、二人揃って今、この西国の領土から離れていると言う事。それが意味する事は…。
「冥加、お前まで…」
冴は思い余って、冥加に文を書いた。他にこの胸の内を伝えられる相手がいなかったから。あからさまに綴った文ではないが、もし判ってくれるのであれば少なくとも闘牙の一人歩きを聊(いささ)かでも諫めてはくれまいかと。
多くは望まない。確かに許されない想いであるのは、自分でも良く判っている。思い余って伝えてみて、その答えももう貰ってしまった今、冴にはあの闘牙の言葉だけが支えである。
( 俺は、妻は娶らぬ。この【血】は俺の代で終らせる )
誰も闘牙の側に添えぬのなら、自分も諦められる。何よりも、互いの身に流れるこの【血】こそが揺るぎの無い絆と信じられるから。
同じ親の血を引く、兄と妹だから…。
その一方で ―――
( いいえ! 思い出したくも無いっっ!! あんな男の顔など! )
床の上で冴は小さく頭を振った。
思い出すだけで未だに怒りが込み上げる。
やはり片親だけの繋がりとは言え、こちらもまた異母兄である闘鬼の存在。あんな男と血が繋がっているなどと、忌まわしくて仕方が無い。
ましてや、己の欲のみで、この身を欲する相手である。そして、なお冴を苦しめるのはその闘鬼の言葉に乗った長老達。日増しに長老達ばかりではなくその下の者達まで中半公然と、闘鬼に冴が縁付くのが一族にとって最良であるという機運が高まっていた。
幼い時からの脆弱ぶりを訴えてみても、長らくの婚姻生活を求められるのではなく次代を成すまでの、言わば【子を産む為の道具】としての自分を求められているだけの事。万が一そう言う…、闘鬼と交わった結果、子を産んだ後の自分など省みられる事は無いと痛いほど冴には判っていた。
そう、その為にこの自分が命を落とそうとも、きっと闘鬼を始めその言葉に乗った一族の者どもは痛くも痒くもないのだろう ――――
( どうせ残さぬこの血なら…、そう……、こんな思いをするくらいならいっその事、闘牙お兄様への思いを遂げて、二人揃って一族の者どもに殺された方がマシかもしれない… )
淡い想いはその血故か、次第にどす黒く陰に篭った哄笑をあげながら、冴の身体をさらに熱く巡り出す。
闘牙の腕に抱かれ、女として幸せな瞬間のまま一緒に逝けたら、それはどれ程の喜びであろうか。想いの異常さに身が滾り、痩せた腕を細い指で食い込む程に握り締める。芽吹き出した庭の新芽が、冴の放つ邪気で瞬く間に枯れてゆく。それは闘鬼の残した邪気と共鳴し始めていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「…人間の欲望に果てが無いというのは本当だな。お前のような女を抱いた男は最高の悦楽の果てに地獄を見る事になる」
「ふふ、人間ならばな。妖怪のお前でもそう思うのか?」
夾華の寝所に篭る事、五日五晩。
その間、二人はひと時の休みも入れずに互いの欲望を満たす為だけに、貪りあっていた。普通、ここまでの荒淫を続ければどちらかの命が果ててもおかしくは無い。
闘鬼がどんなに淫らで残酷な体位を求めても、夾華はそれを易々と受け入れた。豊満で蛇の腹のようにひんやりとぬめるような肌を持つ夾華の身体、まるで骨がないのかと思えるほど柔軟で、引き裂かれそうに下肢を拡げられても、脚を抱え挙げられ太腿が顔につく位折り曲げられても、悲鳴一つ上げる事はなかった。
むしろ、己の胎内奥深くに銜え込んだ闘鬼の雄根を、更に奥へ奥へと誘いきつく締め付ける。熱く柔らかく糜爛(ただ)れたような夾華の淫肉、何本もの触手のようなものが夾華の胎内(なか)で蠢き闘鬼の雄根を絡め獲る。時にはざらりとした刺激を与え、根元からきつい締め付けを波のように先端まで送り続け…。
「気持ちの良さで気が狂うだろうな。お前の秘技にかかると、【気】の放逸が止まらなくなる、並みの男では。お前に精魂喰らい尽くされて、枯れてゆく」
「ああ、そうだ。私の胎内に己の鮮血まで注いで逝くものもいるからな。お前も、そうか?」
「俺を誰だと思っている? お前が俺の精を飲み干すように、俺はお前が放つ高揚した淫蕩の気を喰らう。お互い様だ」
「確かに…。似合いかも知れぬな、私達は」
汗に塗れ、互いの体液に濡れそぼった身体を抱き寄せる。暗い情感の淫火を燃え立たせ眸に互いの獣めいた顔を映し出し、唇を重ねる。柔らかく美味い舌を絡めあい、隙あらば食い千切りかねないほど強く己の口腔に引き込み…。
それと同時に夾華の秘花も妖しく蠢き、銜え込んだ雄根に刺激を与える。重ねた唇を外さぬまま、闘鬼は大きく腰を引き、夾華の喉まで裂けよとばかり深く強く突き上げた。二人の足元はまるで水に漬かったように濡れそびれ、二人から溢れ滴り落ちた欲望の残滓がねちゃねちゃと淫靡な音を響かせる。肉を叩く音とその音が更に大きく響き、凶器と化した闘鬼の雄根が夾華の全身を刺し貫いた!
次の瞬間 ―――
「くっ、つっっ…、きょ、夾華っっ!!!」
「あっ、嗚呼あっっー!!」
…獲物を縊り殺す時は、相手は殺されまいと全身の力を込めて抵抗する。まさしく今、それと同じ事が夾華の胎内で起こっていた。己の中に在る闘鬼の雄根をこれ以上は無い力で締め上げ、絶息した。
ほぼ同時に今までにないほど高められた闘鬼の精が奔流のように夾華の胎内に注がれる。初めて夾華は、達する程の快感を得ていた。
弛緩してゆく夾華の身体から己の雄根を引き抜き、大きく息をつく。流石に責めに次ぐ責めを受け続けた夾華の顔に、かすかに窶(やつ)れの色が浮かんでいるが、それが尚更に夾華の凄惨な淫美さを引き立てる。
闘鬼に注がれた精を我が身に取り込み、その肌は更に妖しい艶を増し、なまめかしい身体の曲線は磨かれ、夾華の存在そのものが淫靡な化物だった。
「ふ…ん。この俺が例え黒巫女と言えど、人間如きにイカされてたまるものか。それでも、やはり――」
正気をなくし、ようやく眠りについた夾華の身体を撫で擦る。
「落とすのに、五日もかかったか。まこと、人間にしておくには惜しい女よ。俺の子を孕んで、見事我等と同じ妖怪に変化するがいい。お前ならさぞかし力のある女妖になれよう」
闘鬼は身繕いを済ませると、泥のように昏倒している夾華にはもう目もくれず、そこを後にした。とりあえず、これで【つなぎ】になる者の目途はついた。今まさに、闘鬼は夾華の胎内に根付いた己の胤の存在に気付いていた。
( だが、所詮は【つなぎ】。見事、夾華が長老どもを黙らせる程の女妖に変化しようとも、人間からのなり上がりでは力があっても下衆は下衆。そんな者が産んだ仔では、やはり良い顔はするまいな )
闘鬼の脳裏には、本命である冴の顔が浮かんでいる。どうにかして冴を己のものにしたい所だが、この夾華とは違い肉欲には淡白な方であろうし、また妖(あやかし)としての力も己を超える事はないが、易々と組み敷けるような柔(やわ)な玉でもない。なによりも ―――
( 操立てするような、惚れた男のいる女は落としがたいからな。さて、どうしたものか…? )
冴が想いを寄せそうな相手を頭に思い浮かべる。冴の館を訪れた時に感じたのは、忌々しい異母弟になる闘牙のものしか男の臭いはなかった。
冴は女の身には不釣合いな強大な妖力を持って生まれた為に、館からはろくに出る事も出来ないひ弱な身。そんな冴と接点の持てる男は…。
「ふっ、冴、お前もか。お前も、この俺同様、血の繋がる者を想うているのだな。だが、同母兄妹の交わりはいかに純血を尊ぶ我が一族でも、犯してはならぬきまり。もしそのような事実があれば、大いなる【禍】が目覚める前に二人揃ってその身を一族の手で引き裂かれような」
その自分が口にした言葉に、一抹の影を感じる。異母兄妹の婚姻が認められているとは言え、同母兄妹の交わりの末に産まれ出るモノの禍の大きさをこれほど忌避するのであれば、それに準ずる程に濃い血族婚になる自分と冴の間に産まれる仔は、今までの女妖達に孕ませ闇に葬ったアレらとどう違うのだろうかと。
「ふむ、冴は夾華よりは上等の部類だろうが、あれの母も一族の中では賎な出だったな。本当に、もう何処にもいないのか? 冴よりも生まれが良く、この俺と釣り合いの取れる女妖は」
やがて、幾ら考えても心当たりのない絵空事にさっさとけりを着け、どうやって冴を陥落させるかに思考を切り替えた。鼻の利く妖犬族であれば、その場に残った臭いだけでかなりの事柄が読める。
冴の館に残っていた闘牙の臭いには、冴を『女』と意識した男の臭いは混じってなかった。反して、冴にその話を向けると途端に冴の匂いが変わる。男を誘う、女の匂いに。
「…闘牙の奴の動きも封じておかねばな。何かと邪魔をしてくるのは目に見えている。探りをいれるか」
夾華の許を立ち去りながら、闘鬼は使い魔を呼び寄せた。掲げた左手に一羽の死舞烏が止まる。三つ目が無機質な不気味な光を反射していた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「闘牙様、お話したい事がございます」
数日続いていた慶事の宴もようやくお開きとなり、刀々斉や宝仙鬼が帰り、吉宝や宝子たちも社の務めに戻ったのを見計らい、二人きりになったのを機会と、冥加はずっと小さな体いっぱいに詰め込んでいた重荷を吐き出した。
「冥加?」
「闘牙様には、冴様をどうされるおつもりか?」
「冥加…」
ずい、と冥加は膝を進めた。
「闘牙様も、兄君闘鬼様が冴様に言い寄っておられる事にあれ程憤慨されていたではありませぬか! こちらでの喜ばしいお話が進んでいる間に、あちらもその話が一族の長老連やその下の者を巻き込んで推し進められております」
「……………」
「いよいよ冴様は、追い詰められております。冴様が闘鬼様を嫌っておられるのは、闘牙様もよ〜っくご存知の筈。今、冴様は誰も頼る者とてないあの西国で、一人心細い想いをされているのですぞっっ!!」
「…俺に、どうせよと…?」
「こちらの事も大事でしょうが、今しばらくは冴様のお側に居てあげてくだされ」
すぃ、と闘牙の顔が翳る。気にならぬ訳ではない。何よりも自分に取ってたった一人の、それも二親を共にする『妹』。大事に思うのは何処の誰にも負けはしない。
だが、側にいるのは居た堪れないのだ。冴の己を見る、あの瞳に。応えてはやれぬ事だけに。また超えてはならぬ一線を守り抜いたとて、あんな冴の様子を悪しく取りあらぬ疑いをかけて我等兄妹を抹殺にかかろうとする輩が居ないとも限らない。口さがない事だけに、煙を立ててはいけないのだ。
「冥加、お前は冴の気持ちに気付いているのか?」
「気持ち、でございますか? それはもう、闘牙様を慕ってお出でで…」
「それがどう言う意味を持っているのか、それを承知でそう言うか?」
「あっ、えっと、その……」
ふっと、哀しいような笑みを闘牙は浮かべた。
「…側に居てやりたいのは山々だ。だか、俺が側に居ればまたそれは大きな厄災を呼ぶ。助けてやりたくとも、俺では助けられない」
「闘牙様…」
「俺に玉藻が現れたように、冴にも冴を守ってあまりある程の妖が現れないものかと。そうでなければ、せめて闘鬼を満足させるだけの女が現れ、冴の事を諦めてくれればと。もし、そうでなければ最悪……」
「一族相手に一戦交える気か、闘牙」
いつから聞いていたのか、そこには大巫女の宝子。
「そう言う事なのだろう? 闘牙。お前が一族を離れる、と言った真意は」
「宝子…」
「ふ…ん、まぁ まだそこまでには至ってないか。大体の話は呑み込めた。取り合えず、妹君の身柄を安全な場所へ移動させた方が良かろう。何なら、ここでも構わぬぞ?」
…こう言う所が宝子らしいと言えば、宝子らしい。ここには闘牙の正妻である玉藻が居り、実妹でありながら闘牙を慕う冴には不条理であっても恋敵。そんな二人を同じ屋根の下で庇護しようというのは、懐が広いと言うよりも大雑把な性格な宝子ならでは。
「…宝子様、ありがたいお言葉なのですが、それはやはりちょっと……」
「ん? ああ、そうか。人間どもの言葉を借りれば、冴殿は鬼千匹の小姑であったな。ふむ…」
「お前の言葉はありがたいが、冴はひ弱な身。あまり動かせぬのだ」
更に何事か考えていた宝子だが、はたっと手を打った。
「おおそうじゃ! たしか、御方様のご息女方が西国の沖、宗像に鎮座しておられたな。御方様の助力を請うて沖津宮に匿ってもらうが得策かも知れぬ」
思いついたら、即 実行! が取り得でもある。宝子は急ぎ使いの八咫烏を東の空に向かって飛ばした。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
宝子の放った八咫烏はすぐさま、御方様よりの返事を携え舞い戻ってきた。本来御方様のご息女であるオキツシマヒメ命を祭神として祀ってある為、この沖津宮は女人禁制が鉄則である。
しかし、大巫女の権威だけではなくこの筋でも今回の妖犬一族の内紛は懸案事項のようで、あっさりと冴姫受け入れが許可された。
ここに匿って貰えれば、いかに闘鬼の妖力が甚大なものであってもこの神域は侵す事は出来ないだろう。大御霊直孫であるオキツシマヒメ命の神威には敵わない。また、ヒメ命の意に反して無理やり沖津宮に足を踏み入れようものなら、それはこの国の神意に逆らう事と同義。そこまでの危険を侵すほど、闘鬼も愚かではあるまい。
「御方様よりの返事だ。ご息女であるヒメ命様に妹君を匿うよう伝令を出されたとの事だ。これで、一応は安心だろう」
闘牙は何も言わず宝子に向かって軽く頭を下げ、その表情だけで感謝の意を表した。話が良く見えないのは冥加。御方様とか、ご息女とか…。辛うじて判るのは話に出てきた沖津宮が西国より大陸にかけて横たわる荒海に浮かぶ沖ノ島の事であろうと。いや、そこのヒメ命の事も知らぬではない。知らぬではないが、こうもたやすく話を通せるとは…。冥加はその事、そのものに驚いていた。
「聞いたな、冥加。冴への伝令はお前に申し付けた」
「はっ? あ、あの…、この冥加めがですか?」
「他に誰がいる? それも事を荒立てたくは無いゆえ、極秘に進めたい。そこの所を良く肝に命じていろ」
「闘牙様が口添えされた方が、宜しいのでは?」
どう切り出せば良いのか思案が付かず、大体こんな大変な事なら当の闘牙がそう伝えるべきではないかと、冥加は思う。
闘鬼の魔手から逃れる為とは言え、見知らぬヒメ命の元で息を潜める様に暮らさねばならぬのなら、あんな文を貰った今となっては、冴の存在を闘牙が疎ましく思い幽閉しようとしたと、そう冴に思われても仕方がないような気がするのだ。冥加がそう思う以上、これはとてつもなく気の重い役目である。
「…さっきも言ったはずだ。今、俺が冴の側に行く事は出来ぬと。お前は『狛』ではないから判らぬかも知れぬが、冴なら俺の影にいる玉藻の存在を、この残り香で嗅ぎつける事だろう」
「そ、それなら、ワシも同じ事では…」
闘牙の顔が何とも言いがたい表情を浮かべる。そう、気の利かない奴と言うか、耄碌したなという少し困ったような何とも言えない表情。
「…匂いの種類が違おうぞ。同席して移った残り香と、同衾して交わった匂いとではな」
言われて自分のニブさに気付き、大いに焦る冥加。確かに、そんな闘牙にどんなもっともらしい理由を言われても、ただの厄介払いと受け取られるのが関の山。ここはやはり、冥加の弁舌が物を言うのだろう。そして、それはそれでとても大変な事であった。
宝子の大社の境内に聳(そび)える杉の大樹。その梢近くに身を潜め、禍々しい赤き三つの目でその様子を見ているモノ。
操られ、意思なくその情景を映し出すそのモノのあまりな卑小さに、闘牙達は気付いてはいなかった。本来なら邪(よこしま)なものの近づける宮ではないのだが、このモノに護符を授けた者がやはり闘牙と同じ血を引く者であっただけに、針で突いた穴ほどの盲点になってしまった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
( はぁぁぁ〜 何とも気重じゃ。どう切り出したらいいんじゃ? ワシ )
闘牙からの命を受け、八咫烏の背に乗せられて西国に一人帰ってきた冥加。闘牙が度々西国を留守にする理由もこの件に絡ませ、上手く誤魔化さねばならない。
今すべき事は、何よりも冴の身柄の安全を図る事。この一点のみに話を集中させ、その為に闘牙が影で色々動き回っていたと言う筋書きにするしかないだろうと冥加は考えた。
取りあえずはヒメ命の庇護の下、冴の身柄は安全にはなろう。だが、その後の事は如何するつもりなのか?
闘鬼をそのままにしておけば、いつまでも冴はヒメ命の庇護下にあらねばならないだろう。それも長引けば、マズイのではないか?
何より、あの闘鬼が黙っているとは思えない。
やはり…、かなり荒っぽい一悶着を起こさねばなるまいな、と冥加は深い溜息をついた。それが宝子達の言っていた『一族を離れる』と言う事になるのかどうかは、まだ判らないが。
自分の暗い思いに浸っていた冥加に気付かせるように一声かぁ、と鳴いて八咫烏が冴の館の上空でくるくると旋回する。目の前には、大分春も長けてきた言うのに今だ寒々しい冴の庭が広がっていた。その庭に降り立ち、冥加は気が付いた。寒気を覚えるような邪気がゆらゆらと陽炎のかわりに燻っている、闘鬼と冴の色の違う邪気に。
「…何用です。こんな不躾な訪ないを受けるとは」
冥加の訪れに気付き、庭に面した御簾越しに床の上に半身を起こした冴が声をかけてくる。その声にも、どこか寒さが漂っている。
「ははっ、申し訳御座いませぬ! 冴様。闘牙様よりの急ぎの命により、このようなご無礼の段、平にご容赦を」
「闘牙お兄様の…?」
「はい、闘牙様は今、ご自身がこちらに参られるのはあらぬ誤解を生みかねぬと。ですから不肖な身ながらこの冥加が使者に立ったような次第でございます」
「…あらぬ誤解……」
冴は小さくその言葉を呟き、哀しげな笑みを頬に浮かべた。
「では、お前もその為にここ暫く西国を離れていたと申すのですか?」
「はい。闘鬼様より冴様の御身柄を守るべく、その手筈を整えておりました。闘牙様が度々西国を留守にされていたのもそのような理由でございます」
冥加の背中をひやりとした汗が流れる。半分嘘で半分真実。あまり経過を事細かく申し立てれば、出さずに済む馬脚を現すので、必要な事を最小限の言葉で。
「冥加、お前… 芳(かぐわ)しき匂いがします…。一つは伽羅と白檀の香木を焚き染めたもの。もう一つは幾種類もの梅の香りを合わせた、練り香。とても艶かしい匂い…」
どきどきどきと冥加のノミの心臓が破裂しそうに、動悸を打つ。こんな事なら、やはり闘牙自身がここに来ていても同じだったんじゃないかと、思わずにはいられない。
しかし、この場を上手く言い繕うのが、今の冥加の使命!
「闘牙様が今回、冴様の御身柄をいかにお守りいたそうか思案された末にご助力を請うたのが、東の大社を取り仕切る宝子様でございました」
「宝子様…?」
「はい、闘牙様とは懇意な間柄で、随分と気が合っておるようにお見受けいたしました。丁度、ワシがそこを訪れた時にこちらの跡目を継ぐ系統男子ご誕生のお祝いにぶつかりまして、このようなワシも宴席の末に侍らせて頂きました」
「…伽羅と白檀はその宝子様とやらの移り香。では梅の練り香はその社の奥方のもの…?」
いささか不審気な表情を浮かべ、小さな冥加の身体に残った移り香から情報を読み解こうとしている。勿論冥加の身体には他にも、あの場で飲んだ神酒の香りが一番強く、また行く時に闘牙の身体に張り付いていた所為もありこちらもかなり強く残っている。
確かに、本人が出向くよりまだ誤魔化せる余地がありそうだ。
「冥加、その宝子様と仰る方は美しい方なのですか…?」
「はい、それは中々の美丈夫とお見受けいたします。あれ程の大社を取り仕切る大巫女様であれば」
「そう、こんな病弱なわたくしと違い、とても健康な方なのですね。お兄様もお気に召している…、いづれこちらにお迎えになるおつもりなのでしょうか?」
哀しげな声の調子とは裏腹に、仄暗い情感を滲ませて言葉を綴る。冥加は、これは嘘ではないので打って変わってきっぱりと、多少大げさに否定してみせた。
「いやぁ〜、それはありますまい。あの御方は真、『女』にしておくのが惜しいようなお方でして…。大層美しくはありますが、その性格やまるで闘牙様がもし、もし女人として生まれ出でていたらかくやと言わんばかりです」
「お兄様…と?」
「はい、もうこれはきっぱりと断言いたしまする。あの大酒呑みっぷりや、豪胆な物言い、お優しくもありますが大楊で、どちらかといえば大雑把なあの気性では、奥方というより気の合った親友、呑み友達と言ったところかと」
「まぁ、そんな…」
冴の声の調子が少し、明るいものに変わってくる。
言われてみれば、確かにどれも筋の通った話しように思えるし、一番心を痛めていた闘牙の女性問題も、取り越し苦労かと思えてきたからである。
「宝子様は、『おつとめ』第一の方とワシは見ました。何より、闘牙様を『男』としては見てはおられぬ。と言うより、ご自分が『女』とあまり意識しておられぬようで」
「ああ、そう言えば以前から時々お兄様はどこぞで良くお酒を飲んで帰ってきてましたね。そう、この方の所だったんですね」
ほっと、胸を撫で下ろす。このまま今回の沖ノ島行きを冴に了解させ、闘鬼が気付かぬうちにヒメ命の庇護下におければ、取りあえずの危機は回避出来そうなのだ。後は闘牙が、闘鬼及び一族とどう話を付けるかにかかっているが。
「この方は大変なお力をお持ちの方で、今回の冴様の安全を図る為、闘牙様ともども色々動いて下さったのです。そして闘鬼様より冴様の御身を御守りすべく、ようやくその算段が付いた次第で御座います」
「算段とは?」
「はい、この西国の沖に御座います沖ノ島のヒメ命様のご助力を賜る事が出来るよう、話がつきましてございます。あそこでしたら、いかな闘鬼様といえど手出しは出来ませぬ」
「あの、女人禁制の島にですか? 島全体が聖域である故に…」
「さようでございます。ヒメ命様の庇護の下に入って頂く形になります」
何か思案気な冴の表情に、また冥加の小さな心臓がドキドキし始める。
「…わたくしの身はそれで良いとしても、あの闘鬼がそのままおめおめと引き下がるとは思えません。またその闘鬼の言葉に乗った長老達や一族の者も…。一体、お兄様はこれをどのように収めようと言うおつもりなのでしょう?」
冥加はごくり、と唾を飲み込みさらに声を潜めて冴の耳に耳打ちした。
「…闘牙様は最悪の場合、一族を離れる事もやぶさかではないとお考えのようです」
「まさか! そんな事!! 闘鬼には渡りに舟かも知れませんが、一族の者が許す訳がありません。闘鬼の言葉に乗った一族の長老達だとて、何も資質に問題のある闘鬼を長に据えたい訳ではありません。むしろ、その次の代に期待をしているので、こんなにも拗れてしまっている訳ですし…」
冥加の握り締めた拳が小さく震える。ここまで話してしまって良いものかどうかと、一瞬の逡巡が冥加の脳裏を駆け巡る。
「闘牙様は…、一族を離れるに当たって他の者への【禍】となるモノを、排除しようとお考えになっています」
「それは…、どういう事ですか?」
一瞬の間があった。
「…一族の方々と一戦交える事もあり、と」
みるみる冴の顔に、喜びにも似た桜色の血色が昇ってくる。自分の為に、一族との一戦をも考えている闘牙の在り様に、自分の想いが報われたような気がしたのだ。
どちらも在ってはならない事。冴が闘牙と結ばれる事も、闘牙が一族をその牙にかける事も。それだけに、闘牙のあの言葉が重みを増して冴の心に染みてゆく。
「…全ての事に決着がつくまで、どのくらいの時がかかるや判りません。だからこその、配慮と思し召されてヒメ命様の許へお移り頂けますでしょうか?」
ようやく晴れやかな表情で、冴が頷いた。
「わたくしの為に、お兄様が手配してくださった事。ありがたくお受けいたします。ここに残ってお兄様の足手纏いになる訳には参りませぬものね」
「出来るだけ早く、そして何よりも闘鬼様に気付かれぬうちに、ですじゃ。次にお目にかかる時は、ヒメ命様の許へお移り願う時。それまで、気取られぬようお過ごし下さいませ。お迎えが明日になるか三日先になるかは判りませぬが、そうお待たせは致しませぬから」
そう言うと、冥加は急ぎ冴の許を退出した。
打ち枯れた庭木の細い枝に止まった死舞烏の不吉な赤い目が、この二人を見ていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
差し出した左腕に、音もなく止まる死舞烏。その赤い目玉に映し出された情景を闘鬼は読み取る。宝子の大社での事、冴の屋敷での事。
「ふ…ん。何やらこそこそしていると思ったら、そんな謀(はかりごと)を巡らしておったのか。しかし…、ふむ、この話に出てきた宝子とやら、一度見分しておいても良いかも知れぬな。名は聞いた事があったが、あちらの眷属は最初から眼中になかったからな」
近くて遠いような眷属。ましてや宝子の属する一族は、今の闘鬼とは相容れぬ考えの下に統率されていた。闘鬼の足が向かぬのも道理。考えの違いは、またある意味結界のようにその辺り一帯に、反する意思の者に対して近寄りがたい『気』を発する。
にやりと、新たな獲物を見つけたようにその獣眸の奥で揺らめく妖しい光がある。小耳に挟んだ今の話では、かなりの美人でもあり強気の女妖のようだ。ただの妖と違い、【巫女職】というのも劣情をそそる。
神聖なものに仕えるものを無理やりねじ伏せ自分の思うがままに扱う快感は、相手が美しく気位が高く強気であればあるほどさらに強まる。何より、その女妖がどこかあの憎らしい闘牙とも似ていると言う一言が、興を添える。
惨たらしく扱い、陵辱の果てにそのぼろぼろになった骸をあの闘牙の前に投げ衝けてやったらどれほど愉快な事だろう。
お前と懇意になったばかりに、聖職につく身でありながら謂れの無い陵辱を受け、穢されてゆくその巫女の愁嘆の声が、耳の奥に響くようだ。さぞかし闘牙、お前を恨む事だろう。
怖れるものを知らぬ、闘鬼の邪に塗れた愉悦の笑い声だけが低く辺りに響いていた。
【6へ続く】
TOPへ 作品目次へ