【 赤い月 青い月 】
―――― 日が暮れて、森は黒々とした影に融けている。
低く登った赤い月を、その梢で突き刺さんばかりに。
「ねぇ、邪見様。殺生丸様、どこにお出かけになったのかなぁ?」
森の中のやや開けた場所に、今宵の宿を定め夜営の為の火を熾す。
その火に手をかざしながら、そうりんは傍らの邪見に尋ねた。
今ここに、彼らの主人はいない。
騎竜の阿吽さえも伴わず。
「……殺生丸様の行く先を詮索するなど、おこがましいぞ、りん。こんな夜は、殺生丸様のお帰りを待つだけで良い」
……長年この大妖に使えてきたこの下僕は、時折このように姿を消す主人を何度も見てきた。
それは決まって今宵のような、赤い月の夜。
感情を顕わにする主人ではないが、それでもこんな夜の主人には一層近寄りがたいものがある。
―――― 聞かぬ方が良い。
言われるまでもなくそう感じ取った邪見は、それを心得とした。
( 以前に比べれば、だいぶその回数は減っては来ておるが…… )
数百年前、初めて出遭った頃の主人は今よりももっと凄愴な気を纏っていた。触れなば、切れそうなその気迫。正直、何故お側に付く事が出来るようになったのか、よく判らぬ。
そして、ふと傍らを見る。
( ……ふむ、まぁ、こやつも同じようなものか )
何やら一心に炎の中を見つめているりんを一瞥し、そう一人ごちた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
獣道さえないような、深い深い森の奥。
赤い月の光を受けて、対峙する二匹の獣(けもの)。
一頭はその巨躯を見事な白銀色の毛並みで覆われ、透き通った紅玉の瞳、額に月の紋章。
もう一頭は、先の一頭に引けを取らぬ巨躯に鋼(はがね)を思わせる黒ずんだ毛並み、滾った血潮のような赤い目。
先の一頭は左の前肢(あし)の膝から先がなく、明らかに不利に見えた。
鋼の獣はまるで狂犬のようにその口から泡と涎を垂れ流し、威嚇の唸り声を呪詛のように絞り出している。前足の巨大な爪が大地に深く食い込み、撓(たわ)んだ背が相手の喉首に己の牙を打ち込む瞬間を待っている。
白銀の獣が僅かに身じろいだ。
前肢が不具な為、力を前肢に掛けられない分、瞬発力に劣ると見たか痺れを切らしたか、はたまた相手の誘いに乗ったのか。
鋼の獣が矯(た)めるだけ矯めた力を解放し、相手に飛びかかっていった。
電光石火のその攻撃。
―――― 仕留めたっっ!!
微かに残る思考力の片隅で、そう鋼の獣は確信した。
が ――――
あれほどの巨躯にも拘わらず、白銀の獣はまるで重さのないもののようにふわりと半身飛び退り、空を切った相手の後頭部から首にかけて、延髄目掛けてその強靭な牙を叩き込んだ。
勝負は一瞬だった。
鋼の獣は口許から血泡を吹き、赤く濁った目にはもう光りはない。
二度・三度と断末魔の痙攣が四肢を震わせたが、それも、もう ―――
深い森の奥に静寂が訪れる。
白銀の獣 ―― 殺生丸の目の前にその骸(むくろ)を晒す、それは紛れもなく同族である妖犬族のもの。
すでに己が何者かも判らずに、只々殺戮を繰り返すだけの獣(けだもの)。
妖犬族の『血』。
この強い妖力を秘めた『血』を尊ぶあまり血族婚を繰り返し、淀み翳った血脈の果てに生まれて来た、『キ』なる者ども。
多肢多頭の者や、殺戮の本能のみで生きている者。
『精神(こころ)』がケダモノな者。
妖犬族として、『狛』としての務めを忘れた者ども。
穢らわしいものを見るような、その澄んだ赤い瞳に浮かぶ痛ましい翳り。
せめてもの手向けか、あるいは己が屠ったとは言え一族の骸を晒すのは恥と見たのか、殺生丸はその爪の毒にて屍を溶かし去る。
( …しばらくは、苔すらも生えぬだろう )
己に冠せられた、己が『名』の重さ。
( 生かす為に、弑(しい)せしめよ )
父上より与えられし、この名。
その望み。
( 何を生かす為に、何を殺すのですか! )
幼き日、尋ねた問いに応えはなく ――――
赤い赤い月に、心まで濡れる ――――
ぶるりと殺生丸は頭(かぶり)を振ると、一際高く宙に舞い上がる。この赤い月の光のように、わが身に纏わり付いた血臭を消す為、さらなる奥地に在する大滝の下へと。
一駆でその場に着くと、勢いそのままにその巨躯を滝壷に躍らせる。弾け乱れる水飛沫が月の色に染まり、それはまるで殺生丸自身が流している血潮のように見えた。
やがて水音は静まり、滝から上がる一人の人影。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「あっ!」
うつらうつらとしていたりんが、ぱっと顔を上げた。
それは、邪見や阿吽よりも早く ――――
気配など感じさせぬ殺生丸の帰還を、誰よりも先に察したのがこの人間の小娘であった。
「お帰りなさい、殺生丸様!!」
「お帰りなさいませ、殺生丸様」
邪見はいつもの赤い月の夜と同じ、凄愴の気を主人に感じた。
( 誰にも言わず、只お一人で何かをなさっている。ワシら如きが窺い知るものではないのであろう )
そう、何百年とお側近く仕えてきても知る事の出来ない一抹の哀しさ、近寄り難さ。
そう思って、邪見が控え様としたその時。
すっ、とりんが殺生丸の側に歩み寄る。
「…まだ起きていたのか」
幾分驚いた様に、と言っても殆ど表情も変えずにそう声をかける。
「ううん、さっきまではちょっと眠っていたの。殺生丸様がお帰りになったから、目が覚めちゃった」
怖気もせず、引きもせず、当たり前のように接する。
りんのその姿に、邪見は自分では適わないものを感じた。
あるものを、あるがままに受け入れるその素直な心。
「…早く、休め」
取りつく島さえないその物言いも、邪見の耳にはどことなく柔らかく聞こえた。
「りん、殺生丸様のお側で休んでもいい?」
ちょっとはにかみながら、天真爛漫な笑顔を向けて殺生丸の顔を見上げている。
「…好きにするがいい」
意外な答えにびっくりしたのは邪見。
でも、自分がしたくとも出来なかった事をしてくれたようで、ほのかに胸の内は暖かい。
殺生丸が大木の根方に腰を下ろすと、りんはちょこちょこと付いて行き、お気に入りのもこもこの側に座り込む。
にっこりと微笑むりんを、ちらと一瞥し瞼を閉じる。
いつしか月はその位置を中空高く場所を変え、冴え冴えとした青い光を降り注いでいる。
夜の闇に沈む樹々の枝越しに差し込むその光は、辺りを深い眠りの水底へと引き込んだ。
眠りに落ちるまで、指先で滑らかな毛並みを弄び楽しんでいたりんは、そっと心の内に呟いた。
( お月様の青い光が哀しそうに見えたの。そんな事、あるはずないのに、殺生丸様が哀しく見えたの。ヘンだね、りん )
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
深い深い森の中。
妖(あやかし)と人と、青い月の光。
寄り添い眠るその姿を、他の者は何と見るだろう。
この世ならざる光景に、おぞましげに眉を顰めるか、一夜の夢と思うのか。
しかし、そんな事。
この者達には、何の関係もなく ――――
( …ああ、眠っていたのか )
優しい静寂の中、珍しい事にほんの一瞬かも知れぬが、殺生丸は眠っていた。同族殺しの晩には、気が昂ぶり今までは休まる事もなかったのに。
己の身に流れる、父より受け継ぎし『妖犬』の血。
誇りにも思い、またその血の『濃さ』故のおぞましさも。
幸いこの『血』が正しく顕れた己は、まだ良い。
だが、それも『今』は、だ。
まだ、どうなるか判らぬ怖れは付き纏う。
だからこそ、『完璧』であらねばならない。
ふと、傍らに目を落とす。
己の一部である毛皮を愛しそうに握り締め、眠りに落ちているちっぽけな人の子。
すでに月は西に傾き、柔らかな暖かそうな光がその寝顔を照らしている。
その寝顔は安らかな笑みに彩られて。
つい、と従者と騎竜へと視線を走らせる。
その姿もまた ―――――
殺すに足りぬ程、卑小で非力な者ども。
だけど……
僅かに躊躇い、それからそっと傍らの人の子の頬に触れる。
暖かい ――――
もう一度、自分を取り巻く者どもをその瞳に映し、呟いた。
( 棲み家 ―――― )
殺すに足りぬ者ども。
その者らを照らす、優しい月の光。
殺生丸もまた、月の光と同じ金の瞳で見つめていた。
【完】
2004.2.4
【 あとがき 】
今年二本目の『殺りん』小説です。まぁ、あまり殺りんっぽくないです
が^^; どちらかと言えば、殺生丸小説、かな?
殺生丸はどうして旅をしているのかというのがずっと気になっていて、
まさか半妖の異母弟一人の息の根を止める為に、さ迷う程ヒマではある
まいし…、と。
犬夜叉を抹殺しようとしたのはホント『ついで』で、鉄砕牙を求めたの
も後の憂いを絶つ為も有り、と思ったんですけどね。
あんな危ない剣、下手な者には持たせられませんから。
鉄砕牙が『妖怪』に対して拒む為の結界を張る事、犬夜叉の『妖怪』の
『血』の暴走を抑える事、などもあり初期の頃よりも必要以上に犬夜叉
の命を狙ったり、鉄砕牙を奪おうとしなくなったような気がします。
奈落を追うのは、虚仮にされただけではなく『狛』としての使命感のよ
うなものがあるのかな? と思っています。
あまりその背景を語られる事のない殺生丸。
オリジナルな設定ですが、出来るだけ原作から逸脱しない方向で、
(て、りんちゃんとの関係では逸脱しまくりそうですが^^; )頑張ろう
と思います。
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