【 比翼連理 3 】
盛りを過ぎた蝋梅に代り、鮮やかな紅梅凛とした白梅が、今を盛りと咲き誇る。同じ咲き誇るでも、もう少し後の世で好まれる桜とはまた異なり、爛漫ではなく風雅。花の終りかけた蝋梅の枝に白い手を伸ばし、薄青く霞む空を見上げる麗しき女人が一人。
その様はまさしく息を呑むほどの美しさで、その女人が類稀な美貌を持ち得ているからだけではなく、その存在そのものが麗しかった。隠れ棲むようにして、永の歳月。自らも無い者として過ごしてきたこの女人、玉藻姫には珍しく梅の蕾が綻ぶ程に人知れず空を見上げている事が度々あった。
宝子が大巫女として取り仕切るこの大社(おおやしろ)も、春の大祭を前に何かと慌しい。
目敏い宝子にしては、気付くのが遅かったと言えよう。
大祭の仕儀を整え終り、最期の確認も済ませ、久しぶりにほっと一息付いた時だった。梅の枝の向こうに、空を見上げる玉藻姫を見つけた。その表情は、常の怜悧な雪景色のような寂しく凍てついたものではなく、透き通るほどの白い頬にほんの微かな薄紅を刷いたような、たったそれだけで生き生きとした美しさを醸し出していた。
( ふむ…、これは、もしかすると… )
しばらく空を見上げていた玉藻姫だが、ふっとその瞳を伏せ、いつもの氷のような玲瓏さに立ち戻る。束の間、夢を見た己を恥じるかのように、社内の自房へと戻って行った。
―――― 徒花(あだばな)同士、か。
あの姫を見た時の、闘牙の言葉。
確かに末期的な一族を束ねればならぬ闘牙と、既に終(つい)えた一族最期の姫。見事に咲いて、散るだけが徒花ならば…。
( しかし、折角男と女として巡り逢ったのなら、そこから始まるものもあるのではないか? 闘牙よ )
花も盛り。
無為に散らすには惜しい花々である。
ほんの一瞬でも、共に咲き誇っても良いのではないかと宝子は思った。
「…花見の宴でも設けるか。この間は余りにも無聊過ぎたな」
宝子も空を見上げ、そう呟いた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
闘牙の許に、宝子の使いの白い八咫烏(やたがらす)が、梅の枝に結ばれた文を届けに来たのはそれから、数日後の事。恙無(つつがな)く大祭を取り仕切り、それから大急ぎでこの花の宴を整えた。
そう、花が散る前に。
賓客は宝子の気の置けぬ者ばかりで、肩肘の張らない宴になるよう心を配った。
この社の主神であり宝子の父でもある陽気な性格な吉宝。この吉宝と古いよしみで、祭事に使う神器なども打ち出してもらう事もある刀工の匠、刀々斉。同じく神宝を清め、また作り出してももらう宝仙鬼。これに闘牙と玉藻姫。
玉藻姫に至っては、今まで他者の目に触れぬよう生きて来ただけに渋るのを、ごく僅かのそれもそれなりに高位の訳の判った者達だけだからと、中半強引にこの宴の席に付けたのだ。
最期に一番遠くから招かれた闘牙が紫色の雲に乗り、今度は幾分か静かに境内に舞い降りた。
境内のどこそこかで宝子の妹巫女達の奏じる楽の音が、風に乗り梅の香気をさらに趣のあるものにして、賓客たちを持て成す。宝子の妹達でさえ、この宴を垣間見る事は許されてはなかった。宴の接待などの雑事全般は宝子の式神達が受け持ち、まるでその場は高天原の神々の酒席のようである。
宝子が玉藻姫の隣の座を闘牙に勧める。
僅かに、闘牙の表情が綻んだのを宝子は見逃さなかった。
闘牙に取っても、今回の招きはこの重たすぎる程の心の憂さを晴らすには丁度良い機会。まさしく渡りに船、であった。
【長の血脈】を巡っての、実妹から寄せられた倫理(みち)ならぬ恋慕。その妹を己の魔手にかけようという異母兄。明らかに末期的症状を見せ始めた一族内の諸々の有り様。どう考えても、すでに袋小路の中。その息苦しさに、押しつぶされそうな日々をここしばらく送っていた闘牙である。
やはりここは、闘牙にとって一番心寛がせる事の出来る場所。
また、こんな機会でもなければいくら親しくしている宝子の父親とは言え、現『倉稲魂命−うかのたまのみこと』である吉宝にも目通り出来ぬ。自分よりも遥かに永く生きて来た先達に尋ねてみたい事もあった。
そう、自分はこれからどうすれば良いのか、と。
「よう、久しぶりじゃねぇーか、闘牙! 元気にやっとるか?」
闘牙が着くまでにかなり早い調子で杯を重ねていたのか、旧知でどこか人を喰ったような所のある刀々斉がぎょろ目の端を少し赤くして、機嫌よく声をかけて来る。見た目はどうにも貧相な老爺だが、これがどうしてどうしてなかなかの実力者。火の山の一つや二つ、自在に操れるだけの力を持つ。この者に鍛えさせた剣は、この世あの世を問わず最高の切れ味を持つ剣となる。
「ああ、そういえば親父の葬儀の時以来か。俺よりも、お前の方が老いぼれておろう」
「へん、若造が! まぁ〜だまだお前なんぞには引けはとらんわい」
場慣れしない玉藻が、嗅ぎ慣れない神酒の匂いに顔をしかめつつ、落ち着かぬ気な顔つきで宝子を見上げる。
この場で見知っているのは、宝子とその父・吉宝。それと、先日一度だけ目にした、この闘牙。後の二人はどうにも得体が知れず、何時にない警戒心を抱いてその場に居た。
闘牙にしても、この奇妙な面子の揃いに微かに疑念が沸く。
確かに嬉しくはあるのだが、この【場】に玉藻の姿があるのが、やはり場違いな気がするのだ。男勝りな宝子と違い、その出生の重さ故に深窓にも深窓を重ねるように、密かに暮らしていた玉藻をこの宴席に侍らせる訳が。
これが前回のように無礼請な気の置けない呑み事ならば、花の代りにそれを肴に酒を飲めば、また美味くなりもしよう。しかし、このような場では荷が勝ちすぎるような感じがするのだ。
「…俺は無骨者ゆえ、失礼と存ずるが、姫にはこの席は居心地が悪いのではありませぬか?」
自分の隣に座る玉藻に、そっとそう声をかけた。
梅の枝越しに空を見上げていた玉藻の頬に浮かんだ薄紅よりも、なお鮮やかな紅(べに)がその白麗な頬に刷かれる。目元を神酒の匂いではない酔いに染め、ほんのりと潤ませて。
「…いえ、大丈夫でございます。何分にも慣れぬ席ゆえ、わたくしの方こそ無作法で…。お目障りでなければ、このままここに居りましても宜しいでしょうか?」
潤んだ瞳で見詰められ、闘牙も柄にもなく赤くなる。
「おう、勿論だ。そなたの様に美しき姫はその場にあるだけで、万花を愛でるより価値がある」
珍しい闘牙の甘い言葉に、玉藻の反対隣に座っていた宝子が苦笑いをする。
宝子も稀代の美丈夫、今まで幾度となく共に酒を酌み交わした仲だが、ついぞそんな言葉をかけてもらった事はない。
苦笑いの表情のまま、他の賓客たちと目配せをする。
刀々斉も宝仙鬼も、また宝子の父・吉宝も同様である。それぞれの一族を象徴する若い二人に、慈しみの眼を向ける。
闘牙に取っては、刀々斉と宝仙鬼は後見人。また生れ落ちて直ぐに二親を失くした玉藻姫には、宝子の父が親代わりであった。
…つまり、この席はそういう意味を持つ席でもあった。
それを当の本人達が気付いているかどうかは定かではないが。
玉藻姫の同席は闘牙に取って嬉しい事ではあったが、それよりも今はこの胸に蟠る思いの方が圧倒的に暗い影を落としている。和やかな表情で杯を重ねても、時折その影が闘牙の顔の上に現れる。
「闘牙、何か思う所があるのか? 余り酒が進まぬようだが…」
式神が酌をする様子を見ながら、宝子が言葉をかける。
その言葉に他の三人、吉宝・刀々斉・宝仙鬼の視線が闘牙の上に集まる。
「…俺は、【長の座】などに興味はないが、それでも一族の行く末を気にせぬ訳ではない。このままで行けば、我が一族はどこに行ってしまうのか…。それが気掛かりでたまらぬ」
ことりと杯を置き、瞬時、清冽な気を立ち昇らせて刀々斉が口を開いた。
「…そんなにも、行き詰ってるってぇのか?」
「お主の父、先代の長もそれには気付いておった。故に、お主の母を妻に迎えた訳じゃし」
と、宝仙鬼。ゆっくりと、闘牙が首を横に振る。
「…辛うじて俺はまだマシな方で、もう俺の代以降の者でまともに生まれてくる者は殆ど皆無だ。同じ血族内では、もうどうしようもない所まで来ている」
杯に映る自分の顔を見ながら、眸を伏せる様に闘牙の身に潜む孤独を感じる。
「もとより、我らは『対』を成す事でその力を存分に発揮させる事が出来るもの。そう、空を飛ぶ鳥がその両の羽根で風を切るように」
「闘牙…」
「…天(そら)に還る事も出来ず、穢れた地を這い回るうちに、いずれ奈落へと飲み込まれてゆくのであろうな」
そんな沈んだ闘牙とは対照的に、くいっと勢いよく杯を空けぷはぁ〜、と能天気な息を吐いてここの主神である吉宝がのたまう。
「もっと視野を広く持て、闘牙。行き詰っていると思うから、袋小路に嵌り込む。要は、お前が如何したいかだ」
「如何したい…?」
「…妖犬族を、お前は如何したいのだ? 以前のようなモノにしたいのか、それとも終えさせたいのか。そう難しい事ではなかろう、この答えは」
「…これ以上【キ】を蔓延らせるのなら、もう俺の代で終らせても良いと思っている」
この答えは吉宝達には予想済みの答え。花見の宴と言いながら、玉藻は自分の目の前で話されている一族終焉の話を身を切られるような思いで聞いていた。
そう、自分はその一族終焉に取り残された最期の一人。
「終らせられるのか? 闘牙。お前にはそれだけの覚悟があるが、お前の兄貴、あの闘鬼が何やら動き回っているようじゃねぇか」
再び杯に口を運びながら、大きな目玉をぎょろりとさせて刀々斉が口を挟む。痛い所を突かれ、しばし言葉を言い淀む闘牙。
「うむ…、お前が身を慎んで子を成さんでも、闘鬼の方でとんでもないモノを産み落とさせて、それが振りまく禍を抑えるモノが居ないのは一族としては大きな瑕(きず)になるのではないかの? そう、【狛】としての」
教え諭すように、宝仙鬼も言葉を続ける。
「判っている!! だが、俺はその為に闘鬼のように数多の女妖の命を奪うような真似はしたくない! ましてや、生れ落ちた我が子であろうモノをこの手で始末するような真似は絶対にっっ!!」
それこそが闘牙の信条。
【狛】である事の矜持。
「あの…、宝子様。わたくしは席を外した方が宜しいのでしょうか?」
闘牙達の会話を聞きながら、玉藻はそっと隣の宝子に尋ねた。
自分以外ここにいるのは高位の方々ばかり。今話されている内容も、また妖犬族のこれからに関わる重要事。
こればかりは、はっきりと自分がここにいるのは場違いだと、玉藻は感じた。
「いいえ、姫にはこのままこの場に居てください。それで構わぬな、闘牙」
場を仕切る宝子が、そう闘牙に声をかけた。
「…俺は構わぬが。だが、やんごとなき姫君が聞いていて楽しくなる話題でもないな。この話は、ここで止めにしよう。折角の美味い酒が勿体無い」
ふっと割り切ったようにそう言うと、改めて玉藻に笑いかけた。
「身内の話を聞かせて悪かったな。何、成るようになるものだ。楽しんでおられるか、姫よ」
「はい。あまり外に出ぬものですから、わたくしから話す事は出来ませぬが、皆様の話されている様子を楽しませて頂いております」
何故か知らぬが、玉藻は闘牙の声を聞くだけで身体が震えるような感覚に襲われた。その響きが心地よく、話す内容が何であれ、まるで天上の楽の音を聞くが如く、夢見心地になる。
闘牙にしても、あの折初めて一目逢っただけの、言葉さえ交わさなかった玉藻の印象が心に焼き付いている事に、今その姿を前にして気が付ついた。今まで、どんな美しい女でさえその心に棲まわせる事のなかった己が。
実を言えば、闘牙も闘鬼の事をああは言ったが、自分とても似たような事をしなかった訳ではない。どうにも制御し切れぬ衝動を抱いた時などは。
ただし、相手はちゃんとそれなりに選んだつもりだ。まず、同族の女妖には手を出さなかった。相対する敵方の女妖の中には、闘牙を取り込もうと自分の身を投げ出してくる者もいる。そんな女妖の中でも特に性質(たち)の悪い者を選んでの事。
その所為で、陰ではとんでもない悪食との噂まで流された。
そんな一夜限りの愛敵(あいかた)にでさえ、断わりを言うのは忘れてはいない。つまり…、
『殺されるのを覚悟で、抱かれに来たのか?』、と。
相手はそれを、閨言と受け取るのが常でこう返す。
『ああ、あんたのその立派な剣で刺し殺しておくれ。じゃなきゃ、あたしが食い殺してあげる』、
と凄艶な笑みを浮かべて。
その言葉通り、その女妖が次の日の朝日を拝む事はない。
玉藻を前にすると、そんな己の所業が少しばかり罰が悪いような気がして、どことなく畏まっている自分に気付く闘牙である。これが宝子だったら、あっけらかんと簡単に事の顛末を伝え、宝子が顔を顰めるのを楽しんで済ませる話なのだが。
「姫はこの社(やしろ)から出られた事はないのか?」
「…あまり気が進みませぬので。吉宝様も宝子様も供を付けるから近くの山々へ散策に出てはと、言っては下さっていたのですが」
「外界(そと)が怖いのですか、姫」
「闘牙様、どうぞ玉藻と呼んで下さいませ。そうですね、わたくしはこう言う者ですから…」
そう言って玉藻も胸からかけた掛け守りに手を添えた。
「それは…」
そう、それはこの前ここで玉藻を見かけた折に宝子から聞いた話。玉藻にかけられた【呪】の事。
「わたくしの身を守ってくれている、吉宝様のありがたいお守りです。それと同時に…、わたくしの妖力も封じられております。今のわたくしは、何の力もない人間と変わらぬのです」
玉藻の身上は、宝子から聞いて知っている闘牙だが、ここは黙って玉藻の語らせるままにした。
その所為で、閉じられた玉藻の唇から会話が途絶え、その後の間をどうしようもなくもてあまし気味の闘牙に、軽く宝子は舌打ちをした。女妖を抱いた事はあっても付き合った事のない闘牙は女心を読む術に長けている訳ではなく、このままだと酒宴の挨拶程度の会話で終ってしまいそうな気配が漂っている。
「玉藻姫、慣れぬ酒宴で神酒の匂いに酔ってしまわれたのでは? 闘牙、姫に付いて梅園を歩きながら梅を見て来い。この前来た時に見そびれていたからな」
もっともらしい口実をつけ、二人を庭に追い出す。あの玉藻が他者の前で自分の身上を語るなど、そうありはしないのだ。つまりそれは…、闘牙に自分を知って欲しいとの無意識な思いの表れ。
ここから先は、自分達二人で確かめるしかないだろう。
剛毅な闘牙らしくもなく少し顔を赤らめ、手を差し出す。
差し出された手を玉藻ははにかみながら取り、その席を立った。
深窓に育った玉藻ならいざ知らず、百戦錬磨の闘牙まで初々しく見える。
全てなるべくして成ってゆく。
そう、成るようになる、のだ。
二人が梅園の隅に消えたのを見計らい、抑えきれぬ笑いを真っ先に零したのはこの宴を仕立てた宝子であった。
「どうです、父上。私の目に狂いはなかったでしょう。私も迂闊でした、こんな近くにこれ程の良縁があろうとは」
「ったく、あの闘牙がまだケツの青い小僧っ子のように顔を赤くしやがってよ」
口は悪いが、慶事が動き始めた手応えを感じ気持ちよく手にした杯の酒を空ける、刀々斉。
「ああ見えても、真面目な性質だからな、闘牙は。真剣に一族の行く末に悩んでおった」
応えるように宝仙鬼。
「…もう、ワシ等も含め【昔】のようなモノには戻れぬじゃろう。かと言って、すぐさまこの舞台から退場する訳にもゆかぬ。今しばらく、留まらねば成らぬでの」
「父上…?」
宝子の父、吉宝が神威を滲ませ厳かに言葉を続ける。
「ならば、新しきモノになれば良い。その昔、この『大八洲豊葦原の瑞穂国』(おおやしまとよあしはらのみずほのくに)に生まれた八百万の神々はたった一人の男神、たった一人の女神、この二人から生じたもの。また一から始めるのも良かろう」
刀々斉は既に行儀もへったくれもないと言う風情で、直接酒器に口を付けて豪快に酒を呷っている。絶えるはずの血脈に、行き詰まっていた血脈を加える。
その両方が同じ位の力を持ち、そして互いが互いを必要とするのであれば、そう人間で言う所の深い信頼と愛情で結ばれた二人であれば、新しく生まれるモノが悪いモノである筈はないだろうと ―――
そうなる可能性を秘めた二人であった。
その二人を、古(いにしえ)からヒトとそれらのモノを見守ってきた者等が優しく見詰める、新たな行く末。
―――― 光があれば、陰があるように。
その者らの思いを覆すように、蠢くモノがいた。
* * * * * * * * * * * * * * *
初めて出逢った時に咲き始めていた蝋梅は盛りを過ぎ、枝には三輪、二輪の花が残っているのみ。あの時、この梅の薫りに調和する玉藻の麗瓏な薫りに魅かれ、まだ寒々しい梅が枝の向こうに佇む玉藻の姿を見た。そう、出逢いはあの時のみ。一言の言葉を交わす事もなく…。
今回の宝子の計らいで設けられたこの花見の宴。そこで闘牙は玉藻の姿を見、そして玉藻も闘牙を見た。初めて耳にした互いの声に魂が震え、一瞬の出逢いであったあの時に感じたものが何であったか、言葉にせずとももう二人とも判っている。欠けていた、己の半身。共に在るべき、唯一の存在。
「…ここの花は終ってしまったな」
宝子には申し訳ないが、本当にまともに女人と会話した事がない事丸出しな闘牙の言葉。美しい女人を前に、『花が終った』などと、底意地の悪い者が聞けば嫌味かと思うような台詞を口にする。くすり、と玉藻が笑みを零す。
「そうですわね、終らなければ始まらぬ事もあるもの。わたくしにはあの折の【時間−とき−】が、立ち戻ったようにございます」
「玉藻…」
闘牙が初めて玉藻を見た時のように、そして宝子がこの席を設ける気になった時のように、玉藻は花の少ない枝に手を伸ばし、空を見上げた。
「…今でも、不思議なのです。あの日、何故か無性に外に出たくなって…、空を見たくなったのです。そして闘牙様…、貴方様に出逢いました」
白梅の花芯の色よりももっと淡く、頬を染めて言葉を続ける。
「一目、貴方様をお見かけして、その時のわたくしにはもうそれだけで十分でございました」
玉藻も自分で驚いていた。何故、こんなにも自分は闘牙に何もかも話してしまいそうになるのだろうと。もともとひっそりと、音も立てぬように過ごしてきた。それなのに…。
どう話を向けようかとしていた闘牙には、玉藻が思いの外、良く語ってくれるのでその声の余韻を存分に楽しむ事が出来た。しかし、そろそろこの辺りで自分も何か話の水を向けねばと、闘牙は言葉を探す。
「あの折は、まるで風に吹かれた梅の香のようにたちまちに消えてしまわれて、俺としても残念であった。時が立ち戻ったようであれば、あの折の続きを――」
「続き?」
「…声をかけようと、思っていた。そなたと話をしてみたいと――」
「話? わたくしが話せる話などそうは…」
「話の内容などはどうでも良い。ただ、そなたと話してみたかっただけだ」
闘牙は話しながら、自分でも何を言っているのか良く判らなくなっていた。何処かでいつもの自分が、この青臭い自分を呆れながら見ているような気すらした。
玉藻の眼にも、その様は手に取るようによく判る。それは滑稽なと言うより、むしろ自分には好ましく思えて…、だからこそ先ほど聞き及んだ妖犬族のあらましを察するに、また自分が抱えている重荷を話しておかねばならないと…。
すっ、と玉藻の気が引き締まるのを、闘牙は感じた。
「…ならば、わたくしの今は終(つい)えてしまった一族の話でも」
そこにあった姿はなおやかな深窓の姫ではなく、一族最大最強を誇る妖力を継承した、そう一族最期の【長】の姿。
妖力の全てを吉宝の呪に封じられているとは言え、玉藻が生来身に帯びている気質というか風格のようなものは、現在当代一の大妖怪と謳われる闘牙を前にしても、なんら遜色のないものであった。
「聞いては成らぬ事ではないかと存じましたが、先ほどのお席での話…。わたくしには他所事のようには思えませんでした。かつて…、わたくしの一族も同じ道を辿ったのです」
「玉藻、話して辛い話なら無理せずとも良い。俺も無理には聞こうとは思わぬ」
聡明な玉藻は、闘牙が何らかの事情を既に知っているものと見抜いていた。
「…隠し事がお上手ではないのですね、闘牙様。他から入る話より、わたくし自身の事ですから、このわたくしの口からお話したいと存じます」
金・銀・玻璃の鈴を振るが如きその声音には、闘牙にさえ有無を言わせぬ重みがあった。
「古くから続く一族ほど、その血脈を大事にするのは良くある事。わが一族もその例にもれません。女が強すぎる一族でしたからあまり子にも恵まれず、とうとうわたくしだけになってしまいました」
「…うむ、その経緯は宝子から聞き及んでいる。九尾狐族最期の一人にして、一族最大最強の女妖と。ただ、そのあまりに強すぎる妖力故に、そのか弱い女の身が持たぬ。その為に現『倉稲魂命−うかのたまのみこと』である宝子の父君が妖力を封じる事で、その身を守っていると聞き及んだ」
「では、わたくしの父母の事はお聞き及びでございますか?」
冷静に、そして鋭く言い放たれたその言葉に、闘牙の背中に走る戦慄めいたものがある。
そう、なのだ。それは…、この玉藻と同じくか弱い女の身に溢れるほどの妖力を受け継がされ、日々弱ってゆく身体でこの兄である闘牙に想いを寄せる冴の存在。
どれほど大事な者でも、妹は妹。
闘牙にとって、契りを結ぶべき相手にはなり得なかった。だが、玉藻の二親は…。
「厭(いと)わしゅうございましょう? わたくしの父母は二親を同じくする実の姉弟にございました。…わたくしは、一族の妖力の全てだけではなく、一族の穢れの全ても身に負っているのです」
「玉藻…」
「…ですから、闘牙様のお言葉が身に染みました。わたくしもこの身限りで終えようと」
一族の中で異端視されがちで、事ある毎に【弧】を感じていた闘牙だが、この玉藻の深い孤独はどうだろう―――
そう思う闘牙の心のうちに熱い何かがはっきりとした形を取り始める。何もかもがある一つの意味を持って目の前で解明されてゆくような、そんな感じを全身で感じる。あの時、何故ここに来たのか。あの出逢いは偶然などではなかったのではと言う思いと、だからこそ愛しい妹の冴の求愛を退けたのだと言う思い。
「…穢れなどではない。玉藻の父母が本当に互いを必要とし信頼しあって、その上で望んだ結果がお前と言う存在なら、それは穢れなどではない」
「闘牙様…」
「お前を見ていれば、よく判る。お前の父母の魂の高潔さが。全てを見据えた上での事であったのだろうと思う。寂しさや絶望感、ましてや欲を満たす為だけに求め合ったのではないと、俺は断言する。そうせねばならぬ道理があった筈」
「何故に、そう言い切れます?」
ふっと、僅かに闘牙は躊躇した。これを話すには、冴の事も話さねばならぬ。
「…俺も、同じだからだ」
「同じ?」
「俺にも、妹がいる。お前にここであった帰りに寄った妹の館で、俺への想いを告げられた」
「…妹君の想いをお受けになられたのですね?」
闘牙は陰のある笑みを浮かべて、首を横に振る。
「この世で一番大事な妹だ。だが、違う。妹は、冴は俺の契るべき相手ではない。だから、共にこの血脈を絶やそうと話していた」
「…………………」
「玉藻、お前がここに存在(ある)理由は、そう言う事なのかも知れない。この俺と出逢う為だったと、そう思っては俺の思い過ごしだろうか?」
不器用な、言葉も足らぬ闘牙の言葉。
それだけに、その言葉の意味は真摯に深く熱いものがあった。
「闘牙様…」
玉藻姫の目に、熱いものが溢れて来る。
それは玉藻姫が、永い孤独から開放された瞬間でもあった。
【4へ続く】
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