【 夏 夢1.宵待 −よいまち− 】
……そりゃ、かごめが向こうでも大変なのは知っている。
別に俺の我侭だけで、帰るなとそう言った訳じゃない。向こうへ帰ってもまた『じゅけん』と言う修羅場に飛び込むなら、せめてもう少しこちらで休んで行けばいいのにと、そう思っただけなのに……。
「ほほう、かなりしおらしいですな」
「そりゃ、そうじゃろ。今までで、最大のおすわりじゃったからな。でも、かごめもあそこまでムキにならんでも良い様な気もするが」
犬夜叉が拗ねた時の指定席。
村外れの大木の梢近くの枝に座り込み、暮れ行く空を見詰めている。
判っているのに三日前、帰る・帰さないで大喧嘩。かごめ最大のおすわり攻撃を食らって、さしもの犬夜叉も体中の骨がバキバキ状態。二日二晩、まともに座ってもいられなかった。三日目の今日は、朝から仲間たちとも顔を会わせるのも煩わしいのか、この木の上から降りてきやしない。
「かごめちゃん、本当に向こうの方が大変なんだよ。今度も、学問所の先生が特別にかごめちゃんの為に教えてくださるって事で…。これで及第点を取れなかったら、それこそ取り返しの付かない事になるって」
ぶっちゃけで言えば補習と追試、である。
ただ、受験生で言えば正念場とも言える三年の夏休み。その夏休み前でかごめは思いっきり『コケ』た。そりゃ、必死にもなろう。中学浪人だけは避けたいと思っているかごめだ。何よりも、この旅をしているせいでそうなったと思いたくもないし、思わせたくもない。
かごめの、かごめらしい意地。
それぞれが、それぞれ相手を思う意地のぶつかり合いだった。
同じ頃、現代で ―――
午前中は学校の補習に出席し、午後からは一心不乱で参考書と模擬問題に首まで漬かった生活をして、早三日。一段落着いたのか、机に噛り付いていたかごめが大きく伸びをした。
「ふぅぅ〜、あー、本当にどうなる事かと思ったけど……。どこが判らないか、それすら判らないなんて怖すぎるものね。どうにか目途が付いてきたかな?」
首をコキコキ、肩をグルグル回してストレッチ。一週間、この一週間を乗り切って追試の模擬をクリアすれば、この補習地獄からは開放される。そうしたら……。
「火事場の馬鹿力って奴かしら? 私ってば、ここ一番で出せる力が強くなってきたみたい」
それも、日々の積み重ね。真剣さが違うから。
その真剣さが余ってここに帰ってくる前、あの骨喰いの井戸端で、思いっきり犬夜叉におすわり攻撃をかけてしまった。ヘタしたらアバラにひびくらい入っているかも知れない。
「う…ん、ちょっとやりすぎたかしら。犬夜叉、怒っているわよね」
かごめはまだ空の端に赤い色を残している、夏の宵空を遠い目で見ていた。
どこからか、じゃりっという足音が聞こえたような気がし、一瞬、犬夜叉かとかごめはどきりとした。が……。
「かごめー!!」
「えっ? あっっ!?」
丁度かごめの部屋の真下。そこに居たのは、中学の悪友三人組。
「どう? 勉強の進み具合は?」
そう、声をかけてきたのは絵里。
「ああ、どうにか危機的状況は避けられそうよ。今、一息入れていた所なの。それより、皆はどうして?」
「陣中見舞いよ。ほら」
それは、あゆみの声。その声とともに掲げられた手には行きつけのバーガーショップの紙袋。
「ねぇ、少し上がっても良い?」
ちょっと遠慮がちに由香が言う。
「うん、勿論! 今、私も降りてゆくわ」
そう言う年頃の女子中学生。何がなくとも、一緒におしゃべりに興じるだけでも、どんな娯楽にも勝る。タイミングも良く、丁度一区切り付いた所でもあったから、かごめは友達三人の心遣いをありがたく受け取る事にした。
玄関で三人を迎え、自分の部屋に戻る。
お土産のバーガーショップの紙袋を開き、フライドポテトを口に運ぶかごめ。
その左手側では、絵里が夏限定のシェークをかごめに薦めている。
「あ〜、やっぱりこれを食べると現代に帰って来た、って気になるわ」
「えっ? 現代…??」
「あっ、いや…、こっちの事」
慌てて、笑って誤魔化すかごめ。そのかごめをじっと見て……。
「何? 私の顔に何か付いてる?」
「ねぇ、かごめ。あんた、オバケとか怪物とかって怖い方?」
「オバケ? どうかなぁ、相手によると思うけど今はもうそう怖くないかな」
そりゃそうだ。
戦国時代で嫌と言う程、その手の輩とは渡り合ってきている。多少の事ではもう、動じない。おかげで、どれ程前評判の高いCG技術を駆使したホラー映画を見ても、笑ってしまうかごめである。
そう答えたかごめを見、三人が顔をにっこりと見合わせた。
「じゃ、決まり!! かごめ、一緒に来て!」
「ええっっ!? 何よ、一体!」
言うが早いか、もうかごめの手を取って立ち上がらせようとしている。何が何だか判らないかごめが目を丸くした。
「うふふ、あのね、山の手の方に○○屋敷ってアスレチック系の公園施設があるでしょ。あそこがね、今年から夏限定で夜間営業のオバケ屋敷を始めたの」
「…………で?」
「そこ、本物の忍者屋敷を使っていてなかなか本格的に怖いらしくて、途中でリタイアするお客さんが多いのね」
……元々がアスレチック系の施設。普通のオバケ屋敷より体力は使うのだろう。
それにその話が本当なら忍者屋敷らしく絡繰りなどもありそうだし、脅す方も脅し甲斐がありそうだ。
「そこで、景品な訳よ。無事、一定時間内にクリア出来ると景品が貰えるの。コースレコード出すと、なんと温泉ご招待よ」
……なかなかの商魂。
難しすぎても簡単すぎても、お客の入りはイマイチ。美味しい景品でお客を釣って、そこそこ難しいコースを設定する。不思議と一度挑戦し始めたら、自分の満足の行く成績が出るまで何回でもトライするのが人間の性(さが)。リピーター対策もばっちり。
「……かごめって頼りがいあるんだもん、ねっ! お願い!!」
「でも私、勉強が……」
「息抜きよ、息抜き。その方が、効率も上がるわよ」
にこにこと、にこにこにこにこと無言の圧力をかけて来る悪友三人。押され気味の頭でかごめも考えた。確かにちょっと息抜きもしたいな、とは思っていた所。それに、戦国時代(あちら)での修羅場に比べれば、どんなに良く出来たオバケ屋敷でも所詮は作り物。今のかごめなら、コースレコードもあながち無理ではないかも……。
( う〜ん、温泉かぁ。向こうでも、山の中で温泉に入る事はあるけど、サルやタヌキも一緒だったりするものね。うん、温泉! いいかも!! )
とうとうかごめも腰を上げた。
さっさと外出用に着替えると、行く先を家族に告げて外に出る。空から最期の赤い色が消えようとしていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「犬夜叉、いつまでそうしているつもりです?」
珊瑚も七宝ももう楓の小屋に引き上げてしまい、この場には弥勒と犬夜叉の二人だけ。
「…………………」
無言。
「ああ、もう良いです。それより使いを頼まれてはくれませんか? 私は行きたくても、行けませんので」
「……使い?」
怪訝な目付きで木の上から弥勒を見下ろす。
「はい、陣中見舞いですよ。勉学に夜も眠らず取り組んでらっしゃるかごめ様の、一時の憩いにでもなればと」
いつの間にそんな物を用意したのか、袈裟の中から取り出す一輪の花。
「この花は、日が暮れてから見るとまた趣がありますからね」
「弥勒、手前ぇ…、かごめにも手ぇ出すつもりか!」
やれやれと溜息混じりに頭を振り、弥勒は足元に手を伸ばした。おもむろに上体を起こすと、豪腕ピッチャーもかくやと言わんばかりのコントロールとスピードで犬夜叉の鼻面めがけて小石を投げつける。勿論、そのままその小石に当たるような犬夜叉ではない。咄嗟に身を避けその結果、木の上から落ちた。
「っ痛! ててて……」
叩きつけられた地面の上で唸っている犬夜叉の上に、弥勒の影がゆらりと落ちる。
「……人様の物に手ぇ出す程、飢えちゃいねぇよ。ましてや、かごめ様は…。折角かごめ様の所に行けるよう、口実を付けたって言うのによ!」
不良法師、見参。ここ一番のドス利かせ、本性も露わ。
「弥勒……」
「良いか、犬夜叉。余計な事は言わず、無理はするな心配だから、とそれだけ言って来い」
「なっ! んな恥ずかしい事言えるか!!」
ぎゅむ〜〜〜〜っっ
思いっきり、延びたままだった頭を弥勒に踏み付けられる。
「いいから、行・っ・て・来・い・!!」
怒鳴り付けられ、蹴り飛ばされて井戸に放り込まれた。井戸の底に落ちてゆく犬夜叉の頭に、薄紫のほのかな灯かりがふわりと舞い落ちて、弥勒の声が追い掛けてくる。
「忘れ物です。壊れやすいものですから丁寧に扱うんですよ。女心も同じです、そっと包んでやれば良い」
言い終わった頃、井戸の闇に微かに煌いていた白銀と薄紫の色が消えていた。
かごめ達が赴いたそのオバケ屋敷は、もともとがアスレチック施設の一部と言うだけあって、郊外の里山を背景に広大な敷地を昔ながらの竹垣がぐるりと囲み、さらにその屋敷のまわりをもう一回り、竹垣と植え込みで囲ってある。
その屋敷の正門と思われるところに、受付があり絵里が手回し良く前もって買っておいた入場券を、レトロな缶バックから取り出した。照明は最小限の電灯だけ。
内庭で燃やされている篝火が、一層雰囲気を盛り上げる。
その入場券を受け取る係も、場に合わせて時代劇の門番のような格好をしている。ごくり、と誰かの唾を呑み込む音が聞こえた。
「……かなり本格的ね」
「ここね、中でお客同士がぶつからないようかなり間隔を空けて入場させるんだって。ヘタすると、今からこの屋敷に入るのは私たちだけかも知れない」
ぶるっと、あゆみが身を震わせた。
「……? ここ、人気があるんでしょ? それにしちゃ、何だか静かね」
伊達に場数は踏んでない。ささやかな異変をかごめが嗅ぎ取る。
「……一応ね、ここ 昼のコースもあるのよ。そっちは物凄く混雑してるわよ。でも、温泉が景品で出るのは夜のコースなのよね」
「昼と夜でコースが変わるの? 夜のコースはそんなに難しいのかしら?」
食い下がるかごめに三人は顔を見合わせ、頷いた。
「……出るのよ、本物が。噂じゃとっても怖いオバケらしくて……。それでね、よっぽどの怖いもの知らずしか、もう夜のコースには挑戦しなくなったの」
あたっ、とかごめは顔を顰めた。道理で自分を誘う訳だ。
「それ、本当なの? 景品を渡したくないのとそれっぽい評判を立てたいだけじゃないの?」
頼もしげなかごめの言葉に、三人の熱い視線が集中する。
「かごめなら、そう言うと思ったわ」
「頼むわね、かごめ」
顔を見合わせ、安心したように笑みを浮かべる三人。
「最近のかごめって、なんだか病弱なのが嘘みたいに迫力があるんだもん。それに、年頃の女の子が四人もいれば大抵の事は通るしね」
「なに? それ」
「泣き落としだったり、口撃だったり、まぁ色々。生身の人間なら、これでどーにかなるでしょ? オバケ相手相手だとちょっと判んないけど、うるさい所には寄ってきにくいとも聞くし」
軽く溜息をついて、ある意味頼もしげな悪友たちの顔を見るかごめ。
「……わたしの出番なんか、ないかもね」
そうしてちゃっかりした現代娘三人と、本物の怖いもの知らずなかごめがその屋敷に入っていったのはそれからすぐだった。
「あれっ? 犬の兄ちゃん。どうしたの? 姉ちゃんが暫くは来ないって言ってたよ」
草太がかごめを見送って一時間程後、一人ぽつんとかごめの部屋に居る犬夜叉を見つけた。
「草太、かごめは何処だ? 【ほしゅう】とやらで勉強している筈じゃなかったのか?」
「ああ、姉ちゃんなら友達に誘われてオバケ屋敷に行ったよ」
犬夜叉の目が丸くなる。こちら、現代でも自分たちと一緒に旅をしている時と同じ事をしているなんて聞いた事はない。
「……こっちでもあいつ、妖怪退治かよ。そんなら俺を呼べばいいのに」
「えっ? やだなぁ、犬の兄ちゃん。オバケ屋敷って言っても、本物じゃないよ。お客が入るとオバケ役の人があの手この手でお客を驚かせる遊びなんだ」
そう言った途端、犬夜叉の顔がぶぅぅと膨れた。
「なっ! なんでぇ、あいつ!! 俺にあんだけお座り食らわせて、自分は遊び呆けてやがるのかっっ!」
「犬の兄ちゃん……」
瞬間湯沸かし器みたいだな、と草太は思った。すぐ、頭から湯気を出して怒り出す。密かに男として尊敬もしているけど、最初に感じた印象はなかなか消える事はない。そう、あの時思った……
( 犬の兄ちゃんって、めちゃくちゃ心が狭いっっ!! )
「草太!」
「あっ、はい!」
「そのオバケ屋敷とやらはどっちだ?」
「えっと…、あっちの方……」
かごめの部屋の窓から、その方向を指し示すと犬夜叉はそれこそ疾風のようにもうすっかり暗くなった現代の夜へ走り出していた。
その屋敷は築ん百年は経ってるだろうと思わせる、眼には見えぬ圧迫感でかごめ達を迎えた。忍者屋敷らしく廊下は狭く低い。灯かりも表の上がり框(かまち)辺りに薄暗い白熱灯が天井から下がっているだけで、後は内庭で焚かれている篝火が大きな明かりといえば明かりだろうか。
室内も本当なら昔のように蝋燭や燭台を使いたいところだろうが、それでは消防法に引っ掛かる為、廊下や部屋の中はそれらを模したやはり薄暗い豆電球のような灯かりのみ。
夜でも煌々とした照明の下で暮らしているあゆみ達には、この見慣れない暗さが一層の恐怖感を煽る。
あれほど張り切っていた三人組が尻込みする中、かごめがへーぜんと一歩屋敷の中に足を踏み入れた。かごめにしてみれば、この暗さはまだ明るい方。本当の闇を知っている。それに確かにこの屋敷の中には何かの気配があるけど、それも悪いものではない事を感じ取っていた。
「ねぇ、ここのコースはどうなってるの?」
入り口で固まっている三人にそう声をかけるかごめ。タイムトライアルだから、ちゃんと決まったコースがあるはず。クリアしないといけないポイントを押さえて置かないと、折角のチャレンジが無駄になる。
「あっ、ええっと…。はい、これ!」
入場券を手配していた絵里が缶バックの中からこのオバケ屋敷の地図のような物を取り出す。一見すれば、何と言う事はない平屋の平面図のよう。部屋の幾つかに番号が書いてある。
「この番号の通り、クリアしてゆけばいいのね?」
「うん…、でもね。この地図にはトリックや障害は書き込まれてないのよ。それに、どこでオバケが出るかも判らないし……」
そりゃまぁ、そこはそれオバケ屋敷だから。当然と言えば、当然な話。
「一番のポイントは指定された部屋に行くのに場合によっては抜け道を使わないといけない場合があるの。ここで当たりハズレがあってね、ハズレを引くとそのままリタイア、出口に直行になるのよ」
……勘も働かないと、ダメな訳で。
絡繰り仕掛けの壁の向こうで、手ぐすね引いて待っている脅かし役のバイト君達。女の子だけの四人組、しかも相手は可愛い女子中学生。実はとある特権故に、時給が安くきつい割には人気のあるバイトであった。
見取り図を見ながら足早にかごめは第一関門の部屋を目指す。あちらでヤバイ屋敷の中なら幾らでも探索してきたし、抜け出しても来た。そう、神久夜の城にしても、奈落の城でも。そんなのに比べれば、まるで子供騙し。ちゃっちゃっとクリアして、温泉三昧。かごめの頭の中にはそれしかなかった。
「ちょっ、ちょっと待ってよ、かごめ。そんなに急がないで」
「今までの記録がどんな物か知らないけど、急げる分には急いだ方が良いでしょ? 大丈夫よ、ついて来て」
自信満々、頼もしい限りのかごめの言葉。そんなかごめ達の様子を壁の向こうの仕掛けの中で聞いていた脅かし役たちは、かごめと三人を切り離す作戦に出た。何の変哲もない廊下をかごめが二回曲がり、少し距離が離れていた三人がかごめの姿を見失った途端、二つ目の角を曲がったかごめの背後で音もなく遮るように壁が動き、反対側の壁だった所に新たな廊下が延びる。普通こうすると姿を見失ってどちらもパニック状態になるものだ。消えた友達を探そうとして、右往左往する。
「あら?」
先を歩いていたかごめは自分の後ろから三人の足音が途絶えた事に気付き、振り返った。そこには先ほどまではなかったはずの壁。こつこつと壁を叩くと、空ろな音がする。よく耳を澄ませて見ても、あの三人の声も足音も聞こえない。
どうやらかごめとは別の場所に誘導されたようだ。壁を元に戻す仕掛けが見つけられず、小さくかごめは舌打ちをした。
「ふ〜ん、なかなかやるじゃない。じゃ、お手並み拝見ね」
ここでタイム・ロスをするよりも先に進んだ方が賢明だと判断して、かごめは先に進んだ。
――― おい、あの娘。随分と度胸の据わった娘だな。
――― ああ、その分 脅かし甲斐もあるってもんだ。次は落とし穴で行くか? それとも、俺たちが出るか?
そう言って、恐ろしげなメイクをしたバイト君達は色めき立った。冷静に状況判断の出来る度胸の据わった人間でも、突発的な出来事、しかも脅かす事が目的であるから、それはもう派手に脅かしにかかるこんな連中がわっと飛び出したら、大抵は反射的に悲鳴を上げて腰を抜かしたり、泣き出したりしてしまう。脅かした相手が可愛い娘なら、そこで優しく介抱したり、出口まで親切に案内してやる途中で、仲間に頼んで一回くらい脅かしてもらうと、その娘が抱きついてきたりして美味しい思いが出来るのだ。そう、これが特権。
――― あっちの三人組の方はどうだ?
――― まだこの娘とはぐれた事には気付いてないみたいだぜ。
別のバイト君の答え。
――― じゃぁ、あっちは少しずつ怖がらせる方法でいこうか。
――― はぐれた事に気付いて、心細くなった所を見計らってちらりと姿を見せたり、音を立てたりだな。
――― あっちの三人も中々可愛い娘揃いだからな。だからこのバイト、止められないんだよな。
隠し通路の中は大忙し。確かにこの時間帯、かごめ達の他にお客は入っていなかった。
「……ここかよ、かごめが遊びに来たって屋敷は」
野生の勘か、半妖とは言え犬的要素故か。犯人を追跡する警察犬並かそれ以上。草太が指し示した方角だけを目指し、後はかごめの匂いを追ってここまで、犬夜叉は辿り着いていた。夜目の利く獣目で、オバケ屋敷の様子を窺う。
受付に一人、手持ち無沙汰気にぼーっと変わり映えのしない夜のアスレチック施設を見ている人影。このバイト君は早く交代の時間が来ないかと考えていた。退屈な受付の仕事より、やはり中でお客を驚かせる方が面白い。
「……噂のせいかな、最近は夜の客足が落ちたよな。それとも、俺たちが脅かしすぎたのかな?」
そんな事をブツブツと。誰かに見られているような気配を感じ、受付のバイト君が辺りを見回した。暗闇に金色に光るものを見たような気がしたが、それも一瞬。疾風(かぜ)が吹き過ぎたと思ったら、それはもう消えていた。
庭先に忍び込んだ犬夜叉は、いつもと勝手が違い拍子抜けしたような声を出した。オバケ屋敷と言うだけに、確かに目の前の屋敷は只ならぬ雰囲気を醸し出している。しかし、そこに感じるのは生きている人間の気配ばかりだ。妖気や邪気は欠片も感じられない。しかし、かごめのような若い娘には生きている人間、しかも男の方が危ない事が多いと言うのも、かごめ達と行動を共にするようになってから理解していた。
今、犬夜叉の鼻先を掠める臭いは、紛れもなく複数の若い男達のもの。犬夜叉の眸が険しくなる。その犬夜叉の耳に、若い女の悲鳴が突き刺さる!
「 ――― !! ――― 」
間髪入れずに犬夜叉は、屋敷の中に飛び込んでいた。
「あ〜、びっくりした! もう、てっきりアレかと思っちゃった」
「凄い声だったわね、あゆみ。でも、今の声 かごめの耳にも届いたかもね」
「……暗いと何でもないものまで、恐く思えちゃうのよね。ホントの事言えば私、噂のオバケよりこっちの方が恐いかも」
三人組が語っているアレ。ただのあゆみの見間違いだったのだが、それは丁度廊下の壁の腰板の中ほど、黒くて楕円の平べったい…。明るければそう見間違う事もないだろう、板の節穴。それがアレに見えてしまったのだ。
……びっくりしたのは、何もこの三人組だけではなかった。
隠し通路の中でさぁ、今から脅かすぞ! と構えた矢先の悲鳴だっただけに、腰を抜かしたバイト君達。
――― あ〜、すっげぇ声だったな。思わずこっちまで叫びそうになったぜ。
――― …なんかあの娘達もそう、恐がってはないみたいだな。こりゃ、根性入れて脅かしてやらないとな。
ひたひたと裸足で歩く音。微かな衣擦れの音。コソコソと相談しあうバイト君達の鼻先を何かが通り過ぎた。腰を抜かした状態でこわごわそちらを見てみると、空中に浮かぶ金色に光る獣の眸。途端に、ぶぁっと風か『気』のようなものがこの二人の顔面を襲った。そそけだつ背中、悲鳴さえ凍りついてバイト君達は、ほうほうの態でその場から逃げ去っていった。
「……ちぇっ、根性のねぇ奴ら。でも、今の三人組はいつもかごめと一緒にいる連中だよな。一緒に行けばかごめに会えるか」
それにはこの隠し通路はうってつけかも知れない。あの三人、悪い連中じゃないが、何に増しても姦しい。ここからそっと見守るようについて行った方が無難だろう。他にもさっきみたいな不逞な輩が潜んでいそうだし。
「それにしても、この屋敷は一体なんだ? あんな訳の判らん連中が居るところに、どうしてかごめ達がわざわざ来るんだ?」
ブツブツと零しながら腕を組み、壁の向こうとこちら側、つかず離れず犬夜叉は歩き出した。
「さっきまでかごめとはぐれてちょっと心細かったんだけど、勘違いで大声出したら、なんだか落ち着いちゃったみたい」
「そうね、恐い恐いと思ってると余計そうだけど、いつもみたいに振舞えば大丈夫ね」
「目標は温泉ゲット! なんだし、かごめは一人でも大丈夫そうだし、私達は私達で先に進んだ方が良いと思うんだけど」
……やっぱり、姦しい。そんな大声でしゃべりながらで良いのか? と問いかけたくなるほど、絵里達はおしゃべりに熱中し始めた。この屋敷をこっそり探索していると言うのは、有り得ないなと犬夜叉は踏む。
それとも、そーゆー事も判らずにこの屋敷に乗り込んできているなら、危険な事この上なしだ。自分達の居場所を明らかにしながら移動するなんて、正気の沙汰じゃない。また、どこであの訳の判らない奴らが狙ってくるか……。
絵里達と一緒に居てもかごめと合流出来るかどうか判らない。そう思った時点で、この三人から離れようかと思ったのだか、危なっかしくて捨てて置けない。
( ……まぁ、よ。かごめの方が場数は踏んでるからな。こんなボケはしねぇよな。仕方ねぇ、安全な所までついていってやるか )
思惑違いの状況に、少しくさり気味の犬夜叉であった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「ん? 今の声……」
かごめはかごめで先に進んでいたその時、壁の中から何か泣き声のようなものを聞いたような気がした。壁に耳を付けてもう一度、耳を澄ませる。微かに、そして間違いなく誰かの、いや小さな女の子の泣く声。
「まさか、この壁の向こうで迷子になってる子がいるの!?」
噂のオバケとは思わない。それほどに、この泣き声は迷って迷って悲しくて泣いている迷子の声にしか聞こえなかった。そして考えられる事故でもありそうだ。自分たちより先に入ったお客の連れか、それとも近所の子が間違って迷い込んだのか。
オバケ屋敷の入り口からではなくても、隠し通路の出入り口の一つから迷い込む事もありそうだ。かごめは廊下を歩きながら、ずっと壁を叩いていた。その半分は空ろな音を響かせ、かなり入り組んだ隠し通路がある事を伝えていた。
「どうにかしてこの隠し通路の中に入らなくちゃ。どこかに入り口がある筈よね?」
コン、ココンと壁を叩き、腰板を押してみる。と、押した腰板の一枚がくるりと向こうへ倒れ、かごめが膝を突いていた廊下の一部が下へかぱっと開き、かごめは落とし穴に落ちていた。
「ったたた〜。あ〜ん、おもっきりお尻ぶつけちゃった」
痛たたとお尻をかごめが擦っているうちに、その頭上で落とし穴の蓋が閉まる。真っ暗になるかと思いきや、オバケ屋敷のコースほどではないが、小さな明かりがその空間を照らしていた。足元が見えないくらいの微かな明かりだが、明かりから明かりを辿れば、出口には行き着けそうだ。
「……お姉ちゃんも迷子?」
自分のすぐ側でか細い女の子の声がした。びっくりして振り返るかごめの眼に映ったのは、不安で青ざめ目元だけ涙で赤くした五〜六歳くらいの女の子だった。この子があの泣き声の主である事は間違いないだろう。
「ううん。私はあなたの声が聞こえたから、ここに来たの。お姉ちゃんが来たから、もう大丈夫よ。ちゃんと外に出してあげるわね」
声を掛けた時はまだ硬かった表情がほんの少し、和らいだ。
「ありがとう、お姉ちゃん。ユキ、ここで泣いてたのに誰も気付いてくれなくて……」
「そう、ユキちゃんって言うの。ユキちゃんは、ここには誰と来たの?」
その少女は首を少し横に振る。
「判んない。気が付いたら、ここにいたの。皆、先にいっちゃったみたい」
小さな少女の話す事だから、少し判らない所もあるけど、どうやら自分たちよりも先に入ったお客の連れのようだ。コースから外れて、さっきの自分みたいに絡繰りをうっかり触って、ここに落ち込んだのだろう。
( ん〜、仕方がないわね。賞品の温泉ゲットはあの三人に任せましょ。何だかんだ言っても、やる時はやる三人だし。それに、ここにはそう大した悪いものもいないしね )
「お姉ちゃん……」
心配げにユキがかごめに声を掛ける。
「大丈夫、大丈夫! さぁ、今度は迷子にならないようにちゃんと手を繋いで行きましょうね」
かごめが差し出した手を小さな手でぎゅっと掴む。小さくて、冷たい手。どんなにか心細かったのだろうと、かごめは思った。
「ねぇ、なかなかオバケ、出ないわね?」
「そうねぇ…、そろそろ仕掛けてきても良い頃よね」
「かごめ、どうしているかしら?」
絵里たち三人はすでに七つあるポイントのうち、四つまでクリアしていた。
それもあっけないほど簡単に。その裏には……。
ポイントへ通じる廊下で絡繰を動かして遮ろうとしたバイト君を、一撃でのしてしまった犬夜叉の存在がある。そうやって、のしてしまったバイト君達が隠し通路にごろごろと転がっていた。
「……ったくよ〜、どれだけこんな奴らがいるんだ?」
バイト君達はふつーの人間だから、手応え歯応えの丸っきりない事甚だしい。
それでも、かごめの友達に何やら良からぬ事を仕掛けそうなのを、そのままにしておく訳にも行かず、ぶつぶつぶつぶつと不満を洩らしながら、絵里たちの後をこっそりついて行っていた。
こう言う表現をすると、犬夜叉はてきめんに機嫌を悪くするだろうが、まさしく『送り狼』状態。一般には送り狼と言うと余り良い意味には取られてはいないが、本来の意味は好奇心の旺盛な狼が森に入り込んだ人間の後を気付かれずに付いてゆく事で、ほかの動物達からその人間が襲われずに済むという事。
好奇心から付いて行くので、人間が森を出てしまうと自分も森に帰ってしまう。狼が無事に『送って』くれる訳である。
勿論、条件が整わなければ危険は危険である。まず、その狼が空腹ではない事。人間がその狼の存在に気付いていない事。そして、やはりそう言う気質の狼でないといけないと言う事。人間的に言えば『お人好し』であろう。そんな犬夜叉の耳に、数人の若い男たちの潜めた声の会話が聞こえてきた。
「おいおい、前の奴ら何やってんだぁ? あの子たち、ストレートコースでこっちに来てるぜ」
「最近は夜のコースに客が少ないからって、サボってんじゃねーのかっ!」
「まずいよなぁ、このままじゃコースレコード出ちまうぜ。ちょっと可哀想だけど、泣いてもらうかな」
その一言に、犬夜叉が耳をさらにそば立てた。
「いいねぇ、それ! 思いっきり脅かしてさ、腰抜かしたら優しく介抱してやりゃ、喜んで抱きついてくるかもな」
「そーだよな。そんな役得でもなきゃ、こんな割の悪いバイトやってられねぇもんな」
いそいそと絵里たちの前に隠れ通路から出ようとしたバイト君達の肩を、むんずと掴む何者かの手。低く獣めいた喉声のような音。
「おい」
聞いた事のない声が、突如としてバイト君達の背後から響く。その声に恐る恐る振り返ってみると、薄暗い隠し通路の中、微かな灯かりを受けてきらりと光る金色の獣眼。銀色の毛並み、赤く染まった身体……。
こんな場所で有り得ないものを見たバイト君達の目には、犬夜叉の姿は【ヒト】よりも【獣】に近く見えた。それが錯覚なのか、瞬時の真実を直感的に感じ取ったのかは ――――
「「「うわわぁぁぁっっっっ〜〜〜!!!!!」」」
……犬夜叉の放つ妖気もまた、その恐怖感を煽ったのだろう。たった一声かけただけで、隠し通路に居た三人は泡を食って回転する仕掛け壁の内側から絵里たちの前に飛び出して行った。
「あ、おい、お前たち……」
犬夜叉の目の前でパタンとその壁は閉じられた。瞬間、しまったっっ!! と思った犬夜叉の耳に轟く、と言うより犬夜叉の鼓膜を破らんばかりの女の子三人の悲鳴! 凶器としか言えないその音量!!
が、その後を追うように物すざましいダミ声割れ鐘のような、男の声の大絶叫! 犬夜叉が壁越しに状況を見て取ると、どうやら犬夜叉に驚いて壁から飛び出したはずみに、三人のうちの誰かを男三人で押し倒したようなのだ。それに頭に来た絵里たちがその三人に殴る蹴るの鉄槌を下したのだ。絵里の手には十分凶器になりうるレトロな缶バッグ。それが原型を留めず潰れてしまう程、圧し掛かった三人の頭を殴りつけていた。押し倒されていたのは由香だったが、由香も大人しく押し倒されているような女の子じゃない。遠慮会釈もなく、金的蹴りを喰らわせる。あゆみは由香を押さえ込んでいるバイト君の手の平をミュールの踵で踏み潰す。
今時の女の子。我が身を守る術は、身に着けていて当然。咄嗟の判断が我が身を守る。この夏、痴漢撃退法の講習を面白半分にだったけど受けていて良かったな、と思う女の子三人組。
「……おっかねぇ、流石かごめの友達だけの事はあるな。これなら俺がついて行かなくても大丈夫だな」
その後、そのバイト君達を引っ立てて絵里達がコースレコードを更新し、賞品をゲットした事は当然の結果だった。その場をそっと離れ、かごめを探す為通路に戻った犬夜叉は、ふと首を傾げた。不思議な事に、かごめの気配が辿れない。広めの屋敷ではあるが今まで飛び込んできたヤバイ屋敷や城の広さに比べれば、小屋のようなもの。その気になれば、表の通路だろうが、今犬夜叉がいる隠し通路だろうが気配を、いや【匂い】を探れない訳はないのだ。
「……変だな。本当にここにかごめが居るのか?」
微かに眉を寄せる犬夜叉。しかし、確かにこの屋敷の入り口にはあの友人たちと一緒にかごめの匂いも確かにあった。まるで、結界かなにかで阻まれているような…。いや、それにしてもそんなものの気配も感じないし、まず怪しい妖気も感じない。不可解さで頭を捻る犬夜叉の懐でぽぅ、と薄紫の光が瞬いた。
「ん? これ、弥勒が持たせた奴……。あれ? こっちにかざすと瞬くのに、こっちだと光りもしないな」
なんの根拠もなかったが、犬夜叉はその光に導かれるように隠し通路の中を歩き始めた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「ユキちゃん、お家は何処?」
ユキの小さな手を握り締めて、そうかごめは尋ねた。自分たちがこのオバケ屋敷に入った時には、この子を探しているような人影は見られなかった。ありがちな事だけど、近所の子ども達が何人か探検と称して廃屋などに忍び込むのは良く聞く話。先にいっちゃった、というのはそんな遊び仲間ではないかと思ったのだ。大人に怒られるのが恐くて、この子がここで迷子になっているのをまだ話してない可能性が高い。そうでなければ、こんな小さな子をこんな時間まで放って置くはずもない。ユキは小さな頭を横に振る。
「ん〜、あんまり大げさにしたくないんだけど、ここを出たらやっぱり警察に行かなきゃダメかな?」
所々に灯っている薄暗い灯かりを目印に、かごめは隠し通路の中を歩いた。
不思議なのは客を脅かす筈のオバケ役達に出会わない事。まぁ、今の状態で出会ったらユキが怯えてしまうだろうから、かえってそれはありがたかった。それにしても……。
( う〜ん、気のせいかな? この通路、随分歩いたような気がするんだけどまだ出口に着かないわね )
「ねぇ、お姉ちゃん……」
「なあに、ユキちゃん」
「ユキ、また一人になると寂しいからお姉ちゃんずっと一緒に居てくれる?」
「そうね、ユキちゃんがお家に帰り着くまでは、一緒に居るわ」
「ユキのお家が見つからなかったら……?」
不安げに、またユキがぎゅっとかごめの手を痛いほどに握り締める。繋いだ手はまだ冷たい。
( あ…れ? この子、もしかしたら…… )
しかし、そんな事はこの際、どうでも良い事。この子が迷子な事には変わりがない。ふうっ、と深呼吸をするとかごめは、その『瞳』に力を込めた。闇を見晴るかすようにして、『ゆく先』を探る。通路の壁にぽつんぽつんと灯っていた灯かりに邪魔をされて見えなかった微かな白光をかごめの瞳は捉えた。
「行く先が見えたわ。さぁ、行きましょうユキちゃん」
しっかりとユキの手を握り返し、確かな足取りでかごめはその光に向かって歩き始めた。
「おいっ! どーゆー訳だ? この花の光る方向に歩いたら外に出ちまったじゃねーかっっ!!」
そこはオバケ屋敷の裏手。そのまま借景の里山へと続く、おそらくこのオバケ屋敷の関係者も知らないだろう、忘れられた抜け道の一つ。外から出口を見れば雑草が背高く繁り入り口の扉を覆い尽くし、そこに入り口があるとはとても判らない。何よりも犬夜叉がそこを開けるまで、その扉は内側から硬く封印れていた。
「んっ? この匂い……」
犬夜叉の鼻がひくひくと、ようやく探し当てた者の存在を嗅ぎ付ける。しかし、それは今 犬夜叉が潜り抜けてきた隠し扉の向こうから漂ってくる。
「ほら、ユキちゃん。もう出口よ」
かごめは手を繋いだユキに、にっこり微笑んでそう言った。目の前には夜の暗さを切り取ったように四角く扉が開いている。外の暗さも隠し通路の暗さも然程違いはないが。先ほどまでかごめが見ていた光はもう見えない。
「お姉ちゃん、ユキ 恐い」
「お外が恐いの? 大丈夫よ」
「だって、暗いもん」
確かに。こちら側には小さな街灯一つ、家の灯かり一つある訳じゃない。
「うん、確かに灯りが欲しいわね」
そう言ったかごめの眼の端に、薄紫の光が見えた。それと同時に……。
「あー、そこにもしかしてかごめ、居るか?」
聞こえてきた声は……。ユキがびくっとして、かごめの影に隠れようとする。
今の状態で犬夜叉に会わせるのは、マズイかなとかごめは考えた。
「大丈夫よ、ユキちゃん。お姉ちゃんのお友達だから。ちょっと行って灯りを貰ってくるわね」
出口の直ぐ側でユキを待たせて、かごめは犬夜叉の所へ駆け寄った。
「犬夜叉っ!」
「お、おう、かごめ」
犬夜叉は声を掛けたものの、次の言葉の用意をしていなかった。何しろ、大喧嘩した後、ぶちぶちしていた所を無理やり弥勒に井戸の底へ放り込まれたのだから。
「あんた、灯り持ってる?」
しかし、かごめから返ってきた返事はそれだった。
「あ、灯り? 弥勒が持たせたこれならあるが……」
差し出したのは、弥勒が女心と一緒だから優しく包んで持って行けと言った紫の蛍袋。中に番(つがい)の蛍を入れてある。二人でこの蛍の光を見て仲直りせよと言う、弥勒のささやかな心配り。
「これ、貰って良い?」
「ああ、構わねぇ。弥勒からお前に勉学中の陣中見舞いだって言ってたし」
「ありがとう、犬夜叉。ちょっと待っててね」
かごめはそのホタルブクロを手に、待たせているユキのもとに急ぐ。
「お姉ちゃん……」
「小さな光だけど、大丈夫よね?」
それからかごめは、更に瞳を凝らしまた【導−しるべ】の光を捜す。その光は、裏山の山道の向こうでちかりちかりと瞬いていた。
「ユキちゃん、あの光が見える?」
「うん…」
「じゃあね、その手にした光で足元を照らしながら、あの光の所に行きなさい。あそこがユキちゃんの還る所よ」
「お姉ちゃんも一緒?」
「ううん、私は行けないの。でも、ユキちゃんも一人じゃないからね。ほら、このお花の中に蛍が二匹いるから、この蛍も一緒よ。【冥−くら】くはないでしょ」
ユキはその花を手に、こっくりと頷いた。
犬夜叉は見るともなしに、その薄紫の灯りに照らされる幻想的なかごめの横顔を見ていた。かごめが少し腰を屈めて、手にした花を差し出すような格好をしている。次の瞬間、犬夜叉は我が目を疑った。
かごめの手にした花が暗闇にふわりと浮かび、裏山に向かって浮揚したかと思ったらふっ、と掻き消えた。それを見送るように佇んでいたかごめが踵を返し、犬夜叉の方へ戻ってくる。
「お待たせ、犬夜叉」
「おい、かごめ…。今のは一体……」
「あっ、犬夜叉には見えなかったんだ。ん、どっちにしても【迷子】は迷子だけどね」
いつも黒くて強い光を湛えているかごめの瞳。その瞳に今宿っているのは優しい【慈しみ】の色。どんなに夜目の利く犬夜叉が、その道を獣眼を凝らしてみてももうあの薄紫の光は見えなかった。
( かごめにはまだあの光が見えてるのか……? )
一緒に旅をしてきて、かごめに凄さは知っているつもりでも、またこうして違う凄さを知らされる事がある。
「…前にもこんな事があったよな」
「うん、真由ちゃんの時の事?」
「俺には、そーゆーもんの扱いは良く判らねぇから」
「そうね、『かたち』の無いもんだものね。心や気持ちと一緒。だから…、どう向き合うかが大切なのかもね」
いつの間にかケンカしていた事も忘れて、二人寄り添う。『かたち』は無いから、その『想い』が大事。ケンカの原因もお互いがお互いを想うものなら…。
「あっ、かごめ〜っっ!!」
「居た居た! やっぱり、ちゃんと脱出していると思ったわ!」
「やったわよ、かごめ! 温泉、ゲットよ!!」
オバケ屋敷の表から裏へ、夜の暗さを吹き飛ばすほど明るい嬌声が響き渡る。
凱旋行進のような趣の絵里達の後ろから、オバケのメーキャップも要らないほどに眼の周りの色を青く変え、左右アンバランスに頬を腫らし、缶バッグで殴られて出来たコブでいびつになった頭をふらふらさせながらついて来ているバイト君達。
腫れぼったくて良く見えない視界のバイト君達には、かごめの横に立っている犬夜叉の姿が何に見えたのか? ひゃぁぁ〜!! とも、ひえぇぇぇ〜!! ともつかない野鳥を絞めた時の様な悲鳴を上げて、その場から逃げ出して行く。
「何、あれ?」
「かごめの彼の姿がオバケにでも見えたのかしら?」
「でも、いいなぁ、かごめ。彼のお迎え付きなんてさ」
過去何度か犬夜叉のこの姿を、この友人たちには見られている。現代(いま)は、それこそ何でもありの時代。マッチョなお兄さんがスカートを穿いていても、それも『あり』な時代。おそらくビジュアル系な時代オタクと思われているだろう犬夜叉である。
「や〜ん、その耳! いちおーオバケのつもりなんだ」
その絵里の台詞に、はっとしてかごめは犬夜叉の頭を見た。そう、いつもならバンダナや帽子で隠している自前の犬耳。
「あ、あの、これ……」
何か上手い言い訳が出来ないものかと口をぱくぱくさせているかごめを尻目に、女の子三人、代わる代わる犬夜叉の耳を触りまくる。
「へぇ、本当に良く出来てるわね、この耳! まるで本物みたい」
「ねぇねぇ、これSFXって言うんでしょ? ハリウッド映画なんかで使われる特殊メイク」
……いや、厳密に言えばコンピューター技術を駆使したSFXと、昔ながらの特撮と仮想の生き物であるエイリアンやモンスターを生み出す特殊メイクとは、似て非なるもの。
「ふ〜ん、猫耳つきの女の子キャラは結構見かけるけど、男の子でもするのね」
と、話を振られるかごめ。犬夜叉はその手の萌えキャラではないのだけど。
「あ、いや…、それ 犬耳、なんだけど……」
「あ? あっ、そうなの。男の子は【犬】なんだ」
女の子三人に散々耳を弄られて、犬夜叉は顔を赤くし、それこそ犬的表現をするならば股の間に尻尾を巻き込んだような状態。かなり誤解はあるけど、このまま有耶無耶にしてしまおう! よし、それで行こうとかごめは腹を括った。
「この耳だと、なに犬かな?」
「白いし、綺麗な三角だし…、和犬かな」
「柴犬や紀州犬みたいなの?」
「そうね、秋田犬もありかも」
きゃいきゃいと楽しそうな会話が犬夜叉の頭の上で飛び交い、当の犬夜叉はそのパワーに圧倒されている。ふと、かごめは確かに犬夜叉が本当に犬なら、紀州犬みたいかも知れないと思った。そんなに大きな身体ではないのにヒグマにでも向かってゆくその鼻息の荒さ、気性の激しさは。そして……
( 殺生丸ならきっとボルゾイね )
と、ぽそっと思ったりもした。
「ごめんね、あんまり弄り回すとその耳、取れちゃうから」
ようやくの事で助け舟を出すかごめ。そう言うかごめの後ろに、そそっと犬夜叉が移動した。その様を見て、絵里達が目配せをする。
「今日、ここに来た目的は達成したし、お邪魔虫にならないうちに私達は退散するわね。あんた達は二人で帰ってらっしゃい」
「ホント、今夜は夜風も涼しくて良い夜よ。ロマンティックな気分になれるんじゃない?」
「さあさ、私達は退散、退散♪」
ひらひらと獲物の温泉御招待券をひらつかせ、引き上げてゆく三人組。その後、残された二人がロマンテックな気分に浸れたかと言うと……。
「悪い、かごめ! 俺、もうあっちに戻るっっ!!」
「えっ!? 私だけここに残してゆくの!」
「本当に済まねぇ!!」
そう、一言残してあっという間に夜闇の中に消えてしまった。
一人残され、呆然とするかごめ。
「な、なんなのよ! 犬夜叉っっ!! あんた、何の為にここに来たの!?」
そんなかごめの声も犬夜叉には聞く余裕もなく…。仕方なくかごめは先に行った友達の後を追った。
耳。
寝耳に水、と言うほど耳は敏感な場所。そこを何人もの女の子の細い指で弄られたのだ。かごめの友達と言う事もあり、強く振り払えなくてまた圧倒的な女の子パワーに押されたのもあるけど…、尾っぽは巻き込んだものの実は【感じて】いたりもして。
仲直り出来たものやら、どうなのやら…。伝えたかった言葉も口に出来ないまま引き上げて来てしまった犬夜叉の不甲斐なさを、弥勒は呆れた眼で見ていたが、【ユキ】の話を聞くと、自分の渡した花が灯明代わりになったのかと、これも仏縁と虚空に向かって手を合わせた。
時空の巫女も異形の者も、この世ならざる者もその時代に生きる者も、全てを見ていた夏の宵だった。
これは余談だが、その後このオバケ屋敷はバイト全員が辞めてしまい営業中止になってしまった。その原因がどこにあるかは定かではない。その夏、かごめの住む街に流れた新しい都市伝説。血塗られた獣人が夜の街を徘徊し、哀れな犠牲者をボコボコにする、という話がまことしなやかに語られたのである。
【終】
2006.10.18
= あとがき =
サイト開設以前から通わせて頂いていた「井戸端草子」様の、サイト開設周年記念のお祝いに、贈らせていただいて連作物の一話です。
夏の話、涼しげな方がいいかなと、こんな怪異譚仕立てにしました。
犬夜叉初期の「たたりもっけ」の話が好きだったと言うのもありますねv
自サイト掲載にあたり、部分的に手を入れたところがありますが、ほとんど変わってないと思います。
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