【 朔月 −みなづき− 】
──── 雨が降る。
景色も空も一色に染めて、雨が降る。
優しい、優しい、雨が降る。
「ほら、犬夜叉。濡れるってば」
そう言ってかごめが差しかける傘を、チラリと見てフンと鼻であしらいスタスタと先を歩く。
「前にも言っただろーが。女子供じゃあるまいし、こんな雨ぐらいじゃ風邪もひきゃしねーよ」
確かに冬の刺すような雨に比べれば、この梅雨時期の雨は腹をくくって濡れてしまえば、それなりに心地よいものがある。
「そうは言ってもね、やっぱり心配になるじゃない。濡れてる人に傘を差しかけてあげるのって、特別な事じゃないでしょ」
かごめは優しい。
そう、かごめにとってはこういう事は特別な事じゃないんだ。
こんな俺に対しても。
だけど、俺にとっては『特別』。
今まで俺に、そんな風に接してくれる『存在(ひと)』はいなかったから。
かごめと出逢ったから、『今』の俺が存(い)る。
かごめが居たから、この『仲間』達とも出会えた。
全てはかごめ、お前が ──────
「かごめ様。本人がああ言っているのです。ほうっておきなさい。火照った身体にはこのくらいの雨、何という事もないでしょう」
先を歩く弥勒が、かごめから借り受けた大きめのこうもり傘から顔を覗かせそう言った。
その傍らには、少し顔を赤くした珊瑚。
ちゃっかり弥勒は、相合い傘を決めていた。
つまり ─────
犬夜叉がかごめの言葉を受けるならこーゆー事になる訳で、生まれつきそーゆー事に不器用な犬夜叉には、駆けてゆきたい程身の置き所のない事態。
こーゆー事に長けている弥勒は、そんな犬夜叉の反応を面白そうに眺めている。
「もう、……本当に風邪引いても知らないから」
がんとしてかごめの言葉を聞き入れない犬夜叉に、少し寂しげにかごめが呟く。
そのかごめのスカートの裾を引く、小さな手。
みんなよりちょっ遅れていた七宝が、嬉しそうにかごめを見上げる。
いつもなら石蕗の葉を傘にしている七宝が、黄色のレインコートを着込んでいる。
かごめが着せた、草太のお下がり。
「すごいもんじゃな、かごめ。これを着とると、どんなに雨が振っても平気じゃ。全然濡れんぞ、ほれ。傘も差さんでよいから物凄く身軽じゃ」
そう言いながら、かごめの前に一本の紫陽花の枝を差し出した。
淡く色づいた花弁、薄紫のその色は赤にも青にも変わる迷いの色。
変わってゆける、美しさ。
「これ、私に?」
「お礼じゃ。一番綺麗な枝を捜してたので、ちょっと遅くなってしもうたんじゃ」
ニコニコしている七宝の笑顔につられて、かごめも嬉しそうに笑みを返す。
「それから、これも」
そう言ってかごめが手にした紫陽花の葉に、ちょこんとなにやら乗せた。
「わっ、可愛い!!」
かごめが瞳を輝かせる。
葉の上には、片方がやや小振りな二匹のかたつむり。
犬夜叉はさっきまで自分に構っていたのに、後ろのほうで二人で盛り上がっているのが面白くなくて ─────
「おっ、かたつむりか。これ、喰ってもいいか?」
ひょい、と一匹を指でつまみ上げる。
「わぁっっ ──────!!」
「犬夜叉っっ!! おすわりっっっ!!!!」
言霊の力で、思いっきりぬかるんだ地面に叩きつけられる。
潰れた犬夜叉の指先からかたつむりを救い出し、また紫陽花の葉の上に戻してやると、冷たい眼をして言い捨てた。
「……そんなに濡れてるのがいいなら、いつまでもそうしてれば?」
七宝を伴い、かごめはその場を離れた。
後ろ姿を、恨めしそうに見送る犬夜叉。
恨めしいのは ──────
「ねえ、法師様。今のって……」
弥勒の傍らの珊瑚が問いかける。
「……やきもち、ですよ。まったく、どこまで子供なんだか。よっぽど七宝の方が大人ですね」
やれやれと、頭を振る弥勒。
地面に延びた犬夜叉の姿が、雨の帳に霞んでゆく。
───── 言葉が不器用すぎて
邪魔ばかりする
好きなのに伝わらない
こんな想い 切なくて ─────
降りやまない雨の為、今夜は早々に宿を決める。
生憎と人家のない山道を巡っていたのでまともな宿など望めないが、それでも目に見えぬものを畏怖する人々の心は深く、誰が世話をしているのだろうと思えるような場所に社やお堂があったりする。
見知らぬ人々の心が、時としてかごめ達を助けてくれる。
川の神様でも祀っているのか川の側の小さなお堂を今夜の宿にする。簡単な夕食をすませれば、後は何もする事はない。
柔らかくお堂の屋根を叩く雨の音と、かすかに聞こえる川の音。
お堂の外の階(きざはし)に、川で泥を落としてきたのか思いっきりびしょ濡れの犬夜叉がうずくまっている。
どこか拗ねたようなその姿は雨の中、飼い主を待ち受けている子犬のようで、チクンとかごめの胸が痛む。
「……ねえ、犬夜叉。そんなとこ居ないで、中に入ったら?」
思いあぐねて、声をかける。
犬夜叉はふい、と顔を背けると小さく呟いた。
「……入れる訳ねーだろ。中が濡れちまうだろーが」
確かにそれはそうなのだが、だからと言って外に居ても雨が降りやまぬこの状況では、いくら火鼠の皮衣でもそうそう乾きはしないだろう。
そう言ったきり犬夜叉は押し黙ってしまい、かごめももうかける言葉を見つけられずにもとの場所へと戻る。
そんな二人を見比べて、人知れず弥勒がため息を漏らす。
───── いつもそう 単純で
クダラナイことがきっかけで
傷つけてしまうよね
途切れてく会話 虚しいよ ────
「動かんもんじゃのう」
唐突に、七宝が声をあげる。
「え、何?」
一瞬自分たちの事を言われたのかと思ったかごめが、思わず聞き返す。
「ほれ、このかたつむりじゃ。さっきからちっとも動かん。せっかくニ匹おるんじゃから、仲良うすればよいのに」
竹の筒に水を入れ、七宝からもらった紫陽花の枝を差している。
その葉の上には昼間乗せた二匹のかたつむりが、そのままの場所を維持している。
その様子を見て、かごめは学校の先生に聞いた話を思い出した。
「あのね、かたつむりって雌雄同体だって知ってる?」
「…し、しゆう、どうたい?」
聞き慣れない言葉に、七宝がしどろもどろに繰り返す。
「うん。えっとね、簡単に言うと男でもあり女でもあると言う生き物なんだけど」
「えっー、なんだいそれ。気持ち悪いね」
二人の近くで聞くともなく聞いていた珊瑚が、かごめ達の会話に加わる。
「でもね、どうしてそうなのかってちゃんと訳があるのよ」
「訳って…?」
かごめが話してくれる、自分達の知らない知識の話は面白い。
寝つかれぬ夜の夜話に、珊瑚と七宝は目を輝かせた。
「ほら、かたつむりって動くのが物凄く遅いでしょ。だから、自分の仲間に出会える確率も凄く少ないの。すぐ側に居るのにね。で、ようやく出会えた仲間もそれが『同性』だったら、『恋』にならなでしょ。神様がね、出会えた相手と恋に落ちたら、ちゃんと実るように計らってくれてるんだって」
かごめは十五歳の少女らしい、ロマンテックな面持ちで話しているのだが、その話を聞いている珊瑚と七宝の頭には、他の人物の顔が浮かんでいた。
「のう、珊瑚……」
「うん、そうだね」
二人の思惑を知ってか知らずか、弥勒もまた話に加わる。
「そうですか。かたつむりがねぇ。ごく稀に、そういう者がいるとは聞いた事がありますが。二形(ふたなり・両性具有者)と言うそうです」
「……ねえ、法師様。今のかごめちゃんの話を聞いて、誰かに似てるとは思わないかい?」
「はて? 誰でしょう?」
白々しく、空っとぼける。
「お前じゃ、弥勒! 出会う女、出会う女、片っ端から口説いとるお前にそっくりじゃ!!」
「これは異な事を。私はかたつむりのようにトロくはありません。それに、私は幼女と老女はお断り致しておりますから。あ、勿論、男もですが」
弥勒の台詞に、珊瑚がドカンッッ!! と来る。
「結局、年頃の女なら誰でもいいってことじゃないかっっ!!」
沈みがちだったお堂の中が、掛け合い漫才のような台詞のやりとりで明るくなる。
( ─── て、言うか…。学校で聞いた時は、もっとロマンチックなイメージがあったんだけどなー )
話した本人、予想に反した展開に頭に冷や汗をかいている。
話しに加わりはしなかったが、お堂の外で犬夜叉も内容だけは聞いていた。
かごめの話は今の自分達のようにも思えるし、かつての想い人との事のようにも思える。
( ……『仲間』だったのか? 一族から爪弾きにされていた俺と、『人』であってもその霊力ゆえに『異端』であったお前と。あの想いは、男と女としてじゃなく、自分の分身を見つけたような、自分の居場所を見つけたような安らぎだったのか? )
あの巫女が、美しい『女性』だったから、あの思いを俺は『恋』だと思ってしまったのだろうか?
判らない、俺には判らない ───────
それじゃ、かごめは?
出会いは、最低だった。
なんせ、この俺はかごめを爪にかけようとしたぐらいだから。
さんざん悪態ついて。
お前も俺を『おすわり!』で、よく潰してくれたし。
だけど、そうだけど ─────
こんな俺なのに、お前は気がつくといつも俺の側に居てくれた。
俺はそれを、『ウレシイ』と思ってしまった。
だからもっと『強く』なりたいと思った。
『俺』は『俺』でありたいと。
そうして、俺は気づいてしまった。
……あの時、もし『人間』になってしまっていたら、『俺』は本当に『俺』を生きる事が出来たのだろうか?
『人間』になった俺と、『ただ』の女になった桔梗と。
本当にそれで良かったのか?
──── いや、違う。
何が違うのか、良く判らないけど、違う事だけは今の俺にも判る。
その答えを見つける為に、今この旅を続けているのかも知れない。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
いつしかお堂の中は静かになり、小さな寝息も聞こえて来る。
なかなか止まなかった雨も、細かい粒に変わり更紗のような感触で肌に触れるだけ。
もうすぐ、この雨も上がるだろう。
川の側の竹藪の中で、青白いものがぽぅ、と光る。
俺はその光に誘われて、座り込んでいた階を下りた。
さっき、身体の泥を落としに来た時とはまるで別世界だった。
雨上がりの川原を、無数の蛍が舞っていた。
近くの葦の葉に触れるたび、一斉に蛍達が舞い上がる。
雨に洗われた空気の中を、小さな小さな綺羅のように。
「……凄い。こんなの、初めて見たわ」
自分の後を誰かが付いてきているのに、犬夜叉は気づいていた。
そして、それが誰かも。
「かごめ……」
「うん、皆寝ちゃった。何だか寝つかれなかったから……」
二人の周りに蛍が集まる。
「犬夜叉がどこかに行くのに気がついたから、付いてきちゃった。……もしかして、一人になりたかった?」
「いや、別に」
かごめの周りに集まった蛍の光が、かごめを儚く照らしだす。
青白い光が、かごめの輪郭を夜闇に曖昧に滲ませる。
その姿が儚くて、どこかに行ってしまいそうで ─────
犬夜叉はわが身の危険も顧みず、自分に付いてきてくれたかごめに、初めて素直な気持ちで返したあの『言葉』を思い出していた。
勝手に動きそうになる腕を意思の力で押さえつけ、かごめを虜にしている蛍達の群舞に目を向ける。
かごめをびっくりさせたくないから。
この美しい夜を大事にしたいから。
二人だけの『今』を ──────
「私の時代ってね、夜でも明るいから、ちいさな星や蛍の光なんてかき消されちゃうの。こんなにも、美しいのにね」
「…………………」
本当は、お前の方がずっと綺麗だと言いたかった。
「こんなに綺麗なのはね、この蛍達が命を燃やして自分の伴侶を求めてるから。朝には消える恋なのにね。それでも、一生懸命生きてるから、悲しいくらい綺麗なの」
その一言がきっかけだった。
愛しい想いに突き動かされて、犬夜叉はかごめを抱きしめる。
どんなに美しかろうが、儚かろうが、どこにもやらぬように。
「犬夜叉……」
「お前がどこかに行っちまいそうな気がして…、不安で……」
そっと、かごめが犬夜叉の腕に手を添える。
「私、どこにも行かないよ。あんたの側に居るって決めたんだもの、どこにも行かない。ここに居るわ」
それだけで、今の二人には十分だった。
幼い二人の、淡い恋には。
そんな二人を見守るように、二人の周りを蛍が舞いつづける。
───── 『守ってあげる』と
あの時言ったこと
ためらう気持ちも 嘘じゃないよ
それでも 信じてゆこうとする想い
コワレテしまわぬように
抱きしめていたい ─────
葦の葉陰から、二人を見守る三つの人影。
「まぁ、どーやら納まる所に、納まったようじゃな」
「本当にねぇ、見ていて気が気じゃないったら」
……なんとなく、自分の事を棚に上げた珊瑚の言葉。
「いやいや、まだ『納まった』訳じゃありませんからな。何故そこで、もう一歩踏み込まぬ!! 今なら押し倒せようものを! 犬夜叉の腰抜けめっっ!!」
一人意気込んでいる弥勒の上に、ゆらりと不穏な陰が落ちる。
「ほ〜う〜し〜さ〜ま〜〜っっ!!」
「弥勒の、ど助平っっ!!」
珊瑚と七宝の粛清の鉄拳が、弥勒を叩きのめした。
「いいかい? 七宝。間違っても、あんな助平な大人になっちゃダメだからね」
「オラは本命一人で十分じゃ。二股かけたり、女と見れば口説きまくる男の不甲斐なさは、よー知っておるからな」
蛍の夢幻の世界を漂っている二人を気づかって、珊瑚と七宝は叩きのめした弥勒を引きずり、その場を引き上げる。
それは夏も間近な朔月の、蛍の夜の事 ──────
【終】
2003.6.30
【 あ と が き 】
2222番のキリ番を踏まれたぶーにゃんさんよりのリクエスト、
ELTの『fragile』のイメージで、それに季節がら蛍も出
で来るといいな、と言う事でしたので、こういう作品に仕上げてみ
ました。文中引用した歌詞の順番は順不同ですが、いかがでしょう
か?
タイトルの『朔月−』と言うのは6月の別称です。
水無月と 言うのは知っていたのですが、それだとあまりにもその
ままなので 他にないのかな、と調べてみたらこれがありました。
犬ファンなら使わない手はないですよね。
ぶーにゃんさん、ぎゅーしかありませんがよろしいですか? えへへ(^^;
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