【 弓張月2 】



 全体重が細い手首の一点にかかり、腕そのものが抜けてしまいそうな激痛に襲われている。

 
「…大…丈夫、ですか? 珊…瑚……」
「あ…あたし…は、ま…だ、大…丈夫。そ…、それ、より…、か、かご、かごめちゃ…ん、が…」
「かごめ…様は、生きて、ます。月…読の…、光に…打たれる前に、ひ、『光』に…、守られ…」

「そ…う。よかっ…た」

 珊瑚は親友の安否を確認した事で、気が緩んだのかそのまま気絶してしまった。
 それを見て、弥勒が微かに安堵の息をつく。

 決して喜ばしい状況ではないのだが、気を失っている間はこの激痛を感じずに済むのではないかと言う、ささやかな思いだった。
 常ならば珊瑚や弥勒のような手練、吊るされただけでここまで参る事はない。
 木の枝に渡された綱にどれほど固く縛められようと、吊るされた途端、猿(ましら)の如く綱を登り枝に上がり、縛めを解いてしまう。

 しかし月読の縛めは登る綱もなく、上がる枝もない。
 その上、主の邪気を帯びているのか、縛められた小手先からどんどん生気が失われてゆくのだ。

「…私、も…、ここ…ま…で……か…」

 今まで激痛のあまり気を失う事も出来なかった弥勒が、限界を越えた身体の悲鳴を聞きながら、意識を手放した。

「弥勒っっ! 珊瑚っっ!!」

 
 そして ───────

 
「かごめっっ ─────!!」

 
 犬夜叉の絶叫が虚しく響く。

 
「……安心せよ。まだ死んではおらぬ。まあ、死んでいた方がましだと、すぐ思うだろうが」

 犬夜叉のすぐ背後から声が聞こえる。まるで犬夜叉の影のように。

「……お前、何を」

 実体感はないが濃密な気配。
 それも禍々しい程の邪気に満ちた『モノ』。

 それがこの月読と名乗ったものの正体のような気がした。
 邪気に塗れた気配の触手が、犬夜叉の身体をまさぐる。

 おぞましい、その感触。

「そろそろ『陰』どもに、喰わせてやろう。骨の一欠片も残さず片付けてくれるだろう」
「なっっ!!」
「選べ。先に喰われた方が良いか、それとも仲間の無残な死に様を見てからの方が良いか」
「お前…、お前はっっ!!」

 身動きの適わない、この身が恨めしい。
 大切な、この時に!

「……神久夜は馬鹿な女だったが、お前に眼を付けた事だけは褒めてやろう」
「なんだとっっ!」

 犬夜叉の後ろで、薄く笑う気配。

「……お前は、面白い。お前の身に潜む『妖力』は、とんでもないもののようだな。守り刀と『人間の血』で封印せねばならぬ程の」

 犬夜叉ははっきりと、月読が舌なめずりをしているのを感じた。

「そしてお前も、馬鹿だ。せっかく覚醒した『妖力』を、自ら封印するとはな」

 勝者の奢(おご)り昂(たかぶ)ったような、嘲(あざけ)り。

「へっ、馬鹿はどっちだ。今の俺を喰ったって、ただの『人間』だぜ。お前の『妖力』になどなるものかっっ!!」
「この『朔』は、我が妖術にて『時』を操りしもの。我が体内にお前を取り込む直前に、『時』を元へ戻せばお前はまた『半妖』に戻る。神久夜の命鏡の欠片が伝えた。お前は生死の淵に立たされると『変化』し、完全な妖怪になる、と。お前の全てを喰らうのは、その時だ」

 ─── そら恐ろしい気がした。

 今でさえ、これだけの『妖力』を持った妖怪である。
 その上、当の犬夜叉でさえ持て余す『妖力』を取り入れられたら、どんな化け物になるか判らない。

「……お前は、何が望みだっっ!!」
「我が望みは、生きとし生ける者の死を。我が支配する夜の帳に、死の静寂を」

 邪気を実体化させ、白くしなやかな、そしていやらしげな手で犬夜叉の頬を撫でさする。

 氷のように冷たい感触。
 その指先が頬の線から項(うなじ)を辿り、肩から胸へと巡る。犬夜叉は、そのおぞましい感触に身をよじって抵抗する。

「ぐっっ!!」

 犬夜叉の胸に到達したその手が、火鼠の衣の中に侵入し直に触れてくる。
 そして犬夜叉の心臓に爪を立て、握りしめた。

 まさに、その時っっ!!

 一本の『光』の矢が、月読を掠(かす)めた。

「犬夜叉に触らないでっっ!! この変態!!」
「かごめっっ!!」

  ついさっきまでぴくりとも動かなかったかごめが、きりきりと弓を引き絞り、月読に狙いを定めている。

  弓張月 ─────

  満月でもない、新月でもない、その中間の半月。
 かごめの『気』を満たして、引き絞られた弓は『破魔』の光に輝いている矢共々、犬夜叉の眼には『地上の月』のように見えた。

「次は外さないわよ! 『月読』なんて神様の名前を騙(かた)って上品そう顔してるけど、お腹の中は神久夜や奈落とおんなじ真っ黒じゃないっっ!!」

 矢で射抜く前に、かごめの瞳の光で射抜いてしまいそうな気迫。

「……娘、我が縛めをどうやって?」

 月読に怪訝な表情が浮かぶ。
 かごめの足元から、七宝が顔を出す。

「あんた、七宝ちゃんが小さいからってバカにしてたんでしょ。あんたの縛めなんて、七宝ちゃんが狐火で焼き切ってくれたわ!!」

 今にも矢を放ちそうなその様子に薄い笑みを、いや、下卑た薄笑いに口許を歪め、月読が盲た瞳でかごめを睨み据えた。

「娘、出来るのか? 我を射ると言う事は犬夜叉をも射る、と言う事だぞ」
「なんですって!!」
「今、我と犬夜叉は同体。やれるものなら、やってみるがいい」

 くっ、と噛みしめたかごめの唇に血が滲む。

「 ──── 構うこたぁねぇ、かごめ。やっちまえ!」
「犬夜叉……」
「こんな奴に喰われるぐらいなら、いっそひと思いにお前にやられた方がよっぽどマシだっっ!!」

 犬夜叉の真摯(しんし)な瞳。
 その光を、かごめは確かに受け止めた。

 すうっ、と大きく息を吸うと、あらためて構え直す。

「……どうするつもりだ、娘。我の言葉が耳に入らぬか」
「……ちゃんと聞こえたわよ。私もあんたに言っておきたい事がある。 もう誰に言ったか忘れちゃったけど、私の矢はね、悪い奴にしか当たんないのよっっ!!」

 かごめの意思が、月読を討つ。

「あんたみたいな下衆妖怪には、絶対負けない!!」

 烈火の如き気迫が、かごめを覆う。

「娘、私を怒らせたなっっ!!」

 月読はその本性を露にし、取り繕っていた顔を悪鬼さながらに変貌させ、本性を隠す為閉じていた瞳を開いた。
 月読の瞳に燃える、地獄の業火。

 

「犬夜叉!  絶対、動かないでよっっ!!」
「ああ、絶対動かねぇ。お前がこいつを仕留めるまで、俺が捕まえていてやらぁ。いいか、かごめ。一発で仕留めろよっっ!!」
「なにっっ!?」

  月読に動揺が現れる。

「……今の俺がかごめにしてやれるのは、こんな事ぐらいだ。お前、俺を捕まえた気でいるだろうが、俺がお前を捕まえた事にもなるんだぜ」

 月読は自分の『意識』が、犬夜叉から抜け出せないでいる事に気が付いた。

「私を脅しても無駄だ。人間の小娘などに何が出来る。ましてや、お前を愛しく思っている、あの娘に」
「お前はかごめを知らない。あいつはな、やると言ったら絶対やる奴なんだよっ! 何が大事かって事をよく知っている!!」

  かごめの構えた弓はますます光を強くし、番(つが)えられた破魔の矢は今にもその弦から放たれそうだ。

  月読の動揺に恐怖が混じる。

「かごめ! 今だっっ!!」
「むすめぇ〜、させるかっっ!!」

 その瞬間、犬夜叉は自分を捕まえていた月読の手が離れ、かごめに向かって青白い光の条(すじ)を幾条も迸(ほとばし)らせるのを見た。

「かごめっっ! 逃げろっっっ!!」
「いやよっっ! 今、逃げたらあいつを仕留められない!!」

 犬夜叉の叫びと、かごめの指から矢が放たれるのと、月読の光がかごめを撃つのとは、ほぼ同時だった。
 犬夜叉の目の前で、かごめが血を吹き出しながら倒れてゆく。
 犬夜叉の気が反れた瞬間に、犬夜叉の身体から抜け出そうとした月読は、かごめの破魔の矢で半身を消し飛ばされていた。

 そして、犬夜叉は ──────

 半身を吹き飛ばされた月読には、もう術を操るだけの『妖力』は残ってなかった。


 ─── 『朔』が空ける。

 
 夜空に十六夜の月が煌煌(こうこう)ときらめき、その光を受けて白銀の髪が波うつ。
 月影に金色の瞳を光らせ、『半妖』姿の犬夜叉が現れる。


「……貴様、あの娘に滅されたのではないのかっっ!!」
「……かごめが俺を射るかよ。ああやって、お前を追い詰めれば隙が出来ると思ったんだ。まさか ──── 」

 言い放ち様、鉄砕牙を振り抜く。
 怒りを金の瞳に燃やして、月読の間合いに入る。

「まさかてめぇが…、てめぇがかごめを本当に殺(や)るとは思わなかったがなっっ!!」

 言い終わった時には、月読の残った半身は一刀両断にされていた。
 犬夜叉の一振りで、辺りを埋めていた『陰』達も消え失せる。
 月読の縛めから開放された弥勒と珊瑚も、地面に落ちた衝撃で正気に返っていた。

 

 その三人の耳に、七宝の悲痛な叫び ──────

 

「か、かごめっ! かごめ、かごめ!! 眼を開けるんじゃっっ! かごめ〜っっ!!」

 犬夜叉が鉄砕牙を収め、かごめの元へ走り寄る。
 気が付いた弥勒と珊瑚も痛む身体を押して、犬夜叉の後に続く。

「かごめっっ ───── !!」

 犬夜叉も、言葉がなかった。
 皆の前に横たわるかごめは、全身を無数に切り裂かれおびただしい血に塗れていた。

 特に酷いのが、かごめの美しい顔の左顔面。

 生命力溢れる大きな瞳から、桜色の頬にかけて肉をえぐるように切り裂かれていた。
 傷口から溢れる鮮血が、かごめの命を濡らしてゆく。

「ひ、ひどい。ひどすぎる。かごめちゃん!!」

 珊瑚は親友の、あまりに酷い姿にまた気を失いそうになる。

「珊瑚! 気を失う場合ではありませんよっっ!! 急いで、血を止めないと。早く手伝ってください!」
「あ、ああ。そう、そうだね」

 弥勒の激しい叱責に、失いかけた我を取り戻す。

「俺はどうすればいい?」
「犬夜叉は、ハチを捜してここへ連れて来い。一刻も早く、かごめ様を楓様の元にお連れしないと。七宝っっ!!」
「オラか?」
「お前は地念児の所へ行って、ありったけの薬草を貰ってこい。いいな!」

 皆が一斉に、かごめの為に動きだす。
 かごめの命を救う為に。

 
 皆の為に差し出した、その命を守る為に。

 

  * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 

( ───── あれ? 私、どうしたんだっけ…… )

 

 身体が鉛のように重たい。
 重たいというよりも、まるで万力にかけられて締めつけられているように、全身になんとも言えない痛みがある。
 妙に視界が狭いのも気になった。
 部屋の中は、薬草の匂いが充満し息苦しい程だ。

 
( 誰…か、いない、の? )

 
 なぜか、声が出ない。
 指一本動かすのも、物凄い努力が必要だった。
 辛うじて耳だけはまともなようだが、それでも時折耳鳴りがする。
 かごめの耳が、水の入った桶の落ちる音を聞いた。

「…か、かごめちゃん? 気が付いたの? かごめちゃん!!」

 ようやく動かせた指を、優しい友の手が包み込む。

「…さ、さん……ご…、ちゃ…ん……。」

 一音、一音、音を絞り出すように言葉を形作る。
 珊瑚の涙が、かごめの手に落ちる。

「珊瑚! かごめが目覚めたとな!?」

 表に居た楓が、珊瑚の声を聞きつけ小屋に入って来る。

「か…えで、ば…ちゃ……。わ、わた…し……」
「ああ、よいよい。無理に喋るな。かごめ、お前はな、三日も死線を彷徨っておったのだ」

 その言葉でかごめは月読を射た、あの瞬間を思い出した。

「…い、いぬ…や……しゃ、は……」
「犬夜叉も弥勒も地念児の所じゃ。お前の傷を治す為の特別な薬を作る手伝いに行っておる」

 ほっ、と大きく息を付く。

「そっか…。みんな、無事…だった……んだ」

 だんだん意識がはっきりしてくる。

 
 あの時、あれはかごめに取っても『賭』だった。
 月読を追い込み、どう出るか。
 犬夜叉を放せばよし、放さないまでも自分をどうにかしようと動い時に、『隙』が出来ればと。

 その一瞬が、勝負だった。

 もとより、犬夜叉を射るつもりはなかった。
 月読が犬夜叉から離れる、その際(きわ)を狙っていた。

 
( ……だけど、私の腕だもんね。まかり間違って、犬夜叉に当たったらって恐怖はあったのよね )

 
 皆の身の無事が、なにより犬夜叉が無事なのが一番嬉しかった。
 それが、かごめが払った代償と引き換えに得たもの。
 七宝が地念児の村へ知らせに走り、折り返しのように犬夜叉が戻ってくる。

「かごめ……」

 それはかごめが珊瑚に手伝ってもらって、ようやく身体を起こした時だった。かごめの身体が重かったのも、声が出なかったのも三日三晩、意識がなくて身体に何も入れられなかったせい。
 現代なら点滴と言う方法もあるだろうが、この時代ではせいぜい濡れた布で口を湿してやるのが関の山だ。
 その位、この時代では意識がないと言う事は恐い事だった。
 そんな姿のかごめを見るのが辛くて、そしてかごめの命を助ける為にも、犬夜叉は地念児の村に赴いていた。

「……もう、起きて大丈夫なのか?」

 犬夜叉の眼には、かごめの姿は痛々しくて見ていられない。
 全身を覆う白布。特にかごめの左顔面を覆う白布は。

「うん、まだ身体中ひりひりしてるけど、出血は止まってるし骨は折れてないみたいだし。さっきまで脱水症状で身体がだるくて声もよく出せなかったんだけどね。あ−、身体がだるいのは貧血もあるかな」

 殊更明るい口調で話すかごめ。
 かごめの手の中には、スポーツ飲料のペットボトル。

「お前…、お前、判ってんのかっっ!! 下手すりゃ、かごめ、お前死んでたんだぞっっ!」
「……うん、ゴメン。でも私、死ぬつもりなんてないから。例え、どんな姿になろうと、絶対死なないつもりだから」
「かごめ、お前……」



  ──── かごめは知っているのだ。
 自分の身に何が起こったかを。



 
 自分の不甲斐なさに腹を立て、健気なかごめの姿にいたたまれなくなる。

「もう、犬夜叉ってばそんな顔して。ねえ、褒めてよ。私、頑張ったんだよ?」

 


 ───― 力一杯抱きしめたら、壊してしまいそうで。
 でも、抱きしめずにはいられなくて。


 
 何も言わずかごめを抱き寄せ、その豊かな黒髪の中に顔を埋める。
 押し殺した声。
 震える肩。

 
 何も…、言いはしなかったけれども。

 
「……ごめんね、犬夜叉。ごめんね」

  かごめが犬夜叉の背中を宥(なだめ)めるように、優しく撫でる。

 ……守りたいのは、『半妖』と言う過酷な運命に生まれ逢わせたこの少年の、なによりも純粋な『心』。
 かごめの胸に、愛(いと)しさが溢れる。

 

  * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 

 ──── 意識を取り戻してからのかごめの回復力は、目を見張るものがあった。

 

 もともと生命力に溢れているのか、もしくは『何か』の力の加護を受けているのか。二、三日後には自分から起き上がれるぐらいに回復していた。
 かごめの傷の手当てを終え、後片付けをしていた弥勒と珊瑚がかごめの傷の経過を話し合っている。

「ねえ、法師様。あんなに酷かった傷も、かごめちゃんだとこんなにも早く良くなるなんて…、やっぱりかごめちゃんには『何か』不思議な力があるのかな?」
「そう…ですね。かごめ様の受けられた傷が、あまりにも鋭利な傷だったのも幸いしたのでしょう。それから、地念児の薬も良く効きましたし」
「いやいや、そればかりではないぞ」

 二人の後ろから、楓が割り込む。

「あの場での、最初の手当てが良かったんじゃ。傷を合わせ、血を止める。全ては、それじゃよ」

 そう言いながら楓は自分の薬草畑に向かう。その後ろ姿を見送り、珊瑚は一番聞きたかった事を弥勒に尋ねた。

「……法師様。かごめちゃんの顔の傷、あれも良くなるよね?」

 良くなると、言って欲しいという願いに満ちた問いだった。
 弥勒はゆっくりと、小さくかぶり振った。
 
「……おそらく無理でしょう。あの傷だけは、他の傷とは違いますから。他の傷は切り裂かれた傷なのに、あの傷は眼球から頬にかけて肉をえぐり取られています。かごめ様の国の医術でも、元には戻りますまい」

 弥勒は考えていた。
 七宝を庇(かば)って受けた最初の一撃は、かごめに何の傷も与えなかった。
 珊瑚の言うところの『不思議な力』がかごめを守ったのだろう。
 だが『破魔の矢』を構えたかごめを襲った攻撃は、かごめの身に消しようのない傷を負わせた。

 多分 ─────

( かごめ様は無意識に、わが身を守る力までもあの『破魔の矢』に込められたのでしょう。私たちを助けるために )

 これほどの、『慈愛』に満ちた心を弥勒は知らない。

 


 それからさらに数日後。


 かごめは一人で出歩けるまでになっていた。
 小屋に閉じこもりきりでは、気分が沈むからと久しぶりの森の中の散歩を楽しんでいた。
 もちろん、少し離れて犬夜叉が付いて来ているが。

 
「あ〜あ、風が良い気持ち。鬱陶しいからこれ、外しちゃおうかな?」
「かごめ……」

 一瞬、犬夜叉の顔に狼狽の色が浮かぶ。
 それを、かごめは見落とさなかった。

「……いつまでも、こうしてる訳にはいかないでしょ。受け入れるものは受け入れなきゃ」

 そう言ってかごめは、自分の顔の半分を覆っていた白布を外した。
 この姿を犬夜叉に見せるのは、かごめにとって死ぬ程辛い事。
 だけど、『自分』が『自分』で在る為に、前に進む為にも必要な事だった。

 後は ─────

 犬夜叉はかごめが怪我をしてから初めて、まともにその傷口を直視した。かごめの手当てをしている弥勒達は仕方がないとしても、自分まで見てはいけないような気がして、今まで避けてきた。

 ──── 傷に縫い合わされた、黒目がちでおしゃべりな瞳はもう二度と開く事はなく、回復力の証であるえぐり取られた肉の替わりに萌えてきた濃い桃色の肉芽は、まるで別の生き物のように頬に張り付いている。

 眼が、逸らせない。

「……そんなに、変わっちゃった? 私、可哀相?」

 そう尋ねるかごめが、今まで見た中で一番儚くて頼り無げで……。

 今度は、手加減などしなかった。
 力一杯、かごめの身体を抱きしめる。

「……お前は、ちっとも変わっちゃいねぇ。初めて逢ったあの時も、そして今も。お前はいつも、綺麗だ」
「犬夜叉……」

 抱きしめて、かごめの傷痕を瞼から頬にかけて唇でなぞってゆく。
 全ての想いを込めて。
 驚きで硬直したかごめの身体。
 びっくりしたように少し開いたかごめの唇に、犬夜叉のそれが重なる。



  ──── 犬夜叉からの初めての、口づけ。
 犬夜叉にとっては、誓いの口づけ。



 
( もう、絶対お前をこんな目には逢わせない!! 俺がこの身に変えても、お前を守り抜くっっ!! )


 風がそよぐ。
 永遠のように思える、一瞬。

 かごめが身を翻した。

「かごめ……」
「ありがと、犬夜叉。もう、これで私は十分」

 そう言ったかごめは、泣きそうな笑っているような顔をしていた。

「かごめ……」
「……ちょっと、一人にしてもらえるかな? 大丈夫、落ちついたらすぐ帰って来るから」

 そう言い置いて、かごめは森の奥へと入っていた。

 

  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 


 森の奥の池の側。

 
 風はここまで吹き込まず、水面は鏡のように静かだ。
 かごめも、今まで自分の傷痕を見るのが怖かった。

 そっと、水鏡に写してみる。

 自分で見ても、酷いと思う。
 失くしたものの大きさと、受け止めてくれた犬夜叉の心を思って、かごめは泣いた。

 今まで我慢してきた分、激しく泣いた。
 自分の為に ……

 かごめを写した水鏡にもう一人、かごめと良く似た面差しが写り込む。


「……その傷は、犬夜叉の為か」

 声を掛けられるまで、かごめは気付かなかった。

「……桔梗」

 奇(く)しき因縁の不運の巫女、桔梗。
 彼女もまた、犬夜叉を巡る因縁に命を落とした一人。

「何を泣く? お前が選んだ事だろう」

 かごめがすいっ、と涙を拭き桔梗を見上げる。
 冷淡にも聞こえる一言だったが、今はその一言がかごめの心をぽん、と一押しした。
 その桔梗の一言は、かごめの選択を肯定してくれていた。

「そうね、私が決めた事だもの。後悔なんてしてないわ」

 全ては『自分』が決めた事。 すっと今の自分を受け入れ、吹っ切る事が出来た。

「でもね、桔梗。あなたが私でも、きっとあの時はそうしたと思うのよ」

 屈託なく笑いかける。
 その笑みは、顔の傷を補って余りあるほど明るく強かった。

 

( ……そう、今の私ならきっとそうするだろう。だが、お前があの時の私なら、お前はしないだろう。犬夜叉に矢を向けるなど。ましてその後、死を望むなど、な )

 

 今静かに、桔梗は受け入れる。
 自分と犬夜叉との運命を違(たが)えたものは何だったのかを。

 
「かごめ……」

 今までになく、優しく呼びかける。

「ん?」

 自分を見るかごめの額に手を当て、『気』を送る。
 不意に、睡魔に襲われるかごめ。

「桔梗、な…に……」
「……お前は、悪い夢を見たのだ。夢から覚めれば、いつものお前。ゆっくりおやすみ」

 かごめの知らない、在りし日の優しい微笑みを浮かべて桔梗はそう言った。

 
 ―――― 安らかな寝息をたてて、自分の足元で眠るかごめ。

 
 そのかごめの顔に残る傷に触れながら、そっと呟く。

「……お前が私で、私がお前ならば、私にも可能なのだろうか? お前とともに、犬夜叉を見つめ続ける事が」

 

 

 

「おーい、かごめ! どこだっっ!!」

 いつまでも戻ってこないかごめを心配して、犬夜叉が迎えにくる。
 森の奥の池の側。
 そのほとりの木立に寄り掛かり、顔の右半面だけを見せてかごめが寝入っている。

「おい、こら。こんな所で寝たら風邪ひくぞ」

 そう声をかけ、かごめを向き直らせたところで、犬夜叉の手が止まる。

 

「かごめ……」

 

 何が起こったか、判らない。
 どうしてかなんて、判らない。

 

 ただ ──────

 

 傷一つない、その寝顔。

 

 これもまた、奇跡。

 

 

 犬夜叉とかごめと、そして桔梗。
 絆が一つに結びついたその瞬間に、新たな『世界』が回りだす。


【完】
2003.6.15




 
【 あ と が き 】

七海様、お待たせ致しました。1111番でリクエスト頂きました
犬夜叉と力を合わせて頑張るかごめちゃんのお話です。
杜も調子に乗りすぎまして、こんなにも長くなってしまいました。

前編だけでも早くお届けしたいと思ったのですが、話の流れの関係
上、前後編一挙アップの方が効果的かと思い、遅くなってしまいま
した。七海様のご期待にお答え出来ているといいのですが…。
どうぞ、お受取くださいませ。




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