【 比翼連理 2 】



 梅の香を合わせたものか、冴の自室に微かなそして高貴な薫香が漂う。言葉を失くし、沈黙が落ちた闘牙と冴の間にその香りが流れ、僅かに乱れる呼吸に添って香りの姿を変える。このまま、この席を立つのもまた気が咎め、闘牙はどうにか話の接ぎ穂を口にした。

「……無理はするな。お前を妻に娶る事は叶わぬが、それでも俺の大事な妹で或る事に変わりはない。そう、今の俺にはお前以上に大事な者はいないのだから、体を労わって少しでも元気になってくれ」

 闘牙にとってそれは嘘偽りのない言葉であった。

「お兄様……」
「……我らは、おそらく『消え行くモノ』達なのだろう。見苦しく足掻くよりも、天の理に従いその定(さだめ)を受け入れよう」
「…………」
「俺は、妻は娶らぬ。この血は俺の代で終らせる」
「お兄様…」

 そう言い切った後の、清しさと寂しさ。
 禍を封じるには、もうこの方法しかないと闘牙は思っていた。
 己を、またその一族を『狛』で在らせる為にも。

「…闘鬼お兄様が、わたくしに文を寄越しました」
「闘鬼が?」

 意外な者の名に、闘牙は首を傾げた。
 闘牙・冴の母は先代の正式な妻ではあったが、その前に第一の妻として二人にとっての異母兄・闘鬼の母がいる。
 この母は妖犬族の中でも長の家柄に並ぶ程の名門の姫で、その分気位も異常な位高かった。
 それに引き換え闘牙達の母は、一族の片隅でひっそりと生きていたような影の薄い娘だった。それがどうして先代の目に留まったのか、第二の妻として迎えられ二児を成すほどの寵愛を受けた。

 この事が、どれほど闘鬼の母の自尊心を傷付けた事か。事ある毎に闘牙親子を蔑み甚振り、それはそのまま闘鬼の二人に対する態度にも表れていた。闘鬼は幼い頃から残忍な性格であった。
 いや、妖怪であれば残忍であるのは当然であるかも知れぬが、闘牙達『妖犬』は妖怪であっても『狛』で或る事を忘れてはならない。

 己や『守るべきもの』の為の残忍さは、力の表れ。だが闘鬼の残忍さは、生まれたばかりの赤ん坊である冴の布団の中に、噛まれればそこから肉が腐って死に至ような蟲を、面白そうに何匹も放すような事を、結果が判っていてやるような性格。

 それだけではない。この闘牙にしても可愛がっていた奇獣の仔を、その目の前で何度バラバラにされた事か。実際、体を傷付けられた事もある。
 子どもの戯れよ、と闘鬼の母の嘲笑と共に年嵩な闘鬼に妖糸で組まれた組紐で首を絞められた事もある。舞を舞え、と言われて燃えさしの薪を背中に入れられた事も。

 騒乱納まらぬ国内を飛び回り留守がちな長に代わり、闘牙の母は必死で我が子を守っていたが度重なる酷い仕打ちに心労が募り、二人の子がどうにか子どもの時期を脱するとそれを区切りと、早世してしまったのだ。
 頃、同じく闘鬼の母も身罷った。
 長の跡目を継ぐ為、闘牙共々長に同道して不在がちの闘鬼の無体な仕打ちもなくなり、生まれつき病身な冴も、どうにか心安らかに暮らし始めていたのだ。長が存命である間は、まだこの平穏な時間は続きそうだった。

 しかし―――

( 父上が倒れた時、俺は父の命で血鹿浦(ちかのうら・今の五島列島あたり)に迷い込んだ大陸の妖怪を討ちに行っていたから、何故父上が倒れられたか、本当の理由を知らぬ )

 間もなく先の長は館に戻り、そのまま健康を回復させる事無く二人の妻の後を追った。
 当然、闘鬼が次期の長の座を一族の重鎮方に要求したが、それは保留されたまま今に至る。
 幼い頃の残忍な性格は長じても変わる事無く、なお一層酷くなっていた。先代の死についてもあらぬ憶測が飛び交い、いまだ長の座は空白なのだ。

 そんな今まで闘牙兄妹を、汚らわしいものでも見るようにしていた闘鬼が冴に文…?
 暗雲にも似た、一抹の不安が闘牙の胸を掠めた。

「見せてみろ」

 冴が黒漆塗りの文箱から、隠すようにしてしまっていた文を取り出す。
 それは大事なものだから秘匿しておくという風情ではなく、むしろ忌まわしい物だから、見たくもないと言う感じが察せられた。
 文にはほんのりと伽羅が焚きこめてある。そのらしからぬあしらいに闘牙を眉を顰めつつ、文を開いた。
 そこには認められた、一首の詠(うた)。

 それは―――


 〜はねかづら 今する妹がうら若み 咲(え)みみいかりみ 著(つ)けし紐解く…… 


(注:万葉集第十一巻、下の巻。早婚が当たり前だった万葉時代、幼女を妻にした男の歌。閨事の事を良く知らない女の子が相手にされる事に笑って見せたり、怒ったりしながら着ている衣の下紐を解いてゆくのが楽しいと言う意味の好色な歌)


 闘牙はそれを一目見た瞬間、頭に血がのぼった。冴が、羞恥で全身を赤く染めている。

「これは…」
「…返歌を、と。今のご自分の気持ちを詠ったものだと…」

 恥じ入り、小さく震える冴の体を、思わず抱き締めずにはいられない闘牙だった。
 

   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 闘牙は、冴のもとよりその文を握り潰さんばかりの勢いで自分の屋敷に持ち帰り、雷鳴のような大声で冥加を呼びつけた。

「冥加! 冥加はおるかっっ!!」

 足音も荒く、その声音には明らかに怒りの色が読み取れる。もともと小柄な蚤妖怪である冥加が、なおその小さな体を縮込めて、恐る恐る闘牙の前にまかりこした。

「は、はい。ここに控えておりまする〜〜」

 差し出がましい口を利いた事が、よほど気に障ったのか、闘牙の怒りは少しも収まってはいないように見受けられた。その冥加の前へ、冴のもとより持ち帰った文を投げ付ける。

「…冥加、お前…、まさか闘鬼が冴に言い寄っていたのを知っていて俺に隠していた訳じゃあるまいな?」
「と、闘鬼様が…?」

 体に似合わぬ大きな丸い目をしばたかせ、モゴモゴと口の中でその名を呟く。

「お前が俺に妻を娶れと言い出したのも、何か裏の訳あっての事か!?」
「あ、あの、いえ…、訳と言う程の事では……」

 言葉につまり冥加は投げ出された文の墨跡を、追うともなしに見ていた。書かれていた歌を理解するや否や、冥加もまた体を膨らませ、憤慨する。

「こ、このような銘も判らぬ者の作った戯れ歌を、冴様に送って寄越したのですか!? あの方はっっ!!」
「…この歌を送りつけて、返歌を寄越せと言ったそうだ」
「なっ!! なんと言う、恥知らずな…。確かに闘鬼様から見れば、冴様は御異母妹君。婚姻を結べぬ間柄ではありませぬが、それにしてもこのような歌を贈られる様な方では…」
「たわけっっ!! 誰があんな男の下へ嫁がせるか! 冴も嫌がっている。昔の仕打ちを忘れたとは言わせぬからなっ!!」
「闘牙様…」
「…冥加、一族のうるさ方の年寄りどもは、空白の長の座をどうしようと言っているのだ?」
「えっと…、それは……」
「どうせ爺ぃどもの考えも長の血を絶やすな、だろう。俺が独り身の間に、闘鬼が嫡子でも儲ければそれだけ【長の座】に近づく。その子を産ませる為だけに、冴に白羽の矢を立てた。そんなところかっ!」

 激しい口調で言葉を叩き付ける闘牙の足元で冥加は、口ごもり視線を床の上に落とした。

 そう、なのだ。闘牙のように独身を通されたのでは、次の代の要(かなめ)を失ってしまう。
 一族が存続するには長の存在は不可欠。幾ら性格や素行に問題があるとしても、次代を担う血族を儲けた方に有利になるのは致し方ない。

「…冴も先代の血を引く身。ましてや、今 この一族の中で、病身ではあるが最強の妖力を持つ女妖である事には違いないからな」

 闘牙の憤りはまだ収まらない。

「恥知らずな奴め! あれほど我ら兄妹を毛嫌いしておきながら、自分の野望の為には、しかも自分の子を産ませる為に、その片割れに手を出そうとする。これ以上の侮辱はない!!」

 冥加の視線の先、闘鬼から冴に贈られた文を闘牙は拾うと散り散りに引き裂いた。

「それにしても、何故、冴なんだ? 冥加」

 更に、冥加を追求する。その圧倒される気迫。冥加とても、知っている事を全て話さねば、どんな目に遭うか判らない。

「…多分、他に居られませぬ故。もう幾人もの女妖が闘鬼様の子を身籠り、あまり月の立たぬうちに果て申しました」
「なっ…!!」
「…妖力の違い故か、腹の子に内裡(うち)から喰らわれて…。母体を喰って出てきた『モノ』は、それはもうおぞましいモノであったと…」
「その『モノ』らの、その後は…?」
「その場で闘牙様に踏み潰され、殺されたとの噂です」

 闘牙までも呑み込む、血ゆえの業。向けようの無い怒りや、その同じ血が我が身を巡り、狂奔しそうな妖力の流れを必死で抑えている自分自身の末恐ろしさを、闘牙は感じていた。


* * * * * * * * * * * * * * *


 闘牙が冴の許を訪れて、既に数日。あの後、闘鬼が冴に寄越した文を鷲掴み、自分の館へ戻った闘牙の事を冴は心配していた。
 もとより母違いの事もあり、同じ父の血を引きながら近親憎悪にも近い、いや、はっきりと憎しみと蔑みを投げつけて来る闘鬼だ。もしこの事で闘牙が、闘鬼と争ったらどちらも只では済まないだろう。

 冴に取ってはどちらも、『兄』である。
 かたや、我が身を切なくさせる、倫理(みち)ならぬ恋心を抱く兄。
 こなた、我が身を陵辱せんと、禍々しい狂眼の視線を向ける異母兄。

 どちらに行く事もならぬ、冴であった。

 物思い故か、闘牙が帰ってからは少しばかり体調がすぐれない。鬱々と自室の床の上で時を過ごすばかり。その冴が、はっと辺りの気配を読む。

 
 この気配は…。


 息苦しくなるほどの妖力。気そのものが重さを持ち、対する相手に圧し掛かるようだ。
 もともと妖犬族はその出自の所為もあって、妖力の程には邪気】を持たないのが特徴。
 だが今、冴の周りを取り囲もうとしているこの気の持ち主は、その妖力に相応する邪気も携えていた。力のない者ならば、この気に中てられるだけで、健康を害する事だろう。
 その場の空気を吸い込むだけで、肺が爛れそうな感じすらした。
 これ程強大な妖力の持ち主は、敬愛する兄と自分と、後一人しか冴は知らない。

「闘鬼お兄様…」

 冴は胸を押さえながら、苦しげにその名を呟いた。闘鬼がここを訪れる理由など一つしかない。床の上で居住いを正し、身を硬くしてその者の現れるのを待ち受けた。

 冴の自室の前は寝こみがちな冴の無聊を慰める為、こじんまりとしたものだが良く手入れをされた、それでいて手を入れたようには見えぬ野趣味な庭が設えられていた。
 絢爛な庭木や花木ではなく、自然の山の草木や野の花や…、そういう冴が健康な体であれば自分の足で見る事の出来る自然の妙美をそこに再現していた。

 冴の目の前に現れたその男は、それらのものを踏みにじり、赤金色の眸を真っ直ぐに冴に向け、薄ら笑いを浮かべていた。

「臥せっていたのか、冴」

 この男にしては優しい、それだけに裏がありそうな声音でそう声をかけたきた。

 長の一族は、この男にしても冴にしてもまた当然ながら闘牙もみな、その毛並みに特徴がある。聖色であり『光』を表す白銀の毛並みを纏う。
 もう一つの特徴は平時においての、その瞳の色。やはり、光を表す金の色。
 普通、妖怪はその瞳に血色の赤を持つのが一般的である。それ以外の色を持つ者は、善きにしろ悪しきにしろその枠外の何をかを持つ。

 冴の目の前の男は、確かに兄・闘牙にも良く似ていたがその存在が放つ気は凶悪なものを感じさせた。
 白銀の髪には行く筋かの黒い毛並みが混じり、金の眸には濁った血色の赤が滲んでいる。偉丈夫な体格のその身の内理から溢れる狂奔しそうな妖力と狂気が、よりその体格を大きく見せていた。

「…いえ、大丈夫です」

 冴は白い面を毅然と持ち上げ、真っ向から闘鬼を見詰めた。

「何時までも返事をもらえぬので、こちらから出向いてきた。お前の答えを聞きたい」

 さっ、と冴の白い顔に羞恥の血色がのぼる。

「…御戯(おたわむ)れを。わたくしはこのような病身の身。貴方様にはもっと相応しいお方がおられましょう。わたくしのような、賎な出自の母を持つような者ではなく、母が生きていた頃の様に接しなさいませ」

 ぴしゃりと、そう言い放つ。それで怯む様な相手でもないが。

「昔は昔、だ。あの頃のお前は、取るに足らぬ小娘であった」
「今もそうですわ、闘鬼様」

 もうあえて、兄とは呼ばない。言葉使いは丁寧でも、冴の全身で闘鬼の存在を拒否していた。

「ふん…。気の強さがまたそそるな。お前は、しばらく見ぬうちにいい女になった。それに先代の血も引いている。お前が長に相応しい俺の子を産んでくれれば、一族の年寄りどもも認めざるを得んだろう。血脈を絶やそうとしている闘牙よりはましだとな!」
「…わたくしも、この身一代で終えるつもりでございます」

 そう、闘牙も言っていた。
 我らは『消え行くモノ』であろうと。
 闘牙が行く道であれば、冴は自分もその道を行こうと心に決めていた。

「…どこまでも俺に逆らう兄妹よ!! お前が俺に靡かぬ訳は、お前に他に好きな男がいるからではないのかっっ!!」
「…だとしたら、如何なさいます? 今、この場でわたくしを引き裂きますか?」

 血色を深めた狂金の眸を、軽蔑を込めた強い光の視線で真っ直ぐに射抜き、身じろぎもせずに冴は自分の妖力を解放した。
 二人の間で激しく妖気がぶつかり合い、渦を巻く。静かな、そして熾烈な闘い。

 ふっ、と闘鬼が気を納めた。それに合わせ、冴も力を抑える。何かを確かめるように辺りを見回し、それから冴の硬い表情を浮かべた顔に禍々しい視線を据えた。

「そう…か、男がいるんだな。それでも、構わん。お前がそう思っているだけで、相手が通っているような訳ではなし。どんな手を使ってでも、お前を手に入れる。それまでせいぜい、身をいとうが良い」

 そう捨て台詞を残し、闘鬼は立ち去った。
 野分けが通り過ぎた後のように、冴の庭は無惨にも木々はへし折られ、花は散り散りに踏み潰され、闘鬼の発した妖気と邪気でもの皆枯れ果てた酷い様を呈していた。


   * * * * * * * * * * * * * * *

 
 怪しげな術で切り取られたその場所には、季節をあざ笑うように狂い咲きの花々で溢れていた。
 薄紫色の小振りの鐘を鈴なりにさせたようなトリカブト。その足元をやはり小さな鈴をふったような白い可憐な鈴蘭。
 少し離れた所には圧倒的な迫力で広がる彼岸花の赤。黒百合に似たオキナ草も咲いている。春の訪れを告げる目出度い名を持つ福寿草の黄色が意外な所で花弁を広げている。
 その直ぐ側で、可愛らしいキツネノボタンの黄色も揺れている。

 半日陰の沼地の岸辺には水芭蕉の緑と白が鮮やか。その沼地から続く雑木林の中には、ニガクリダケ・オオワライタケ。ドクササコにシビレタケ、夜に光るツキヨタケ。まさしく毒の花園。

「ふ…ん、なんとも禍々しい者の住まう場所があるものだ」

 先ほど見てきた穏やかな野趣味溢れる庭と引き比べると、なんと艶やかで毒々しい事か。住まう者の性格を良く表している。
 しかし、ここに住まうのは妖怪ではない。いや、ある意味もっと性質(たち)の悪い生き物かも知れない。

「誰ぞ! 妾(わらわ)の領界に無断で立ち入る者はっっ!!」

 まだ若い艶やかな張りを持つ女の声。庭の遠景を縁取る血の様な色をした彼岸花の向こうに、墨が滲むような黒い装束を纏った寒気がするような美貌の女。黒い装束は良く見ると、巫女装束の形式に則(のっとっ)ている。
 黒い装束が女の透き通るほどに青白い肌を引き立て、またその肌の白さがぬめるような艶を放つ赤い唇を際立たせる。ゆったりとした装束の中でも女の豊満さを感じさせる、その曲線美。

「お前が黒巫女の夾華(きょうか)か」

 毒の花園の中で、禍々しい気を放つ妖・闘鬼と人間であって黒巫女・夾華が対峙する。黒巫女とは『巫女』と呼ばれはしても、聖職者である巫女とは対極に在る者。
 巫女が神に仕え、人々の安寧(あんねい)を願うとすれば、黒巫女は魂の暗黒面に仕え、『欲』を満たす為に存在する。
 この女・夾華はそんな黒巫女を束ねる頭目でもあった。

「野良犬の遠吠えなぞ、耳障り。さっさと立ち去れ!!」
「ほう、この俺を野良犬呼ばわりか」
「そうであろう? 人形(ひとがた)に変化(ば)けてはいても、お前の本性は狗(いぬ)であろうがっっ!」
「…気の強い女だな。まぁ、俺はその方が好みだが」

 互いに隙を見せぬよう視線を絡めたまま、油断なく身構えて言葉を交わしていた。その視線をふっ、と闘鬼が外し、夾華が僅かにたじろいた隙に、一跳躍で夾華の目の前まで闘鬼は移動していた。

「近くで見れば、またいい女だな。それに、いい身体だ。何人もの男を食い殺してきた身体だな」

 その時になって夾華は、まじまじと闘鬼の顔を見た。その姿・格好、内蔵するその妖力も。

 ごくりと、息を呑む。
 今まで星の数ほどの男たちを手玉に取り、破滅させてきたがこの目の前に居る『牡−おとこ』ほど強烈な印象を与える者はいなかった。顔を躰も精悍な美しさを誇り、禍々しい気がそれに箔を付ける。

( 確かに…… )

 夾華は自分の身の内裡(うち)を、ぬめりとした好色な舌が舐めずるのを感じた。
 夾華ほどの者になれば、既に『人』としての禁忌は薄れ、それがどのようなモノであれ己の『欲』を満たすものであれば、厭う事はなかった。

( 美味そうだ…… )

 思わず知らず、夾華は自分の形の良い赤い唇の端を蛇のような薄桃色の舌先で舐めていた。しかし、そこを抑制出来るのも、この女の凄い所であった。
 うずきかけた体の奥底の熾き火を鎮め、何喰わぬ顔で闘鬼に言葉をかける。

「……話だけは聞いてやろう。妖怪のお前がこの私に何用だ」
「なに、用件は簡単だ。俺の女になれ、夾華」

 夾華の身体の奥で、ずくりとするものがある。

「酔狂な話だな。お前たち妖怪は人間を嫌ろうておる筈。時には、若い娘が妖怪どもに蹂躙された挙句、喰われる話も聞くが、そう言う訳ではなさそうだな」
「そうだ、と言えば?」

 一瞬、夾華の身体が大きく膨れ上がったように感じられた。
 夾華の持つ、黒巫女としての『力』の解放。

「……私は妖怪と言えど、呪い殺す力を持つ。私の呪詛でもがき苦しみ、狂い死にたいか!!」

 闘鬼の顔に不敵な笑みが浮かぶ。

「だからだ、夾華。そんなお前だからこそ、俺の女にしたい」
「お前の女になったとして、私に何の益がある? 今の私なら、欲しいものは自分で手に入れる事が出来るからな」
「そう…、か? いくらお前でも、手に出来ぬものもあろう」
「何?」

 相手が乗ってきた、と手応えを闘鬼は感じた。

「……妖怪の持つ、不老不死の躰が欲しいとは思わぬか?」
「 ――― !! ――― 」
「夾華、お前ほどの女だ。まやかしでなら仙術や仙薬、邪法などでいくらでも『今』のお前の若さ・美しさを保つ事は出来よう。だが、お前が欲しいものはそんな『まやかし』ではない筈」
「……私を誑かせると思っているのか」
「お前なら、俺の相手に相応しいと思っているだけの事だ。俺を見ろ。これでももう、二百年余りをこの姿で生きている。何もせずにな。お前もこんな躰が欲しくはないか?」

 闘鬼の言葉の意味を考える。こんな躰とは、つまり……

「私を、妖怪にでもするつもりか」
「お前は、お前のままだ。ただ、俺の子を孕み産み落とせばな。自然、おまえの身体はそうなる」
「私にお前の子を孕めと?」
「ああ、そうだ。お前が『女』だから、可能な事。俺の子がお前の躰を胎内から、自分に相応しいモノに作り変えてゆく。つまり、強大な妖怪の母に相応しいものにな」


 ――― 闘鬼には、何が何でも『長』の座を継ぐ為に、その先の長に相応しい嫡子の父親と言う立場を欲していた。

 今の所、闘牙には妻を娶る意思もなく、そのままではいずれ長の血脈は絶たれてしまう。
 闘鬼にしても、一族を覆う【血の澱み】に気付いていない訳はない。事実、昨今の一族内で生まれる者たちの大半が何処かが欠けた者たちである事を見れば。
 その事実を我が目にも幾度となく見せ付けられてきた。

 どちらも計算づくか、あるいは闘鬼の陵辱の果てか。

 闘鬼の子を孕んだ女妖は、すでに両の手の指の数では足りない。
 そして、殆ど生きている者もいない。闘鬼の凶悪な妖気と邪気を胤(たね)にした胎児は、自らを蝕み母子共に死ぬるか、あるいはまだ形状(かたち)になる前に母体を引き裂いて出てくる。

 目鼻もなく、頭も胴も判らない。なにか醜悪な肉の塊が蠢き、唯一妖犬の血を引いている事を示すように、鋭い牙と爪を打ち鳴らし、母の肉を裂き、食い千切ってこの世に出てきたそれらのモノはその場で闘鬼に殺されてきた。
 闘鬼が欲しいものはこんな『化物−ばけもの』ではない。


 余りにも『血』が濃くなり過ぎた為。
 皆、その血故に喰われてゆく。


 闘鬼は自分の子をまともに産めるのはもう、妖犬族の中では自分と同じ強さを持つ異母妹の冴しかいないだろうと認めざるを得なかった。その考えに行き着いた時、ふっと頭を掠めたのは本来なら一族としては忌み嫌われる『半妖』の存在。


( ……人間の女でも、妖怪の子が産めるのだったな )


 一度頭にこびりついた考えは、そのまま闘鬼を突き動かした。
 これはと思った人間の女を、略奪しては犯す。

 ……だが、それはそう長く続かなかった。
 只の人間の女では、闘鬼に抱かれるだけで命果ててしまう。あまりにも華奢で、大抵の者は闘鬼の妖気と邪気とをまともに身に受け、それだけで身体を壊してしまう。
 実際、闘鬼の凶悪なモノを突き入れられ、言葉どおり壊されるのが落ちだった。

 あまりの無意味さに嫌気が差した頃、闘鬼は夾華の噂を聞いたのだった。


 ―――― 人間でありながら、妖怪をも呪い殺すほどの力を持った者がいる。


 『人間』だからこそ、その『心の力』は果てがない。
 この『力』は妖怪の力をも凌ぐ、と。


 ならば、と闘鬼は思った。
 この女なら、荒れ狂う『妖犬の血』に喰われる事なく、自分の子を産み落とす事が出来るかも知れぬ、と。
 この際、半妖であっても構わない。それだけの『力』のある子でさえあれば。


 いずれ、冴も手に入れる。それまでの『つなぎ』で良い。


【3へ続く】

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